もう一人の白雪姫  草薙あきら

 妃は二十五歳で発狂した。そして間もなく他界した。
 白雪姫を産んで二年後のことだった。
 白雪姫十六歳の春、彼女もまた狂気の血を引く者ということを人々に示すこととなった。


「きゃあああっ!」
 突如、宮殿の中に甲高い悲鳴が響き渡った。
「どうした!」
 俺はすぐさま数人の部下達と共に悲鳴の主の所へ向かった。
 悲鳴の主はまだ幼さが残る若い女の召使いだった。
 彼女の視線をたどると、その先には血を滴らせた剣をぶら下げている王女の姿があった。足下にはやはり召使いと思われる男が血の海の中でもがき苦しんでいる。
 またか…と俺は心の中で舌打ちした。
「姫なんてことを……! どうなすったのです?」
 俺の部下の一人が叫んだ。が、王女は「さあ…?」という気のない返事をしただけで、剣を放り投げ、立ち去ってしまった。止める間もなかった。
 俺はとりあえず、怪我人の応急処置をすることにし、先ほどの女の召使いには医師を呼びに行かせた。
「何なんだ一体! これで十人目だ。母親より悪いじゃないか!」
 俺は悪態をつかずにはいられなかった。
 我国の王女、白雪は確かに美しかった。……しかし彼女には狂気の血が流れていた。
 その血が目覚めたのはつい三ヶ月前。
 それ以来彼女は何の脈略もなく人を傷つけ、また何人もの男達に言い寄る一種の色情狂のようになって行った。
 人々は白雪を恐れ、疎ましく思うようになり、そして……。
「白雪を殺しなさい」
 妃は俺にそう言った。もちろん彼女は白雪姫の実の母ではない。後妻である。
「は……私がですか」
 俺は訊き返した。妃はうなずいた。「ええそう。あなたに命じます」
 俺はためらった。
「……しかし、お言葉ですが殺すというのは……」
 俺が言うと妃は目を伏せた。
「わかっています。私もこんなことはしたくなかった。幽閉するということも考えたのですが、もっとむごいことのように思えて……。もう十人も人が傷ついたり死んだりしています。時見師も白雪はこの国を破滅に導くと言いました」
 ふと見ると、柱の向こうに黒いローブ姿の時見師が影のように立っている。
「このまま放っておくわけにはいかないのです。わかってくださいますか」
 俺は頭を垂れた。
「はい。私、お引き受けいたします」
「ありがとう」
 妃は悲しげに微笑んだ。


 翌日、俺は白雪姫を森へと連れ出した。彼女は何の疑いもなく、上機嫌でついて来た。
「森なんかに連れて来てどうするの?」
「何でもしたいことをさせろ……との御命令でして」
「ふうん」
 白雪姫は俺の言葉に疑問も何も抱かなかったようで、無邪気にまわりの景色を眺めている。こうしてみると普通の少女なのだが……。
 ふいに白雪姫は振り向き、訊ねた。
「あなた隊長さんか何か?」
「は……い、そうですが……?」
 彼女の唇が微笑の形に歪んだ。俺は突然ぞくりとするものを感じた。
「ねえ、私を抱きたくない?」
「……」
 黙っていると、彼女は俺の胸に頬を寄せて来た。
「結構ですよ。私はまだ命が惜しいですから」
 無表情に言う俺を見て、白雪姫は笑った。
「言うわねえ。でも私はあなたが気に入ったの」
 俺は剣の柄に手をのばした。「あなたはまだ自分の置かれている状況を理解していないようですね」
 そして次の瞬間には剣を振り上げていた。
「姫、覚悟!」
 銀色に閃くそれは逃げようとした王女の背中を斜めに切り裂いた。
「きゃああああ!」
 絶望するような悲鳴を上げ、白雪姫はその場に倒れた。
「こんなことだと思ったわ! 厄介払いってわけ? 妃の命令?」
「今、楽にして差し上げますよ」
 俺は彼女の問いには答えず、ゆっくりと近付いていった。
「うっ!」
 突然右手に痛みが走り、剣を取り落としてしまった。
 見れば手の甲から血が流れている。目を転じると、白雪姫の手にはどこに隠し持っていたのかガラスの破片のような短剣が握られていた。
「誰が殺されてなどやるものか!」
 彼女は素早く立ち上がると、森の奥へと走り出した。
 俺もすぐに後を追ったが、何てことだろう。情けないことに見失ってしまった。
「馬鹿な……あの傷で一体何処に」
 つぶやいても後の祭りだった。


