行雲流水・第二話『光風霽月』  霜月楓

「仏像が泣くなんてこと、あると思いますか?」
 間もなく神無月も半ばになろうかという少々肌寒いある日。
 美濃吉は豆飯を食べていた箸を休め、片付け途中の少女に顔を向けてからそう問い掛けた。
 彼女の名は茜。この一膳飯屋『山吹屋』に住み込みで働いている少女である。常連の阿仁さんたちに絶大なる人気があるが、本人は全くその自覚がないようだ。
 そして美濃吉は岡っ引きの蒼真そうまの下で働いている。お調子者だが顔が広く頭の回転も速いので、結構役に立っているとかそうでないとか。
 山吹屋には他に、主である蔵吉とその一人娘の桔梗がいるのだが、桔梗は出掛けていておらず、蔵吉は台所で新しい日替わりの献立を考えている。
 今は昼飯時を外した頃合い。先ほど常連の辰五郎が帰ったばかりで、今いる客は、珍しく美濃吉だけだった。
 なので、茜は美濃吉に問い掛けられると足を止め、きょとんとして首を傾げた。
「仏像が……泣く?」
 質問も唐突だったが、その問いの内容もまた突飛なもの。
 茜は小首を傾げて天井を見上げると「うーん」と小さく唸った。
「お話とかではよく聞くけど、実際に見たって人の話は聞かないなぁ……でも美濃さん、どうしてまたいきなりそんな話を?」
 茜が聞くと、美濃吉はえへへ、と頭を掻きながら照れたように笑った。それだけで、話の出所は見当が付きそうなものだ。
「あっしの知り合いに、おこうって人がいるんです。『来渦屋』って海産物問屋のお内儀なんですが――後添いなんですけどね、儚げだけどしっかりしてて、すごく綺麗な女性なんですよ。つい先だっても、あっしが歩いていたら――」
 美濃吉の最たる悪癖は、話がよく脱線すること、だろうか。
 茜が小さく溜息をついているうちに、話はいつの間にやらずれにずれまくって藪入りのことになっていた。
 それでもしばらくはこめかみを押さえて聞いていた茜だったが、やはりそのうち我慢できなくなったらしい。山吹屋の献立について語り始めた美濃吉の前にぴっ、と指を突き出す。
「それで? そのお江さんがどうかしたの?」
「え? ああ、そうそう。来渦屋さんのところの仏像が、毎晩涙を流すそうなんですよ」



 それからも数度話を脱線させた美濃吉の言葉をまとめると、次のようなことらしい。
 小さな海産物問屋を営む来渦屋の主・来渦海吉は一昨昨年さきおととしに妻であるお舟を亡くした。
 来渦屋といえば当主の海吉の名が挙がるよりまずお舟の名が口に上るほど、彼女は来渦屋に尽くしていたという。
 元々来渦屋は海吉とお舟が行商から興した店。あいにくと子宝に恵まれなかったので、彼女にとって来渦屋は我が子も同然のものだったようだ。
 そして、息を引き取る間際まで夫と来渦屋を心配していたお舟が亡くなると、海吉はすっかりやる気を失ってしまった。店を畳むのではないかと周囲の者が噂しあったほどだ。
 しかし昨年、親子ほど歳が離れたお江を見初めて紆余曲折はあったもののどうにか所帯を持つようになり、ようやく以前のように働き始めるようになった。
 とはいえ、長い間商いに主が出ていなかった小さな問屋。内証は非常に苦しかった。
 このままでは自分たちだけでなく奉公人も暮らしに困るようになる。それに店を畳んでは、亡くなったお舟に申し訳ない――と、お江が寝る間も惜しんで働き始めた。
 初めは表立っての商いなど慣れなかったのだが、やはり才があったのだろう。『来渦屋のお江』は少しずつ名が知られるようになり、来渦屋もどうにか持ち直すことができた。
 件の仏像はお舟が大切にしていたというもので、お舟が生まれたときに両親が彫師に作らせたものだとか。
 海吉のところへ嫁入りしたときにもお舟が大切に抱いていたというその仏像は、行商のときから店を持つまでずっと彼らの苦労を見守ってくれた存在。どうにかしてしまうこともできず、かといって寺に奉納することもせずそのまま安置していたのだが、それがここ数日、毎夜毎夜涙を流しているというのだ――。



