行雲流水・第一話『晴雲秋月』  霜月楓

 久方ぶりに降った雨は、朝餉時に激しさを増した。
「今日はあまりお客さん、入りませんねぇ。嫌だなぁ雨って」
 台所から店を眺めつつ、困ったように茜がこぼす。
 すると、この一膳飯屋『山吹屋』の主である蔵吉が、角張った浅黒い肌に苦笑を浮かばせた。
「たまにはお天道様も休みたいんだろうさ。それに、雨が降らないと田畑も干上がっちまうからなぁ」
「でも、いつも曇ってるから今年こそはお月見できるって思ってたのに」
 残念だなぁ、と不満げな茜。生けてあるすすきに目を遣り、小さく溜息などついている。
 今日は中秋。毎年この日は天気に恵まれなかったので、今年こそ晴れてほしいのだろう。
「心配しなくても、きっと昼には上がるだろうよ。ほら茜、ぼうっとしてないで、さっさとこれを辰さんのところに運びな」
 蔵吉は昨年五十の声を聞いたが、まだまだ足腰もしっかりしており、料理から算盤勘定まで何でも手際よくこなす。元々は、とある料理屋で働いていたというその腕前はかなりのもので、遠くからわざわざ足を運ぶ客も多い。
 そして茜はこの山吹屋で三年前から住み込みで働き始め、年が明ければ十六になる。色白で器量好しだと評判だが、本人はどうやらそういう自覚がないらしい。
 跳ねっ返りで、近所の子供たちと神社の境内で遊んで着物を泥だらけにし、宮司に大目玉を食らうことなど日常茶飯事だ。
 しかしそれはそれ、山吹屋での仕事はきちんとこなす。お運びや洗い物、掃除、洗濯――最近では、料理の腕を磨いてもいるらしい。これは将来なかなかのものになるぞ、と味にはうるさい蔵吉でさえ唸ったほどだ。
「はぁい」
 何で晴れるって分かるんだろう、と呟きながら茜がたすきを掛け直して椀を受け取っていると、蔵吉の一粒種であり、ここの看板娘である桔梗が盆を手に戻ってきた。
 年が明ければ十八。縁談話がひきもきらない、おっとりとした美人である。
 その桔梗が盆の上に乗っていた椀におひつの中の飯を盛り始めたのを見て、茜が呆れたように溜息をつく。
「もう兄さんお代わりしてるの? ほんと、よく食べるんだからなぁ」
 痩せの大食いってああいう人のことを言うのね、と肩を竦めると、桔梗はくすくす笑った。
「でも蒼真そうまさんの食べっぷりは、見ていて気持ちいいわよ。美味しそうに、きちんと残さず食べてくれるしね。そういうのって、作る方からしてみたら、すごく嬉しいでしょう?」
「兄さんの場合は、ただ単に食い意地張ってるだけなんじゃあ……」
 蒼真はこの山吹屋の常連である。『常連』とはいっても『客』であることは少ないのだが。
 茜が働き始めてからというもの、何だかんだと理由をつけてはここに顔を出しているのだ。やれ物騒な輩が歩き回っているらしいから注意しろだの、困ったことはないかだのと。
 しかし、今日は珍しく『客』であるらしい。
「そんなこと言っちゃ駄目でしょ。蒼真さんが来て下さってるから、うちには面倒事が起きないのよ」
「兄さんが睨みをきかせたからって、やくざ連中が怯むとも思えないけど」
「まぁ、茜ちゃんったら」
 くすくすと再び桔梗が笑った、そのとき。

「てぇへんだてぇへんだぁっっ!」


 ――突然、山吹屋に転がり込むように若い男が現れた。
 彼の名は美濃吉。蒼真の下で働いている。お調子者だが与えられた仕事はきっちりこなすし、持って生まれた明るい性格のため、町娘たちから人気があるとかないとか。
「ほら、兄さんがいるのに早速美濃さんが面倒事を抱えて来たみたいよ?」
 苦笑しつつ桔梗にそう言い、茜は蔵吉に渡された椀を盆に載せた。そして湯呑みに一杯水を汲んで店の方へ出る。
 美濃吉は入口の方でぜいぜいと息を切らして立っていた。
「どうしたの美濃さん。そんな慌てた声出すなんて――はい、お水」
