コンプレックス・ブルー  美猫

「―――別れて欲しい」
 そう言ったあなたがとても辛そうだったから、僕は頷くしか出来なかった。
『あなたの幸せが僕の幸せ』
 互いに誓いあった日々はまるで夢のように遠くて。
 抜け殻のようになった僕からは涙だけが溢れた。
 ―――十九の冬だった。
 あの日から四年経った今も僕はあの頃の夢を見続けている―――


 ―――台所から音がする。
 ベッドの上でまどろみながら、そう言えば今日の朝食は僕の番だったと思い出す。
「ごめん。目覚まし鳴らなかったみたいで…」
 言いかけた僕の目の前に出来立てのハムエッグが置かれた。
「いいよ。目覚まし止めたの俺だから」
「何で?」
「起こしちゃ悪いと思って。疲れてるだろうな…と」
 そう言ってコーヒーを差し出すと、笑顔で僕を見る。
「寝起きが悪いのはいつものことだけど、別に疲れては…」
「ほら、昨日の夜は激しかったしー☆」
「うっ…」
 思わずコーヒーを吹き出しそうになる。
 ―――何てこと言うんだ、こいつは…
 ニコニコとトーストをパクついている男を見つめながら、僕は呆れた。
 少々脳天気なこいつは、現在僕の恋人で、坂上涼という。
 僕―――早川祐と一緒に暮らし始めて半年。
 二人ともごく普通の会社員をしている。
「じゃ…出かけるか」
 僕が玄関に向かおうとすると、涼が突然抱き寄せた。
「いってらっしゃいのキス☆」
「おいおい…」
 少し嫌がる振りをしながらも、僕はこういうゲロ甘な事が恥ずかしげもなくできてしまう涼が好きだ。
 強引な割に優しく唇を重ねる涼から、微かなコーヒーの香りがした―――。


「早川、お客さん」
 同僚に言われて行ったロビーには一人の男が立っていた。
「どうして…」
 祐は思わず呟いた。
 目の前にいる男―――それは、四年前に別れた恋人の水谷雪弥だった。
「久しぶりだね…どうしたの?」
 表情を平静に保とうとすると、声が震える。
「うん…」
 雪弥は言い淀んで俯いた。
 前髪がさらりと流れて、少し影のある目許を隠す。
 ―――髪、少しのびたけど、変わってない…
 きちんと切られた爪やチタンフレームの眼鏡も…
 祐は雪弥を見ながら懐かしさが胸に迫ってくるのを感じた。
「話したいことがあるんだ」
 雪弥はそう言うと、メモを手渡した。
「七時過ぎだったらいるから。―――待ってる」
 メモにはシティホテルの場所とルームナンバーが書かれていた。
「…。これ…」
 祐が尋ねようとすると、雪弥は足早に祐の前から去っていった―――


「はぁ…」
「ふぅ…」
「はぁ…」
「祐!」
「ふ…何?」
 ソファーに横たわっていた体を起こすと、いぶかしげに涼が祐を見ていた。
「さっきから、溜め息ばっかり計二十一回と半分だ。どうかしたのか?」
「あ…いや、何でもない」
「何でもないって事はないだろ?」
 涼は祐の手を取るとそのままソファーに押し倒した。
「何でため息ついてはる? 話さへんと離さんでー」
 いきなり関西人になると祐の耳に息を吹きかけてくる。
「あ…それ弱いっやめ…」
「このまま脱がしてベッドにもつれこんでもいいけど、今日はやめとく。―――昼間の眼鏡の男の事か?」
「!」
「梅干だろ?」
「図星の間違いなんじゃ…」
「突っ込みありがとう☆ さて、本題に入る。今日偶然祐の会社のロビ−覗いたら、マイ・スイート・ハニーがどっかの馬の骨と何やら深刻な様子。これはどういうことだ?」
「別に…」
 視線から逃れるように横を向く祐。
「サラリーマンが会社のロビーでかわいいサラリーマンをナンパって訳でもなさそうだし…。―――昔の男か?」
「!」
「梅干だな」
「…」
 涼は祐を離すとその場に座った。
「今の突っ込みがなかったのは非常に寂しいが、何も言ってもらえないのはもっと寂しい」
「ごめん…」
 ソファーから起き上がると、祐はとりあえず涼に突っ込みを入れた。
「そりゃ、図星でしょ」
「―――ジャ・ジャン♪」
「…。―――実は彼、雪弥は僕が十六の時から付き合ってた恋人で、僕のはとこにあたる人なんだ…」