 王女はほとんど死に瀕していた。兵士から逃れる時、走りすぎたせいで血が止まらず、身につけている衣服は真紅に染まりつつあった。
 このまま死ぬわけにはいかない。
 王女は思った。
「報復してやる……!」
 掠れた声で言った時だった。
「すごい怪我じゃないか。一体どうしたんだ」
 王女に近付いてくる人影があった。


「そうですか。では死体を確認したと言う訳ではないのですね」
 妃の声には失望の色が感じ取れた。
「ええ、まあそうです。しかしかなりの深手を負わせましたし、ましてやあの森の中。野垂れ死にするしかございますまい」
 俺は言い訳がましく言った。妃は手を上げた。
「御苦労でした。お下がりなさい」
 俺は無言で妃に従った。


 数週間後、俺は責任感から例の森に行ってみた。やはり死体は見付からない。川にでも落ちたのだろうか。
 思案にくれている時、俺は不吉な名前を聞いた。「白雪」と誰かが言っているのだ。
 俺は反射的に木の陰に体を滑り込ませた。「白雪」だと……?
「まだ完全に治ってないだろう。無理するなよ」
 それは若い男の声だった。恐る恐る体をずらして、木の向こうの光景を見つめる。……白雪姫がいるじゃないか!
「平気だわこのくらい。それにいつまでもじっとしてる訳にはいかないもの」
「報復か」
 若い男が言った。
「そうよ。あいつらみんな殺してやる。一刻も早くね」
「俺たちも協力する。心配すんなお姫さんよ」
 何処かで見たことがある。あの顔は……。


「白雪が竜の七つ子と報復の計画を……?」
「まさか彼等に助けられているとは……私の責任です」
 俺は妃の顔を見ることが出来なかった。
「いよいよ私の言う通りになってきたようじゃの」
 時見師がしゃがれた声でつぶやく。突然妃が立ち上がった。
「わかりました。私が参ります」
「ど……どこへ?」
「決まっているではありませんか。白雪を殺しにです」
 俺は驚いて、声が出せなかった。
「竜の七つ子は竜の化身……普通の人間ではありません。彼等が白雪につくとすれば恐ろしいことになるのは目に見えています」
 妃は言葉を切って、自分の手を見つめた。
「私はこの手で白雪を殺し……死に様を見届けます」
「王妃様…」
 俺はそうつぶやくことしか出来なかった。


 王女は庭の掃除をしていた。まわりに人の気配はない。
 竜の七つ子達は外出しているようだ。黒いローブの女はこれ幸いと、王女に声を掛けた。
「お嬢さん」
 王女は驚いたように振り向いた。「誰?」
「林檎を売りに来たんだよ。一つどうだい?」
 ローブの女はかごから一つ、林檎を出して見せた。王女は困っているようだった。
「でも……お金持ってないわ、私」
「いいよお嬢さん綺麗だからただであげるよ」
 言いながらローブの女は戸惑いを覚えていた。
 この女はこんな人間ではなかったはずだ。これではまるで普通の少女……。
「ありがとう。でもあなた早く帰った方がいいわ」
「えっ?」
 ローブの女は訊き返した。王女の声色が変わりつつあったからだ。
「早く向こうへ……さもなくば……」
 震える少女の声はそこで途切れた。ローブの女はぎくりとして一歩後ずさった。
 少女は一瞬にして変貌を遂げていた。
「馬鹿な女。早く帰れと言ったのに。死にたいようね、お母様!」
 挑戦的な瞳で威圧してくる。ロ−ブの女いや王妃はかろうじて笑って見せた。「やっぱりばれていたのね」
「こんな林檎で殺そうとしたの?」
 王女は林檎をつかむと握りつぶした。「愚の骨頂だわ」
 妃はかごの底から短刀を取り出し、抜いた。振り上げる。
「死んで頂戴!」