 常連客の辰五郎のところに温かい椀を出して代わりに空の椀を下げ、それから美濃吉に湯呑みを差し出す。
「おお、こりゃすまねぇ茜さん」
 たちまち破顔し、美濃吉はごくごくと喉を鳴らして一気に水を飲み干した。
 そしてその様を、店の奥の席で漬け物をぽりぽりと食べていた若い岡っ引き――蒼真が呆れたように見遣る。
「何やってんだ美濃。朝はゆったり構えてないと、その日一日慌ただしくなるんだぞ」
「いや蒼真の旦那、そうは言ってもですね――おや、何だか旨そうなものを食べてらっしゃる」
 慌てて蒼真のところに駆けていった美濃吉だったが、蒼真の前に置かれている味噌汁の椀に視線を落として破顔した。
「これは大根葉ですね。なかなか旨そうだ」
「ああ。茜が作ったものだが、なかなかのものだぞ。まぁ、蔵吉さんの作ったものに比べるとまだまだだがな」
 それを聞いた途端、茜目当てで来ていた周りの男性客たちが殺意の炎を燃え上がらせた。蒼真が茜の身内で、尚且つ岡っ引きでなければ、文句のひとつも言っていたに違いない。
 しかしそれを知ってか知らずか、蒼真はあっけらかんとした様子でけらけら笑い、ぷぅとむくれた茜の額を軽く小突いた。
「おー、一丁前に拗ねてんのか? よっぽどの自信作だったようだなぁ?」
「旦那、そんなこと言っちゃいけませんよ。あっしは茜さんの料理、そんじょそこらの奴に負けないくらい旨いと思ってるんですから!」
 美濃吉が慌てて声を上げる。
 そんな三人の様子を、飯を盛ってやって来た桔梗が楽しそうに笑って眺めていた。
 蒼真も茜の料理の腕は認めているのだ。そして、旨いとも思っている――ただ単に、彼は茜をからかって遊ぶのが好きなだけなのだ。
 それが分かっていないのは美濃吉と、言われた当人の茜くらいだろう。
 それから美濃吉は、如何に茜の料理が旨いかを延々と述べたあとで「ってことで、茜さん、あっしにも汁を」と、ちゃっかり腰掛けに座り込んでしまった。
「はいはい。全く、調子いいんだから美濃さんは。……ところで、何か一大事で来たんじゃなかったの?」
 茜がふと気付いて問い掛ける――彼のことだから大方、『どこそこの屋台が旨い』だの『あのおたなの奉公人は別嬪だ』だの言い出すに違いない、と思っていたのだが、その途端、ぽん、と美濃吉が手を打った。
「そうでしたそうでした! すっかり忘れてました!」
 そして、秋刀魚の頭にかぶりついている蒼真に食らいつくように身を乗り出す。
「大変ですよ旦那、神隠しですよ神隠し! 糸屋のお嬢さんがいなくなっちまったんです!」



 糸屋というのはこの辺りに古くからある呉服問屋で、御上に献上する上物も扱う大店おおだなである。
 美濃吉の話によると、その糸屋の一人娘、お松が今朝方いなくなったというのだ。
 それに気付いたのは母親のお絹。
 店を開けてすぐは行商人やら何やらが訪れるため糸屋夫婦はてんてこ舞いしているが、昼近くにひとまず峠を越える。その頃になってようやく、お絹はお松の姿が見えないことに気付いたのだ。
 奉公人たちに聞いたが、誰もお松を見掛けた者がいない。
 お松の部屋には彼女のために女中が用意していた朝餉があったのだが、手つかずのまま冷えてしまっている。
 聞くと、その女中は『お嬢さんの姿がなかったのですが、はばかりに行っているものとばかり』と答えたという。つまり、お松はかなり早い時間からいなくなっていたのだ。
 まだ七つと幼いため、お松が朝も早くから何処かに急用があったとも思えない。
 それで事の異変に気付き、お絹は慌てて店中を探し回った。そして店の付近一帯にまで手を広げて探し回っていたところを、通り掛かった美濃吉に出くわし――彼が慌てて山吹屋へすっ飛んできた。そういう次第である。
