愛しき笑顔  霜月楓

 その日は朝から雨が降っていた。
 こういう日、私はいつも憂鬱になる。特にちょうど今くらいの、秋に降る雨の日はそうだ。
 タクシーの運転手をしているので、お客さまが増える雨の日は本来、嬉しいはずなのだが。
 タクシー乗り場に車を停め、時計を見ると午後五時半だった。夕食の準備が始まる時間帯だろう。
 家を出る時に妻が「今日はサンマを焼きましょうか」と言っていたのを思い出し、思わず笑みがこぼれる。
 好物のサンマに大根おろし、そして焼酎。茄子の漬け物も、そろそろ味が漬かる頃だろう――そんなことを考えていると、トントン、と窓が叩かれた。
 見ると、お客様だ。まだ若い――三十ほどの女性。
 急いで扉を開けると「ほら、あやちゃん」と女性が傘を傾け、足元にいた子供を先に乗せた。
 その言葉で思わず子供に目をやる。かわいらしいおかっぱ頭の娘さん、幼稚園児くらいだろうか。

『パパ』

 不意に懐かしい声が蘇り、私は正面を向いて女性に見られぬよう苦笑した。
 ――「あや」なんてありふれた名前、珍しくもないのに今更反応した自分がおかしかったのだ。
 動揺を隠すように帽子をかぶり直し、女性を振り返る。
「どちらまで?」
 私が尋ねると女性は、あやちゃんの靴を脱がせながら、二十分近く走らせたところにある場所を告げた。
 手にはケーキ屋の箱を提げている。何かのお祝いだろうか。
「ねぇねぇママ、パパは今日、早く帰ってくるかなぁ?」
 あやちゃんが女性を見上げて必死に聞いている。声も真剣味を帯びていた。
「大丈夫よ。今日はあやちゃんのお誕生日だもの。パパ、きっと早く帰ってくるわ」
 静かな口調であやちゃんに答え、頭を撫でている女性。
「ほんと!? わーい! ……あ、おひげのおじさんだ!」
 ファーストフード店の入口に立っている人形を、赤信号で停まった窓から見つけたらしい。あやちゃんが目を輝かせている。
「ねぇママ、あのおじさんね、クリスマスにはサンタさんの格好するんだよ。知ってた?」
「……ええ」
 あやちゃんの視線が外れた途端、ふっと表情がゆるむ女性。疲れた表情で、あやちゃんの後ろ姿を見つめている。
 お客様が話し好きの人なら世間話をよくしている私だが、今は遠慮していた方が良さそうだ。こういう時にはいつも私は沈黙を保つことにしている。
 しかしこの表情、どこかで見たことがある……と刹那考え、すぐ思いついた。妻の顔だ。
 妻はいつも穏やかに微笑む女性だった。仕事一辺倒で生きてきた私に文句を言うことなく、私が前の企業を解雇された時にも、取り乱さず子供を守ってくれた。そしてその微笑みの裏に隠した淋しさやつらさを、私に見せないように気を遣っていたのだ。
 しかし、ふとした時に今の彼女のような表情をすることがあった。疲れたような表情を。
 先日、結婚三十年目を迎えた私たちに、息子の哲也が揃いのセーターを贈ってくれた。とっくりで、とてもあたたかそうだ。哲也は
「親父もお袋も、これだけ長く連れ添っててよく飽きないよなぁ」
 そう言って笑った直後、隣にいた嫁に笑顔で肘鉄を食らっていたけれど。
「でも」と、そのあとで哲也は続けた。嫁に小突かれた脇腹を押さえながら。
「三十年後に親父たちみたいになれてたらいいだろうな。喧嘩もしないし仲いいもん。俺たちなんか、喧嘩ばかりだよ」
 そうよねぇ、というように嫁もにこやかな笑顔を私たちに向けてくれていたが――
 そうだろうか。
 私はその時そう考えていた。
 私はうれしいことや悲しいこと、悩みも全てうち明け、喧嘩をするほど仲の良い息子夫婦がうらやましかったのだから。
「……」
 青信号になって無言のまま車を発車させる。そしていくつか信号機の下を通り過ぎた頃、
「そこの郵便局の角を左に曲がって下さい」
 女性が少し前方に見えるくすんだ白の建物を示した。大きなポストが立っている。
 郵便局の角を曲がりタクシーが住宅街に差し掛かると、あやちゃんが「あ、由実ちゃんだ」と声を弾ませた。友達だろうか。
「あのねママ。由実ちゃんね、今度ディズニーシーに行くんだって。あやも行きたーい!」
 子供の放つ無邪気な言葉は、時に大人の胸を深くえぐる。母親がつらそうに目を細めた。
「そう……ね。パパのお休みがとれたらね」
 でもとれないと思うわ、ごめんね――言外にそう言っているのを感じて私は「由実ちゃん」にちらりと視線を走らせた。
 スーパーで買い物をした帰りなのだろう、母親が片手にビニール袋を、もう片方で赤い傘を差している。そしてそのうしろを「由実ちゃん」がぴょこぴょことひよこのように歩いていた。やはり赤い傘。お揃いのようだ。
 ――二人とも、笑っている。楽しそうに。
 今、後部席に座っている女性は、最近そのような笑顔を娘に向けたことがあるのだろうか。
 そう考えていると「あ、そのポストの前でいいです」と女性が言ってきた。
 はい、と返事をし、そしてゆっくりと車を停めると女性が千円札を二枚財布から取り出した。
「お気をつけて」
 釣り銭を渡してそう言うと、彼女ははじめてにっこり笑った。どことなく淋しげな笑顔だったが。
 そして、あやちゃんが「バイバイ」と私に手を振ってくれる。私も笑顔で手を振り返すと、先にタクシーを降りていた母親はもう一度私に小さく会釈をした。
 二人が車から降り、そして歩き出すのを見送ってから再び車を発車させる。
 私の頭の中では、今の女性の淋しげな笑顔と妻とが重なっていた――妻が、私に淋しげな笑顔を向けていた。
「……? 」
 まもなく、前方からサラリーマン風の男が歩いてくるのが見えた。腕に抱えた大きな包みを、紺色の傘で濡らさないようにしっかりと守っている。
 顔には疲労の色が濃い。ずっと徹夜をしていたかのような表情だ。かつて企業に勤めていた頃の私を思い出させる。
 あの頃は、仕事仕事で頭の中は一杯だった。家族のために働いているんだ、そういう変な自負があった。だから解雇された時は自分の存在を否定されたように思い、随分と荒れて妻に迷惑を掛けたものだ。
 そして、口では「家族のため」と言っていても家族の大切さに気付かなかった――。
 私は無意識のうちに車を停め、胸ポケットにしまっている写真を取り出していた。
 すっかり黄ばんだ一枚の写真。
 その中には、私と妻の娘であり、哲也の姉でもある少女が麦わら帽子を抱いて明るく笑っていた。
 いつまでも変わらない笑顔。この写真の中では、娘はいつでも笑っていられるのだ。
 裏返すと私の、お世辞にもきれいとは言えない文字が左下に刻まれている。

