水の中の風景  草薙あきら

 小さい頃、溺れたことがある。
 意地悪な父親がプールの真ん中で手を離したから。
 それ以来私は水が怖くなった。
 母親は全く泳げなかったので、私には泳げるようになって欲しかったらしい。嫌がる私を無理矢理スイミングスクールに通わせようとしたが、一日ともたなかった。
 プ−ル開きの時期になると情緒不安定になり、プールの時間が始まるとそれはもっと酷くなった。
 夏休みは水泳の特訓で始まり、水泳の特訓で終わる。それでも私はようやく25m泳げるかどうかという程度にしか上達しなかった。
 夏は嫌いじゃなかったけど、泳ぐのは大嫌いだった。
 高校生になった今でもそれは変わらない。


「やー実月ちゃん。元気?」
 居間のドアを開けると、中から聞き慣れない、脳天気な声が聞こえてきた。見ると、女ばっかりの筈の家の中に、男がいる。
「ああ…こんにちは」
 私は気の抜けた挨拶をした。確かこいつは二つか三つ年上の従兄、海堂圭だ。
 しかし何でこんな所にいるんだろう?
「おばさん、言ってなかったの、もしかして」
 私の考えを見透かしたように、圭くんが母さんに言う。
「ああ、忘れてたわ。今日から一週間くらい圭くん家に泊まるから」
「は…っ?」
「よろしく頼むね」
「ゆっくりして行ってちょうだいね。うちは女ばっかりだからあれでねー」
 何があれなんだか。呆れている私を余所に、二人は和気あいあいと話を弾ませている。
 …好きにしてよ。
 心の中で私は呟いて、麦茶を飲むために冷蔵庫に向かった。


 蝉の声が耳に張り付く。
 木陰で夏休みの課題をしようにも、全く集中できない。
 生ぬるい風が、脇に置いた数学の問題集のページをとばして行く。
 …冷房の効いた部屋でやりたいな…。
 こめかみを伝う汗を拭いながら空を見上げた。雲一つない空。
 図書館にでも行こうかなあ、と思いかけるが、学生たちで埋め尽くされた机が頭に浮かび、ため息をつく。
 胸元をくつろげて、下じきであおいでいると、突然、ぬっと目の前に長い足が立ちはだかった。
 見上げると、圭くんが興味深そうに私を見下ろしている。彼の視線が向けられている場所に気づいた私は、慌ててボタンを留めた。
「な…何か用?」
「水族館に行かないか?」
「水族館…?」
 私は首を傾げた。
「小さい頃一緒に行っただろ。ここの近くにある小さな水族館。まだあるよね?」
 楽しそうに圭くんが言う。
「多分ね…最近行かないからわかんないけど」
「行こうよ。こんな所で勉強してたって暑苦しいだけだろ。せっかくの夏休みなのにさ」
 今すぐにでも私の手を引っ張って行きかねない勢いだ。
「もうすぐ奈月と早月も帰ってくるし。あの子たちと行ったら?」
 私はしかつめらしく、数学のテキストに向き直って見せた。しかし、圭くんは動じない。
「いや。俺は実月と一緒に行きたいんだ」
 真面目とも冗談ともつかない表情で、彼は言った。いつの間にか地面の上にひざまずいて、私の目を見て。
 何だかな…。私は苦笑した。
「いいよ、わかった。今から行く?」


 私の家は海の近くなので、歩いて行ける距離に海水浴場と、水族館がある。水族館と言っても、いるかのショーとか、そういった類のものはないこじんまりとしたもので、普段は殆ど人気はない。しかし夏の盛りなので海水浴場の客が申し分け程度、流れて来ているらしく、水族館の中はいつもより賑わっていた。
「変わってないなーここは」
 子供みたいにはしゃぎながら圭くんが先を歩いて行く。
 中は流石に冷房が効いていて涼しい。私は水槽の中をのぞくよりも、周りの空気が体温を奪って行く感覚を楽しんでいた。
 泡の中を、名も知らぬ魚の群れがぐるぐる回っている。
「ねー餌やるショーみたいなのってないんだっけ?」
「ないでしょ。こんな田舎の水族館じゃ」
 私が答えると圭くんはつまらなそうに、向こう側の筒状の柱みたくなっている水槽の方へ歩いて行った。私も後をついて行く。
 薄暗いフロアの中で、その円柱型水槽だけが光を放っていた。
 泡の音。ひたすら回り続ける魚たち。
「魚たちには私たち、どういうふうに見えてるんだろうね」
「見えてないんじゃない?」
 水槽を見つめながら圭くんが言った。
「見えてない?」
「うん…。水族館の中が暗いのは、魚たちに人間の姿が見えないようにするためだって聞いたことがあるけど」
「夜の電車の窓の、あの状態みたいなもんか」
「そう。鏡みたいになってるんだと思うけどね」
 だったら魚は幸せなんだろうか。
 見せ物にされてることも知らず、透明な壁の中でぐるぐる回り続けて。
「どちらにしてもこの水槽がこいつらの世界の全てなんだよね」
 知らないことは罪かも知れないけど。
 知らないことは罪かも知れないことを知らないことは、きっと罪じゃない。
 むしろ幸せかも知れない。