 この時間帯なら蒼真はここにいるだろうと踏んだ美濃吉の勘は冴えていたようだ。



「ってことは、お二人はお松がいなくなって暫く、何も知らずに商売していたということですか?」
 座敷に通され、しかつめらしい顔つきで蒼真は糸屋夫婦を見回した。
 四十路にはまだまだ遠い糸屋が「すいません」と頭を下げる。そして彼よりも十近く歳が下のお絹は今にも倒れるのではないかと思うほど顔の色を失っていた。
「私共は、朝が早いものですからあの子を起こしてはいけないと、寝所も別にしておりました。あの子は年の割にしっかりしていて、自分の身支度はもうできますし、商売の邪魔をするようなことも一切ありません。いつも一人で人形遊びをしたりして――それで私共も安心しきっておりました。まさか……まさかこのようなことになるなんて……」
 わっ、と顔を覆ったお絹の背を糸屋の主、萬次郎は労るように撫でさすっていたが、困ったような顔を蒼真に向けた。
「それで旦那、お松は私らの元に戻ってこられるんでしょうか?」
「安請け合いはできませんが、朝早く幼子が通りを歩いていれば嫌でも目立つ。調べに出ますから、気をしっかり持って下さい」
「は……はい、よろしくお願いします」
 深々と頭を下げる糸屋に軽く頷き、蒼真は湯呑みの底に残った茶を飲み干して立ち上がった。そして障子を開け、渡り廊下に出る。
(さて、どうするかな)
 思案していた蒼真がふと顔を上げると、古ぼけた着物を着た女中が雑巾を手に、何か言いたげに自分を見ていることに気付いた。十二、三のまだ幼さの残る顔立ちだ。
 が、蒼真に続いて座敷から糸屋がお絹の肩を抱いて出てきたので、彼女は慌てて廊下の雑巾掛けを始めた。
 これは何かあるな、と踏んだ蒼真がその場に足を止め、糸屋を振り返る。
「それじゃ、忙しい時分にお邪魔しました」
「いえとんでもない、よろしくお願いします旦那。……では松のこと、よろしくお願い致します」
 蒼真が頷き、糸屋夫婦が力なく歩いていくのを何やら思索顔で見送る。しかし、糸屋が見えなくなると軽く息をついてから振り返った。
 そこでは先ほどの女中が、蒼真と同じように主の方を眺めていた。が、やがて立ち上がって恐る恐る蒼真に歩み寄ってくる。
「よぉ。何か俺に話があるようだな。お前さんは?」
「あ、あの。私はここで働いている杉といいます。お松お嬢さんとは歳が近いこともあって、時々お話をしていました」
 蒼真は軽く頷いてお杉を見遣った。そしてわずかな間考えていたが、やがて尋ねる。
「本題に入る前にひとつ聞きたいんだが、お前さんから見てお嬢さんはどんな子だったんだ? 誰にも言わないから正直に聞かせてくれ」
「え? あ、はい……」
 そこでちらりとお杉は周りの様子を窺った。そして、誰も自分たちに注目していないと分かると、意を決したかのようにこくんと頷く。
「お嬢さんは、あの歳にしてはしっかりした方です。おかみさんたちが働いているときに邪魔をしないように、お部屋で人形遊びなどしたり、自分から硯と紙を持ってきて文字を書く練習をしたり。でも、時々――本当に時々なんですが、人形遊びをしているお嬢さんを見た私には、人形が人形を抱いているように見えることがあって――」
「どういうことだ?」
「笑わないんです。いえ、笑わないだけじゃありません。まだ幼くて、誰かに甘えたいはずなのに、泣きもしなければ怒りもしません。能面のような顔で、黙って人形を抱いているんです。そんなとき、お嬢さんがどうしようもなく怖くなってしまって……」
 そこまで言うと、ぶるりとお杉は身を震わせた。
「昔からそうなのか? お前さんはいつから糸屋さんで働いて?」
 蒼真の言葉に、お杉は少しきょとんとしたようだった。それから、どうやら彼が勘違いしているようだと気付いて両手を振る。
