その女、凶暴につき。  霜月楓

 サクラサク。
 桜が吹雪く中、この学校にも新入生が足を踏み入れてきた。
「……春だねぇ」
 窓際の席のティナが頬杖をついてぼんやりそう呟いた。途端、周りの友人が一斉に後退る。
「あんたからそんな感傷的な言葉が出るなんて……こりゃ天変地異の前触れか!?」
 ……取り敢えず、その言葉を発した友人を気が済むまで袋叩きにしてから
「あんたたち、一体あたしを何だと思ってる訳!?」
 半眼で深々と溜息をつき、ティナは呆れたように腰に手を当てた。
「そりゃ勿論、歩く自然災害…――うがっっ!」
 袋叩きにされたばかりの少女が、失言を漏らしたため再度床に倒れ伏す。
 彼女たちにとって最大の不運は、またもティナと同じクラスになったこと、だろうか。
 ……と、そこでやたらと黄色い声が耳に飛び込んできた。
「きょ・お・じゅ〜っっ! 待って下さいったらぁ〜!」
 その声にうんざり顔でティナが窓の外へ視線を転じると、おだんご頭の小柄な少女が目に映った。元気一杯に手を振り、一人の教授を追い掛けている。
 彼女の名はナナ。新入生の一人だが、中学にいる頃からその教授――ティナの天敵であるゼロを追い掛け回している猛者。
 有名中学出身で、学校の成績はずば抜けて良いらしい。先日行われた入学式で、新入生代表として式辞を読んだ、という噂も耳にした気がする。
 しかし、頭の回線は少しずれているようだ。
「それにしてもすごいよねー。あのゼロ教授に対する執着は」
 感心しながら別の友人が言うと、ティナは軽く肩を竦めてみせた。
「あたしに火の粉が降り掛からなきゃ、あのおバカが何やろうと勝手だけどね。あたしが日々安泰に過ごすことさえできれば」
 途端、友人たちが半眼になる。
 その一同の目は『あんたが厄介事を一番引き起こしてるんでしょうが!』とはっきり物語っている。
 しかしそれを口にすると、今床に倒れて白目を剥いている少女と同じ道を辿りかねない。誰であろうと、命は惜しい。

「あ、そう言えばさ」

 ふと思い出したティナがぽむと手を打つ。
「うちのお姉ちゃん、秋に赤ちゃんが生まれるんだって。昨日電話があったって母さんに聞いたの」
 珍しく心底嬉しそうにティナがそう言うと、友人一同はぱっと顔を輝かせて
「うわー、良かったねぇ。じゃあティナもとうとうおばさんに …――うっ!」
 ……そのまま、床に倒れ伏した。
「余計なこと言わなくていいの!」
 ティナに睨まれ、床の上で苦笑する友人たち。確かに、この歳で『おばさん』と言われるのは嫌だろう。
「じゃあ、ゼロ教授もついにおじいちゃんなんだねぇ」
 起き上がり、何故かしみじみと友人たちは呟いた。彼女たちはどうやら彼のファンらしい。
 ティナの姉と昨年結婚した奇特な好青年の父がゼロ。つまり、ティナとゼロは親戚関係になるのである。
「でもティナもさぁ」
 先ほどから何度も白目を剥いている友人が、ぽんとティナの肩を叩いた。
「お姉さんのこと言ってる場合じゃないよ。そろそろ自分の将来を考えなきゃ」
 そして一息ついて、言葉を続ける。
「ゼロ教授、奥さん亡くして独身だから何の問題もないし。でも、姉だから言うけどナナってしつこいし、強敵になるよー?」
「……何の話してんのよ」
 ティナが半眼で拳を震わせ、いざ殴り掛かろうとした、まさにその時。

