鏡  渡田貴紀

(まったくよー、書類ぐらい自分で持っていけよなー)
 言いたいのはやまやまだが、しょせん平社員、単なる使い走りである。
 企画課のある十階に書類を届け、単なる平社員である所の鷺仕舞陣平は帰りを急いでいた。
 とその時、鷺仕舞はふと背中に突き刺すような視線を感じて振り返った。通路の先の行き止まりになったところにそれは佇んでいた。
「なんだ。脅かすんじゃないよ、まったく」
 そこにはまるで取り替えたばかりのような大きな鏡があった。
 鏡は天井からのライトを反射し、わずかに光を放っている。
 鷺仕舞は好都合とばかりに鏡に近付いていった。
「うちの課長はこういう事にうるさいからなあ」
 そう呟きながら鷺仕舞は曲がったネクタイをなおした。
「ま、こんなもんでしょ」
 ついでに髪も整え、鷺仕舞は鏡の前を後にした。
 去っていく鷺仕舞は、一瞬、鏡が鈍く光ったのを知らない…。


「♪つっきがあーでったでったあーつっきがーあでたーあよいよいっと」
 その夜は月夜だった。
 久しぶりに同僚の貼騙と飲みにいった鷺仕舞は鼻歌混じりに夜の街を歩いていた。
 カツンカツンカツン
 誰もいない舗道に足音だけが響く。
 公園が見えてきた。ここを通り過ぎればアパートまですぐだ。
 カツンカツンカツンカツッ…
 公園の中程まで来た時鷺仕舞の足がぴたりと止まった。
(気のせいか?)
 カツンカツンカツンカツン…
 鷺仕舞は再び歩き出したがすぐに立ち止まった。
(つけられている…?)
 振り返ってみたが鷺仕舞の目には誰も映らなかった。
 カツン、カツン、カツン
 今度は一歩一歩踏みしめるように歩いてみる。
(間違いない。誰かいる)
 鷺仕舞はそう確信するや否や公園の出口めがけて走り出した。
 鷺仕舞の長い影が夜の公園に揺れていた。


「気のせいなんじゃないの?」
 これは社員食堂での貼騙の言葉である。
「でも、確かに…」
「気のせいだって。お前、昨日かなり酔っていたじゃないか」
 そんなふうに言われると鷺仕舞の自信も揺らいでくる。
「でも…」
「じゃ、なにか。変質者だとでも言うのかよ」
「俺が女に見えるのかよ」
「わかんないぜ。変なお姉さんかもしれないし両方いけるお兄さんかもしれないし」
「言ってろよ」
 貼騙はどうあっても鷺仕舞の言葉を気のせいですませるつもりらしい。
「おい、それよりも早く帰らないと課長に叱られるぞ」
「はいはい」
 二人は自分たちの課へと歩きだした。
(あれは気のせいだったのかな)
 歩きながら鷺仕舞は昨日のことを考えていた。
「鷺仕舞! お前聞いてんのかよ」
 突然声をかけられ鷺仕舞は慌てて貼騙の方を向いた。
「あれ?」
 二人が止まった場所は昨日鷺仕舞が視線を感じた通路の辺りだった。
 だが通路の先には鏡がなかった。
「なあ貼騙。昨日、あそこに鏡があったよな?」
 不思議に思った鷺仕舞は貼騙に尋ねてみた。
「鏡? いいや」
「え…」
「本当だって。俺昨日あそこの営業課に書類持っていったもの」
 確かに、行き止まりのところには営業課がある。
「あそこに鏡があったのか?」
「ああ。俺が見た時はな」
「ふーん。でもさ、あんな所に鏡を置いても見る奴なんているのか?」
 言われてみればその通りである。斯く言う鷺仕舞も視線を感じなければ鏡に気付く事はなかったであろう。
 鷺仕舞は奇妙な感覚を残したままその場を去った。


 今日は公園を通りたくないと思っていた鷺仕舞だったが遠回りをすると余分に二十分もかかることを考えしかたなしに公園を通ることにした。
 昨日より時間が早いこともあってか公園にはまだ割と人がいた。ただし殆どがペッパ−警部に怒られそうな輩ばかりであったが…まあ、いないよりはましである。
 鷺仕舞は昨日と同じようにアパートに向かって歩き出した。
 カツカツカツ…
 昨日よりも歩調が少し速い。
 何も考えまいとしていたが鷺仕舞の神経は耳に集中していた。
 昨日のことが気のせいだったにしてもやはり気味が悪いことには違いない。
 だが鷺仕舞は予想と反して無事に公園を通り抜けることができた。
 本当に何もなかったのかという件については、鷺仕舞がカーブミラーに映った人影に気付いていなければ…の話である。


