炎舞  渡田貴紀


私はその日、千代田に囲っている女のところを訪れた帰りであった。
“囲っている”という言い方からも分かるように、私には妻も子もいた。
彼女とはふとしたことで知り合った。
以来、私は妻と別れてこの女と所帯を持つでもなく、かといってこの女との関係を清算するでもなく、ずるずると正に泥沼のような関係を続けていた。
彼女との仲はもうずいぶん長い。
しかし私は、その女の名前も素性も知らなかった。
ただ単に私が聞かなかっただけなのだが、女の方も何も言わなかったので、特にはこだわらなかった、という言い方の方がむしろ正しいのかもしれない。
その女はみんなに“雪耶”と呼ばれていた。
その一風変わった名前を持つ女は、もと芸者であったという話を以前誰かから聞いたことがあった。
だから私もこの女をそう呼んだし、女はやっぱり何も言わなかった。
彼女は千代田に小さな家を借り、一匹の黒猫と一緒に住んでいた。
この猫は一人暮らしの雪耶が淋しくないように、と私が買い与えてやったものだったのだが、雪耶はその猫に、外見とは反した“小雪”という名を付けた。
雪耶は元々猫が好きだったようで、小雪のことを大変かわいがっていた。小雪の方も雪耶によくなついていたので、雪耶はますます小雪をかわいがった。
私は週に一度千代田の彼女の家を訪れ、何をするでもなく、朝まで世間話をした。
こんなことを言ったところで、誰も信じないだろうが、私は雪耶と身体の関係を持ったことは一度もなかった。
雪耶に魅力がなかったわけではなかったし、私もそんなに年というわけではなかった。
雪耶はもと芸者という噂にたがわず、とても美しい女だった。
そしてその名の通り、雪のような白い肌を持っていた。
雪国の生まれなのかもしれない。
雪耶は私のことを“耕さん”と呼んだ。
私は他人からそんな風に呼ばれたことがなかったので、雪耶が私のことをそう呼ぶたびに、年がいもなくどきどきした。
私は雪耶に恋をしていた。しかもまるで初恋のような幼い恋だ。
私は雪耶の顔を見ているだけで幸せだったのだ。



私は物書きをなりわいとしていた。
その日は、私が翌日までに片付けなければならない原稿を抱えていたため、いつもより早めに雪耶の家を後にした。
雪耶の家を出て、三十分程歩いただろうか、私は黒山の人だかりと遭遇した。
何事だろうかとのぞいてみると、その人だかりは火事の野次馬らしかった。
原稿のことで頭がいっぱいだった私は、火事に気が付かなかったのである。
「火事ですか」
私はその野次馬に近付いていって、一番後にいた男に声を掛けた。
男は話し好きな性格らしく、待っていましたとばかりに目を輝かせた。
「そのようでさあ、この先の長屋がまるまる三軒焼けちまったんですよ」
「それはまた」
「何でも放火らしいんですよ」
男は辺りをうかがいながら、声をひそめた。
「それはまた物騒な話ですね」
私も男に合わせて声をひそめた。
「最近、この辺りではしょっちゅうなんですよ」
「しょっちゅうなんですか」
私はこの辺りは頻繁に通っているが、そういう噂を耳にしたことはなかった。
「あれ、旦那、ご存じねぇんですか」
男は意外だというような顔をした。
「いえ、私はこの辺りの人間ではないのですよ。今日はこの先の知り合いの家に寄った帰りで」
私は、この男に余計な詮索をされはしまいかと、聞かれてもいないのにそう答えた。
私の話を聞いて、ああ、そういうことなら…と男も納得した様子だった。
真っ赤な炎が舞い上がり、まるで舞を舞っているかのような錯覚を覚えた。
「燃えていますね」
他に言うこともなかったので、私は男にそう言った。
「燃えていまさあ」
男も私にそう言った。
私もそこで、しばらく野次馬となっていたが、原稿のことを思い出したので、慌てて家に帰った。
その日は朝まで万年筆を握っていたが、赤い炎が頭にちらつき、とうとう仕事にならなかった。