「うるせーぞお前ら!」

 ティナの後ろの席から、ひどく不機嫌な声が聞こえてきた。
 振り返ると、ふてくされた表情の赤毛の少年が椅子に深く身を沈め、机に両脚を上げて睨んでいる。
「落ち着いて本が読めねーだろ。いい加減にしろよな」
 おとなしい女子ならその場で泣き出しかねない恐ろしげな雰囲気だったが、やはりそこはティナ。
「落ち着いて読書する体勢でそういうセリフ、言ってもらいたいんだけど?」
 臆することなく、そして謝ることなく言いながら何気に彼が手にした本の背表紙を見――
「あーっ! それ、あたしがこないだ読んだ本っ!」
 びしっ、と彼の本を指差した。
「はぁ?」
 訝しげに彼がティナを見、そして本に視線を落とす。本の題名は『暗殺マニュアル〜完全犯罪を目指すなら〜』。
 その他にも、彼の机の上には『永遠の眠りの与え方』『催眠術の効果と副作用』など物騒なものが積まれている。
「お前、こんなモン読んだのか?」
「そう! 結構役に立ちそうなのが載ってると思わない!?」
「え? いや、あの……」
「トリカブトの処方の仕方とかも詳しく載ってるしさ。結構親切だよねー」
「親切って……」
「特にこのページの『密室殺人の仕方』なんて、あたし付箋しちゃったもん」
「えーっと……」
 先ほどまでの態度はどこへやら、思いっ切りティナに流されている少年。
「でも、ここのページの『青酸カリをコーヒーに混入して殺害する方法』ってのはあんまり確実じゃないんだよね、他人が間違って飲んじゃうことがあるからさ。確認済みだから間違いないよ、やらない方がいい」
「確認済みって……誰か犠牲にしたのかお前……?」
 彼女が誰にコーヒーを淹れて、そして誰が被害に遭ったのかは、言わずもがなだろう。
「あと、ここの『ホームから突き落とす』っていうのも――」
 と、ティナが物騒なことを嬉々として話していると

「はい皆さん、席に着いて下さ〜い」

 おっとりとした声が聞こえてきた。振り返ると、いつの間にやら担任が教卓の向こうに立っている。
「……」
 ぴくり、と少年の口の端が引き釣った。
 そういえば彼は担任が来る度嫌そうな顔をしていたな、と考えながらティナは教卓に向き直った。
 そして机の中からペットボトルを取り出して、何故かゆっくり振り始める。
 教卓の向こうでは担任が「え〜、それでは〜」とのんびり口調で出席簿を開いた。
 彼女の名はサンゴ。担当教科は家庭科。『高校の教師』というより『保母さん』という感じの女性で、初めて彼女が受け持ったクラスがここなのだ。彼女の未来は突然暗雲立ちこめた、と言えよう。
 ――そして、その元凶はティナだけではなかったようだ。

「だろー? だから俺、そいつに言ってやったんだよ」

 教室中央の最後尾に陣取った男子たちが、担任の存在を無視して雑談を続けている。
「あのー、そこの皆さん、もう少し静かにしてもらえませんか?」
 困り果てたような口調で頬に手を当てサンゴが言っているが、あまり効果はないようだ。
(あーうるさい……)
 あまりにも男子がぎゃいぎゃい騒いでいるので、ティナはペットボトルを振るのを中断し、彼らを黙らせる道具が何かないかと机の中を漁り始めた。彼女の七つ道具のいくつかが出てくる――花火と蠅取り紙、そして針金。
(うーん、ライター忘れちゃったから花火が使えないなぁ。蠅取り紙も反応がおもしろくないし……)
「ちょっと、静かにしなさいよー」
 ティナが真剣に悩んでいる間に、責任感のある女子が彼らに声を荒げる。しかし、それも効果がない。
「るっせーんだよ」と睨まれて彼女が怯むと、サンゴがはぁ、と溜息をついた。
「あのぉ、そういう言い方は良くないでしょう?」
「うるせーからうるせーって言ったんだよ」
「でも皆さん、今はホームルームの時間なので……」
「『皆さん』じゃ分かんねーな? ちゃんと名前で呼んでくれないかなぁ。サンゴせ・ん・せ・い?」
「え? えーっと……」
 わたわたと慌てて出席簿に視線を走らせるサンゴ。誰がどの名前なのか、まだ担任になって数日の彼女には分からないらしい。
「どうしたのかなぁ? 生徒の名前くらい覚えてくれないと困るんだよなぁ、サ・ン・ゴ・ちゃん?」
 サンゴをからかって楽しんでいる男子たちが顔を見合わせ、けらけらと笑う。
「…………」
 沈黙して俯くサンゴ、ざわめく生徒たち。そんな中、ティナは机の奥から小麦粉の袋を見付けて顔を輝かせた。
(よーし、これで……)
 臨戦態勢が整い、ほくそ笑んだその時――ティナは、どこからか『ぶち』という音を聞いた気がした。

