行雲流水・第三話『屋梁落月』  霜月楓

 神無月もあと幾日かを残すのみといった、ある日の晩のこと。
 一膳飯屋『山吹屋』の戸をがらりと開けて馴染みの彼が入ってきたとき、主の蔵吉は最後の客が帰り、片付けも終わり、翌日の日替わりの献立は何にしようかと考えているところだった。
 一膳飯屋には宵から酒を出すところもあるが、山吹屋は飯だけしか出さず、頃合いになると店を閉めてしまう。
 それでもここが繁盛し、もめ事も起きないのはひとえに蔵吉の腕と人柄のお陰だろう、と客たちは皆言い合っている。
「おや、これは蒼真そうまの旦那。あいにく今日はもう――」
 蔵吉が白髪交じりの髪を掻きつつぺこりと頭を下げると、『蒼真の旦那』――若い岡っ引きの蒼真はひらひらと手を振った。
「ああ、いや、今夜は馳走になりに来たんじゃないんです。これを」
 言いながら彼が差し出したのは、有名な菓子問屋『衣露屋いろや』の包みだった。
「さっきまで衣露屋にいたんですよ。ほら、今朝から騒ぎになっていたでしょう」
「ああ、お嬢さんがお亡くなりになったという――」
「ええ。帰りにお内儀さんが色々と見繕ってくれたんですけど、持って帰っても俺もおやじさんも甘いものは苦手ですから」
「左様ですか」
 にっこりと笑い、「ありがとうございます。では茶でも煎れましょう」と蔵吉が包みを受け取る。
 蒼真は下っぴきの時分から徳治という岡っ引きのところで寝泊まりをしていた。今では徳治も隠居をしたが、蒼真は妻に先立たれて身体の具合も悪くした彼――『おやじさん』――のところにそのまま居着いて、何だかんだと世話を焼いている。
「ところで、桔梗さんと茜は?」
 ここの看板娘で蔵吉の娘である桔梗と、蒼真の妹――血のつながりはないが――で、ここに住み込みで働いている茜の姿が見えない。
 蒼真が尋ねると、蔵吉は「桔梗は隣の与兵衛さんに醤油を分けに行ってます。じき戻ってくるでしょう。茜はつい今し方部屋に上がりました。片付けの手際がいいから助かってますよ」と微笑んだ。そして言葉を続ける。
「茜を呼んできてもらえますか? その間に用意をしておきましょう」
「じゃ、上がらせてもらいます」
 言い、蒼真は店の奥に入り、勝手知ったる年季の入った階段を上がった。
 階段を上がって右が桔梗の部屋、左が茜の部屋だ。
 声を掛けると、「あ、兄さん? いらっしゃいー」と返事があった。が、声がどうも上の空である。
「入るぞ」
 言って唐紙を開けると、畳に色とりどりの端切れを広げて茜が熱心に針を動かしている姿が目に飛び込んだ。
「……何やってんだ?」
 きょとんとして尋ねると、茜は手を休めることなく口を開いた。
「あのね、もうじきあやめちゃんがお嫁に行くのよ。同じ長屋の佐平さんのところ」
「あやめ……ああ、庄助長屋の」
 あやめは庄助長屋の差配人、庄助のところで暮らしている十八か十九ほどの少女で、茜の友人である。
「そう。だから私も何かあやめちゃんに渡したいなぁと思って……ほら、これ。どう思う?」
 縫っている途中のものを蒼真に掲げてみせると、それは蘇芳色の巾着袋だった。
 しかしただ縫うだけの巾着ではなく、絞り口の辺りと底のところに香色で舞い散る紅葉の柄をあしらい、絞り紐の先にも蘇芳色の玉をつけているなど、なかなか凝っている。秋らしく、落栗色でまとめたようだ。
「へぇ、器用なもんだな。いいんじゃないか?」
 ちょいちょいとその蘇芳色の玉をつつきながら蒼真が答えると茜は「えへへ」と嬉しそうに笑った。
「今ね、桔梗さんに着物の仕立て方も教わってるところなの」
 そのうち兄さんの着物も仕立ててあげるからねー、と笑う茜に
「これだったらお前がいつ嫁に行っても、それほど恥ずかしくないな」
 兄馬鹿とでもいうべきか。蒼真は破顔してぽん、と茜の頭に手を載せた。
「また子供扱いしてー」
 茜がぷぅとむくれてみせ、そして、けらけら笑っている蒼真を睨む真似をする。
「そんなことより、何か用? 私、今忙しいんだけど!」
「あ、そうそう。衣露屋の菓子を持ってきたからお前もどうかと思ったんだけど……そうか、忙しいんならお前はいらないな。じゃあ三人で――」
「いじわる」
 正真正銘むくれた茜に苦笑し、「先に降りてるからな」と蒼真は部屋を出た。
 その途端、ぽすん、と何かが唐紙にぶつかる軽い音が――針山でも投げつけたのだろう――して、蒼真は更に苦笑した。