 僕が雪弥と知り合ったのは高校一年の夏だった。
 長期休暇で遊びにいった親戚の別荘に彼がいた。
 その頃の僕はすでに自分が同性愛者であることを認識していたし、それに対して悩みも持っていた。
 だから、そんな僕が恋をしてそれが成就するなんてこと、まして愛しあうことなんて不可能に近いと考えていた。
 でも、雪弥に出会って、僕は初めて恋愛をした。
 そして、僕は恋愛にはまってしまったのだった。
 七つも年上の雪弥は僕にとって何もかもが大人に見えた。
 言うなれば雪弥は全てにおいて、僕の『はじめての人』だった。
 何もかも雪弥が教えてくれた。
 愛することも…愛されることも…
 あの頃の僕は雪弥以外何もいらないと思っていた。
 雪弥さえいてくれればそれでいいと思っていた。
「愛してる…」
 二人、部屋の中抱き合って何度交わした言葉だっただろう。
「雪弥の幸せは僕の幸せだから」
 僕がそう言うと必ず雪弥はこう言った。
「祐の幸せは僕の幸せだから」
 そしてこの幸せが終わることがないと思っていた。永遠に続くものだと…
 だが、破局は簡単にやってきた。
 僕が男で、雪弥も男、わかりすぎているくらいわかっていることだった。
 初めの頃はどうして男が好きなんだろう、とかこれは悪いことなんだろうか、とか二人で悩んだりした。
 でもそんなことは些細なことで、愛さえあれば乗り越えられると信じていた。
『結婚』―――その二文字が二人を引き裂いた。
 雪弥は一人息子で長男で、部長とその娘に気に入られて、両親も結婚を望んでいるというありふれた話だった。
 結婚が雪弥の幸せだと言うなら、僕では雪弥を幸せにすることが出来ない。
 幸せにしたい。
 幸せになりたい。
 どちらも僕と雪弥では叶わない。
 そして僕が雪弥の前を去った頃、雪弥の結婚式が行われた―――


「愛なんて、愛なんて永遠には続かない。永遠の愛なんてこの世には存在しない。いくら誓ったって現実には有り得ない…!」
 祐の瞳から涙がこぼれた。
「祐…」
 触れようとした涼の手を拒絶するように祐が言った。
「今もその気持ちは変わらない!」
「―――と言うことは、奴がまだ過去の人じゃないって事か?」
 涼がゆっくりと言った。
「…。そんなこと…」
「行ってこいよ。奴がなに話したいのかは知らないけど、行かなきゃ祐が後悔することになるだろ?」
「行ってもいいの…?」
 深く溜め息を吐くと、涼が祐の頭を撫でた。
「俺が決めることじゃないしな」
「ごめん…」
 そして祐はそのまま涼の肩にもたれた―――