「――だろ? 馬鹿だよなぁ。あいつなんかが俺に敵うはずがな」

 ひゅっ
 再び雑談を始めた男子の言葉を遮るように空を切る音がした直後、数人が息を呑む音が聞こえた。
 ざわざわ。
 一同がざわめいて、俯いたままのサンゴを見、そして背後の黒板に一斉に目を遣る。
 そこには何ら変わったところのないチョークがあった。
 ただ一点、変わったところを挙げるとすると――それが黒板に垂直に突き刺さっている、という点だろうか。
「チョークが黒板に刺さるか普通っ!? しかも垂直っ!」
「でもあれはどう見てもチョークだよっ!」
 ざわざわざわ。
 ざわめきはしばらく続いていたが、サンゴがゆっくり顔を上げるなり、ぴたりと収まった。
 つい先程までの彼女は慈愛溢れる笑みを浮かべていたというのに、今はその表情がすっかり消え、目を爛々と輝かせている。
「このあたしに『ちゃん』付けするなんていい度胸してるじゃないか。ええ!?」
 びしっ、と問題児たちに指を突き付け、ドスの効いた低い声を出すサンゴ。
「………………へっ?」
 生徒たちは彼女を凝視した。
 どう見ても、サンゴだ。偽物ではない。だが、この突然の変わり様は何だ?
 ティナは、どうやらおもしろいことになりそうだと判断して小麦粉の袋を引き出しの奥にしまい込んだ。そして再びペットボトル振りに精を出し始める。
「あたしは教師だからって偉そうにする気は毛頭ないけどな。でも給料もらってる以上は、社会生活する上で必要最低限の礼儀って奴をあんたらに守ってもらわなきゃならねーんだよ。分かるか? 右前の席からトゥエ、イーワン、ウノ、ジュウ、ニィ。――それから窓際のアル、いい加減机から脚を下ろせ」
 額に掛かっている髪を掻き上げ、きっぱりと言い放つサンゴ。
「おおーっ!」
 と、男子グループの中から喝采が起こった。どうやら、自分たちの名前が全て当たっていたらしい。
 そして、アル、と呼ばれたティナの後席の少年も面倒くさそうに机の上から脚を下ろす。
「……何で俺までとばっちり食らうんだよ」
 サンゴはそのぼやきを聞き逃さなかった。つかつかと彼の前まで歩み寄っていくと腰に手を当て、半眼になる。
「何だ? 何か文句あるってのか?」
「……別に」
 ぼそっと短く答えると、アルはふいっと彼女から視線を逸らした。
「だったらしっかりあたしの話を聞く態度をとれ。それとも――」
 びしっ、と彼に指を突き付ける。
「このあたしに何か不満でもあるのか? だったら言ってみろ。聞いてやる」
 ぶち。
 今度はアルの方からそういう音が聞こえてきた――と思う間もなく、彼がバン! と机を叩いて立ち上がる。
「不満あるに決まってんだろっ! 大体何でこの学校に来るんだよ! しかも俺の担任! 姉貴、俺に恨みがあるってのか!?」
 ――姉貴!?
 ざわざわざわざわ。
 ざわめきは最高潮に達し、教室のあちこちからひそひそ声が飛び交う。
 そのざわめきを背に、サンゴは少し困ったように頭を掻いた。
「それがさぁ……ここの校長にウィスキーもらったんだよなぁ」
「ものに釣られて担任になるなっっ! たかがウィスキーくらいで!」
「ただのウィスキーじゃない! 年代物で、なかなか手に入らない一級品なんだっ!」
「威張るなっ! 大体、あのタヌキオヤジも何考えてんだっ!」
 頭を抱えたアル。一方、彼を前にしたサンゴは楽しそうににやりと笑った。
「あー、そりゃあたしと同じこと考えてたんだと思うけどな?」
 弟を困らせて何が嬉しいのか、人差し指を軽く振ってみせるサンゴ。
「『楽しそうだから』。他に何かあるか?」
「たっ…――」
 アルが青ざめてよろめき、椅子に倒れ込む。
「そんな理由で、俺の高校生活をぶちこわしにする気かお前らは……」
 黒雲を背中に背負ったその様子に、サンゴはひらひらと手を振った。
「あー悪かった悪かった。だけど――」
 と、サンゴが何やら言いかけた時、ぴくん、と彼女の身体が震えた。
 ……そして次の瞬間には。