 茜が下に降りていき、茜と蒼真、蔵吉と、戻ってきた桔梗とで熱い茶を飲みながら衣露屋の菓子を摘んでいると、話はやはり、あやめの方に向く。
「あれからもう半年ですか。早いですねぇ」
 蔵吉がそう言い、ずずっと茶をすすった。
「そうですね」
 湯呑みの模様を見るような仕草をしながら蒼真が言うと、芋饅頭を口に放っていた茜も「う」と詰まりながらその湯呑みを見下ろした。こめかみからは冷や汗が流れている。
卯月うづきのまだ寒い川辺に倒れていたあやめを見たときは、誰もがもう駄目だと思ったんですが。でも葉明先生のお陰か、あやめの生命力の強さ故か一命をとりとめて……あれには驚きました」
「でも、それまでのことを何一つ覚えてなかったんでしょう? あやめという名前も、確か庄助さんが」
 桔梗が急須に湯を足して席に戻ると、蒼真は小さく頷いた。
「ええ。庄助の死んだ娘の名だったそうです」
「だから茜ちゃんとも気が合ったんでしょうね」
 茜も六年前の大火のときに記憶を失い、蒼真に助けられた。六年経った今ですら、昔のことを欠片も思い出せずにいる。
 それ故、記憶をなくした歳近い者同士、茜とあやめは普段から懇意にしていた。
 団子屋巡りをして食べ過ぎて寝込んだり、呉服問屋の色鮮やかな反物を眺めて溜息をついたりといった具合に、いつも二人は一緒にいた。「まるで姉妹のようだねぇ」と山吹屋の客が言っていたほどだ。
「それにしても……自分から川に入ったのか、何者かに殺されかけたのか、何も分からず仕舞いなのが心残りだな。最近何か思い出したとか聞いてないか?」
 茜に顔を向けて蒼真が聞くと、こくんと小さく茜は頷いた。何も聞いていないのだ。
 あやめも何とか思い出そうとし、あちこちの神社に参ったりもしたようだが、結局分からず仕舞いである。
 蒼真も当時はあやめの人相書きを作って美濃吉や他の者たちと手分けしてあちこちを回ったが効果がなかった。橋のたもとや神社仏閣の境内に立てられた尋ね人の標を見ても、それは同様だった。
「でも昔のことを何も思い出せなくても、これからその分幸せになれるわよ。……ね、お父さん?」
 柿羊羹を切り分けてから桔梗がにっこりと微笑み、蔵吉を見遣った。
 普段から寡黙な蔵吉が、更に寡黙になっている。『娘の嫁入り』という話題になると、世の父親は皆渋い顔をするものだが、彼も例外ではないらしい。
 ああ、とか何とか蔵吉が唸っていると、それを苦笑しつつ眺めていた蒼真が、ふと思い出したように茜に目を向けた。
「……ところで茜」
 半眼になって茜の目の前で、自分の湯呑みを軽く振ってみせる。
「俺の湯呑みに悪戯描きするのはやめろって、何度言ったら分かるんだ」
「あ……あはははは」
 ごまかすように笑っている茜を呆れたように見遣った蒼真の湯呑みには、小さく彼の似顔絵が描かれていた。



 翌日。
 山吹屋に一人の少女が訪ねてきた。豊かな髪を結い上げ、茶色地の小紋を着たなかなかの器量好しである。
 彼女が、茜の友人のあやめだった。目尻にほくろがありそれが何とも色っぽいが、本人は至って心根の優しい、おとなしい娘である。
「あら、いらっしゃいあやめちゃん。――茜ちゃん、あやめちゃんよー!」
 朝から昼までの丁度忙しい時分のためにくるくると忙しく立ち働いていた桔梗があやめの姿を目にするなり微笑み、奥で皿洗いをしていた茜に声を掛ける。
「いらっしゃい! ……うわぁ、あやめちゃん綺麗!」
 店の中に戻った桔梗と入れ替わるようにして駆けてきた茜があやめに目を遣り顔を輝かせると、彼女は恥ずかしそうに微笑んだ。
「ありがとう。おとっつぁんが、嫁入りするときのためにって用意してくれてたの」
 彼女の言う『おとっつぁん』とは、勿論実父ではない。彼女が住んでいる長屋の差配人、庄助のことだ。
 倒れていた彼女を最初に見付けたのがこの庄助で、それが縁であやめは彼のところで暮らすようになっていた。
 が、年が明ければあやめは油売りの佐平と所帯を持つことになっている。
 そしてその佐平というのが、
「ご無沙汰しています」
 と、後からゆっくりとした歩みで茜たちのところにやってきた青年だった。
 朝早くから夕刻まで重い油樽を背負って売り歩く商売をしているためにがっしりとした体付きだが、爽やかな笑顔が似合う、なかなかの好青年である。
「あ、いらっしゃい佐平さん。この度はおめでとうございます」
 茜がぺこりと頭を下げると、彼は照れたように頭を掻いた。
「ありがとうございます。これからはあやめと二人、末永く幸せに暮らしていきたいと思っています」
「まぁ、佐平さんったら」
 ……と、熱々ぶりを見せつけられた茜は「いいなぁ」と破顔した。
「ところで、おめかしして今日はどこかにお出掛けなの?」
 茜が尋ねると、佐平は「ええ、昼一番の芝居を観に」と笑んだ。
「今『柊座』でやってる芝居が結構な当たりだとかで。それに、これから先はそうそう芝居なんて観に行くことはできないでしょうし、いい機会だからと思いまして」
 橋の近くに構えている芝居小屋、柊座は出し物出し物それぞれ趣向が凝らしてあって、連日大繁盛している。
 花形役者の蝦之丞えびのじょうに胸ときめかせる女たちや、彼が扮する女役見たさに詰めかける男たちは数限り無い。
「あ、今は天狗のお芝居よね。『北山小天狗捕物帖』だったっけ。あやめちゃん、帰ったら粗筋教えてもらえる?」
 茜の言葉にあやめはにっこりと微笑んだ。
「ええ勿論。たーっぷり茜ちゃんをうらやましがらせてあげるわ」
 にっこりとあやめが笑って応えると、茜も笑い返した。
「ごめんね茜ちゃん、忙しい時分に。じゃ、行ってきます」
 あやめと佐平、二人揃って軽く頭を下げ、仲睦まじく歩いていくその様を眺めながら茜がまたも「いいなぁ」と呟く。
 ……それが、自分に向けられたあやめの最後の笑顔になると、そのときの茜は考えもしなかった。