「何か悲しいことでもあったのかしら」
 茜が小さく呟き、美濃吉も「分からないんですよねぇ。夫婦めおとになってからもう随分経ってますから、お舟さんの悋気ってことは今更ないでしょうし」と首を捻っていると、入口の方からよく通る若い男の声がした。
「おい美濃、またここで油売ってたな。雷蔵さんが探してたぞ」
 そして呆れたように眉をひそめ、その男性が山吹屋へと入ってくる。
「……どうかしたのか? 揃いも揃って、そんな狐につままれたような顔をして」会話をしていた美濃吉と茜を見比べる。
「あ、兄さん。いらっしゃいませー」
 満面の笑みで茜が振り返った。
 彼は茜の義兄で岡っ引きの蒼真。口が悪いが義妹思いの頼もしい存在である。
「あれ、雷蔵さん何か言ってましたか? あっしは飯を食ってきますって、ちゃんと言い置いてきたんですけどねぇ」
 最後の一粒を器用に箸でつまんで口に入れ、軽く手を合わせてから美濃吉は不思議そうに首を傾げた。
 彼は蒼真の下っ引きだが、普段はこの近くにある湯屋『華之湯』の二階に住まい、そこで働いて日銭を稼いでいる。そして雷蔵とはそこの主なのである。
「用ってほどでもないんだろうよ。お前の肩揉みが一番利くのに、ってこぼしてたから」
 お前、本当に何でも器用にこなすんだな。蒼真は半ば感心したようにそう言ってから、ぱたぱたと台所へ駆けていった茜を一瞥し、美濃吉に視線を戻した。
「そういえば、今日は桔梗さんは?」
「それが、隣の与兵衛じいさんが風邪をひいちまいましてね。粥とかを作ってつい今し方持っていったところです」
 桔梗さんは美人だし優しいし、いい人ですよねぇ――美濃吉がうっとりとそう言っていると、茜が盆に湯呑みを載せて台所から戻ってきた。
 茜から蒼真の来訪を聞いたのか、台所にいた蔵吉も顔を出して「これは旦那、いらっしゃいませ」と挨拶をしてくる。
 蒼真が頭を下げて挨拶を返すと蔵吉は微笑み、二言三言、彼と会話をしたが、三人の様子を察したらしく「ごゆっくりどうぞ」と言ってまた台所に引っ込んだ。
 蒼真がそんな蔵吉に軽く頷いてから茜に視線を転じる。
「で? お前たちは何の話をしてたんだ?」
「あのね、美濃さんから来渦屋さんの仏像の話を聞いてたの。兄さんは何か知ってる?」
「来渦屋?」
 鸚鵡返しに聞き返してから、蒼真はにやりと美濃吉を一瞥した。
「お江に聞いたんだろう、その話」
 お前は美人に目がないからな。蒼真はそう言うと、茜が「どうぞ」と麦湯の入った湯呑みを置いたので美濃吉の向かいに腰を下ろした。
「俺もその話なら聞いたぞ。もっとも、俺が聞いたのは主の海吉からだがな」
 おやそうなんですか、と美濃吉が瞬きすると、蒼真は小さく頷いた。
「海吉は、何か自分が仏像に涙を流させるようなひどいことをしてるんじゃねぇかって俺に聞いてきたんだ。お江も最近特に体調が優れないらしくて、それも何か関係あるんじゃねぇかってな。祟りなどということはないだろうが、お江のためにも早くどうにかしたい、だが自分ではいくら考えても心当たりがない、ってな」
 そう言って麦湯を一口飲んだ蒼真だったが、そのあと眉をしかめて壁の方を向いたかと思うとすぐにくさめをした。
「兄さん、風邪?」
 鼻をこすっている蒼真に慌てて茜が尋ね、美濃吉が不思議そうに彼の頭を眺める。
「そういえば、旦那はこの陽気に川泳ぎでもしてたんですか?」
 そして、まだ少し髪が濡れている蒼真の頭を指差す。
「それとも、雷蔵さんと話したってぇことは、真っ昼間から華之湯でひとっ風呂浴びたんですか? だとしたら豪勢ですねぇ」
 美濃吉がうらやましげに言うと、蒼真は低く唸った。
「どちらも中らずと言えども遠からず、だな。海吉がふらふらしながら歩いてたんだよ。あまり考えすぎて具合が悪くなっちまったらしい。で、橋から落ちそうになったから――」
「それを庇ったら、旦那も一緒に落ちちまったって訳ですかい?」
 水も滴る何とやら、周りの町娘たちがこぞって駆けつけたでしょう――と茶化した美濃吉は蒼真に軽く一発拳を頂戴した。
「だから海吉が華之湯に連れて行ってくれたって訳だ」
 この着物も華之湯近くの古着屋で海吉が買ってくれたものなんだがな――と、蒼真が袖の端をつまんで軽く揺らしてみせる。
「でも兄さん、橋から落ちて怪我とかしなかった? 寒くない? 大丈夫?」
 怪我をしなくとも、冷たい川に落ちれば風邪もひくだろう。現に、先ほど嚔をしたのだから。
 しかし、蒼真は「大丈夫だ、心配すんな」と軽く手をひらつかせた。美濃吉は小突かれた頭をさすりつつ口を尖らせている。
「全く、旦那はあっしに容赦ないんだから……茜さんには甘いのに」
「何か言ったか?」
「いえ別に」
 澄まして答えてから美濃吉は顎に手を当てた。
「それにしても、本当に不思議な話ですよね。海吉さんは後ろ暗いことをするようなお人ではないですし、仕事だって手堅くしてますし……結構そそっかしいという話は聞きますけどね。それにお江さんだって、儚げな感じだけどしっかりしてるし優しいし綺麗だし働き者だし歳の離れた海吉さんには勿体ないくらいですよねぇ――」
『…………』
 また美濃吉の脱線が始まったか、と蒼真と茜は顔を見合わせたが、今回はどうやら大丈夫のようだ。美濃吉が蒼真の方に向き直り、言葉を続ける。
「で、旦那は今晩その仏像を見に来渦屋さんに行くという訳ですね? じゃ、今からあっしも雷蔵さんにそう言ってきますんで」
「……おぅ」
 何も言わなくとも、そうやってぽんぽんと必要な言葉を返してくる美濃吉を蒼真は頼りにしているのだ。顔には出さないが。
「お仕事、頑張ってね兄さん、美濃さん」
 茜の言葉に蒼真は相変わらず素っ気なく、美濃吉は「勿論ですとも!」と気合いたっぷりに返事をした。