 俺は森の中を歩いている。昼には帰ると言っていた妃が夕方になっても戻ってこないから、探しに来たのだ。
 嫌な予感がしていた。転がっている林檎を見付けた時、その予感はさらに強くなった。
「隊長!」
 俺は呼ばれて振り向いた。
「王妃様が見付かりました!」
 次のセリフを聞いた時、俺は血の気が引くのを感じた。
「川に……浮いていたんです……」
 妃の死に顔は安らかだった。眠っていると言ってもわからないくらいだ。ただ、胸に広がる赤い染みが、眠っているのではないということを語っていた。
「そんな……死んでいるのか……?」
 俺は妃の遺体を見下ろしてつぶやいた。
 すさまじい脱力感に襲われ、その場にへたりこむ。妃を殺したのは俺だ、という思いが頭の中で渦巻いていた。
 俺が白雪姫を殺しておけばこんなことにはならなかった。
「……殺してやる。必ず息の根を止めてやる」
 俺は低くつぶやいた。


 それから俺は毎日、白雪姫の様子を見に行った。殺す機会をうかがっていたのだ。そんなある日のこと。
「もし、お嬢さん」
 と、一人の男が王女に声を掛けた。見たところ、立派な衣服を身につけていて、どこかの国の王子を思わせた。
「この森の抜け方を教えてくれませんか。どうも迷ってしまったらしくて」
 男は苦笑しながら言った。王女はくすりと笑った。
「お安い御用ですわ」
 男はこの美しい少女に興味を持ったようだった。
「君の名前は?」
 と彼は王女に訊ねた。王女は艶やかな笑みを浮かべて、答えた。「白雪よ」
 男は驚いたように目を見開いた。
「へえ? 君があの悪名高き白雪姫か?」
 白雪姫は別に気分を害さなかったようだ。
「失礼ね。悪名高きなんて」
 と自分も面白がっているような口調で言う。
「なるほどね……噂通り綺麗な人だな。でも君は死んだって聞いたよ」
 男がそう言うと、白雪姫はふいに遠い目つきになった。
「そう……私は殺されかけたの。背中の傷はきっともう消えない。だから報復してやるの」
 男は黙って聞いていたが、聞き終わると優しい微笑を浮かべ、言った。
「……そうだね。君にはその権利がある」
 王女は男を見つめた。つと足を踏み出し、男の肩に手を掛けたかと思うとその唇は男の唇と重なっていた。
 これにはさすがに男も動揺したらしく、突き放しはしなかったものの、唇が触れている間は目を見開いたままだった。
「キスは初めてだった? 王子様」
 白雪姫が男の瞳をのぞきこみながら言う。
「な、何故僕が王子だとわかったんだ」
「着てるものを見ればわかるわ。それに私、勘がいいのよ」
 言って白雪姫は不意に俺のいる方向を指さした。見付かったのかと思ったが違っていた。
「この道をまっすぐ行けば森から出られるわ」
「ありがとう」王子はそれから少し間を置いて「また来てもいいかな」と訊ねた。王女は笑顔で答えた。
 ……馬鹿だ、あの王子は。俺は思った。
 白雪姫にそそのかされ破滅した男は数知れぬということをあの王子は知らないのか。
 ようするに、あいつも白雪姫の美しさに翻弄される馬鹿な男どもと同じということだ。