「昔のことは存じません。それから、私がこちらにお世話になっているのは二年前からです」
「?」
 蒼真はお杉の言葉に違和感を感じて首を捻った。
「すると……お前さんが勤め始めてからこっち、お松はずっと人形のような様子だったってことか? だが、お前さんとは話をしたりしてたんだろう?」
「いえ、話をしたとはいっても数えるほどしかないんです。それも、私が挨拶がてら少しお話をさせて頂いているだけですから。でも昨日は、お嬢さんの方から話し掛けてきたんです。もうびっくりしてしまって」
「……何が何だか分からなくなってきたな。まぁ追々聞くとして、昨日お松はお前さんに何を言ってきたんだ?」
「どこかに、すすきがたくさんある場所を知らないか――と。それで私がお教えすると、このことは内緒だから誰にも言わないでね、とおっしゃったんです。だから私、今まで――」
「…………ちょっと待て。どういうことだそれは?」



「はい、兄さん」
 考え込みながら昼餉をとっている蒼真の前に、茜は味噌汁の椀を置いた。
 ああ、とか何とか上の空のままで言い、それをすすった蒼真は、ふと眉をひそめた。
「おいおい、これからまた仕事だってのに忘れっぽくなったらどうするんだ」
 味噌汁の中には三つ葉が散らしてあり、その下には千切りにした茗荷が浮かんでいる。
「何言ってんの」
 茗荷はほのかに苦みがあるが、千切りにすれば何が何だか分からなくなる。それだけに、少し驚いた茜だった。
 が、食い意地の張った蒼真のことだから案外すぐに分かったのだろう、と思い直して腰に手を当てる。
「兄さんが行き詰まりそうだから、ちょっとした手助けしようと思って作ったのよ。『冥加』をしっかり食べてお仕事頑張ってもらわなきゃ。あー私って何て兄想いの妹なのかしら」
「いきなり神頼みかよ。それに、自分で言ってりゃ世話ねぇや」
「いいじゃない事実なんだから。――で、要するにそのお松ちゃんは糸屋の大切な一人娘だけど、糸屋萬次郎さんの娘じゃないってことなのね」
 事実か? と半眼でぼそりと呟いてから蒼真が頷き、美濃吉が山吹屋の暖簾をくぐって来たのを見てから茜に視線を戻す。
「ああ、どうやらそうらしい。お絹には元は傘張りの与一という亭主がいたそうなんだが、それが三年前のあの流行り病であっけなく逝っちまったんだと」
「……」
 茜がそれを聞いて押し黙ると、ちらりとその顔を一瞥してから蒼真は言葉を続けた。
「亭主が死んで暮らしに困ったお絹は糸屋の通いの女中として働き始めたらしい。で、そのとき主人である萬次郎に見初められてな。去年の冬、めでたく糸屋のおかみになったんだそうだ」
「まぁ。だったらさぞお松ちゃんは大変だったでしょうね」
 と、二人の話を聞き付けた桔梗が茶を入れた湯呑みを蒼真の前に置き、頬に手を当てた。
「糸屋といえば知らない人がいないくらいの大店おおだなよ。それまで母子二人で暮らしていたのに、突然そんなところのお嬢さまになるなんて――」
「嬉しくないんですか? 綺麗な着物が着られるから、嬉しいもんだと思ってましたが」
 不思議そうに蒼真が首を捻ると、桔梗は困ったように小さく笑った。
「そりゃ、食べるものに困らず綺麗な着物が着られるっていうのは嬉しいんでしょうけど……」
 綺麗な眉をひそめて桔梗が「ねぇ」と茜と顔を見合わせる。
 そして桔梗が蔵吉に呼ばれて戻っていくと、蒼真は湯飲みの茶を一口飲んで唸った。
「俺は神隠しなんぞ信じちゃいねぇ。かどわかしにしては、相手が何も言ってこねぇのが腑に落ちない。だとすると、お松が一人で出掛けた、と考える他ねぇ。行き先は、お杉の言う『すすきの原』に違いないんだろうが……」
 行ってみたがいなかった、と呟くと、蒼真は何やら考え込んでいる茜に目を遣り、その視線を美濃吉に転じた。それを受け、美濃吉が頷く。