「…――あら?」

 サンゴが不意にきょとんとした表情になって瞬きする。
「私、何でここに……?」
 そして、目の前のアルに気が付くと、更にその瞬きの回数を増やした。
「あら? どうかしたの顔色悪いわよ? 気分でも悪い? だったら保健室に――」
「いい……何でもない……」
 疲れ果てた様子で、アルが机に突っ伏す。
「そう? ……でも変ねぇ、私いつの間にここに来たのかしら……」
 二重人格か?
 ティナたちは首を傾げているサンゴを眺め、それから黒板に突き刺さったままのチョークを振り返った。
「あら? 私のチョークはどこに……?」
 教卓まで戻ったサンゴが不思議そうに首を傾げていることから考えると、先ほどの人格の時に取った行動の記憶は彼女にないらしい。その逆だと、記憶はあったようだが。
 そして、アルは机に突っ伏したまま小さく呻いた。
「『だけど』、何なんだよ。言いかけてやめるなよ〜」
 その呟きを聞いたティナは、これから巻き起こる騒動を予感して思わず口の端を笑みの形に歪めていた。
(何か一騒動起こりそうな予感〜!)
 ……自分が一番騒動を起こしているという自覚は、相変わらずないようである。
 彼女の手にあるペットボトルの液体が、『ごぼごぼっ』と怪しげな音を立てていた。




「あんたって、サンゴ先生の弟だったんだねー」
 ホームルームが終わりサンゴが教室から出た途端、ティナは振り返ってアルにそう尋ねた。途端、鋭い視線が返ってくる。
「悪いかよ」
 苦虫を噛み潰した顔をしてアルが『暗殺マニュアル』のページを再び開いた。無視を決め込んでいるらしく、頬杖をついてティナを完全に視界の外へ追いやっている。
「別に。ところでその本って、もしかして先生を殺っちゃうために買ったもの?」
「……」
 ノーコメント。しかし、それを肯定と受けとったティナはうんうんと深く頷いた。
「自分の周りに目障りな奴がいたら鬱陶しいよねぇ。分かる分かる」
 でもせっかく楽しそうな人だから、殺っちゃうのは勿体ないなぁ――どこまでも物騒で責任感のない発言に
「お前って――」
 渋々、という様子で顔を上げ数回瞬きし、それからアルは「ああ」と小さく呟いた。
「お前、ゼロ教授を追い掛け回してるティナだな? 連敗記録更新中だそうじゃねーか」
「そのうち勝つもん」
 ぶすっとしてティナが答えると、隣から「無理だと思うよ」と声が飛んできた。
 すかさずパンチを繰り出すティナ、床に倒れ伏す友人、そして目が点になるアル。
「でも、サンゴ先生って前からああなの?」
 平然と会話に戻ったティナの言葉に、気を取り直したアルは――床で白目を剥いている少女を一瞥してから――「いいや」と首を振った。
「去年プールサイドで滑って転んだ時に豆腐の角で頭打ってな。それ以来ああなんだ」
「………………へぇ」
 そんな馬鹿なことがあるもんかと思いながらも、ティナはそれ以上突っ込まなかった。彼女にとってはどうでもいいことだ。
「ところで、それ――何だ?」
 ずっと気になっていたらしく、アルが指差してくる。
『それ』とは、ティナが手にしている何の変哲もないペットボトル。
 しかし、その中には何やら奇怪な赤紫色の液体が入っていて、ごぼごぼと音を立てている。
「これ? さて何でしょう〜?」
 やたらと上機嫌でティナは席を立った。
「次のレイの授業、自習だったよね?」と言いながら扉へ向かっていく。どうやらサボって何かをしに行くつもりのようだ。
「?」
 教室を出たティナにアルが首を傾げていると、彼女の友人たちがひらひら手を振った。
「あの子と一緒にいると飽きなくていいでしょ。いつも変なことするから楽しいんだよねー」
『楽しい』と言える思考回路をあいにくとまだ持ち合わせていないアルは、ただフン、と鼻を鳴らすしかできなかった。どうやら毒気を抜かれてしまったようではある。
 彼が脱力している間に、ティナの友人たちは雑談をし始めた。
「でもレイもかわいそうだねぇ。いつもティナのお間抜け殺人計画の被害者にされちゃって」
「そういえば昨日ティナがゼロ教授にコーヒーを淹れてたね。今日自習なのはそのせいかぁ」
「このクラスでのはじめての授業なのにねぇ」
「今回のはさすがにこたえたんじゃない? いつもなら朝から元気に出勤してくるのにさ」
「そりゃあ、今回は青酸カリだからねぇ。さすがのレイでもそれは無理でしょ」
 アルは頬杖をついたまま、物騒極まりない会話を平然と、そして明るくしている彼女たちを見、主のいないティナの席を見てから軽く肩を竦めた。
「………………変な奴ら」
 ぼそっと呟いたその口調は、しかしかすかに楽しげだった。