「最近、ここいらじゃあ火事が多いそうだね」
出版社に締め切りを延ばしてもらえるように頼むため、千代田まで出てきたので、その足で雪耶を訪ねてみることにした。
雪耶は私の話に耳を傾けてはいるようだったが、どうも心ここに非ずといったような様子だった。
「どうしたんだい。何か心配事があるんだったら、私に言っておくれ」
「最近、小雪の姿が見あたらないんですよ」
雪耶はそれだけ言うと、縁側に座っていた私の側にやってきて、自分も腰をおろした。
「小雪がかい。あんなにお前に懐いていたのに、一体どこに行ってしまったんだい」
いつも小雪の指定席となっている雪耶の膝の上は、今日はとても寒そうに見えた。
「それじゃあ私が小雪の代わりをつとめることにしようかね」
私はそう言って雪耶の膝を枕に、縁側にごろりと横になった。
雪耶はそんな私を見て「まあ、耕さん」と言って笑った。



その日も私は原稿のために、雪耶の家を早めに出た。
この間火事があった辺りまで来た時、私は不意に猫の鳴き声を聞いたような気がして立ち止まった。
小雪の鳴き声だったような気がしたからだった。
「小雪なのかい」
私は辺りの地面を見回して、隅にうずくまる黒いものを見付けた。
「ああ、やっぱりお前の声だったんだねえ」
首に結ばれた赤い鈴つきのリボンは、確かに小雪のものだった。
「どうしてこんな所にいるんだい」
私がそう尋ねても、小雪はただにゃあと鳴くばかりだった。
「雪耶の所へ帰るかい」
小雪はまたにゃあと鳴いた。



仕方がないので私は小雪を腕に抱え、もと来た道を再び戻っていった。
雪耶が心配しているというのが理由だったが、もう一度雪耶の顔を見たいというのもまた理由の一つだった。
「雪耶」
私は雪耶の名を呼びながら玄関を開けた。
中から声はなかった。
もう寝てしまったのだろうかとも思ったが、玄関が開いているのは不自然に思えた。
おおかた居眠りでもしているのだろうと思い、そのまま上がろうとしたが、雪耶の草履がないことに気付いた。
小雪を心配して探しに行っているのだろうか。
最近火事も多いというのに、女の一人歩きは危険すぎはしないか。
そんなことを気にする余裕もないほど、小雪のことが心配だったのだろう。
私は小雪を抱えたまま、雪耶を探しに出かけた。



雪耶はしばらくしてすぐに見付かった。
二十分ほど行った場所に、一人でぼんやりとたたずんでいた。
私はどうしてさっきすれ違わなかったものかと呆れながら、雪耶の方へと近付いていった。
「雪耶」
私が声を掛けても、雪耶はその場所で地面をぼんやりと眺めていた。
「雪耶」
もう一度声を掛けてみたが、雪耶はまだぼんやりと地面を見ていた。
その時、それまで私の腕におとなしく抱かれていた小雪が、にゃあと一回鳴いた。
小雪の鳴き声を聞いて、やっと正気に戻ったのか、雪耶が顔を上げた。
雪耶は私と小雪の姿をしばらく見つめ、「ああ、耕さん」と言うとまたぼんやりとしてしまった。



「こんな所に突っ立って、一体何をしていたんだい」
と私は尋ねたが、雪耶は「さあ」と言うばかりだった。
「小雪を探していたんじゃあなかったのかい」
という私の問いにも、
「家を出た時はそのつもりだったんだけど…」
とひどくあいまいに頷くばかりで、雪耶の答えは全く要領を得なかった。
「小雪も見付かったことだし、いつまでもこんな所に突っ立っていないで、家に帰ろう」
私はそれ以上雪耶に質問をすることを諦め、取り敢えず家に帰すことにした。
雪耶は私の言葉におとなしく従った。
雪耶の肩に手を回した時、雪耶の着物から火薬のにおいがしたような気がしたが、わずかにしただけですぐに消えてしまった。
小雪がまた一回だけにゃあと鳴いた。