 部屋の前に立つと、なぜか緊張感が高まってくる。
 メモを見て、もう一度ルームナンバーを確認すると、祐は二回ノックをした。
 内側で鍵の外れる音がして、ドアが開いた。
「やあ…入ってくれ」
 雪弥が笑顔で出てきた。
「うん…」
 部屋に入ると向かい合わせで椅子に座り、缶コーヒーが目の前に置かれた。
「それで、話したいことって?」
 祐が言うと雪弥は無言で写真を差し出した。
 写真には小さな男の子が元気よく写っていた。
「息子なんだ」
「へえ…もしかして親馬鹿だって事が言いたいとか?」
 祐は笑って写真を眺める。
「そうだね…親馬鹿だったよ」
「親馬鹿だった…?」
 怪訝そうに祐が言うと雪弥が言った。
「死んだんだ。一ヶ月前交通事故で。妻が目を離した隙に道路に飛び出して、車にはねられて…即死だった」
「! そんな…」
「もうどうしようもないんだ。それ以来妻とは喧嘩ばかり…家庭はめちゃくちゃだ」
 雪弥は頭を抱えると肩を震わせた。
「どうしてだ? 君を傷つけてまでして手に入れた家庭だったのに…」
 雪弥は顔を上げると祐を見つめた。
「こんなはずじゃなかった。こんなはずじゃなかったんだ…!」
 雪弥はそう叫ぶといきなり祐を抱きしめた。
「祐、愛してる…君を思わなかった日はない。君を不幸にしてしまったことを僕はずっと後悔してきた…もう一度やり直そう。家庭なんかいらない。今度こそ君を幸せにしてみせる」
「…」
 あの頃…あんなに望んだ言葉…なぜか今は空しく胸に響く…
 あの頃あんなに安心した腕の中…なぜか今は違和感を感じる…
「雪弥…」
 祐は雪弥の体を押し戻すと、言った。
「奥さんを大事にしなよ。今雪弥に一番そばにいてほしい人は、きっと奥さんだよ。幸せにしてほしい人も、きっと…」
「祐…」
 祐は雪弥をそのままにドアに向かった。
「雪弥、僕、今幸せなんだ。幸せにしたい人もいる。雪弥も…」
 笑って祐は言った。
「幸せになりなよ―――」


「ただいま」
 玄関で靴を脱ごうとしていると、ものすごい勢いで涼が走ってきた。
「おかえり!」
 靴を脱ぐ間もなく祐はきつく抱きしめられた。
「涼…?」
「おかえり! おかえり!! おかえり!!!」
「どうかしたの?」
 ちょっと苦しい、と思っていると、もっときつく涼が抱きしめる。
「もう、帰ってこないかと思った…」
「何言って…」
「結構あっさり行ってこいとか言ったけど、実は内心びくびくしてた。もう俺の所には戻ってこないんじゃないかとか、あんなに好きだった奴を諦められるはずがないんじゃないかとか」
 涼は早口でそのまま続けた。
「でも、無理矢理行かせないのも嫉妬深い奴みたいで嫌だったし、そんなことしたって結局無駄だし。ごちゃごちゃ考えたけど、やっぱり俺は祐のことが大好きだ! だから誰にも渡さない!」
「涼…」
「なんて言ったって無駄だぞ。どこまでも背後霊のようについていってやる〜」
「変な奴…」
 笑いが込み上げてきて祐は吹き出した。
 そして、さっきなぜ違和感がしたのかが理解できた。
 涼じゃなかったからか…
「雪弥は僕にとってもう『過去』だよ」
「!」
 ―――と言うよりやっと『過去』になっていたことに気づいたという感じかな…
 そう…僕はあんまり幸せすぎて気づいてなかったんだ…
 そう、涼がいてくれたから…
「『過去』ならいいんだ。そのかわり『今』と『未来』は俺のものだからな!」
「うん」
「予約したからな」
「はいはい」
「わかったか?」
「わかりました!」
 すると涼は祐を抱き上げると、祐の靴を放り投げた。
「明日の朝食は俺が作るよ」
「じゃ、いいよ」
 祐は自分から目を閉じて涼にキスをした。
「俺はずっと祐のことが好きだからな」
 涼は優しくキスを返した。
「うん…」


 血を吐くような思いで別れたあの日。
 あの頃が過去になるなんて思いもしなかった。
 もう二度と信じないと思ったあの日が今、過去になる。
 それは忘れるということじゃなくて。
 もう一度信じることへの過程にある、第一歩なのかも知れない。
 そして僕は今日も涼の腕の中で、『永遠の愛』をもう一度信じている―――



 END



《コメント》

 同性愛と同棲にかなり興味を持っていて、それに関係するコンプレックスを書きたかったのですが・・・。
これからも色々な形の恋愛小説を書いていきます。(美猫のかわいい風で)


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