「おや? 今日は何でしょう?」
 丁度研究室から出てきたゼロが、廊下の角を曲がってきたティナに気付いて微笑む。余裕綽々である。
 その笑顔がムカつくんだよね、と小さく呟かれた言葉を聞き流してゼロは彼女の手元に視線を向けた。
「それは何ですか?」
 ティナの手の中にある怪しげなものの正体は、さすがのゼロにも分からないらしい。首を傾げている。
 ペットボトルは口の部分がカッターで切り取られ、ほぼ筒状になっている。そしてラップで厳重に封がされた上に輪ゴムで止められていた。そのラップから中が透け、赤紫色の液体が見る者に己の怪しさを主張している。
「何だと思う?」
 笑みを浮かべ、ゼロの鼻先にペットボトルを突き付けてティナが聞き返すと、彼は更に首を傾げた。
「お茶ではないようですね。殺虫剤ですか? 私は虫になった覚えはないんですが」
 にこやかな笑顔でさらっと言い、ゼロは腕時計に視線を落とした。
「何をしようとしているのか知りませんが、他の人に迷惑は掛けないで下さいね」
 既にティナがあちこちへ充分迷惑を掛けまくっているのを知っているだろうに、ゼロはわざわざそう言い残すと踵を返した。
「敵に背を向けるなんて、相変わらずあんたってムカつく奴っ!」
 相手を敵と認識しているのはティナだけなのだが。
 そして、こめかみに青筋を立てたティナはペットボトルの中身をゼロ目掛けてぶちまけ

「先輩っ! 何してるんですかっ!」
 どんっ

 ……ようとしたが、突如横から飛び出してきたナナに頭突きを食らってよろめいた。不覚。
 そしてその衝撃でペットボトルが宙を舞い、

 ばしゃっ

 ものの見事にティナは謎の液体を頭から浴びてしまった。お約束である。
「?」
 背後の騒ぎに足を止めて振り返ったゼロは、濡れ鼠になったティナを目にすると苦笑した。
「おやおや」
 自業自得ですね、と言わないのは嫌みなのか何なのか。とにかく、彼がおもしろがっているのは事実である。
「うう〜」
 ティナが恨みがましい視線をゼロにぶつけると、彼は肩を竦めてみせた。
「お怪我はないようですね。大丈夫ですか?」
「うるさいなーもぉ! 大きなお世話っ!」
 しっしっ、と手を振るティナに「はいはい、それでは私は退散します。お大事に」とゼロはまたも苦笑した。
 そのまま、飄々として立ち去っていく。問題なしと判断したらしい。
「くっそー。ナナさえ来なけりゃ成功してたのに……」
 呻き、ティナは濡れた顔を服の袖で拭い始めた。
 毒々しい色の水だったのだが、鼻をひくつかせてみても、どうやら何の匂いもしない。そのことにほっとしてから、ティナは違和感に眉をひそめた。
 このペットボトルの中身は、あちこちで集めた怪しげな薬品と、昨日レイの研究室で見付けた怪しげな液体――その時は緑だった――を混ぜたものだ。
『きっと全部混ぜたら劇薬になるよね』という軽い気持ちでホームルームの間ずっと振り続けていたのだが、何も起こらない、というのは妙だ。
 何も起こらない方が今の自分にとっては好ましいのだが、やはりおかしい。
「あーそれにしても気持ち悪…――――何? ナナ」
「…………」
 先ほどから珍しく何も言葉を発しないナナが、じっと自分を見つめているのに気付く。
 いつもなら「何で先輩は恋路の邪魔ばっかりするんですかぁっ!?」と、現実を無視したことを言ってくるところなのに。
 訝しげにティナが首を傾げた次の瞬間、ナナはきらきらと目を輝かせて彼女の手をとり、そして――。
「先輩っ! お姉さまって呼んでもいいですか!?」
「やだ」
 ……反射的に即答はしたものの、その直後、ナナの尋常ならざる発言を頭で理解してティナは顔を引き釣らせた。ぞわっと鳥肌が一気に立つ。
(な……何!? どうしちゃったのこの子っ!?)
「どうしてですかぁっ!? ナナはこんなにもお姉さまのことをお慕いし」