「私はあそこで何をしていたのか、全く覚えていないんです」
布団に寝かせた雪耶の目は、相変わらずぼんやりと宙を漂っていた。
「耕さんにも、誰にも、言ったことがなかったんだけれども、最近よくあるんです」
雪耶の話によると、そんな状態に気付いたのは本当に最近のことなのだそうだ。
気付くと、夜中に一人で道の真ん中に突っ立っていたということがしょっちゅうなのだそうだ。
私は雪耶に夢遊病の気があるではないかと心配し、医者に行くように勧めてみたが、雪耶は力なく首を横に振った。
「小雪がいなくなったことで、軽い鬱病になっていたのかもしれない」
そう言うと雪耶は眠ってしまった。



小雪がいなくなったあの日、また火事が起きたのだということを聞いたのはしばらく経ってからのことだった。
私はあの時、雪耶の着物から火薬のにおいがしたことを思い出したが、自分の馬鹿げた考えをすぐに否定した。



私は延び延びになってしまっていた原稿をようやく仕上げ、出版社へ持っていった。
その帰り、私はふらりと銀座へ出かけ、そこで学生時代の同級生と再会した。
私と彼は再開を懐かしみ、一緒に食事をすることにした。
連れ立って洋食屋へ入った私達は、カレーライスとコロッケをそれぞれ注文した。
彼は新聞社で記者をしていた。
私は何か小説のネタになるような、面白い話はないものかと彼に尋ねてみることにした。
彼はそんなに面白い事件はないぞと笑った後、こんな話があるぞと言ってその話を切り出した。
「なあ阿久津、お前、千代田の連続放火事件を知っているか」
武藤は学生時代と変わらない口調で、私のことを“阿久津”と呼んだ。
「ああ、あそこには知人の家があるからよく行くのだが、この間たまたまその噂を聞いた」
私は雪耶のことを敢えて“知人”と呼んだ。
「犯人は女なんじゃないかって話があるんだが」
「女…」
武藤の言葉に私はどきっとした。
雪耶のことを思い出したからである。
しかし、それはあくまでも噂であって、雪耶が放火をしているのだという証拠にはならない。
私は自分の考えが馬鹿らしく思えて少し笑った。
「おい阿久津、聞いているのか」
武藤の声で私は我に返った。
「ああ、すまない…」
どうやら考え事をしていたらしい。
「お前のためにわざわざしてやっているんだから、ちゃんと聞いてくれよな」
そう言って武藤は笑った。
私も笑ってみせたが、私の頭は雪耶のことでいっぱいになってしまった。
「で、何で犯人が女なんじゃないか…という噂が出てきたのかというと、何人もの奴がその女の姿を見ているからなんだ」
武藤はそう言った後、コップの水を一気に飲み干した。
「しかもただの女じゃなくて、何でも、黒い猫を胸に抱いているんだそうだ」
コップの水滴をぼんやりと眺めていた私は、黒い猫という言葉をあやうく聞き逃すところだった。
「黒い…猫…」
それは小雪のことではないのだろうか。
とすると、火事を起こしている女はやはり雪耶なのだろうか。
私は雪耶の着物の火薬のにおいを思い出していた。
その後、久し振りに飲みに行かないかという誘いをなるべく普通に断り、武藤と別れた。
私は自分の考えが間違いであってくれることを祈りながら、電車に乗った。
電車に揺られている間中、私は雪耶のことばかりを考えていた。
しかし、私は雪耶が放火の犯人であるということを確かめるのが怖かったせいで、その日は雪耶の家に寄ることはしなかった。



二日後、私はやはり気になって雪耶の家を訪ねてみることにした。
雪耶は膝に小雪を乗せ、いつものように縁側で私を待っていた。
雪耶は私の姿を見付けると「耕さん」と言って微笑んだ。
いつもと変わらない雪耶の姿に、私は少なからずほっとしていた。



その時は何事もなく雪耶と別れたが、やはり不安になって、その夜私はもう一度雪耶の家を訪ねた。
雪耶は家にいなかった。
小雪の姿もどこにも見当たらなかった。
私はもと来た道を走り出していた。



