遺された絵画  霜月楓

「何が暗号だ、ふざけるな!」
 白川虎吉が怒気も荒くテーブルを叩く。「何を考えてるんだ先生は!」
「どうして先生はそんな遺言を僕たちに……」
 青葉龍二が書状から庭園に視線を転じて考え込む。
「でも、先生には何かきっとお考えが――」
 広間の隅にいた朱野すずめが、恐る恐る口を挟もうとした。途端、虎吉に睨まれる。
「大体、使用人のお前に何で相続権があるんだ!?」
 その言葉ですずめが俯くと、虎吉の非難を遮るように龍二が声を上げた。
「とにかく、その暗号をもう一度聞いてみましょう――神代さん、お願いします」
「は、はぁ」
 遺言執行者である神代が、汗を拭って遺言書を読み上げる。
 ――彼らの師、武藤玄一郎は高名な画家。遺産は妻と子に相続されたが、彼の作品のひとつである『仮想世界』だけは違った。
『仮想世界』とは夫と妻、そして乳飲み子が寄り添っている構図の絵。
 彼は若い時に前妻と別れている。その頃の作品なのでモデルは自分たちなのではと言われているが、二人の間に子供はいない。
 武藤が絵の相続人に選んだのは、別宅に住み込んでいる弟子の虎吉と龍二、そして使用人のすずめ。しかしその絵を相続するには条件があった。
「――『以上の理由により『仮想世界』を三人の内、暗号を解いた者に相続させる』。そしてこれが、その暗号です」
  神代がテーブルの上に一枚の紙を置いた。そこには漢字が並んでいる。

  『仮想世界故山中暦日哉』

「武藤氏の絵は、私がお預かりして金庫に保管しております。金庫の鍵の在処は、暗号を解いた者しか分からないそうですが」
 神代が言うと、龍二が小さく首を傾げた。
「山中暦日って、俗世を離れて云々の意味だよね……すずめちゃんはどう思う?」
 龍二はすずめに聞いたが、彼女が何か言うより早く虎吉が嘲笑した。
「聞いたって分かる訳ねぇだろ。ほら朱野、さっさと夕飯の支度でもしに行けよ」
「白川さん、そんな言い方――」
 龍二が声を上げたが、すずめは一礼すると障子を開けて部屋を飛び出した。
 使用人である自分を、なぜ武藤は選んだのだろう。すずめは聞いてみたかった。だが、武藤はもういないのだ。どこにも。


 カコーン……カコーン……
 庭園のししおどしが澄んだ音を立てた。縁側に立って目を閉じ、それに聞き入るすずめ。
「どうしたの、眠れない?」
 その声に慌てて振り返ると、龍二が歩いてきていた。思わず赤くなったすずめが慌てて頷く。
「ええ。……あの、青葉さんは絵が手に入ったら、どうするんですか?」
「留学費用にするかな。まだまだ勉強したいからね。すずめちゃんは?」
「分かりません。でもあの絵は、あったかい気持ちにさせてくれるから、手放さないでずっと見ていたいです。……って、もったいないですね」
「すずめちゃんらしいね」
 龍二のその言葉にすずめは再び顔を赤くしたが、それを隠すように築山の方を向いた。
「このお庭、これからどうなってしまうんでしょうか」
 武藤がいつも自ら手入れをしていた庭。人嫌いで有名だった彼の老後の楽しみは、絵を描くことと庭を愛でることだったのかもしれない。
 しかし彼の妻と息子達は、武藤が自分達よりも絵画や庭園に愛情を注いだことを恨んでいた。なので、この屋敷も近いうちに売り払われるのではないかと専らの噂である。
 龍二は俯いてしまったすずめを黙って眺めていたが、不意に表情を引き締めた。
「すずめちゃん、僕――」
「え?」
「……………………いや、」
 振り返ったすずめの表情を見た龍二が、思い直したようにゆっくり首を振る。
「何でもない。――それじゃ、おやすみ、すずめちゃん」
「おやすみなさい」
 ぺこりと頭を下げて龍二を見送ったすずめは、彼が見えなくなるとそっと胸に手を当てた。
(青葉さん……)
 すずめがこの屋敷の使用人になったのは、両親を相次いで亡くして天涯孤独になったからだった。あの頃は悲しみでいっぱいで、いつも泣いて暮らしていた。
 しかしそんなすずめの耳に、武藤家の使用人募集の話が入った。それで藁にも縋る思いで屋敷を訪れた時、はじめに出会ったのが彼だったのだ。
 まだ使用人に採用されるかどうかも分からない彼女に龍二は優しく微笑み、「頑張ってね」と言ってくれた。それがどれだけすずめに力を与えてくれたことだろう。
 おかげですずめは無事に採用され、今までこの屋敷に住み込みで働くことが出来た。
 武藤は亡くなったが、安い賃金で真面目に働くすずめを、武藤の家族は自分達の屋敷で引き続き雇うことに決めている。今までより遥かにつらくなるが、放り出されないだけ自分には幸せなことだった。今追い出されたら、すずめには行き場がなくなってしまうのだから。
 しかし、武藤の弟子の龍二はこの屋敷を出ていくことになる。もう会えなくなってしまうかもしれない。それがすずめには悲しかった。
 つらいことがあっても彼の笑顔を思い浮かべれば、すずめはいつも心が落ち着いた。彼が話し掛けてくれれば、それだけで心踊り、頬が紅潮した。しかし、自分はこの屋敷の使用人。想いを告げることなどはとても――。
「先生……先生も、こんな想いをしたことがあったんでしょうか……」
 武藤に語り掛けるように小さく呟き、すずめは縁側にそっと腰を下ろした。武藤がいつも座っていた場所にそっと触れ、再び目を閉じる。
 武藤が生きていたら、彼は何と答えただろうか。それとも、答えなかっただろうか。
「先生ともっと色々お話、したかったです……」
 使用人が主人と親しくするなど言語道断、と虎吉や武藤の妻、そして子供達はいつも言っていた。立場を弁えろ、と。そして彼らはすずめをのけ者にし、馬鹿にしてきた。
 しかし武藤は、すずめに優しくはなかったが厳しくもなかった。機嫌が良い時には、この縁側で短いながらも会話を交わしたことがある。