 ばきっ

 鈍い音がして、壁に叩きつけられたナナの頭がぐらりと揺れた。そしてそのままおとなしくなる。
「ねっ、寝言はっ、寝て、言えっっ!」
 ぜーぜーと肩で息をしながら、たった今ナナに制裁を与えた拳を震わせる。
 何が起こったのだろう。ティナは大きく深呼吸すると、原因の判明に着手することにした。
(えーっと、ゼロに毒薬をぶっ掛けようとしたらナナに邪魔されて、あたしが毒薬をかぶっちゃって……)
 そこではたと気付いて、空になって床に転がっているペットボトルを見下ろす。
 原因は、これか?
 だが、胸が苦しくなったり肌が異常を感じたりはしていないので、毒ではなかったようだ。
 だとしたら失敗作であり、ただの怪しげなだけの水のはず。
 ―――――――――――――――――――――それなのに。
(とにかく、どっかでシャワー浴びて着替えなきゃ)
 ナナの周りの床にだらだらと赤いものが流れている気がしたが、ティナはそのまま職員室へと駆けていった。



「しっつれーしまーすっ」
 職員室の扉を開けると、その場にいた教師が一斉にティナの方を向いた。途端、穏やかな視線が突き刺すようなそれに変化したように感じたのは……気のせいだろうか?
「? ……あ、あのぉ?」
 いつもなら、『何だー? お前また何かやらかしたのかぁ?』とか『今度の勝負は自信あるか? どうだ?』『あなたも懲りないわねぇ。何連敗してるの?』などと軽口を叩いてくる彼らだが、今は何故か様子がおかしい。
 と、次の瞬間には職員室のあちこちから怒声が飛んできた。
「今度は何をやったんだ!」「いい加減にしないと退学にするぞ!」「何なのその格好! また教授に迷惑を掛けたんじゃないでしょうね!?」
 かなり、怒っている。
(何なんだろ? みんな機嫌悪い……)
 わめいている教師たちに動じることなくティナは瞬きをしてその場に立っていたのだが――彼女の頭を更に混乱させるような人物が、彼女の背後から声を掛けてきた。

「ティナさん、授業はどうしたんですか!?」

 振り返ると、そこにはエプロン姿のサンゴがいた。授業の途中で職員室に何か用事ができたらしい。
 ピンクのフリルつきエプロンを着けた彼女は、教師というより新妻という風情だ。
(あ、サンゴ先生が怒ってる。珍しー)
 どう見ても、変貌前のサンゴだ。それなのに、彼女は眉間にしわを寄せている。
「あ、えーっと、ちょっとドジやっちゃって。で、シャワーを借りたいなぁと………って……あれ?」
 生徒の名前をまだ覚え切れていない、変貌前のサンゴがはっきりと『ティナさん』と呼んできた。
(ってことは、あたしって先生の中でかなりの要注意人物ってことになってるのかなぁ)
「ドジって何です!? また誰かに迷惑を掛けているんじゃないでしょうね!? うちのクラスでもあなたは特に危険だ、って校長先生が――」
 今度は涙ぐんでいる。エプロンの裾で涙を拭っている様は、如何にもティナが彼女をいじめたかのようだ。
(あーもう校長先生ったら一体何を先生に吹き込んだんだか。危険って何よぉっ!)
 自業自得という単語はどうやらティナの辞書にないらしい。
「いや、あの……」
 情けない自分の失敗談などしたくない。ティナがどうこの場を切り抜けようかと思案していると、救いの手は妙なところから伸びてきた。

「どうかしたの、サンゴ先生?」

 レイである。
 昨日運悪く青酸カリ入りのコーヒーを飲んでしまい、腹を壊していた――それだけで済んでいるというのは人間の構造的におかしいのだが――彼女は、丁度出勤してきたところらしい。
「あら、レイ先生。お身体の具合は、もうよろしいんですか?」
 振り返ったサンゴが目の端に涙を溜めたままレイの姿を見、にっこりと健気に微笑む。
「まぁ何とかね。でも昨日はひどい目に遭ったのよ。あのティナが――」
 憮然とした顔で歩いてきたレイが、サンゴと一緒のティナに気付いて言葉を途切らせる。
 そのまま数秒は固まっていただろうか。
「レ……レイ?」
 恐る恐る、という口調でティナが声を掛けるなり、彼女はつかつかと歩み寄ってきた。
「どうしたのその格好!? そのままじゃ風邪をひくでしょう、早くシャワーを!」
「………………へっ?」
 そのままレイに腕を掴まれてずるずると引きずられていくティナ。
 いつもならば「おーっほっほっほっ! 何て格好してるのよティナ。日頃の行いの悪さの結果ね! これで私がついに学園の華っ!」とレイは無意味に笑い、根拠のないことを言ってくるのだが。

(何なんだ……?)