「雪耶」
私が雪耶を見付けた時には、すでに遅く、雪耶は燃え盛る家を、ぼんやりと野次馬と共に見ていた。
「耕さん…私」
小雪をしっかりと胸に抱えた、雪耶の顔は真っ青だった。
「雪耶…」
私は雪耶を抱き締めた。
ああ、きっと彼女は自分が犯した恐ろしい罪を知ってしまったのだろう。
私はそう確信し、いつまでも雪耶を抱いていた。



野次馬に怪しまれないようにその場を離れ、雪耶を家に連れて帰った私は、雪耶を布団に寝かせた。
「なぜ…なぜ私はあんなことを…」
そう言って雪耶は両手で顔を覆った。
やはり雪耶は自分の罪を知ってしまったのだ。
「雪耶…」
「耕さん!」
私が名前を呼ぶと、雪耶は私にすがりついてきた。
「雪耶…」
私には雪耶を抱き締めていてやることしかできないのだろうか。
何もできない自分を私はひどくもどかしく感じた。



次の日、私は実家に帰り書きかけになったまま放っておいた全ての原稿を書き上げた。昼前にポストに入れておいたので、明日には出版社に届くだろう。
それから私は、妻と子供に宛てて手紙を書いた。
妻が買い物に出掛けている隙に慌てて書いたせいで、何回も書き直しをするはめになってしまった。
この手紙を見たら、お前等は何と思うだろう。
そのことを考えると私は涙が出てきて仕方がなかった。



「少し出てくるよ」
私は台所の妻の背中に声を掛けた。
「あまり遅くならないでね」
と妻は私に微笑んだ。
「うん」
と返事をし、私は何も持たずに雪耶の家に向かった。



雪耶は今日も小雪を膝に乗せ、縁側に座っていた。
「雪耶」
と声を掛けると、雪耶は
「耕さん」
と言って、いつものように微笑んだ。
私は雪耶と一緒にいようと決めたのだった。



その日私達はいつものように、たわいのない冗談を言い合いながら食事をとった。
雪耶の作った夕食は、いつものように懐かしい味がした。



「耕さん」
と雪耶が、不意に私の名を呼んだ。
「今日もお仕事があるの」
雪耶は私にそう問うた。
「仕事は今日の朝に、全部仕上げてきたよ」私は雪耶にそう告げた。
「じゃあ今日は…帰らないでいいのね」
私を見つめる雪耶の瞳は嬉しそうに輝いた。
「もう家には二度と帰らないよ」
私は雪耶をしばらく見つめた後、そう言った。
「ずっと、雪耶の側にいるよ」
「耕さん、本当に?」
私は笑顔で頷いた。
「耕さん…」
私の顔を見て、雪耶も嬉しそうに微笑んだ。



食後のお茶を煎れると言って、台所に立った私は、ズボンのポケットから睡眠薬を取り出した。
雪耶は私の煎れた、睡眠薬入りのお茶をそれはおいしそうに飲み干した。



しばらく経って、雪耶が眠ったのを確認してから、私は小雪のリボンをといて逃がしてやった。
小雪はしばらく私を見つめていたが、にゃあと一回鳴いて、それからどこかへ行ってしまった。



睡眠薬が効いたのか、雪耶はぐっすりと眠っている。
私は雪耶の頭をそっと撫でた。



その夜、私は雪耶の家に火を放った。
私は眠る雪耶をしっかりと抱き締めた。
私達の身体も、もうじき火に包まれるだろう。
私は雪耶と永遠に一緒にいることを決めた。おそらく、こうすることが最良の方法なのだろう。



私は雪耶を抱き締めたまま、炎をぼんやりと見つめていた。
「ああ、炎が…炎が舞っている」
炎が舞うのを感じながら、私はゆっくりと目を閉じた。
私はその時、いつか見た赤い炎を思い出していた。


 END



《コメント》

純文目指して筆(?)を執ってみたものの、思ったようにはいかなかったです。
ただ、こんな雰囲気の小説を書きたいという思いだけは強かったので、非常に短時間で仕上がりました。
時代考証も方言指導も嘘っぱちですが、純文的な雰囲気だけでも感じ取っていただければ幸いです。


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