「てぇへんだてぇへんだぁっっ!」
 山吹屋が夕方の賑わいを見せ始めた頃、転がり込むようにして美濃吉が飛び込んできた。
 岡っ引きである蒼真の下で働いている彼は、いつも厄介事を拾ってきては山吹屋に飛び込んでくる。
「どうしたの美濃さん。……ありがとうございましたー」
 帰っていく客に声を掛けてから再度美濃吉の方に向き直ると、彼は店内を慌てて見回していた。
「今日は兄さん、来てないわよ」
 茜の言葉に彼は苦虫を噛み潰したような顔になって頭を抱える。
「ああもう! 肝心要のときに旦那がいないなんて!」
「……どうしたの?」
 さすがに気になって茜が再度尋ねると、美濃吉は「てっきりこちらにいると思ったんですが」と呻いた。
「兄さんだって、ここに入り浸っている訳にはいかないわよ。お仕事があるんだから」
「でも今朝方、旦那は派手に頬を張られてたから、しばらくは外を出歩かないと思ったんですよ」
「頬を?」
 何で? と首を傾げた茜に、美濃吉は「旦那が付き合っている……えーっと、なつめさんでしたっけ。喧嘩してたんですよ。あっしは遠目に旦那たちを見掛けただけなんですけどね。あっしもちょっと野暮用の途中でして」
 へへ、と頭を掻いてから美濃吉は言葉を続けた。
「で、棗さんは派手に旦那の頬を張って、泣いて駆けていったんです。かわいそうに」
 どっちがかわいそうなの? と尋ねてみたかったが、美濃吉のことだから「そりゃあ棗さんですよ。決まってるじゃないですか」と言うことは分かり切っているので、茜は代わりに苦笑してみせた。
「だったら余計ここには来ないでしょう。兄さんの真っ赤な頬を見て、私が根ほり葉ほり聞かない訳ないんだから。顔馴染みのお客さまだってたくさんいらっしゃるし」
 茜はそう言ってから「これで何度目?」などと指折り数え始めた。
「岡っ引きってのは因果な商売ですからね」
 美濃吉がやれやれ、というように軽く首を振る。
「じゃあまた兄さん、約束をすっぽかしちゃったのね」
 空いた器を盆に載せながら茜は苦笑した。
「……でも、兄さんをからかいに来たんじゃないでしょう? 今日は何?」
 脱線しかかっていることに気付いた茜が話を戻すと、美濃吉は「そうそう、大変なんですよ!」と詰め寄ってきた。
「茜さん、橋の近くに芝居小屋があるでしょう? 今天狗の芝居をやってて大盛況の。あっしも一度行ったんですが、あれはなかなかおもしろいですねぇ」
「それが?」
 どうも要領を得ない美濃吉に、いつもなら柳眉を上げる茜なのだが不安が押し寄せてきて言葉の先を急かした。
「あ、そうそう。それがですね、あそこで殺しがあったんです。二幕目が始まる前の出来事なんですけどね。花形役者の蝦之丞が匕首のようなもので、こう、胸を――」
 ぐさっ、と刺す仕草を美濃吉がすると、茜はきゅっと唇を噛んで胸を押さえた。嫌な予感がますます膨らんでくる。
「それで……?」
「その下手人は小屋に火を掛けたようでして。火事自体は小火で済んだんですが、何せ昼一番の舞台でしたから客が大入り満員。慌てふためいた客が一斉に逃げようとして、怪我人が大勢出たんですよ。幸い死人は出なかったんですが」

『ええ、昼一番の芝居を観に』

 はにかんで言った佐平の言葉が茜の脳裏に蘇る。
「美濃さん、その怪我人の中に、あやめちゃんと佐平さんはいなかった!?」
「あやめ……ああ、茜さんのお友達の。さあ、どうでしょうか。あっしは伝え聞いただけですから何とも」
 それを聞くなり、茜は居ても立ってもいられなくなった。
「桔梗さん! ごめんなさい、私、ちょっと様子見てきます!」
「え、ええ……」
 途中から二人の話を聞いていた桔梗がお盆を抱えてこくりと頷く。
「じゃあ、あっしも一緒に。桔梗さん、旦那が来たらこのこと、伝えておいて下さい」
「分かりました。……二人とも気を付けて」
 心配げな桔梗に見送られ、茜は前掛けを外すことも忘れて、美濃吉と共に山吹屋を飛び出した。