 状況に流されるままシャワーを浴び、レイの服を借りて彼女の研究室で人心地付いたティナは、ようやくひとつの結論に達した。……が、それを口にするためにはまずレイに確認をとる必要があった。
「ねぇレイ、昨日あんたの研究室に置いてあった緑の水、あれって何?」
「水?」
 ティナにティーセットとクッキーを運んできたレイがきょとんとして首を傾げ――ようやく理解したのか、ぽんと手を打った。
「ああ、あれね。あれは私が学会の華になるべく特別に作った香水なのよ。あれをつけたら、教授陣一同が私に心を奪われるというスグレモノ」
 そんな怪しげなものが効果を発揮するはずないだろう。いつものティナならそう突っ込むところだが、今回はそうもいかない。
(えーっと、つまりあたしが集めた薬とレイのその妙な香水が混ざって、変な薬ができちゃったってこと? 薬が掛かった人のことを嫌いだと好意を示してきて、その逆だと不快に思う、と?)
 だとしたら、職員室での一件もサンゴやナナ、レイのこの態度も納得ができる。
 本音が出る薬、と考えない辺りがティナのティナたる所以だろうか。
(ゼロにぶっ掛けなくて良かった……)
 顔が引き釣っているのを自覚しながら、ティナは頭を抱えた。
 ゼロに掛けていたなら、自分が彼に何と言うのか想像がつく。あな恐ろしや。
「あいにくと持続性がないから一時間だけなのよねぇ、香水の威力」
 レイが残念そうに言い、それからうなだれているティナに視線を向ける。
「ティナちゃんはあれを使ってみたんでしょう? どうだった?」
 ――ティナちゃん。
 鳥肌もののその呼び方にティナは青ざめ、壁に掛けられている時計を見上げた。
 もうすぐ一時間が経つ。
 レイの言うことが本当なら、そろそろ効き目が切れる頃だろう――そう思いながら一口紅茶を飲んだところで、突然レイがガタンと音を立てて椅子から立ち上がった。
「ティ、ティナ!? 何であんたがここでくつろいでるのよ!?」
 叫んだ直後、はっとしたように目をつり上げてレイはティナに指を突き付けた。
「そういえばあんた、昨日私の研究室から香水を盗っていったでしょう! 泥棒は嘘つきの始まりだという格言を知らないのっ!?」
「いや、そういう格言はないんだけど」
 反射的にそう突っ込んでから、ティナは現状を把握し「あ」と声を出していた。
 どうやら薬の効き目が切れたようだ。そして、今までの記憶はどうやらレイにないらしい。
「で、何であんたはここで紅茶なんか飲んでるの!? あんたは立入禁止にしたはずよ!」
「いや、されてないけど」
「……」
 再度の突っ込みにレイは不機嫌丸出しの表情になったが、何やら答えが出たらしくぽんと手を打った。
「もしや、今までの悪行三昧に対しての許しを請いにきたの? それとも、この私に心酔して下僕にでもなりに? ――おーっほっほっほっ。そうならそうと早く言」

 ごすっ

 鈍い音がして、レイもまた床に倒れ伏す。
(やっぱりレイはこうじゃないとねー)
 相変わらずの、何故そういう結論に達したのか分からない発言にくすくす笑うティナ。
 レイの首が妙な方向に曲がっている気がしたが、ティナは気にせず鼻歌を歌いながら研究室を出た。
(あ、そーだ)
 ふと思い立って職員室に寄る。案の定、先ほどの面々がコーヒーを飲みつつ雑談していた。
「おー、どうした? また何かヘマやらかしたのかぁ?」「お前とゼロ教授の勝負、来年の学校案内のパンフレットに取り入れようと思ってるんだけど、どう思う?」「あら、それレイ准教授のシャツじゃない? レイ准教授……もしかして、ついに?」
 ついに、何なのだろうか。とにかくはいつも通りの反応だ。
 苦笑してからティナは二言三言、彼らと会話すると職員室を出た。
 と、そこで