「だから言っただろ。やっぱり気のせいだったんだよ」
 そう言う貼騙の姿が容易に想像できるような気がして鷺仕舞は頭の痛くなる思いがした。
 翌朝、歯を磨きながら鷺仕舞はこういうことをぼーっと考えていた。
 こんなふうに鷺仕舞の一日はつつがなく始まるはずであった。だが事実は少し違っていた。
 大体どこの家庭にも洗面所には鏡が付いているものである。現に鷺仕舞家の洗面所にも少し小さめの鏡がある。
 それは何の変哲もない普通の鏡だったので、当然洗面台の上にあるその鏡は、顔を上げた鷺仕舞を映すはずであった。
 が、鷺仕舞は鏡を見てぎょっとした。
 それもそのはず鏡の中の鷺仕舞は笑っていたのである。
 鏡の前の鷺仕舞が歯ブラシを口にくわえている状態だというのにもかかわらず…。
 …笑っていた。
 その笑顔はまるで広隆寺の弥勒菩薩像のようなアルカイックスマイルだった。
 しかしそれは瞬きをした途端に歯ブラシをくわえた鷺仕舞になったので
(俺、寝ぼけてんのかな…)
 とそう思わざるをえなかった。


 朝あんな事があったせいか鷺仕舞は一日浮かない顔をしていた。
 別に気にしていたわけではないが気が付くと朝のことを思い出していた。
(この二、三日変なことばかりだ)
 鷺仕舞はため息をついた。
 家へと帰る足取りもどこか重い。
 鷺仕舞はいつの間にか公園まで来ていた。
(今日はすぐ寝よう)
 そう思いながら歩いていた。その時。
 カツンカツンカツンカツン…
 鷺仕舞ははっとした。
 自分の靴音にもう一人の靴音が重なっている。
 カツンカツンカツンカツン…
 その靴音は近付くでもなく、離れるでもなく、一定の距離をおいて鷺仕舞にぴったりついてくる。
 カツンカツンカツンカツカツカツ…
 鷺仕舞は急に歩調をかえた。だがもう一人の足音も鷺仕舞と同じ歩調で聞こえてくる。
 この間は気味悪く思っていたが、こう何度もやられるとさすがに腹が立ってきた。
「何々だよ一体!」
 そう言って振り返ったが背後には誰もいなかった。
「あれ…」
 ここは公園の端なので障害物といってもまわりに植えてある木ぐらいなものだった。
「また気のせいなのか?」
 カツンカツンカツンカツン
 気のせいなどではなかった。こんなにもはっきりと足音は聞こえてくる。
 鷺仕舞は突然振り向いたがまた誰もいない。
「いいかげんにしろよっ」
 そう言って歩き出したがまた足音が聞こえてくる。
 カツンカツンカツカツカツカツカツ…
 鷺仕舞は無視して歩き続けた。
 もうすぐ公園をぬける。鷺仕舞はそいつの顔だけでも見てやろうとカーブミラーを見ながら歩いた。
 そこには鷺仕舞の他に黒いジャケットを着た男が映っていた。
(こいつか!)
 その男は俯き加減でいるので顔は見えない。
 鷺仕舞は今度こそ文句を言ってやろうと振り返った。
「?」
 だがそこには男の姿が見当らない。
 鷺仕舞はもう一度カーブミラーを見た。
 いる。やはり黒いジャケットを着た男が鷺仕舞の七、八メートル後方に立っている。
 しかしもう一度振り返ると消えている。
 鷺仕舞は自分の背後とカーブミラーを何度も何度も見直した。
 そして鷺仕舞はやっと気付いた。その男が鏡にしか映っていないということを…。
「わあああああっ」
 鷺仕舞は叫び声を上げながら逃げた。慌てて部屋に駆け込む。
 その日はそれ以上のことは何も起こらなかったが鷺仕舞は一晩中眠ることが出来なかった。