「おぅ美濃と茜。お前たちも来たか」
 柊座に着くと、そこには難しい顔をした蒼真が立っていた。もう一人、蒼真より年上の青年も立っている。茜の知らない顔だ。
「おや旦那方、お早いお着きで」
 二人の顔を見るなり美濃吉がぺこりと頭を下げると、蒼真は「いやいや」と手を振ってみせた。彼の左の頬が微かに赤くなっているが、美濃吉も茜も気付かない振りをした。
「別件でこの先の紙問屋に用があってな。その帰りに騒ぎに出くわしたんだ」
 美濃吉にそう説明してから、蒼真が茜に目を遣る。
「茜、こいつは俺の上役の同心、早瀬槙之介だ」
「じゃあ、高木さまの――」
 蒼真が手札を受けていた高木という年配の同心が今月頭に病で他界したのを思い出して茜が声を上げると、彼は小さく頷いた。
「ああ、高木さんの後にこいつが就いたんだよ。俺とこいつは昔なじみでな。昔っから、厄介なことはすぐ俺にやらせようとする困った奴だ。……槙之介、美濃は知ってるな。こっちは俺の義妹いもうとの茜だ」
「ひどい紹介の仕方だな。もうちょっと、俺を誉め称える言葉が出てきても良かろうに」
「お前を俺が誉める要素が何かあるのか?」
「全く口の減らない……」
 口をへの字に結んでから槙之介が茜に視線を転じる。
「こんな義兄あにを持って、さぞ毎日苦労していることだろう。同情するぞ」
「あ……いえ、兄がいつも様子伺いに来てくれているので、私共もつつがなく暮らせています。早瀬さまや亡くなられた高木さまが兄に目を掛けて下さっているおかげですね。本当にありがとうございます」
 気が急いているまま、茜が慌てて頭を下げる。
 昔なじみということは、茜よりも蒼真と付き合いが長いということになる。そんな彼に「うちの兄はどうしようもない奴で」などと軽口は叩けないだろう。
 それに、同心は武士である。その武士に、町娘である茜が気安く話せるはずがない。
「ほぅ」槙之介は目を細めて茜を見、それから蒼真に目を遣った。
「お前の義妹いもうとにしておくには勿体ない、しっかりした子だな。同情を通り越して哀れにも思えてくる」
「どういう意味だ」
 半眼で蒼真が槙之介を睨んでから、ふと思い出して訝しげに、山吹屋の前掛けをしたままの茜を見下ろした。
「ところで茜、慌てて来たってことはこの火事を知ってるってことだな。……誰か知り合いでも?」
「知り合いも何も! あやめちゃんと佐平さんが芝居を観に来てたはずなの!」
 ここに来る前に庄助長屋に行ってみたが、二人は戻っていなかった。とすると、いまだにここに留まっていることになる。
「な…――」
 大きく目を見開き、蒼真が槙之介と顔を見合わせる。
「とにかく――怪我人はこっちに集めているから、もしかしたらその中にいるかもしれん」
 槙之介が言い、彼が先導して着いた急拵えの小屋には多くの怪我人が集められていた。医師の葉明が彼らに手当をしている様が見える。
「あやめちゃん……」
 唇を噛んで辺りを見回していた茜は、不意に駆け出した。佐平の姿を見付けたからだ。
「佐平さん!」
 慌てて彼の前まで行くと、そこには佐平だけでなくあやめの姿もあった。床にござを敷き、その上に腰を下ろしている。
「良かった、あやめちゃんも佐平さんも無事だったのね」
 ほうっと息をついた茜だったが、どうも佐平の顔色が優れない。また、あやめは不思議そうに茜の顔を眺めているだけである。
「おい、どうしたんだお前たち?」
 怪訝に思い蒼真が尋ねると、佐平が「それが……」とあやめの方に視線を向けた。
「あやめがどうかしたのか?」
 蒼真があやめの前に屈み込む。
 かすり傷はいくつかあるが、大怪我はしていないようだ。
 しかし、あやめが小首を傾げて蒼真に言った言葉は彼だけでなく、茜をも戦慄させた。
「あの、この人もあなた方も私のことを『あやめ』っておっしゃってますけど、私の名は梶といいます。榎村の稲生いのう屋伊助の妻ですわ。あなた方はどなたです?」