「職員室に何か用事か? 学園一問題児のお嬢さんが」

 背後から聞き覚えのある声が掛けられて、ティナは足を止めた。
 そして振り返ると、やはりそこにはサンゴがいた。ただし、変貌後の。
 ピンクのふりふりエプロンを着たままなのだが、変貌前と同じ顔なのに不敵な笑みを浮かべているせいで何故か似合っていない。
「学園一ってことはないと思うんだけどなぁ?」
「よく言うよ、授業はどうした授業は。いくら自習だからって、廊下をぶらついてていいって校則はないんだぞ?」
 言いながらも、サンゴの目は楽しんでいるかのようにわずかに細められている。
 しかし、ティナが自習をサボっていたことに関して寛容であるのか、或いはあとで内申点を引く気でいるのかはその表情から判別できない。
 おもしろそうだから、という理由でごっそりと点数を引くぐらい、今の彼女ならやりかねないが。
「はぁい。……でもセンセ、何でそっちになってるの? あれから何かあった?」
 彼女に『変貌前』の記憶があるなら『そっち』と『あれから』の意味も分かるだろうと聞いてみると、彼女はにやりと笑った。
「職員室から戻る途中で、授業をサボろうとした三年男子共を見付けてな。で、そいつらと言い争いになって……いや、向こうが一方的にわめき立ててたんだが。で、キレてあたしが出てきた、って訳だ。ああ、そいつらは今は保健室でおとなしくしてるから問題ない」
「……保健室……?」
 キレるとこちらになるのか。それにしても保健室送りにするとはさすがサンゴだ――ティナは妙に感心して頷いていたが、サンゴに「そういえば、一年のナナって子があたしの授業中に消えて、そのままなんだ。あんた、何か知らないか?」と聞かれてにやりと笑い返した。
「さぁ? あたしは何も知らないなぁ?」
 そして「あっそ」と薄笑いを浮かべたサンゴに意味ありげな笑みを返し、まっすぐ教室に戻っていった。




「あーっティナ! どこ行ってたの? すぐ帰ってくると思ってたのに〜!」
 教室に戻るなり、友人たちの声が飛んでくる。「今度の実力テストのヤマをみんなで考えてたんだよー」
 取り敢えず、彼女たちはティナと違って真面目に自習していたらしい。一様に数学の教科書をひらひらと振っている。
「一章毎に担当分けしてね、ヤマが当たったらみんなからクレープをおごってもらうってことになったの。……って、あれ? ティナ、服どうかしたの?」
「んー、ちょっとね」
 曖昧に言葉を濁し、ティナは自分の席に腰を下ろした。
 途端、背中をつつかれる。振り返ると、化学の教科書から顔を上げたアルが不思議そうに瞬きをしていた。
「なぁ、結局あれは何だったんだ? やっぱ教授殺害計画の一端か?」
「まぁ、そんなモン。失敗しちゃったけど」
 ふーん、というアルの呟きを聞きながらティナは苦笑し――とあることに気付いて眉間にしわを寄せた。
(……あれ?)
 教師たちは皆揃ってティナに罵声を浴びせてきた。そして、ナナとレイは彼女に気味が悪いほど好意を示してきた。
 ならば。
 ならば、何故。

(何であいつは全然変わんなかった訳――――っ!?)

 自分に罵声を浴びせてくるゼロというのは想像できないが、言い寄ってくる彼もまた想像できないし、したくもない。
 しかし。
 だが、しかし。
(何なのあいつ〜〜〜っっ!)
 机に突っ伏し、ティナは頭を抱えて悔しげに低く呻いていた。

 どうやら、今回はゼロの不戦勝だったようだ。



 END



《コメント》

こんな突拍子もない設定、いいんでしょうかねぇ。
でも、やっぱりこのシリーズに『常識が通用する人』は存在しないようです。
おかしいなぁ、連載当初はレイが唯一常識人だったはずなのに。(笑)
ティナのお友達一同も、はじめは確かまともに書いていたはずなのになぁ。類は友を呼ぶってこういうことでしょうか。(←違う。)
でも、今回はあまりゼロの出番がないですね。番外編の『学校の快談』並みでしょうか。
このまま彼が出なくなったりしたらどうしましょう。……まぁ、番外編でもない限りそれはないですが。
ああ、でも連載開始時には中学生だったティナが高校二年生……何やら感慨深いものがありますな。
このまま進級していって『ティナ大学生篇』とかもそのうち……書けたらいいなぁ。(それ以前に、ちゃんと進学できるんでしょうかティナは。)
『ティナ2年生篇』は、今までのようにポンポン話が飛んだりしないで割と少しずつ書いていきたいな、と思っています。(思うだけ、という可能性も…)


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