《綾、七歳の誕生日に公園にて》

「明日は……命日だな」
 小さく呟き、私はそっと写真の中の娘に触れた。
 二十一年前の明日、娘は車に跳ねられて一生を終えた。こんな冷たい雨の降る日に。私がタクシーの運転手になって五年後のことだった。
 その話をすると、皆が一様に聞いてくる。「何故タクシーの運転手を続けようと?」
 何故なのだろう、私にもはっきりとした答えが見付からない。しかし敢えて挙げるとするなら、その時の妻のおかげだった、と言えるかも知れない。
(私はあなたの運転、好きですよ。お客様たちも、そう思ってらっしゃるわ。それに……ほら、これを見て下さいな)
 娘を失ったあとでこの仕事を続けるのはどれだけつらいか、妻は知っていた。しかし、辞めろとも辞めるなとも言わず、そっと三枚の原稿用紙を見せてくれた。
 綾が学校で書いた作文だった。『お父さんのしごと』という題名――。
 それを読んだあとだっただろうか。また運転手を続けようと思ったのは。
「綾、お父さんはまだ頑張っているからね」私は写真に向かって呟いた。
 涙は、もう出ない。代わりにこみ上げてくるのは愛しさだけ。
 その時ふと、哲也にもらった揃いのセーターが脳裏に浮かんできた。
 雪が降る頃、妻と二人でこれを着て旅行に行こうか――そう思いながら振り返ると、先程の男にあやちゃんが飛びついているところだった。そして、うれしそうな女性の笑顔。
 いまだ雨は降り続いているが、きっと彼らは寒さを感じていないだろう。
 ――お幸せに。
 小さく呟くと、私は雨の降る中、赤いテールランプを光らせてタクシーを発車させた。
 家に帰ったら、妻が待っている。私の好物のサンマを焼いて。



 END



《コメント》

 これは涼風涼さん主催の『Creator's Synopsis』の第13回(13年10月度)に投稿した作品を少し手直ししたものです。
 テーマは「氷雨」。原稿用紙10枚程度、という条件でした。
「淡々とした」ものが書きたくなったのでしてみたんですが、どうも淡々としすぎましたね(^_^;)


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