「じゃあ、あやめちゃんが昔のことを思い出したってことなんですか?」
 山吹屋に集まった一行に――蒼真に調べものを頼まれた美濃吉に代わり、何故か槙之介がついてきたが――桔梗は熱い茶を出しながら眉をひそめた。
 今日は少し早めに店仕舞いをし、一同は蒼真の言葉に耳を傾けている。
「ええ。調べてみると、確かに榎村には乾物問屋の稲生屋がありました。そこの番頭だった伊助が先代に認められ、一人娘のお梶と昨年の今時分、夫婦めおとになったそうです」
 蒼真は桔梗から湯呑みを受け取り軽く会釈すると一口飲み、それから言葉を続けた。
「ですが今年の卯月、稲生屋が押し込みにあったんですよ。伊助は寄り合いに出ていて無事だったものの、先代夫婦や使用人は斬り殺されて――」
 そこまで言ってから、蒼真は慌てて桔梗に「物騒な話をしてすいません」と頭を下げた。
 桔梗は殺しの現場を想像したのか顔面蒼白になっている。が、気丈に「いえ大丈夫です」と答えた。
 それを見かねたのか蔵吉が立ち上がり、桔梗に用を言い付けながら一緒に台所に下がっていった。去り際に蒼真に「どうぞ」と目で先を促して。
 蒼真は彼に軽く頷き、先ほどから全く何も言葉を発さない茜に目を遣った。暗い表情をしているが、一言一句も聴き逃すまいと真剣な顔で蒼真を見つめている。
 小さく嘆息し、蒼真は茜に聴かせるようにして話を続けた。
「――で、そのとき以来、お梶が行方知れずになってたんだ。殺されたのか売り飛ばされたのか皆目見当が付かず、町役人も弱っていたらしい。伊助も死んだものと諦めていたようだしな。お梶は生きていれば歳は十八、目尻にほくろがあるらしい。……あやめにまず間違いないだろう。伊助も今頃、慌ててこちらに向かっているはずだ」
 茜が無言のままで苦しげに唇をぎゅっと結ぶ。蒼真の隣に腰掛けていた槙之介が口を挟んできた。
「だが、いくら昔その伊助と所帯を持っていたとはいっても、今は佐平と夫婦になろうとしているんだろう? だったら――」
「それがだな」
 難しそうな顔をして蒼真は、医者である葉明から聞いた話をした。
「何かの衝撃で昔のことを忘れるってことが、人間にはよくあるそうなんだ。茜みたいにな。で、ふとしたことで記憶が元に戻ることもあるそうだ。何日かで戻ることがあれば、茜のように六年経っても戻らない者もいるらしい」
 これからが問題なんだが、と一息入れていた蒼真はふっと顔を上げた。
 丁度蔵吉と桔梗が台所から戻ってくるところだった。桔梗が盆に茶菓子――昨夜の衣露屋の菓子――を盛っている。
 蒼真は二人が腰掛けに座り直してから言葉の先を続けた。
「記憶が戻ったとき、記憶を失っていた間のことを綺麗さっぱり忘れることがあるそうだ。だから、その間に知り合った者のことはまるっきり覚えてないってことになる。……好き合って所帯を持とうって決めた佐平のことですら忘れた、あやめのようにな」
「……神無月なのに、神様も酷なことをなさりますね」
 蔵吉がぽつりと呟いた。
 神無月にはよろずの神々が出雲にある社に集まり、男女の縁組みを話し合うという。
「そうね……あやめちゃんと佐平さんのこと、神様は末永く添い遂げさせると決めて下さったと思ったのに」
 どうぞ、と蒼真と槙之介の前に菓子を出してから桔梗がそう言うと、突然茜が席を立った。
「茜? どうした?」
「私……ちょっと出掛けてくる」
 どこに、と再度尋ねてきた蒼真に答えず、茜は戸を開けると薄闇の広がる外に飛び出した。



『あなた方はどなたです?』
 まるっきり知らない者を見るようにして告げられたその言葉。
『じゃ、行ってきます』
 昼にはあれほど明るい笑顔で掛けてくれた言葉が、たった半日でこれほどに変わってしまうとは。
(あやめちゃん……)
 記憶が戻ったことは、喜ぶべきなのだろう。過去を失ったあやめが、産声を上げたときからの出来事を思い出せるようになったのだから。
 庄助長屋に今日のところは戻ってきたあやめの元を訪ねた茜だったが、まるっきり他人行儀に挨拶をされて、言おうと思っていた言葉を失ってしまった。
 結局茜は、あやめに勧められた茶の味も分からないまま長屋をあとにしたのだった。
(でも、佐平さんはどうなるの? あんなに好き合っていた佐平さんのことを何もかも忘れて、あやめちゃんはそれでいいの?)
 言ってみても栓のないことだと分かっている。あやめを責めても仕方がない。
 そして、茜はふと思った――六年前に失った記憶が戻ったとき、自分もあやめのようになってしまうのだろうか、と。
 六年間掛けて育んできた皆との日々のことを。桔梗のことを。美濃吉のことを。蔵吉のことを。境内で共に遊んだ子供たちのことを。あちこちにできた友人のことを。
 そして――蒼真のことも、忘れてしまうのだろうか。
 六年前に自分を助け出してくれた蒼真のあの腕の暖かさも、からかいながらもこの六年間ずっと見守ってくれた笑顔も。
 ……どこをどう歩いてきたのだろう。いつのまにか茜は土手に立っていた。川の上を渡った肌寒い風が彼女の頬を撫で、通り過ぎていく。
「そんなの、嫌だな……」
 茜がぽつりと小さく呟いた、そのときだった。