「これが例の仏像です」
 言って海吉が見せたのは、風呂敷包みにすっぽり収まるほどの大きさの仏像だった。
 清浄菩提心を表す無垢なる衣を纏い、稚子を抱いた慈愛あふれる姿のその像は――。
「慈母観音……」
 蒼真は小さく呟いた。
 足利の御代より民間信仰によって白衣観音を源に創り出されたといわれる大慈の菩薩。
 その柔和な面持ちはいつ見ても心が落ち着くものであるが、この像は海吉の妻、お舟の形見の品。そう考えると、慈愛に満ちたその顔からどこか淋しげな表情も伺える。
 天衣や裳の彫りも非常に丁寧で、風が吹けばなびくのではないかと思うほどである。かなり名のある彫師の作だろう。
 感嘆して蒼真が唸っていると、茶を持ってきたお江が不安げに蒼真を見上げた。
「あの、どこかおかしなところは見られるでしょうか?」
 ほっそりとした身体に色白の肌、大きな瞳。なるほどこれは美濃の好みの顔だな、と蒼真は考えながらゆっくり首を振った。
「いや、見たところ別段妙なところはないようです。ところで、最初に像の涙に気付いたのはどちらですか?」
「主人です。最初は見間違いかと思っていたようなのですが、私もその後、幾度か観音さまが泣いておられる姿を見ましたので、間違いではございません。……ただ、私はどのときも体調が優れなかったので、しかと見た訳ではないのですが……」
 困ったように眉を寄せてそう言ってから、気を取り直すようにお江は美濃吉へ目を向けた。
「あまりこういう話を人様に話すのは良くないのですけれど、今朝美濃吉さんとお話をしていたら、つい」
 申し訳ありません、と頭を下げたお江に美濃吉が「とんでもないです! お江さんのお力になれるのでしたら、あっしは例え火の中水の中!」と半ば上ずり加減の声を出す。
(海吉の前だぞ美濃)
 半眼の蒼真は心の中で呟いてから、目を輝かせている美濃吉を見、お江の顔を見遣った。
 懸命に働いていたところにこのような騒動が起こり、心労が大きいのだろう。頬が少々痩けてしまっている。
 これならば、いつかそのうち倒れてしまうのではないだろうか――などと思案していた蒼真だったが、海吉が満面の笑みを浮かべて肩を掴んできたのでぎょっとした。
「ですが、旦那が来て下さればもう一安心ですね! お江のため、後生ですから何としても原因を突き止めて下さい! 旦那は食べられない魚などありませんよね?」
「………………………………………は?」
 何故そこで魚が出てくるのか。蒼真は聞き返そうとしたが、彼は妻に向き直ってしまった。
「おいお江、今夜は旦那方を一番上等の座敷へお通ししなさい。お休み頂く用意を――そうそう、旦那は刺身と煮付けとどちらがお好きですか?」
「……………………………えーっと……」
「ああ、両方お作りすればいいんですよね。私としたことがうっかりしておりました。今夜は腕を振るいますので期待していて下さい!」
 蒼真が目を白黒している間に海吉は「そういえば、良い酒が手に入ったんですよ」などと言いながら部屋を退出していった。
 止める間もないとはこのことだ。
「…………」
 蒼真が海吉の出ていった唐紙の辺りを呆然と眺めていると、お江が申し訳なさそうに深々と頭を下げた。
「申し訳ございません。勝手を言ってお連れした上、このようなことになってしまい……」
 縮こまってしまったお江に、我に返った蒼真が慌てて返事をする。
「ああ、いや、それはいいんですが。俺も話を聞いた以上、放ってはおけねぇし」
 それにしても噂通りの人だな――蒼真が呻くと、お江は申し訳なさそうに再度頭を下げた。
 喉の辺りを押さえながら目を伏せたお江は、行灯の光の具合か、先ほどより更に白い肌が青白く見える。
「気分が悪いのですか?」と蒼真が聞いたが、お江は小さく首を振った。
「いえ、大丈夫です。大したことは……」
「ずっと働き詰めだと聞きましたが、もし倒れでもしたら大変だ。店のことが大切なのは分かりますが、無理はしないように」
「ありがとうございます」
 思わずほんのり頬を染めてお江が微笑んだそのとき、突然美濃吉が彼女の白い手をしっかと握り締めた。
「大丈夫ですよ、お江さん! あっしがこんな謎なんてあっという間に解いてみせますから、大船に乗ったつもりでどーんとお任せ下さい!」
「あ、ありがとう……ございます」
 笑顔で応えながらもお江が微妙に口の端を引き釣らせたように見えたのは、蒼真の気のせいだろうか。
 斯くして、蒼真は美濃吉と共に曰くありげな仏像を泊まり込みで見張ることになったのだった…………が。