「あっしも糸屋さんから華之湯に帰る途中で、また『すすきの原』にも行ってみましたが、やっぱりいないようですね」
 蒼真は糸屋に行った後、昼餉をとるために山吹屋に帰ってきたのだろう。一方の美濃吉は、住み込んでいる湯屋『華之湯』に一度戻ってからここに来たらしい。
「すすきは今晩の月見で使うためのものだったんだろう? 何で、皆に内緒にする必要がある。そこからして、まず分からねぇ。まだお松は七つだ。そんな小さな子がわざわざひとりで出掛けなくても……どうしても自分でとりに行きたかったとしても、頼めば奉公人の誰かが供としてついて行ってくれただろうに」
「父親の墓参り、かもね」
 考え抜いた末に出した茜のその言葉に、蒼真は怪訝そうに首を傾げた。
「墓参り?」
 何でだ? と問い掛けた蒼真に、茜は困ったような笑みをみせた。
「母親にも内緒で出掛けるんだから、前の父親に関係することだと思うのよね。すすきって、人を呼ぶためにそよぐっていうじゃない? きっと――」
 言いながら、茜は首を捻って外を眺めた。いつの間にか、あれほど降っていた雨も上がっている。蔵吉の言った通りだ。
「――今日が、父親の命日なのよ。ほら、あの流行り病は丁度今くらいにあちこちに広まったじゃない?」
 その茜の言葉に、蒼真は少々気まずそうに「……ああ」と頷いた。
 二人の両親が死んだのも、三年前の丁度今頃だ。
「だからお松ちゃん、すすきをとりに行ったんじゃないかな。月見とは関係なくね。そんな訳で、糸屋の誰にも言えなかったんじゃないかしら」
 母親にもね――と小さく付け加える。
 茜の言葉に蒼真は顔を輝かせてぽんと手を打った。
「なるほどな。お松が朝早く、こっそり店を出たんだとしたら――――――美濃!」
「へい!」
「もう一度、糸屋に行くぞ。お絹に、与一の墓の場所を聞くんだ。いくら七つの子供とはいえ、朝早く出て昼の今まで戻ってこないとなりゃ、どこかで迷子になっているかもしれん」
「分かりやした!」
 美濃吉が深々と頷き、蒼真が「じゃ、ごちそうさま」と、台所から顔を出した桔梗に言っていると、突然茜が声を上げた。
「私も行く!」
 途端、蒼真は鳩が豆鉄砲を食らったような顔をして振り返った。
「……茜、今何て言った?」
「一緒に行く、って言ったの。聞こえなかった?」
「いや、聞こえたが……お前が行って何になる? 俺たちだけで充分だろう。第一、お前には仕事があるだろうが」
「そりゃ、そうだけど……」
 しゅんとしおれた茜。と、そのとき、蔵吉が台所からひょいと顔を出して風呂敷包みを掲げてみせた。
「おぅ茜、出掛けるんならついでにこれを、桝屋の八助さんのところに返しに行ってくれ。長々借りててあいすいません、と、ちゃんと言うんだぞ」
「……」
 茜が先ほどの蒼真のようにきょとんと瞬きをし、桔梗と美濃吉がにっこり微笑む。そして蒼真が深々と溜息をついた。
「何だってみんな茜に甘いかねぇ」
 旦那がその筆頭でしょう、と突っ込んだ美濃吉は、途端に蒼真の拳骨を頂戴した。



 そしてお松は、父親の眠る墓のすぐ近くにある大きな銀杏の下で、ぐっすり眠り込んでいるところを蒼真に発見された。
 盛り上がった土のうちのひとつには、雨に打たれたすすきが供えられていた。
 朝早く来て、すぐ店に戻るつもりだったのだろう。しかし、突然の雨を避けるため銀杏の木の下で雨宿りをして――幼子の足でここまで来たのだ、そのまま疲れ果てて眠り込んだのではないか。
大店おおだなの娘にも、それなりに悩みがあるんだなぁ」
 お松を背負い、ぼんやりと呟いた蒼真に、彼の後ろを歩いていた茜は小さく笑った。
「そうね。大店おおだなの娘ってことは、いつも誰かが自分の傍にいるってことでしょう? そして、糸屋のおかみになった母親は忙しくて構ってあげられなくなる――子供にとっては、ものすごくつらいことだよね」