「何が嫌なんだい?」

 背後から聞き慣れぬ女の声がして、慌てて茜は顔を上げた。
 あでやかな紅い着物を着、風呂敷包みを抱えた女が不思議そうに茜を見下ろしている。どうやら芸妓のようだ。
「あ、えっと……ゆ、夕涼みに」
「この肌寒い中かい?」
「うっ」
 言葉に詰まった茜はごまかすように着物の裾をはたいたりしてみた。が、それも女から見れば白々しかったのだろう。半眼になって茜の顔を見遣っている。
「思い詰めた顔なんかしてるから、てっきり身投げでもするのかと思っちまったよ」
「私別に思い詰めた顔なんか」
 してない、と言いかけた茜の鼻先に、女は指を突き付けた。
「分かったよ。きっとあんた、叶わぬ恋に絶望してここに来たんだね」
「は?」
「いいんだよ、分かってる。大方、岡惚れの相手はどこぞのお武家なんだろう。お前が切ない胸の内を明かしても、子供だからと相手にされず――」
「あのぉ」
「そしてきっと女房子供もいるんだろう。女房は、どんなにあんたが背伸びしたって敵わない大人の女だね。ならばいっそのこと相手を殺めて自分も川に、とでも思ったか。――もしや、もう殺っちまった後かい?」
 慌てて川の方に目を向けた女に、茜はむっとした声を上げた。
「私、別に妻子持ちに恋してなんかいません。大体、さっきから私のこと子供子供って」
 ぷぅと茜がむくれると、女は「おや違うのかい」と驚いたように瞬きした。どうやら本気で茜が妻子持ちの武家に恋をしたと思っていたらしい。
「だったら早く家に帰ることだね。夜の川辺は若い男女の集まる場と相場が決まっているんだよ。……まぁ若いといっても、あんたにはまだ早いだろうけどねぇ」
「……」
 散々子供扱いされてまたも茜がむっとすると、女はくすりと笑った。 
「そんなに子供扱いされるのが嫌なら、さっさと大人になりな」
「そんな無茶な……」
「何言ってんだい。あたしがあんたくらいの歳には、もう独り立ちして稼いでいたんだよ」
 そこまで言ってから、女は額に掛かった髪をすっと上げた。そういう仕草ひとつとっても、なかなかに色っぽく、彼女が茜を子供扱いするのも無理はないだろう。
「あたしの名は絢椿あやつばき。艶っぽくて潔くて、いい名前だろ?」
「でもお武家様には好かれませんね、その名前」
 即答すると、絢椿の唇の端がぴくりと動いた。
「……生意気言う娘だね。いいんだよあたしが気に入ってんだから」
「じゃあ私に同意求めようとしないで下さいよ」
「一々突っ掛かる子だねぇ。……ええっと、あんたの名は――」

「茜!」

 そのとき突然蒼真の声が聞こえ、慌てて茜は振り返った。提灯を持った蒼真が茜の名を呼びながら辺りを見回し――絢椿と共にいる茜に気付くと、ふっと肩の力を抜いた。
「お前、今まで何やってたんだ――あなたは?」
「おや、佳い男じゃないか」
 婉然と微笑み、絢椿が蒼真に歩み寄る。
「あたしは絢椿。萩屋で芸妓をやってますから、旦那もお時間があれば是非どうぞ」
 すうっと蒼真の顎を軽く撫で、絢椿は艶っぽく、くすりと笑った。
 その途端。
「だっ……駄目駄目だめ――――っっ!」
 茜が慌てて蒼真と絢椿の間に割って入る。
「おやおや。……旦那はこの子のいい人ですか?」
「違う。義兄あにだ」
 即答した蒼真に「おやそうですか」と絢椿は瞬きし、蒼真と茜を見比べた。「なんだ、兄さんかい。……それにしちゃ、似てない兄妹だね」と呟いている。
「何があったか知りませんが、この子、泣きそうな顔してここに立ってましたよ。夜分に若い娘がこんなところにいたら、夜鷹と間違われますからね、用心なさいませ」
「あ、ああ……」
 曖昧に頷いて蒼真が茜に視線を向けると、茜はふいっとその視線から顔を背けた。
「それじゃ旦那、それと……茜、だね。また機会があればお会いしましょう」
 白粉おしろいの甘い香りをその場に漂わせ、絢椿はゆっくりと立ち去っていった。
「……」
「……」
「……山吹屋まで送ってやるから帰るぞ」
「……うん」
 茜はこくりと頷き、何も聞こうとせず先を歩き出した蒼真の後ろ姿を見遣った。
「兄さん、私…………私も、火事の前のこと思い出したら、あやめちゃんみたいになっちゃうのかなぁ」
「さぁな。なるかもしれんし、ならんかもしれん」
 振り返らないまま蒼真が言うと、茜は力ない笑みを浮かべた。
「私は……記憶が戻っても、みんなのこと忘れたくないな」
 ぎゅっと蒼真の着物を掴み、小さく呟く。
「忘れたく……ないよ……」
「…………」
 蒼真は茜の呟きに何も言わず、振り返ることもなく……ただ歩みを緩めて、山吹屋へと足を向けたのだった。