『この庭、どう思うかね?』

 すずめの煎れた茶を飲みながら、武藤は庭を眺めて嬉しそうに目を細めていた。
『この庭はわしの自慢だ。あの築山はわしが拵えたのだが、なかなかのものだろう?』
 どこか懐かしそうに、そして淋しそうに目を細め、彼は微笑んでいた。
『だが、なかなか理解してもらえんでな。いつも一人で手入れをしているのだよ』
 この庭は彼が愛したもの。彼が作ったもの。彼が一人で――。
「……あ」
 不意にあることが頭にひらめき、思わず声を上げるとすずめは庭の方に視線を転じた。
「分かった!」
 すずめの小さな声は、夜風に包まれて消えた。


「暗号が解けたぁ? おいおい、冗談だろ?」
 朝日の射し込む広間で、虎吉が煙草をくわえて唸る。「俺が一晩考えても分からなかったんだぞ」
 しかしすずめはポケットから銀色のものを取り出した――鍵だ。
「! それは金庫の鍵か!? お前、どうやって暗号を!?」
「あの暗号は、言葉の意味を考える必要なんてなかったんです。――見て下さい」
 言うと、すずめは『仮想世界故山中暦日哉』の紙をテーブルに広げた。
「この中には、のけ者が二つあるんです。分かりますか?」
「のけ者?」
 きょとんとして龍二が言い、虎吉と顔を見合わせた。神代は興味深そうに眺めている。
「ほら、見て下さい。『仮』と『山』の字だけに、四角がないでしょう?」
「四角? ……ああ、『何』とか『品』とかに含まれてるもの?」
 龍二には分かったらしい。虎吉はまだ首を傾げているが。
「だから、先生が残した暗号の答えは『仮山』だったんですよ」
「かざん?」
 余計混乱した虎吉が両手を上げる。
「おいおい、推理ごっこはやめようや。何が何だかさっぱりだ。仮山って何なんだよ?」
「築山のことです。つまり、庭園に土石を重ねて作った小山。そこに鍵がありました」
 すずめがそう言うと、神代がやれやれ肩の荷が下りた、というように破顔した。
「それでは、『仮想世界』は朱野さんが相続人で決まりですな」
「おめでとう、すずめちゃん」
 龍二が笑顔になり、そして虎吉がふん、と鼻を鳴らして顔を背ける。その表情は、すずめからは窺うことができなかった。