 言いながら、茜は前方に目をやった。夕暮れに染まる大店おおだな、糸屋が遠くに見えている。
 美濃吉は「お邪魔虫は糸屋さんに知らせる役を引き受けますよー」などと言い、今回はついて来なかった。
「きっと、お松ちゃんは糸屋さんのこと、まだ父親として認めたくないんじゃないかな。自分の父親は、死んだ与一さんだけなんだ、って。だから、すすきを供えたんだと思うの。父親に会いたくて」
「……」
「これは私の想像なんだけど――」
 茜は空を見上げた。秋茜が数匹、すいすいと夕焼け空を飛んでいる。
 ――自分が拾われたのはこれくらいの時分だった。だから『茜』と名付けられたのだ。
 彼女は、蒼真の実の妹ではない。
 六年前、この辺りで大火が起きた。そして、多くの犠牲者が出た。彼女の両親もそうだった――のだろう。
 彼女は炎の中で泣き叫んでいるところを蒼真に助けられた。岡っ引きの徳治の下で住み込みの下っ引きとして働いていた蒼真は、大火の中逃げ惑う者たちを誘導していたのだが、そのとき女の子の泣き声を聞いたのだ。
 そして彼女は町役人に届けられた。しかし、やはり家族は焼け死んだらしく名乗り出て来ず、引き取りたいという者もいなかったので、彼女は蒼真の両親が引き取った。
 蒼真の両親はその少し前に、彼女と同じ年頃の娘を亡くしていた。だから、娘が還ってきたと大喜びしていた。
 ……彼女がそれまでのことを何一つ、自分の名前すら覚えていないと知るまでは。
 二人は驚き悲しみ、そして、死んだ娘と同じ『おせん』と名付けようとした。
 しかしそれは「この子はお栴の身替わりなんかじゃない」と蒼真に止められ、結局彼が『茜』と付けたのだった。
 そして茜はそれから三年前の流行り病で両親が死ぬまで、二人の娘として、蒼真の妹として、大切に育てられたのだ。
「糸屋さん、大店おおだなだけあっていつも忙しいでしょ? お松ちゃんと遊んであげることができなかったんじゃないかな。お絹さんもそう」
「確かに、糸屋は忙しそうにしてたな。娘がいなくなったのに、と意外に思ったよ。お杉に話を聞くまではな」
 綺麗な着物を着せて美味しいものを食べさせても、それが幸せとは限らない――なるほど、桔梗さんが言いたかったのはこれか、と蒼真が呟くと茜は首を振った。
「でも、二人はお松ちゃんを蔑ろにしてた訳じゃないと思うの。ただ忙しかっただけなのよ」
「忙しい、を理由にしちゃいけないだろ。娘はまだ七つなんだぞ。そんな大人の道理が分かるもんか。頭では、そりゃ理解してたかもしれないが、心は納得しなかっただろうよ」
「……そうね」
「だからお松はそんな二人に遠慮してたってことか? 父親の墓参りに行くことを。母親だって、自分の元亭主のこと忘れたはずねぇのによ」
 茜は淋しげに笑った。
「お松ちゃん、年の割に聡い子だって言ってたでしょ? 言い出せなかったんじゃないかな」
「…………」
 蒼真はその言葉を聞くとふと口ごもり、それから義妹を見下ろした。
「お前は? お前も、やっぱり俺に遠慮して何か隠してたりするのか?」
 実の兄ではないんだから――と続いたその言葉に、茜は一瞬口ごもり……それから笑顔を作って言い返した。
「この私が、兄さんに何か遠慮してるように見える?」
「……」
 黙って蒼真が見下ろすと、「そりゃあ――」と言いながら茜は足元の小石を軽く蹴った。
「火事の前のこと、思い出せたらいいなとは思うけどね。でも、私は桔梗さんや蔵吉さんたちと山吹屋で働けて、兄さんの妹でいられる――今のままで充分だよ」
「……」
 照れたらしく、蒼真が茜から顔を背ける。
 と、そのときぴくり、と蒼真の背のお松が身じろぎした。
「……迷惑掛けてごめんなさい」
 かすれたようなその声に茜が見上げると、お松がいつの間にか目を覚ましていて、蒼真の着物をぎゅっと掴んでいた。