「じゃあ、馳走になったな。また寄らせてもらうよ」
 そばを食べてご満悦の槙之介が、山吹屋の前で破顔する。
「またのお越しをお待ちしております」
 桔梗がにっこりと微笑み、ひょいと顔を覗かせた茜もぺこりと軽く頭を下げた。
「俺もそろそろ帰ります。それじゃ、おやすみなさい」
 蒼真が桔梗と茜、そして台所から顔を出した蔵吉にいとまを告げる。
「おやすみなさい兄さん、早瀬さま」
「ああ。じゃあな」
 いつも通りの笑顔を向けてくる茜に内心ほっとしながらも、蒼真はいつも通りぶっきらぼうに応えて槙之介と歩き出した。
「――それで、結局茜ちゃんはどうしたんだ? 泣いていたみたいだったが。余程あやめのことを気にしていたのか、それとも彼女を自分に重ねたか」
 槙之介の言葉で蒼真は一瞥を彼に向けた。
「…………さぁな」
「そうかい」
 軽く笑ってから、槙之介は山吹屋で借りた提灯を眺めた。提灯の灯が作った二人の影がゆらゆらと頼りなく揺れている。
「そう言えば蒼真、棗とはどうなった? 美濃に聞いたぞ。今朝方、派手に頬を張られたそうじゃないか」
「……あのおしゃべりめ」
 蒼真が口を尖らせると、その様子を眺めていた槙之介が苦笑した。
「ついに棗にも振られたか」
「ああ。紅葉見物に行こうとしたら今朝のあの騒ぎが起こって、行けなくなったんだ。そしたら――」
「『私より仕事が大切なの!? もう知らないっ!』か?」
 図星だったのか演技掛かったその槙之介の台詞が嫌だったのか。蒼真が顔をしかめると槙之介は軽く笑った。
「この仕事してりゃ、女がよっぽどの堪え性でない限り幾度となく言われる台詞だからな。俺も昔は何度言われたことか。……まぁ、俺はともかくお前を振るなんて、勿体ないことをしてるよなぁ。男でも見惚れる色男なのに」
「おだてたって、もうただ働きはご免だからな」
「…………ちっ」
 蒼真の即答に軽く舌打ちをしつつ槙之介は指を鳴らしたが、やがて夜風に揺れるすすきを眺めてしみじみ呟いた。
「それにしても、お前の義妹いもうとも年が明けりゃ十六か。今が可愛い盛りだな」
「おやじみたいなことを言うなよ。……麻亜まあちゃんも今が可愛い盛りだろうが。お前の親馬鹿の噂はよく耳に入ってくるぞ」
「どういう噂なんだか」
 今度は嬉しそうに苦笑し、槙之介が目尻を下げる。
 彼の一人娘である麻亜は現在三つであり、妻によく似た愛らしい子だった。
「それにしても今朝の紙問屋といい、昨日の菓子問屋といい、最近妙なことばかりが起こるな」
 同心の顔になって槙之介が唸ると、蒼真も岡っ引きの顔で小さく頷いた。
「二三、心当たりがあるから、明日はそこを訪ねてみるつもりだ」
「頼りにしてるぞ」
 槙之介はにっと笑い、再び提灯に視線を落とした。
「そういえば、お前に義妹いもうとができたと聞いたときは驚いたな」
 それまでと一転して悪戯好きな笑みを浮かべた槙之介は、『山吹屋』と書かれた達筆な字――蔵吉の手蹟だろう――をしげしげと眺めた。山吹屋の者たちのことを思い浮かべると、自然と口許がほころぶ。
「まだ、お前に子ができたとでも聞いた方が驚きも少なかっただろうよ――お前もそろそろ身を固めたらどうだ。お前なら、引く手数多だろう」
 そう言ってから槙之介は蒼真に目を向けた。大火のときのことを思い出しているのか、彼の顔には憂いの影が落ちている。
「……それにしても、あれからもう六年も経ったのか。早いなぁ」
 槙之介が小さく呟く。しかし、蒼真はゆっくりと首を振った。
「まだ、六年だ。まだ何も終わっちゃいない」
「どういうことだ? 何かあったのか?」
「…………あいつを」
 蒼真はゆっくりと、言葉を選びながら言った。
「あいつを火事場で見付けたとき、あいつの前に誰か倒れていた。焼け落ちた柱に潰されたんだろう。そして、泣きじゃくっているあいつの寝間着の」
「寝間着?」
「………………………………………………いや、いい」
 しばらく逡巡した後、ぽつりと蒼真がそう言ってゆっくり首を振る。
「いずれ、また……機会があれば、そのときに」
 その言葉に、納得しかねている様子の槙之介だったが小さく頷いた。
「ああ。じゃあ、お前が話せるときが来た日にな」
「悪ぃな」
 苦笑とも泣き笑いともつかない笑みを浮かべて蒼真は言い、ゆっくりと顔を上げた。
 ――あの夜のことは今でもよく覚えている。
 泣きじゃくっている幼子の寝間着は、焼けてボロボロになってはいたが、確かに――。
「…………」
 冴え冴えとした月が、押し黙った蒼真を冷ややかに見下ろしていた。



