―――ひどい熱だった。
いくら布団を重ねても寒気は止まらず、暑いはずなのに汗が出ない。
耳鳴りは絶えることがなく、涙が止まらない。
息苦しくなって、私は寝返りをうった。
このまま死んじゃうのかな……
意識が朦朧としていく中で、私はふと目を開けた。
歪んだ視界に、壁に掛けられたパネルが見える。それは、幼い頃の私の写真だった。
写真の中の自分は照れたように笑っている。
いつ撮った写真だったかな……
そんなことを考えながら、ぼんやりとパネルを眺めていた。
すると―――。
その写真の中の私の横にある茂みが、動いたような気がした。
「……?」
熱で、目までおかしくなったのかな…?
瞬きをして、もう一度、パネルを見る。
あの茂み…動くはずないよね…?写真だし…
「え……」
思わず、声が出ていた。
写真の中の茂み…それは茂みではなかった。横になって見て、初めて分かった。
それが人の顔であることに…。
「あ……」
瞳を逸らそうと思った。
でも、なぜか、出来なかった。
どうして今まで気付かなかったんだろう…もう何年も前から部屋にあったというのに…
……一呼吸おいて、震えがきた。
かちかちと、口の奥で音がした。
熱による寒気からではなく、震えていた。
その、写真の中の顔は、男だった。黒い、学生服のようなものを着ていて、上半身だけ写っていた。
見れば見る程、その男の顔が鮮明になっていくような気がした。でも、瞳が逸らせない。
「あ……」
涙が汗と共に頬を伝っていく。
そして、その男の顔は、確かに動いていた。その男の顔は、私の瞳の中で、笑っていた。
口の端が少しずつ動いて…確かに笑っていた。
そして―――私の瞳とその男の瞳が、合ってしまった。
「ひ……い……いやあああああ!」
自分の声とは思えないような悲鳴を上げて、私は気を失った……
*****
「えっと…数学と、古典と…」
時間割を見ながら、鞄の中に教科書を入れていると、一階から母の声がした。
「美也! ご飯よー!」
「はーい!」
返事をしてから、美也は急いで部屋を出る。ドアを閉める前に、あのパネルがあった場所に目をやって、あの日のことを思い出す。
―――ものすごい叫び声を上げた美也に、母は驚いて理由を尋ねたが、美也はただパネルを捨ててとしか言わなかった。結局、パネルはその日のうちに捨てられて、美也も母に理由を言えないままだった。
だって、本当のことなんて言っても信じてもらえないだろうし…
もしかしたら、熱でどうかしてたのかも知れない…
ドアを閉めて、美也は階段を下りる。
あの日のことは、忘れよう…夢だったと思えばいいんだ…
美也は台所に入ると、いつもの場所に座って朝食に手をつけた。パンにバターを塗りながら、テレビを見る。
「美也、もう熱は下がったの? 無理はしないようにね。体育は当分休みなさいよ。それと、薬を飲むのを忘れないように―――」
「分かってるってば。大丈夫。もう熱は下がったし、元気だもん」
心配性で何かと口うるさい母の話の腰を折るように早口で言うと、パンにパクつきながら、朝のワイドショーのくだらない芸能人の恋愛沙汰を必死で語っているレポーターを見ていると、何だか馬鹿らしくなってきた。
それから美也はパンを牛乳で飲み込むと、席を立った。
「行ってきまーす!」
池内美也は、近くの中学に通う普通の十五歳。一応、受験生。特にこれといった特徴もないけれど、平凡に楽しく毎日を送っている。
そう……あの日までは―――。
いつもぎりぎりで教室に駆け込む美也にしては珍しく、今日は余裕がある。熱を出して一週間も学校を休んでいたから、久し振りの学校が嬉しい。なぜか、足も速くなったりする。
美也はいつもより二十分も早く学校に着いた。三階の教室に行く階段を上がる。
「う……」
薬を飲んでいるせいだろうか、頭がぼうっとする。関節もまだ鈍い痛みを訴えている。ゆっくりと階段を上がりながら、美也は右手で額を押さえていた。
その時……一人の少女が、美也の目の前を横切った。
腰まであるだろうか、長い黒髪が目の前でさらりと揺らめいて―――。
「え…?」
美也の足が止まった。瞳は一点に集中した。
その少女には――足がなかった。まるで飛ぶように美也の前を軽やかに横切った少女には、足がなかったのだ。
「う…そ……」
青ざめて、口を押さえて、美也は立ちすくんだ。
それからしばらくして、美也が少女の行った方向を見てみると―――壁しかなかった。そして、少女はそこにいなかった。
まるで消えてしまったかのように。
見間違い…? でも……
教室に入ってからも美也は俯いたまま青ざめていた。そんな美也を友人達は風邪が治っていないから、気分でも悪いのだろうと思っていた。
しかし、それからの美也の行動はそれでは説明がつかないほど、友人の眼には奇妙に映っていただろう。
「いや―――!」
叫び声を上げて美也が走っていく。
あれから美也は変なものばかり見えるようになっていた。
『そこに人が立っている』
『首だけ浮かんでいる』
『金縛りにあう』
しかし、いくら訴えても本気で誰も取り合ってくれなかった。
「本当なのよ? 信じてよ!」
母親に訴えてはみたが、疲れてるのよと美也を休ませようとする。
「そんなのじゃないの、そんなのじゃない…」
美也はもう疲れ果てていた。
放課後、忘れ物を取りに教室に戻った美也は、教室に残って話している友人達を見ることになる。
「最近、美也おかしくない?」
「うん、何か気持ち悪いことばっかり言ってるしねー」
お菓子を食べながら友人達が話している。
「あれはもう狂ってるとしか思えないよね」
「病院行った方がいいんじゃない?」
笑いまじりに話し合っている。
―――『狂ってる』
私…狂ってるの?