 ほの暗い部屋に、健やかな美濃吉の寝息が聞こえる。
 蒼真は文机に頬杖をついたまま振り返り、布団の中の彼を半眼で眺めた。
 先ほどまで美濃吉は「どこに行っても旦那ばかりもてるのは何でですかー」などと愚痴をこぼしていたのだが、ようやくおとなしくなったと思ったらこれだ。
(これから見張りをしようってのに酒を飲むなよ馬鹿美濃。謎を解くなんて言ってたのはどこのどいつだ)
 毒づく蒼真をよそに、美濃吉は幸せそうに寝言を何やら呟いている。
 しかし、蒼真も普段から何かと美濃吉には働いてもらっている身。まぁ今日はいいか、と微苦笑を漏らした。
 ……「茜さぁん」などと寝言が聞こえたときには、さすがに蹴り起こしてやろうかと思ったが。
(こいつのことは放っておくとしても、だ)
 美濃吉から仏像が置かれた床の間へと目を向ける。まだ何の変化も見られない。
(仏像が泣くというのはどうにも解せねぇな。だが、お江も海吉も狂言ができるような奴には見えねぇし、見間違いということもなかろうが……)
 細く開いた唐紙の向こうから月明かりが差し込んできたので、蒼真は今度はそちらに視線を向けた。
(おやじさん、ちゃんと飯食ったかな)
 蒼真が共に暮らして何だかんだと面倒を見ている元岡っ引きの徳治のことをちらりと考えたが、茜の顔が浮かんですぐに心配する必要はないと考え直した。
 あいつのことだ、何も言わなくても何かしら作って持っていってくれただろう――ぼんやりそう考えていると、そのときふっと部屋の中に何かの気配を感じた。
「!?」
 慌てて振り返る。視線の先には、あの仏像。
 しかし、彼の目に映ったそれはお江の言う通り、静かに涙を流していた。
 月明かりの加減で、憂いを帯びた表情が何とも悲しげに見えてしまう。
 蒼真は物の怪などの類に詳しくないが、像からはそのようなおどろおどろしい気配は全く感じられない。
 感じるのは恨みや妬みなどの類ではない。むしろ、悲しみや慈しみ、愛しさといった暖かなもの――。
 ふと気付き、蒼真は声に出さず像へ呼び掛けた。
(お前……お舟さんか?)
 言葉など返ってこなかったが、蒼真は更に続けた。
(気掛かりなことがあるから、そうやって泣いているんだろう? 何が気になるんだ?)
 仏像は涙を流し続けている。
 蒼真はしばらく考えた――慈母観音に思いを移し、お舟は何をそれ程気に留めているのだろう。美濃吉も言っていたが、今更悋気もあるまい。
(そういえば)
 ふと蒼真は、美濃吉が寝付く前に言っていた言葉を思い出した。「お江さん、少し熱っぽいようでしたが大丈夫ですかねぇ」と。どさくさに紛れて手を握ったときにそう思ったのだとか。
(お江が仏像の涙を見たのは、いつも体調が優れないときなんだよな)
 お江は寝る間も惜しんで働いている。お舟は死ぬ間際まで、来渦屋のことを気に掛けていた。そして、お舟が思いを移しているのは――。
(慈母観音……もしかして)
 美濃吉に視線を向けていた蒼真ははっとして仏像を、お舟を見返した。
(お舟さん、お江の身を心配しているんだな? 今無理をして倒れたりしたら大変だから)
 そう言った途端、ふわりと暖かな空気が彼を包み込んだように蒼真には思えた。
(そういうことか)
 ようやく合点がいき、蒼真は微笑んだ。
 仏像が涙を流すようになって、お江が体調を崩したのではない。その逆だ。
 お江が体調を崩したから、仏像が涙を流すようになったのだ。
(朝になったら、医者に診てもらうように言ってやるよ。俺の知り合いに、口は悪いが腕の立つ婆さんがいる。何人も取り上げたことがあるから、任せても大丈夫だ)
 ――お願い致します。
 そう聞こえたような気がした途端、蒼真の意識は薄れていった。