 二・三日たったある日貼騙は鷺仕舞のアパートを訪ねた。鷺仕舞が無断欠勤しているためだった。
「鷺仕舞…?」
 貼騙は始めドアから出てきた男が誰なのか判らなかった。鷺仕舞の目は充血し、無精髭が生えていた。
「何があったんだ?」
 貼騙は友人の変貌ぶりに眉をひそめた。
 しかし鷺仕舞は何も言わずに貼騙を部屋に入れた。
 足を踏み入れた貼騙は自分の目を疑った。
 鷺仕舞の部屋はめちゃくちゃだった。部屋中の物という物はなぎ倒されあちこちに散乱していた。そして奇妙なことに部屋中の鏡がひとつ残らず割られていた。
「俺が割った」
 貼騙の背後に立った鷺仕舞は低い声でそう告げるとくっくっと笑い出した。
「こうすればあいつの顔を見なくてすむ」
 貼騙は意味が判らず突然笑い出した鷺仕舞を奇異の目で見つめた。
「鏡が…鏡の中の俺が笑うんだ。いや、あれは俺じゃない、あいつは人格を持っている…あいつは、あいつは…」
「鷺仕舞? おい、鷺仕舞っ」
 鷺仕舞は貼騙の声が聞こえないのかぶつぶつと呟き続けた。
「俺がもうじき死ぬだと? 笑わせるな、俺が一体何をしたっていうんだ? にやにや笑いやがって。俺は絶対死なねーぞ!」
「鷺仕舞っっ」
 今度は貼騙の声が聞こえたのか鷺仕舞は貼騙の方を虚ろな眼差しで見た。
「お前、どうしちゃったんだよ?」
 ここにいるのは本当に鷺仕舞なのか…。
 あの陽気な鷺仕舞の影は片鱗もなく、ここには目ばかりぎらぎらした男がいるだけだ。
「鏡だよ」
「鏡?」
「鏡の中の俺が『お前はもうじき死ぬ』って言うんだ」
 そう言った鷺仕舞の頬に涙が伝わった。
 笑ったかと思うと泣き出す。鷺仕舞の神経はもはや狂っていた。
「でももう大丈夫だ。鏡を割ったからあいつは俺の前に出てこれない」
 貼騙は鷺仕舞の笑顔を見てぞっとした。
 …………狂気…………
 そういう言葉がしっくりくるような微笑だった。
「鷺仕舞…お前疲れているだけだよ。もう寝ろよ。な?」
「ざまあみろ。出てこれるもんなら出てきやがれ!」
「鷺仕舞っっ」


「っ…」
 鷺仕舞の目に暗い天井が映った。
 寝ていたせいかいつもより頭がすっきりしている。鷺仕舞はゆっくりと立ち上がった。
「貼騙」
 隣で貼騙が眠っている。突如倒れた鷺仕舞を心配して様子を見ていたのだろう。
 カーテンの隙間からうっすらと光が射し込んでくる。
「五時」
 鷺仕舞は時計を見た。
 チリンチリンチリン
 新聞配達の自転車がベルを響かせながらマンションの前を通り過ぎて行く。遠くで犬が吠えている。
 いつもと変わらない早朝の様子だった。
 ザッザッザッザッ
 誰かがジョギングでもしているのだろうか、足音がこちらへ近付いてくる。
 しかしその足音はマンションの真正面でピタリと止まった。歩いてくる気配すらしない。
 疲れて立ち止まっているのだろう。鷺仕舞はそう思い、大して気にも留めなかった。
 今日は会社にも行けそうだ。でも大事をとってもう一日休もうか…。
 しばらくの間そんなことを考えていた。貼騙はまだ眠っている。
 ザッ…
 鷺仕舞の耳に足音が聞こえた。
 さっきのジョギングの人がまだいたのか…。
 と鷺仕舞は思った。だが足音はそれっきりしなくなった。
 ザッ…
 しばらく経ってまた靴の音がした。
 …変だ。鷺仕舞はそう感じた。なぜこんなにゆっくり歩く必要があるのだろう。まるで一歩一歩近付いてくるみたいだ。
 ザッ…
 速くもなく遅くもなく一定の速度を保ちながら足音は徐々に近付いてくる。
 その足音には聞き覚えがあった。
 間違いであってほしいと願いながらも鷺仕舞は鳥肌が立つのを感じていた。
 カーテンの隙間から外を覗いてみる。
 鷺仕舞の部屋は三階にある。
 その鷺仕舞の部屋と向き合うような格好で男が一人立っていた。
 顔は俯き加減だがその男はあの夜と同じ黒いジャケットを着ていた。
 鷺仕舞は見間違いかと思った。だが間違いではない。
 鏡にしか映らないはずのその男は確かにそこに存在していた。
 男は不意に顔を上げた。
 その顔は紛れもなく鷺仕舞陣平そのものであった。
「!」
 鷺仕舞は慌てて窓から離れたが背後に気配を感じた。
 鷺仕舞は振り返ることが出来なかった。
 脂汗が流れ始め、心臓の音がいつもより大きく聞こえる。
 鷺仕舞は貼騙を起こそうとした。しかし貼騙は一向に起きようとしない。寝ているというよりは眠らされているといった状態だった。
「無駄だよ」
 その声に鷺仕舞は振り返る。自分の声だ。
「悪あがきはよせよ。お前はもうすぐ死ぬんだから」
 その男は楽しそうだった。微笑みすら浮かべている。
 鷺仕舞は吐き気を覚えた。自分の顔をこれほどまで恐ろしく感じたことがあっただろうか。
 鷺仕舞の顔と声を持つその男はくっくっと笑い出した。
 笑い声はだんだん大きくなる。
「わあーっっ」
 鷺仕舞は耳を塞いで部屋から飛び出した。