「迷惑だなんてことないよ。私、届けものの途中だったもの。そのついでって言ったら、お松ちゃんに悪いけど」
 茜が口実の風呂敷包みをぶらぶら揺らしてみせると、お松は無表情のままの顔を蒼真の背に押し当てた。
「お義父さんは、いつも忙しそうにしてた。お松には、他の奉公人の人たちと一緒に見えたの。父親だなんて、思えなかった」
 そう、と頷いた茜。蒼真は黙ったまま、歩みを更に緩めた。
「おっかあも、いつも忙しくしてて……だからおっとうに会いたかったの」
「淋しかったのね」
「おっかあは、今日がおっとうの死んだ日だってきっと忘れてる。いつも忙しそうにしてるから。だから、お松だけで行こうと思ったの」
 そこで、それまで黙っていた蒼真が口を開いた。
「だがな、お松。お前の本当の父親はもうこの世にはいないんだぞ。お前の父親は、これから先ずっと――」
 そこで蒼真はほら、と顎をしゃくって前方を示した。
 糸屋の前に、主である糸屋萬次郎とお絹が立ってそわそわと歩き回っている。
 その隣に美濃吉がいるが、やはり目がいい彼のこと、早速気付いたらしい。何やらこちらを指差して糸屋に告げている。
「あの糸屋さんだろう? ちゃんとお前を気に掛けてる、いい人じゃねぇか」
「……」
「お前の気持ちは分かる。俺たちだって、あの流行り病におっとうもおっかあも、とられちまったんだからな」
「……お兄ちゃんたちも?」
「ああ」
 軽くお松の身体を揺すり、蒼真は糸屋の方を見遣った。
「きっと、おっとうもおっかあも、お前の気持ちに気付いてくれたと思うぞ。だから、これからは遠慮しないで泣きたいときは泣け。笑いたいときは笑え。文句があるときは喚け。お前はまだ子供なんだから、それくらいのわがままは許されるんだぞ」
 途端、ぶわっとお松の瞳から涙が溢れ出した。
 涙は止まることなく、三人に気付いた糸屋とお絹が転がるように駆けてきても尚、溢れ続けた。



「綺麗に見えるね、お月様」
 中秋の名月を見上げながら、茜が山吹屋の縁側で足をぶらぶらさせる。その声は弾んでいる。かなり上機嫌らしい。
「本当ね。こんな綺麗な月が見えたのって、随分久し振りじゃないかしら」
 すすきを挿した一輪挿しを縁側に置いて、桔梗が小さく笑った。
「お松ちゃんも、今頃空を見てるんだろうなぁ」
 茜のその言葉に、蔵吉が作ってくれた団子を摘んでいた蒼真が「ああ」と小さく頷く。
「もう、大丈夫だろ」
「……そうだね」
 小さく笑った茜の頭にぽん、と蒼真が手を載せた。「さ、食え食え。蔵吉さんの団子は天下一品だぞ」
「はぁい」
 蒼真に差し出された三方の団子を手に取って口に入れる。
「ほんと、美味しい!」
 笑うと、奥で皿洗いをしていた蔵吉がくしゃみをした。
 いつもと変わらないそんな山吹屋の面々を、満月は静かに照らしていた。


 終



《コメント》

はいっ。新シリーズ登場ですぅっ!
今回の主人公は乱暴者ではないのですー♪(←うれしいらしい。)
これは、02.01.05にGalleryで描いた『捕物帳』と02.10.01に描いた『錦上添花』を見て書いたものです。
そして後日譚。手間を掛けたお礼にと、糸屋は着物を一反蒼真にくれました。それは茜の手に渡り――『錦上添花』のように、茜はそれをかぶって遊ぶのです(笑)
ちなみに「晴雲秋月」とは「晴れた空の雲と秋の月。胸中の清らかに澄みとおること」の意味で、「せいうんしゅうげつ」と読みます。
このシリーズ、あまり「事件」とかいうのではなく「ささやかな日常」のような感じで書いていけたらなぁと思ってます。
第二話をお楽しみに♪


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