ふらふらと美也はそのまま学校を後にした。
そうね…私、狂ってるんだわ。きっとそうよ…
家に帰ると、美也は部屋で一人座り込んだ。
私…狂ってる。
「ふ…ふふふふふ」
笑い…込み上げてくる。
「どうして…見えるのよ…私…どうしたらいいの…?」
瞳…閉じても「いる」って分かる。
私の瞳、あの日から狂ってしまった。他人とは違う…私。
見たくないのよ…見せないで…
「見たくない…見たくないのよぉ!」
机の上にあったカッターで、美也は瞳を突こうとした。
私の瞳に向かってくるカッター…私の狂気を止めて……
「美也…!」
―――不意に手を掴まれて、カッターは乾いた音を立てて落ちた。
「お母さん…」
母が瞳に涙を溜めて美也を見ている。
「美也、あなた一体どうしたの?! 何があったの? お母さん、分からない! こんな…こんなこと……」
母がカッターを拾って震えている。
お母さん…。私…もうお母さんの娘じゃないの。私、狂ってるの。
「あはっ…あはははははっ」
笑い、込み上げてくる。
―――もう何も見ない……見えない……
行く当てもなく歩いていると、下半身のない少年がじっと美也を見つめていた。寂しげな瞳で美也を見ている。
どうして私を見るの…?
どうして私は見えるの…?
その時、誰かが美也の足を掴んだ。見ると、血塗れの少女が薄笑いを浮かべて美也を見上げていた。
「あ…ああああああああああっ!」
美也は少女を振り払うと走り出した。
―――私、走ってる。
途中で靴が脱げたけど、そんなの知らない。鞄も途中で投げ捨てたけど、そんなのどうでもいい。
だって、私、狂ってるんだもの。
息が切れてきたけど、どうしようもない。
十三階建てのビルに入って、階段駆け上がる。私の足音が私を追い掛けてくる。でも、振り向かないの。
―――だって、もう、私の瞳、真実を映さない。
私の瞳、狂ってしまった。
―――私の足、止まらない。
五階……違う……十階……ここじゃない……十三階……私の場所。
狂ってる。
狂ってる狂ってる。
狂ってる狂ってる狂ってる。
私……ク・ル・ッ・テ・ル………
屋上のフェンスをよじ上り、両手で瞳を塞いで、美也は―――飛んだ。
池内美也が飛び降り自殺を図ったというニュースはその日のうちに広まった。
原因は受験によるノイローゼだとされた。親も友人も美也の死を悲しんで泣いたが、この中で誰一人として美也の訴えを信じた人間はいなかった。
そして、それが美也を殺した一番の原因だということを誰も知らない―――。
砕けた……私の体。
砕けた……私の瞳。
砕けた……私の心。
私の赤い体液は無惨にアスファルトに飛び散って、だらだらと流れた。
人はそんな私を見て、顔を背けた。悲鳴を上げた。逃げた。
私は、とても、嬉しかった。
もっと、私を見て……瞳に映った私を心に刻み付けて……
「くくくくくっ」
笑い……込み上げてくる。
「あははははっ」
私……狂ってる。
「きゃあああああっ」
悲鳴を上げて逃げる少女。
私を見て怯える少女。
―――あなたの瞳に私が映る。振り返れば、私がいる。
もっと私を見て。
そう……あなた……狂ってる………
END
《コメント》
これはフィクションとノンフィクションが半々の作品です。
それは、私には霊感があり、実際に作品に出てきた体験をしているからです。さすがに主人公のような行動はとりませんでしたけれど。
今はかなりピークを過ぎて昔のように視えなくなりました。
この作品は霊感少女だった13歳当時を思い出して書いた私の感傷でした。
|