 こうしてじっと庭先に座ってるだけで全身がとろけてしまいそうな気がする。
 草むしりの手を休めて、木陰に腰を下ろす。
 麦わら帽子であおいでいると、家の中から圭くんが手招きしているのが見えた。片手に買い物袋を提げている。アイスでも買って来たのだろう。
「実月ちゃん一人? 他のみんなは?」
「お母さんとおばあちゃんは買い物。奈月は夏期講習で…早月は部活」
 袋の中をごそごそあさりながら、私は答えた。
「暇なのは実月ちゃんだけな訳だ」
 圭くんが意地悪そうな笑みを浮かべる。
「悪かったわね。どうせ暇人よ」
「いやいやそれはよかった。ねえ、泳ぎに行かないか?」
「嫌」
 私は即座に答えた。考えてみるまでもないことだったので。
「何でさ。こんっなに暑いのに。泳いだら気持ちいいよ」
 圭くんは不服そうに私を睨んだ。
「何ででも。私、泳ぐの苦手なの知ってるじゃない。スク−ル水着しか持ってないし」
「いいよいいよ。スクール水着でも何でも。帰りに好きなものおごってあげるから。全く泳げない訳じゃないんだろ?」
 私は小さく頷いた。
「じゃあいいじゃない、行こう行こう」
こうして、先日の水族館に引き続いて、プールも無理矢理連れて行かれる羽目になった。


 電車で三駅ほど揺られて辿り着いたプールは、その辺の市営プールなどとは違った、一種異様な雰囲気を持ったプールだった。
 地元に住む私も知らないこの場所を何故彼が知っていたのかは定かでない。
 人もまばらにしかいないし、私は急に不安になった。
 けれども取り敢えず着替えてプ−ルサイドに出る。圭くんは既に泳いでいた。
「早くおいでよ。気持ちいいよ」
 私は気が進まないまましゃがみこみ、体に水をかけ始める。
 水自体は決して嫌いではないのだ。
 潜った途端、酸素が消失してしまうこと。
 そしてあの心許ない浮遊感がなければ、決して。
 理由のない恐怖感に突き上げられながら、私はいつまでもいつまでも体に水をかけ続けていた。
「何してんの。早くおいでよ」
 圭くんは私の足元まで泳いでくると言った。
「何か変じゃない、このプール」
「大丈夫。溺れたら口移しで酸素あげるから」
「いらない」
 私はきっぱりと答えると、意を決して水の中に飛び込んだ。
「!?」
 背筋が凍りついた。
 底が、ない。
 私は一瞬にしてパニック状態に陥った。
 何で底がないのよ!!
 酸素が泡になって頭上に消えて行く。代わりに肺に入ってくるのは、水。
 必死にもがいて、水面に顔を出す。でもそれは一瞬。
 雲一つない青空は無情にもすぐに青い闇の底に沈んで行き、苦しさだけが残る。
 プールサイドがどの方向かも、もうわからない。
『助け…』
 瞬間、誰かの腕に体を支えられ、私も思いっきりその人物にしがみついていた。
 ようやくまともに水上に顔が出せる。プールサイドまで連れて行ってもらうと、私は激しく咳き込み始めた。ぽたぽたとしたたる水滴に、もしかしたら涙も混じっていたかも知れない。
「大丈夫か…? ごめん。これほどまでとは思ってなかった」
 私を助けてくれた腕が圭くんのものだったということを、私はようやくその時知った。こんな奴に思いっきりしがみついてたなんて、思えば不覚なことをしたものだ。
「何なのよ…ここ」
 まだ軽く咳き込みながら、私は訊ねた。
「ここ、水深2mあるんだよね。昔おじさんに連れて来てもらったことがあったもんで」
 圭くんは悪びれず答える。
「こんなとこに私連れてこないでよ」
「でもこれで背が立つ所は怖くなくなったでしょ」
 …ああ。この人って。
 私は彼の顔を見て、苦笑していた。


 それから二時間後。私たちはプ−ル近くの喫茶店にいた。
 私は約束通り好きな物をおごってもらい――氷いちごの山を必死で崩していた。
「でも先刻は本当に死ぬかと思った…」
「だから、悪かったよ。謝ってるっしょ?」
 アイスコーヒーをすすりながら、圭くんが言う。
「別に責めてる訳じゃないのよ。ただ本当にそう思ったから。苦しいよねえ溺れるのって。入水自殺とかする人の気が知れないなあ」
 店内は何となく冷房が効き過ぎのような気がする。
 冷えきった室内の片隅で、熱帯魚が悠々と泳いでいるのが目に入った。
「入水自殺ねぇ。あれは酷いよね。魚とかに肉食われたりしてぼろぼろになったりするんじゃなかったっけ? 確か」
「うん…でも水の中って全ての物の時間が止まるような感じがするよね。それを求めて死に場所に水の中を選ぶっていうのはわかるような気がする。すごく神聖な…うん、聖域って感じがしない?」
「聖域…か」
 圭くんは穏やかな笑みを浮かべ、続ける。
「魚たちと反対だね」
「えっ…?」
「水族館の魚たち。彼らは狭い水槽の中で何も知らず幸せなまま一生を終える。その幸せがたとえ偽りだったとしてもね。入水自殺する人は水の外でいろんなことを知るよね。そして最後は絶望を胸に抱いて、水の中で死に絶える。対照的だって、思えないかなあ」
「…うん…」
 再び熱帯魚に視線を移す。
 どっちがいいのか、とかそんなことわかるはずもないし、わからなくていいと思う。
「でも両方共、水の中に安楽を見いだそうとするのは同じじゃない?」
「そう、だね」
 グラスの中でカラン、と氷が涼しげな音を立てる。
 水の中で最後を迎える彼らの目には、一体何が映るんだろう。
 そんなことを考えていた。
 外に出たら、また暑そうだ…。



 END



《コメント》

ミステリとか娯楽小説的なものばかり書いてたので、文学的なものを、と思って書いたような気が…。
(どこが?という突っ込みは却下します。本人が一番わかってます…)
要するにどんでん返しや意外性がない作品を目指して書いたんですよね。
一応、瀬尾三姉妹シリーズの第一作目です。


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