レンズの向こう側  草薙あきら

 つまらない。
 何もかもがつまらない。
 つまらないこと、つまらない奴ばっかりだ。
 そして、一番つまらないのはこの私自身だ…。

「学年トップは瀬尾さんの満点です」
 クラス中から歓声が上がる。
「すごい、満点だって」
「何であんな問題解ける訳?」
 ―――あんたらが馬鹿なだけでしょ。
 にこりともせず数学の答案を見やる。
 これで一科目を除いては、学年トップを制覇した。…そう一科目を除いては。
 何でなんだろう。あまりの悔しさにどんどん無表情になって行く程だ。ふと顔を上げると、あの女がこっちを見ていた。不敵な微笑。怒りが、頂点に達する。今、持っている物が鉛筆だったら、二つに折っていたかも知れない。
 麻屋早紀…!
 私はあんたが大嫌いよ。


「惜しかったねー。国語さえ麻屋に勝ってたら全科目学年トップだったのにねー」
 友達の薫が、苛立ってる神経を逆撫でするようなことを言ってくれる。
「いつもはまるっきり馬鹿なのに何で今回の国語はあんなによかったんだろ…まーまー、そんなに無表情にならずに…今度はきっと制覇でき…」
「学年トップなんてどうでもいいよ」
「は…」
 薫があっけにとられたように私を見る。
「麻屋に負けたことが悔しいの。麻屋以外なら誰が学年トップになろうとどーも思わないよ。あの女にだけは…」
 負けたくない。
 嫌い嫌い嫌い。


「瀬尾さんって真面目ねー」
 麻屋早紀が私に言った最初の言葉はそれだった。中一の夏のことだった。その台詞には明らかに侮蔑が含まれていて、何だこの女は、と思ったことを覚えている。
 彼女は髪の毛は真っ赤だし、話し方はなってないし、頭も悪いし、はっきり言って、私が最も嫌っているタイプの人間だった。まあ、顔はかわいい方だったらしいので、男にはもてていたみたいだったが。とにかく、そんな女にそんなことを言われたので、私の中での麻屋の印象は崖から真っ逆さまに落ちる勢いで悪くなって行った。
「目ぇ悪くなる程勉強しなくちゃいけないのねー大変ね」
 いっぺん、眼鏡を忘れて目を細めて黒板を見ていた時、彼女はそう言った。そして続けた。
「でも眼鏡かけてない方がまだ見れるわね」
 私は確かその時、地理の教科書で彼女の頬を思いっきり殴った。
「あんたに言われたかないわ」
 ブス! 何さ頭でっかち! 死んじまえー! …とかいう罵声を背中に受けながら、私は教室を出た…あの女の前では絶対泣きたくなかったから。トイレの鏡に映った私の顔は本当に醜くて絶望的にならざるをえなかった。
 麻屋のことが嫌いな理由は自分のことを嫌いにさせるから、ということにその時気がついた。


「また負けちゃったなー勝てると思ったんだけどなー」
 昼休み、悔しそうな顔をした男子が一人近づいて来た。
 香住玲司。
 …やな奴が来たな、と私は心の中で舌打ちした。
 彼は麻屋早紀と付き合っている。結構頭はいいのに何であんな馬鹿と付き合ってるのかわからない。まあ、男は馬鹿な女の方が好きだって言うし…。
「でも早紀が国語でトップになるとは思ってなかったな」
 私は黙って肩をすくめた。
「やっぱりさ、瀬尾さんって北高行く訳?」
 北高、とはここいらではレベルが高いことで有名な進学校のことだ。
「うん多分」
 こういう質問をされると、私はとても恥ずかしくなる。頭はよくても肝心な所は空っぽ。将来の希望も何もないしらけた人間なんだということを再認識させられるから。
「…香住君は? やっぱり北高?」
 一応、社交辞令として訊ね返す。さっさと立ち去って欲しかった。麻屋に見られたら何言われるかわからない。厭味を言われることには慣れていたが、やっぱりむかつくことには変わりないし、何よりも鬱陶しい。
「まーね。一応狙ってるけど…俺、瀬尾さんみたく頭よくないし」
「いけるんじゃない」
 適当に返事をして弁当箱を取り出す。と、トイレにでも行っていたのだろうか、麻屋が戻って来た。
「玲司、何してんのよ」
 ああ、面倒な時に帰って来た。大体香住君も香住君だ。私がこの女と仲が悪いの知ってるだろうに。わざわざ面倒の種を作り出すのはやめて欲しい。彼氏は彼女にだけ構ってりゃいいのに。
 私は無関心を装って、前に座っている薫と弁当を食べ始めた。
「別に何でもないよ。ねえ瀬尾さん」
 私にふるのはやめて欲しい。私は無言で頷いた。
 あーもう鬱陶しいな。何でだか知らないがこの男はやたら私と話したがる。好敵手と思っているらしい。
「ふーん…」
 麻屋は意味深な表情で私をじっと見つめ、香住君を連れて去って行った。
「何? あの態度。玲司、だって。馬鹿じゃないの。香住君もよく付き合ってるよねえ」
 カフェオレのストローをくわえながら、薫は言った。
「いんじゃないの? 楽しければ」
 あの二人のことなんてどうでもよかった。