「今まで妻がお世話になっていたそうで。本当にありがとうございます」
 翌日の早朝、慌ててやってきた伊助は、庄助長屋の差配や他の者たちに満面の笑みで深々と頭を下げた。
 死んだと思っていた妻が生きていたのだ、余程嬉しいらしい。涙まで流している。
「伊助さんったら、皆さんの前でみっともない顔を」
 手ぬぐいを取り出し、あやめが伊助の顔を拭った。
「おお、悪い悪い。……それでは、私共はこれで」
「あ、ああ。あやめ……いや、お梶さんも、達者でな」
 庄助がちらちらと佐平の方を見ながらあやめに言う。佐平は長屋の者たちの一番後ろで押し黙ったまま俯いていた。
「はい。長屋の皆さんも、どうぞお達者で」
 あやめが深々と頭を下げ、伊助と二人揃って踵を返す。
 店に戻れば、町役人の調べがある。お梶が何故遠く離れたこの町の川岸に倒れていたのかも、そこで取り調べられるだろう。
 そのとき、「待って!」と息せき切って駆けてきた茜の声が聞こえた。
「あら、あなたは確か昨日の……」
「茜っていうの。この半年、『あやめちゃん』と仲良くさせてもらってた」
「そうだったの。色々とお世話になったのね、ありがとう」
 頭を下げようとしたあやめに「これ!」と茜は赤っぽいものを差し出した。
「……これは……」
 あやめが広げたそれは、先日から茜がずっと作り続けていた巾着袋だった。
「この町の人たち、みんな『あやめちゃん』のこと大好きだったの。それを、ちょっとでも覚えててもらいたい、って思って」
「ありがとう茜さん。大切にしますね」
「…………うん」
 ――茜さん。
 その一言で、もうどうしようもない二人の距離を感じて、茜は無理矢理笑顔を作ると手を振った。
 あやめと伊助、二人揃って改めて軽く頭を下げ、仲睦まじく歩いていく。
 その様を佐平は拳をぎゅっと握り締めたまま、いつまでも、いつまでも見送っていた。
「神無月だから、神様も酷なことをなさる……」
 佐平の様子を見ながら、庄助がぽつりと呟く。
 神無月には出雲に神が集まる。故に、出雲以外には神がいなくなる――そう言いたいのだろう。
 そのあと茜が立ち寄った庄助の部屋には、昨日一度だけあやめが袖を通した着物が掛けられ、淋しく秋風に揺られていた。



 ――山吹屋に戻ると、蒼真が遅い昼飯を食べていた。
 麦飯と里芋の煮っ転がし、そして茄子の味噌汁と、なかなか豪勢である。
「おう、お帰り。……行ったか」
「うん」
「そうか」
 短くそう言った蒼真に、気を取り直した茜が向かいの席に座って問い掛けた。
「兄さんの方は、どうだったの?」
「ああ、結局下手人は蝦之丞に懸想していたお磯っていう女だったよ。幕間に楽屋まで押し掛けてしつこく言い寄ったのをすげなく断られて、かっとなって殺っちまったんだと。そのとき、蝦之丞がふかしていた煙管きせるの火が芝居衣装に移って小火が出たようだ」
「そっか。……じゃあもうお芝居、観られなくなっちゃうのかな」
 残念だなぁ、いつか観るのを楽しみにしてたのに。
 無理に笑う茜から里芋をつつく箸に蒼真は視線を移していたが、少し考えて顔を上げた。
「今度時間が空いたときにでも観に行くか? 柊座では次の出し物を用意しているそうだし。蝦之丞はもういねぇが」
「ほんとっ!?」
 茜が目を輝かせて手をぱちんと叩く。
「ああ。……だが、いきなり仕事が入って駄目になるってこともあるからな。それでもいいんなら」
「何言ってんの。岡っ引きの蒼真と芝居見物に行こうってんだから、いきなり仕事が入るのも覚悟の上だよ。そんなことで一々角立ててたら岡っ引きの妹は務まらないって」
 すっかり機嫌を良くしたらしい茜が「じゃ、ご飯のお代わり奢ったげる!」と、空になった蒼真の茶碗を手にとって台所へ駆けていく。
「……現金な奴」
 蒼真は苦笑し、湯呑みの茶を飲もうとして、まだそこに描かれてある絵を目にした。
 いつの間にやら文字が書き加えられている。茜は何度言っても懲りないようだ。

 おつかれさま

 目を細めてその六文字をしばらく眺めてから、蒼真がゆっくりと湯呑みを傾ける。
 いつもより、茶が美味しく感じられた。


 終



《コメント》

はい、第三弾です。今回で、ようやく『捕物帖』で描いた面々が出揃いました♪
今回の話は、「神無月」という月名から思い付きました。蔵吉と庄助が呟いた通りですね。
ちなみに「屋梁落月」とは「友人を心から思う情のこと」です。
杜甫が「李白を夢む」という詩で「沈みかかった月の光が部屋の梁いっぱいに照らし、それがあなたの顔をまだ照らしているようだ」と詠んだ故事から来ています。
さてさて。今回は恋愛絡みの話メインで書きましたが……姐さん、まだ出番が少ないですね。
でも次からはどんどん出していきます〜。
ああ、それにしても「捕り物」を書かずに書く時代物って難しい〜(>_<)
さてさて、次はどんな話になるでしょう。お楽しみに♪


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