 数日後。
「じゃあね、すずめちゃん」
 その声にすずめが顔を上げると、身支度をした龍二が立っていた。
「白川さんは、さっき出ていったよ。すずめちゃんに『頑張りな』って。自分で言えばいいのにね」
 素直じゃないんだから、と龍二が苦笑する。すずめはそれに微笑んでから口を開いた。
「青葉さんは、これからどうするんですか?」
「僕は、お金を貯めて留学するよ。やっぱり画家になる夢は捨てたくないから」
 それですずめが口を開きかけると、彼は慌てて言葉を続けた。
「もし僕がもらったとしても、絵は売れなかったよ。そりゃ、悔しくないと言ったら嘘になるけど……やっぱり君が持つのが一番だ。だって、先生の思いが詰まってるんだからね。あの絵は、一番相応しい人に渡ったんだと思うよ」
「……?」
 龍二の言葉の意味を計りかねてすずめが口籠ると、龍二は微笑んだ。
「僕も、これから頑張って絵を描き続けるよ。先生のように、人に感動してもらえるような絵が描けるように。そして、いつか」
 ゆっくりと、龍二が目を細める。
「自分の絵に自信を持つことが出来たら、すずめちゃんに会いに来ていいかな?」
「はい。………………え?」
 咄嗟に頷いたすずめだったが、龍二の真剣な表情にきょとんとし、それからその意味に気付くと信じられない、というように瞬きをした。
「いつも、すずめちゃんの笑顔を見ているのが好きだったんだ。それだけで、僕も元気になれたから。だから――」
「青葉さん……」
 頬が紅潮し、すずめが俯く。
「先生も、きっとそうだったと思うよ。あの人嫌いの先生が、君と一緒にいる時にはいつも嬉しそうだった。先生の笑顔なんて、君が来るまで僕は見たことなかったから」
「先生は……厳しいけれど、暖かい方でした。縁側に座ってお茶を飲みながら庭を眺めている横顔がとても優しくて……そんな先生を見ているのが私、好きだったんです。私まで幸せな気持ちになれたから」
 その言葉に龍二が目を細めて微笑んだ。
「そんな君の優しさが、先生の心を癒したんだよ。君が来てから、先生は本当に幸せそうだった。最初は、君に面影を見い出していただけだったかもしれないけど――」
「……え?」
 きょとんとして聞き返したすずめの顔を、龍二は覗き込んだ。
「君のおばあさんの名前って、『鳳子』さん?」
「え? ……何でご存じなんですか?」
「すずめちゃんが鍵を見つけた日の朝、僕は先生の写真を見つけたんだよ」
「写真?」
「そう。先生と、前の奥さんの写真」
 龍二がポケットから古びた写真を取り出す。
 そこに写っているのは若かりし日の武藤と、すずめによく似た面差しの女性。
 裏には、色あせた文字が刻まれていた。

  『十二月八日 妻の鳳子と』
  
「あの絵は先生と鳳子さんと、君のお父さんかお母さんを描いたものじゃないかな? もし離婚せずにいたら、ああいう家庭を築けたんじゃないか、って……」
「……」
 すずめの祖母は、武藤と離婚した時に子供を身籠っていた。
 しかしそれを武藤に告げることのないまま、時代にも負けず娘を立派に育て上げた。そして一年前、長い生涯を閉じたのだ。
 祖母の遺品を整理した時、すずめは写真を見つけた。武藤の受賞式、対談――雑誌や新聞の切り抜きが大量に。
「どうして名乗らなかったの?」
 龍二が尋ねたが、すずめはそれには答えず彼の手の中にある写真を見下ろした。
「祖母は母にいつも言っていたそうです。『お前は愛されて生まれたんだよ』って。だから私――」
 だから、ここの使用人になった。会いたかったから。祖母が愛した人を、祖母を愛した人を――。
「先生も、気付いてたんだと思うよ、君が孫だってこと。そして、鳳子さんのことをまだ愛していた」
 言い、龍二が写真をそっと差し出す。
「おじいさんが大切にしていた形見だ。君が持ってるのが一番いい」
「はい……ありがとうございます」
 言い、すずめが祖父と祖母の写真を受け取る。
 写真の中の二人は寄り添い、とても幸せそうに微笑んでいた。



 END



《コメント》

 これは涼風涼さん主催の『Creator's Synopsis』の第7回(13年4月度)に投稿した作品です。
 テーマは「仮想世界」。
 もう1つの「ある冒険者の受難」と全然違う作品が出来ました〜(笑)


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