「奈月、あんたまた学年トップだったって?」
 家に帰るなり、母親が嬉しそうに言った。
「誰に聞いたの」
 食卓の上にのっているかごから蜜柑をとりながら私は訊ねた。
「早月に。先輩に聞いたんだって」
「へえ」
「すごいわねー、さすが私の娘よね。今日はあんたの好物のじゃがいもの煮っころがしよ」
「…どうせならステーキとかにすりゃいいのに」
 小声で呟きながら私は蜜柑をむいていた。
 早月、とは私の二つ下の妹で今、中一。バスケ部に入ってるから、その先輩に聞いたのだろう。私のクラスメイトにバスケ部に入ってる子は結構いるみたいだから。
「お母さん、最近眼鏡の度が合わないんだけど」
 眼鏡を外して置くと、たちまち視界に靄が立ち込め始めた。レンズが緑色の光を映している。
「何? また視力落ちたの?」
 振り向くと姉の実月が立っていた。私の前に座り、蜜柑でお手玉をし始める。
「お勉強もほどほどがいいってことね」
「うるさいなあ。別に大して勉強してる訳じゃないよ。こーゆーのは勝手に度が進んじゃうんだよ」
 むっとして言い返す。
「こんなこと言ってるよー早月。出来のいい姉を持った妹のこと考えてあげなさいよ。早月は『瀬尾奈月の妹』っていう代名詞でしか人に覚えてもらえないんだから。ねえ?」
 と、後から来た早月に笑いかける。
「じゃあ、また眼鏡買いに行かなくちゃいけないわねえ。今度はコンタクトにしたら? 最近はそういう黒縁眼鏡とか流行んないんじゃない?」
 じゃがいもを手にした母親が言う。
「いいよこのままで。どーせ大して変わりゃしないよ」
 コンタクトにはしたくなかった。あの時の、麻屋の台詞に敗北したようで。
「コントクトの方がかわいいと思うんだけどねえ…」
 母親が残念そうに言った。


「そうなんでしょう? わかってるんだから」
 朝、教室に入ると麻屋のまわりを数人の生徒が取り囲んでいた。逃げ出したくなるような緊張感、不穏な空気が教室中に流れていた。
「どうしたの?」
 既に来ていた薫に訊ねる。
「うん…よくわからんけど麻屋が国語のテストカンニングしたんじゃないかって…じゃなきゃあんないい点数とれる筈ないって詰め寄ってるみたい」
 小声で薫は答えた。…成程。
 見ると、香住君も遠巻きに見ていた。妙な薄笑いを浮かべて。
「香住君、止めに入らないの」
 私は訊ねた。彼は私を見ると突然表情を引き締めた。
「あ…ああ…でもあいつらの言うことも一理あると思うしね…瀬尾さんはどう思う?」
「さあね」
 私は無言で彼から離れた。
「してないって言ってんでしょ? るさいなあ」
 麻屋は気怠げに髪をかき上げている。その仕草が彼らの気に障ったらしい。
「おまえみたいな馬鹿が学年トップの点数なんか取れる筈ないんだよ!」
 ついに怒鳴り始めた。まわりの女子もここぞとばかりに甲高い声でそうよそうよと喚き立てる。みっともないことこの上なかった。
「何なのよ人のこと馬鹿馬鹿って! 何様のつもりさ!」
 麻屋も逆上する。このままじゃ取っ組み合いの喧嘩になりそうだった。
「…してないんだってさ」
 私は睨み合っている連中に向かって言った。
「学年トップがカンニングしたんなら、もう一人学年トップがいなきゃ変じゃない」
 麻屋以外の生徒はみんな点数が彼女より下なんだから、例えカンニングしたって同じにはなっても決して上にはならない。それに彼女の近くにはカンニングするに値する人物などいやしないことも事実だった。しかしそのことは敢えて口には出さなかった。
 彼らは歯がみしながら無言で散って行った。教室内の緊張感が薄らいで行く。
「すごーい。さすが瀬尾奈月。人望がなきゃこうは行かないよねー」
 薫が嬉しそうに笑いかける。と、麻屋が向こうからすたすたと歩いて来た。
「…余計なことしないでよ。恩売ったつもりな訳?」
 まあ、礼を言われるとは思っていなかったが、流石にこんなことを言われると腹が立つ。
「あんたねー! せっかく奈月が…」
 言いかける薫を手で制する。
「別にあんたを助けようと思った訳じゃないよ。あんたなんか殴り殺されたって別に構わないよ私は」
 瞬間、麻屋の表情が変わった。怒りのためか顔色が蒼白になっている。
「おまえなんか人間じゃない」
 言い捨てて彼女は走り去った。
「何なのよ」
 一応は窮地を救ってあげた相手に…救ってあげたとは思っていないのだが…何でこんなこと言われなくちゃいけないんだろう。大体何で私はこんなにも麻屋に嫌われているんだ?
 私の何が気に入らないんだろう。嫌いだ、と認識し始めてからは結構酷いことも口に出したけれどこっちから彼女に危害を加えた覚えもないし。…嫌いな奴に嫌われても別に構わないけど、何だか悲しくなる。


