つわものどもがゆめのあと  草薙あきら

埃の溜まった扇風機がかたかたと音を立てているのは、羽根が折れかけているから。
部室の中はサウナに近い状態だった。かろうじてひとつある窓は全開になっているが、外はすぐ塀になっているため風は殆ど通らない。
噎せるような汗と革とエアーサロンパスの匂い。長い間そこで佇んでいる環はもう何も感じなくなっていたが。
生ぬるい空気をかきまぜるだけの扇風機でもないよりマシと、前に陣取りぼんやり宙を眺める。
「良かった、まだいた」
薄汚れた鉄扉の隙間から顔をのぞかせたのは、亜紀だった。人懐っこい笑顔を浮かべてそそくさと環の隣に座る。
「亜紀こそもう帰ったかと思った」
「ここ、やっぱり暑いねぇ。はいこれ」
亜紀は両手に持っていた缶ジュースの片方を環に向かって差し出した。無糖のアイスコーヒー。
「ありがと…」
「副部長、お疲れでした」
ぷしっ、とコーラのプルタブを開けて掲げる亜紀に、環も慌てて倣う。
「お疲れキャプテン」
「終わったね」
「うん」
それ以上言葉が見つからず、環は沈黙を紛らわすように缶コーヒーを口に運んだ。
外の景色は塀に遮られて見えないが、ノイズのような蝉の合唱は途切れることなく二人の耳に響き続けている。まるでまだ夏は終わっていないと声を嗄らして訴えかけているかのよう。
「ねぇ」
「ん?」
「覚えてる?あの時私が言った科白」
亜紀の問いかけに環は口元に持って行きかけた缶を下ろした。
じっと答えを待っている亜紀の首が汗で光っているのが目に入る。
かたかたかたかた。
年代物の扇風機の風が二人の髪を交互に揺らす。
相手の濡れた首から視線をはずしながら、環はゆっくり頷いた。
「うん、覚えてるよ」
「うわー!忘れてて欲しかったのに!もう恥ずかしかったよねー。みんなを全国大会に連れて行きます!とか言っちゃってさ。それが西部大会で終わってんの。何だこりゃ」
亜紀の返答に環は椅子からずり落ちそうになった。その話かよ!
もっと他に覚えておくべき科白があるだろう、と思ったが表情には出さずコーヒーを啜り続ける。
「仕方ないよ。やるだけのことはやったんだし、私は満足。上には上がいるよ」
「環は悔しくないの?」
「悔しくない…ことはないよ」
でもそんなことよりもっと心残りなことがある。多分一生口には出さないだろうけど。
「亜紀もよくやったよ。こんな弱小ソフトボール部率いてさ」
「…環がいてくれたから…」
二人共知っていた。
部活を引退した自分たちの距離が緩やかな速度で遠ざかっていくことを。
受験勉強して、別々のクラスで授業受けて、会話が減って、それが日常になっていく。
悲しくても、泣いて拒んでも、いつしか慣れてしまうのだ、その状態に。
別々の高校に進んで全く別の道を歩いていく。二人の道が交差しているのは今だけなのだと。
「…絶対あなたを手に入れる」
環は言って亜紀を見つめた。「…って言ったんだよ、あんた」
「やだ、覚えてたの!?恥ずかしー!まるで告白だよね」
「ほんと」
「クラスマッチでソフトやった時ね、絶対いいピッチャーになるって思ったんだ。でも環、全然入部する気なくて。感じ悪かったなー」
「悪かったね」
「でも入ってくれたからいいんだ」
「そう」
「今までありがとうね、環。楽しかったー」
亜紀の笑顔から顔を背けるように環はコーヒーを飲み下した。胸の底から苦しい何かが突き上げてきたから。
お礼を言うのはこっちの方。
私を見つけてくれてありがとう。
私を引っ張ってくれてありがとう。
あなたの隣にいられて良かった。
……まだ一緒にいたいよ……。
言葉は胸の中で泡のように膨れ上がり、蝉の声と扇風機の音に紛れて溶けてゆく。
かたかたかたかた。
もうすぐ夏が終わる。


 
END



《コメント》

9人しかいないソフト部に入ってしまい、やめたくてもやめられず毎日が地獄だったことを思い出します。
3年生が2人しかいなくて自動的に副部長に。現実なんてそんなもの。


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