 もうどのくらい走っただろう。胸が苦しい。
 鷺仕舞は走るのをやめ、息を整えた。
 カツンカツン…
 背後から靴音が聞こえてくる。
 鷺仕舞は反射的に振り返った。誰もいない。しかし足音ははっきりと聞こえてくる。
 鷺仕舞はその音から逃れようと再び走り出した。
 だが走っても走っても、靴音は鷺仕舞が足を止めた途端に聞こえてくる。
 カツンカツンカツン…
「やめ…、やめてくれーっっ」
 無駄だとわかっていても鷺仕舞は走り続けた。
 いつしか鷺仕舞は街中に出ていた。
 鷺仕舞は苦しさに足を止めた。靴音は聞こえない。
 周りの店が開店の準備をしている。鷺仕舞はそれを横目にショーウィンドウにもたれかかった。
 鷺仕舞はショーウィンドウを見て、一瞬びくっとした。
 鏡が置いてあった。だがそこに映っているのは正真正銘鷺仕舞本人だったので安心した。
 が、その安心は三秒と持たなかった。
 鏡の中の鷺仕舞は黒いジャケットを着ていたのである。
 そしてこっちを見て何か言っている。
 鷺仕舞は動けなかった。血を吸ったような赤い唇がゆっくりと動く。
『も』
『う』
『す』
『ぐ』
『し』
『ぬ』
『よ』
 声こそ聞こえないが確かにそう言っている。
『もうすぐしぬよ』
 その言葉は鷺仕舞を恐怖の底に突き落とした。
「死なない! 俺は絶対死なないぞっ」
 鷺仕舞はショーウィンドウに向かって絶叫し、道路に飛び出した。
『モウスグシヌヨモウスグシヌヨモウスグ…』
 鷺仕舞を嘲笑うかのように、その言葉はぐるぐると脳裏をまわる。
 大型トラックが角を曲がってきた。
 そんな鷺仕舞にはトラックのクラクションが聞こえなかった…。


「ねえねえ知ってる? 今朝、人がひかれたんだって」
 高校生ぐらいの女の子が二人の仲間にそう告げた。
「あ、知ってる。トラックにでしょ」
 もう一人の少女が答えた。開襟シャツの白さがやけに眩しい。
「それで今朝渋滞したのね。私遅刻しちゃったわよ」
 三人目の少女が少し怒り気味に言った。
 移動教室の途中だろう、三人とも教科書を手にしている。
「でもスクールバスに乗っていたんでしょ?」
「なーんだ。じゃあ遅刻にならないよ」
「そうなの? よかったあー」
 三人は階段を昇り始めた。
「あ、ちょっと待って。リボンがほどけちゃった」
 少女の一人が立ち止まった。
「あ、本当だ」
「ねえねえ、あそこの鏡でなおしたら?」
 階段の途中の踊り場に姿見があった。
「ねえ、次何だっけ?」
 髪をなおしながら少女が聞いた。
「LHRじゃなかった?」
 キーンコーンカーンコーン…
 少女がそう答えた時チャイムが鳴り始めた。
「あ、大変っ」
 三人は一斉に走り出した。
 しばらく行って一人が呟いた。
「あれ、あんな所に鏡なんかあったっけ?」



 END



《コメント》

鏡に映っている自分は本当に自分なのか?もしもこの分身に人格があったら怖いだろうなあ。
この作品の執筆動機は、そんな素朴な疑問からでした。
渡田貴紀、最初で最後(?)のホラー作品です。夜中に一人で書いていたこともあってか、少しの物音にも過敏に反応していたことを思い出します。
鷺仕舞が怯える姿に、そんな私の様子が反影されていたことは言うまでもないでしょう(笑)。


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