「瀬尾さんが早紀をかばうとは思わなかったな」
 気がつくと隣に香住玲司がいた。何でいるんだろう。
 放課後。私はとろとろと帰り支度をしていた。教室には私たち以外誰もいない。みんな早々に帰宅してしまっているのだ。そういえば麻屋がいない。
「麻屋さんは? 一緒に帰るんじゃないの?」
 香住君は不快そうな顔をした。
「もう帰ったんじゃないかな」
「ふーん。じゃあね」
 私が帰ろうとすると、彼は慌てたような表情を見せた。
「ねえ、何であいつをかばったのさ。嫌ってただろ」
 何でそんなことを聞きたがるんだろう。
「別にかばった訳じゃないよ。あーゆー雰囲気が嫌だっただけ。それより私も聞きたいな。何でかばわなかったの。彼女でしょ」
 はあ、と彼はため息をついて、椅子に座った。
「あいつ、かわいいよな。ああ見えて結構やさしい所もあるしさ」
 質問に答えてないな、と思ったが口に出すのも面倒だったのでそのままにしておいた。
「で、付き合ってみたんだけど全然つまんないの。馬鹿だしさ。強がってるけどコンプレックスの塊って感じなんだよな」
「それは意外」
 私は自分が無表情になって行くのがわかった。しかし彼は私の相槌に気をよくして喋り続けている。
「女は馬鹿なくらいがかわいいとかって言うけどあれ、嘘だな。俺は偏差値六十越すだろ。でもあいつは五十行かないくらいだもんな。やっぱ俺は頭いい女の方がいいよ。…瀬尾さんみたいな」
 何をほざいているんだこの男は?
「私なんか香住君には勿体ないよ。私、麻屋さんみたくかわいくないし」
「いや。瀬尾さんかわいいよ。水泳の時間びっくりした。眼鏡とったらすげーかわいいよ」
 …よくゆーわ。
「嬉しいな」
「俺と付き合ってくれないかな。いや、受験勉強の邪魔をするつもりはないんだ。高校に入ってからでいいんだ。俺も北高入るからさ」
 私は微笑んだ。
「でも麻屋さんに悪いもの」
「いいんだよ、あんなケバいのほっとけば。付き合ってらんねーよ。瀬尾さんだったら親にも紹介できるしさ」
 ぷっつん。
「ずっと前からいいなって思ってたんだ。瀬尾さん、瀬尾さんも頭いい男のがいいだろ?」
「…誰が…頭…いいって…?」
 香住君の動きが一瞬止まった。「えっ?」という形に開かれる口。
「誰が頭いいって? もしかして私の前に立って阿呆面してる男のことかしら。笑わせんじゃないわよ? 誰に向かって告白してんのよ。えっ? 私と付き合おうだなんてね、百万年早いのよ、百万年。わかるかしら。私はあんたなんかにゃ勿体なさすぎるわ。やしからナテラで顔洗って出直してきた方が賢明ね」
「な…」
「えっ?」という形に開かれた口がわなわなと震え始める。
「な…なんだとぉ…!?」
 香住君の顔が怒りで赤く染まっている。おお、麻屋と正反対だ。
「何様だと思ってんだ? 信じらんねー。別に俺はあんたじゃなくてもいいんだぜ? 早紀だっているんだしな」
 何て男なんだ、最低最悪。こんな男が存在するなんて。もう顔も見たくない。見ていたら吐いてしまいそうだ。
 麻屋のことは大嫌いだが、この男に関しては同情に値すると思った。
「消えて。吐きそうだわ」
「…! いい気になるなよ!」
 彼の拳がひゅっ、と一閃した。殴られる…!
「天誅」
 どかっ、という鈍い音に、私は瞬間的に閉じた目を開けた。…香住君が青いゴミ箱の下敷きになっていた…。
 そして教室の入り口の所には麻屋の姿があった。
「あんたが投げたの?」
「ゴミ箱が勝手に飛んだのよ」
 私は思わず笑い出した。麻屋も苦笑している。
「聞いてたの?」
「まあね。…こんなことだと思ってた。ふん。私も愛想尽きてたからいいんだけどね。流石に頭に来た」
「よく付き合ってたね、こんなのと」
「そっちから付き合わないかって言って来た癖に…とにかく、これで貸し借りなしね」
 一応は気にしていたらしい。私は肩をすくめて頷いた。
「帰ろ」
 香住君をゴミ箱の下敷きにしたまま、彼女は鞄をとって、廊下に出て行った。
「ああ…私も」
 香住君は翌日までそこにいた。