 王子は毎日のように白雪姫に会いに来ていたようだった。ようだった、というのは俺は用があって、二週間ほどこの森に来ていなかったからだ。
 俺はとっくに殺されているか、または王女の性格に愛想がつきて来なくなっているか、どちらかだと思っていたのでこれは意外だった。
 王子の来る時間は決まっているらしく、その時間が近付くと白雪姫は近くの湖へ行く。そこで二人は会っているようだった。
 その日、俺はナイフを忍ばせて家を出る王女を見た。
 とうとう王子を殺す気らしい。俺はどうすればいいかを考えた。とにかく王子を来させてはいけない。俺はもう湖に向かっているであろう王子を探した。
 王子は意外に早く見付かった。俺を見て彼は驚いていた。
「誰だ? おまえは」
「私は宮殿の兵士です。白雪姫に会ってはなりません。あなたを殺そうとしています」
「ええ?」
 王子はそんな馬鹿なと言いたげな表情で笑った。
「白雪姫の噂は御存じでしょう? 何人も殺してるんです。突然に。あなたも例外ではないのです。お帰り下さい」
「何を言ってるんだ。どいてくれ」
 当然予想していた事態ではあった。俺は馬に乗ったままの王子の鳩尾を打った。「失礼」
 王子を馬から降ろす。と同時にこれが白雪姫を殺す最大のチャンスであることに気付いた。
 俺が王子に変装して、相手が油断している所を殺す。帽子を目深にかぶり、目を隠せばしばらくはわかるまい。
 声も似ているという自信があった。神は俺に味方してくれている。


 白雪姫は湖のそばの木の切り株に座っていた。その姿は胸が痛くなるほどいじらしく、一瞬何もかも放り出してしまいたくなったが、かろうじて踏みとどまった。
「遅かったのですね」
 俺の姿を認めると、王女はかけよって来た。
「ちょっと待った」
 俺は言った。王女は言われた通り立ち止まった。
 何かが違う……この子は本当に白雪姫なのか?
「おみやげだよ」
 俺は彼女に向かってそれを放った。妃が持っていた赤い林檎。王女は嬉しそうに笑った。何故か心が痛んだ。
「ここに来る途中見付けたんだ。食べてごらんよ」
 俺も林檎を出してかじって見せる。王女もそれを真似た。
 俺は待った。彼女との距離を保ったまま。彼女がどうなるのか、待っていた。
 不意に白雪姫の手から林檎が落ちた。彼女の顔色はみるみる内に蒼白になり、膝が折れたかと思うと、口からは鮮血を吐き出した。
 俺が望んでいた最後だった。そのはずだった。なのに俺は白雪姫を哀れんでいた。悲しんでいた。自分のしたことがいかに残酷だったかを思い知った。
「あなたに……」
 彼女は喘ぎながら言った。彼女はまだ俺のことを王子だと思っている。
「あなたに殺されるなら、本望です……ありがとう」
 白雪姫は目を閉じた。俺は信じられない思いでそれを見ていた。
 ありがとう……? ありがとうだって? 殺されることを望んでいたっていうのか?
「彼女は優しい子だったよ」
 気がつけば後ろに王子が立っていた。
「少なくとも僕の前ではそうだった。自分が自分でなくなるのが怖いって言ってた。どっちが本当の自分なのか測りかねてたみたいだ」
 王子の口調に俺を咎めるものは感じ取れなかった。
「二重人格……?」
「だろうね」
 王子は白雪姫の横に跪き、彼女の口元の血を拭った。
「呪われた血を断ち切りたかったんだね」
「じゃあ、あのナイフは……」
 愛する王子の手によって殺めてもらうつもりだったのだろうか。俺は手で顔を覆った。最後まで、俺の知っている白雪姫であったならこんな後味の悪い思いはしなかったはずなのに。
「これでよかったのかも知れないな。彼女も、お前も本望だろう」
 あなたはどうなんです、と俺は訊けなかった。
 王子は白雪姫を抱きかかえた。
「僕が王女を連れて帰る。竜の七つ子も悲しむだろうね。仲良くやってたから」
 俺は王子の後ろ姿を眺めながら立ち尽くしていた。
 一体、俺は今まで何を見ていたのだろう……。



 END



《コメント》

少し前に考えたお話なんですが、多分あやしい話が書きたかったんだと思います。
とにかく、原作をストーリー的にはそのままに、でも視点は変えて、という試みでした。
竜の七つ子等についてはもう少し使いようがなかったのかとくやまれます(笑)


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