「な……旦那……だ・ん・な!」
 美濃吉の遠慮のない大声が耳元で聞こえ、蒼真はゆっくりと目を開いた。
 いつの間にか薄明るくなっている。どうやらあのまま文机に伏せて眠ってしまったらしい。
「ああ……もう朝か……」
 目をこすってから軽く伸びをしていると、「大変ですよ旦那! すっかり寝過ごしちまいました!」と美濃吉が頭を抱えた。
(あれは夢……だったのか?)
 分からなくなって蒼真は半身を起こすと床の間へ視線を向けた。
 そこに安置された仏像は、昨夜と変わらずたおやかに微笑んでいる。
 しかし、その顔から切なげな表情が消えていると思ったのは――これもやはり蒼真の気のせいだろうか。
「あああ、お江さんに何て言えばいいんだ!」
 頭を抱えて唸っている美濃吉を一瞥してから、蒼真は再度仏像へ視線を向けた。
「知ってるか、美濃」
 視線を逸らさないまま、蒼真は傍らの美濃吉に問い掛けた。「慈母観音が何の神かって」
「嫌だなぁ、旦那。それくらい知ってますよ」
 あっしがそんな無知に見えるんですか? と続いた美濃吉の言葉に蒼真は答えず、ゆっくり立ち上がると唐紙をがらりと開けた。たちまち秋の冷ややかな空気が頬を撫で、通り過ぎていく。
 慈母観音は、母なる菩薩として子宝安産・幼な子の無病育成の大願を叶えるという。
 お舟の親が、幼い娘の無病育成を願って作らせた仏像。お舟が亡くなった今、彼女が告げたいこととなると――思い付くのはひとつだけだ。
「婆さん、今日は酒かっくらってねぇだろうな」
 頭を掻きながら言うと、美濃吉が「は?」と訝しそうに振り返った。
「どうかしたんですか旦那?」
「いや」
 蒼真は小さく笑うと、振り返って美濃吉に軽く笑ってみせた。
「多分、もう仏像騒ぎは起きねぇだろうよ。お江がこれ以上無理をしなきゃな」
「は? 何で分かるんですか? それに、何でお江さんがそこで出てくるんです?」
 美濃吉が頭を抱えているのを後目に、蒼真は顎に手を当てて考え込んだ。
(さて、どうやってお江に話を切り出すか)
 小さく唸って腕組みをしながら蒼真は仏像へと視線を転じた。
(まぁ、でも心配すんな。俺に任せておけ)
 蒼真のその心の声に応えるように、慈母観音は朝の陽の光を浴びて微笑んだ。
 静かに、優しく。


 終



《コメント》

はい、第二弾です。バレンタイン企画当選者・耶彰さんが「仏像の出てくる小説を」とリクエストして下さったので、仏像=和風、という式が思い浮かび、彼らを出そうと決めました。
ちなみに「光風霽月」とは「さっぱりしていてわだかまりのない気持ち。雨の後に吹く風、晴れた空の月」という意味です。
で、「こうふうせいげつ」、と読みますv
今回は蒼真と美濃吉が主人公の話でしたが(って、美濃はあまり目立ってませんでしたか??)、そんな感じで絢椿が主人公の話、蔵吉が主人公の話、とかも作ってみたりしたいなぁと思ってます♪


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