「ねえ」
 何でだか知らないが、私は麻屋と一緒に帰っていた。というより、帰り道が一緒だったので同じ方向に歩いていたと言った方がよかったかも知れない。
 私は彼女の少し後ろを歩いていた。
「…何よ」
 少し経って、返事が戻って来た。
「何であんた、私のことが嫌いな訳?」
 沈黙。
「私に気に入らない所でもあるの」
「気に入らない所なんか死ぬ程あるわよ」
 私はその台詞にしばし絶句しなくてはならなかった。
「何処よ」
 何でこんなことをしているんだろう、と思いながら私は訊ねた。
「頭がいいじゃない。何でも出来るからみんなに信用されてる。今日みたいなことがあってもあんたの一言でみんな引くし。自分のこと思ってくれる友達だっているでしょうが。そーゆーいい子いい子してる所がね、大嫌いよ」
「何それ…。何でそんなことで嫌われなきゃいけないのよ。理不尽だわ」
「それに比べて私はこんなだから嫌われ者よ。馬鹿だからカンニングしてるって思われる。やってらんないよ、もう」
「でもあんた顔いいじゃない。もてるでしょ」
「そーよ。もてるわよ。それだけがあんたに勝てるただ一つの要素だと思ってたわよ。それなのにあんたってば眼鏡とったらかわいい顔してるし。神様は不公平だと心底思ったわよ」
 驚いていた。彼女の口からそんな言葉が出るなんて思ってもみなかった。
「あんた散々ブスだの何だのって…」
「そんなの負け惜しみに決まってんでしょ!? わかんなさいよそのくらい」
「私がかわいいだって? 趣味悪いな」
「その台詞、玲司にも言ってやんなさいよ」
 私たちは笑った。通りすがりの人が振り返るくらい笑った。中一からのわだかまりが消えて行くのを感じた。何でお互いこんなに嫌い合ってたんだろう。
「ところであんた、ほんとに国語のテスト、カンニングじゃなかったの?」
「はは。カンニングだよ」
 彼女は笑ってワープロでのカンニングペーパーの作り方を教えてくれた。
「…何て奴」
「呆れた?」
「前から呆れてたよ」
 私はため息をついた。
「あんた眼鏡変えたね?」
 ふいに彼女が言ったので、私は思わず眼鏡のフレームを指で撫でた。
「あ、うん。すごいな。薫も気づかなかったのに」
「そうなの? すぐ気づいたけどなー。似合ってるよ。かわいい」
「やっぱりあんた、趣味悪いよ」
それから私たちは普段は十五分の道程を三十分くらいかけて歩いて帰った。



 END



《コメント》

瀬尾三姉妹シリーズの二作目です。
二女の奈月の話ですがこの人、性格の歪み方が半端じゃないですね。
しばらく経って読み返してみてしみじみ思いました。
あたしに通じるものがありますな。頭はよくないけど。
この三姉妹シリーズは一応、それぞれコンプレックスを題材にして…いるんですけどよくわかんないですね…。


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