知らない食卓  渡田貴紀

 キッチン。窓辺には花柄のカーテン。そして写真立てには二人の写真。寄り添って笑っている。
 いつものように朝が始まる。テーブルの上にはスクランブルエッグ、トースト、サラダ、コーヒー…。
 「あなたーっ、ごはんよー」
 私はいつものように夫をよぶ。一分、二分、三分、四分、五分…。
 「おはよう、小百合」

 夫はいつも五分きっちりに食卓にあらわれる。
 「おはよ。じゃあ、食べましょうか」
 いつもの食卓にいつもの会話。結婚からもう三年経つけれど夫は昔と変わらずにやさしい。幸せ者だなぁ、私。
 「あ、そうだ。グレープフルーツもあるの。食べる?」
 「え?いや、俺はグレープフルーツは…」
 「ああそうだったわね。ごめんなさい」
 好き嫌いのない夫が唯一食べられないもの―それがグレープフルーツだった。長い間食卓にのぼることがなかったので私はすっかり忘れてしまっていた。

 「じゃあ行ってくるよ」
 「行ってらっしゃい。今日は何時頃帰ってくるの?」
 夫は私の一言に目を丸くした。
 「今日は帰らないよ」
 「あ、そうか今日から出張で東京に行っちゃうんだったっけ…」
 壁に掛かっているカレンダーに目を向ける。“諭さん出張”とマジックで書かれてある。それを書いたのは自分だった。
 最近何だか忘れっぽい。そして、何かを思い出そうとするとひどく頭が痛む。
 「どうした?疲れているの?」
 心配そうに覗き込む夫に、大丈夫だからと笑ってみせた。

 夫を送り出した後いつものように掃除をし、いつものようにひと休みしているとチャイムが鳴った。
 「こんにちは」
 近くまで来たからと野田さとみは言った。
 「それと、この間の同窓会の写真できたからついでにと思ってね」
 「わざわざありがとう。ねぇ、お茶でも飲んでいかない?」
 にこにこと微笑みながら言った。

 学生の頃のように話が弾み、気が付いたら五時間も経っていた。
 「それじゃ、またね」
 「うん、楽しかった。じゃあね」
 また来るね、と言ってさとみは振り返った。その視線の先にはカレンダーがあった。
 「諭さんとまだ一緒に住んでいるの?今でも兄妹仲がいいんだね」
 「え?」

 さとみが帰り際に言った言葉が耳から離れない。
 兄妹? 誰と誰が? 私と諭さんが?
 彼女は何を言っているのだろう。私と諭さんは三年前に結婚して…。結婚…して?
 そういえば、結婚式の写真ってどこにしまったんだろう。
 確か白いウェディングドレスで…。否、水色だったかも…。

 どうしてこんな肝心な事を忘れているんだろう。でも写真を見ればきっと思い出す。
 「そうか、写真」
 そう、写真を見ればはっきりする。昔の写真を見ればさとみの言葉が間違いだと分かるだろう。それにしても何という勘違いなのだろう。私と諭さんが兄妹だなんて。馬鹿げている。
 昔の写真はどこにしまったかしら。お嫁に来る時に持って来たはず…。
 机の引き出し、箪笥。散々探し回ってみたがそれらしいものは見当らなかった。
 「ないなぁ」
 どこにいってしまったのか、写真というものがまったく無いのである。
 「おかしいなぁ」
 思い出そうとするのだが、頭が痛い。

 突然、ガシャーンという音が静かな家中に響いた。
 「あ」
 写真立てが風にあおられて床に落ちていた。ガラスの破片が床に飛び散っている。
 そういえばこれはこの家にある唯一の写真だなと思いながら、拾いあげた。
 「いつ撮ったものだったんだろう」
 何気なく裏返した写真に書かれていた文字は三年前の日付と、そして…。
 「何で…?」
 私は、三年前に書かれたのであろう自分の文字を信じられない思いで眺めていた。

 ピンポーン。
 どのくらい時間が経ったのか覚えていない。気が付くとスーツ姿の男が目の前に立っていた。
 「ただいま。参ったよ、帰りの新幹線のチケットが取れなくて…って、どうしたの、お化けでも見るような顔して」

 目の前に立っているこの男は一体誰なんだろう。
 この人は私の夫。私の最愛の人。この人は…、この人は…。
 頭が…頭が割れるように痛い。
 この人は……誰?
 走馬灯のように色々な場面が目の前に広がって来た。

 足元に誰か倒れている。
 誰…?この人は誰なんだろう?
 何で血塗れになっているの?
 何で私、赤いウェディングドレスなんか着ているんだろう?
 何で私、ナイフなんか持っているの?
 ……何で結婚できないなんていうの?
 諭さんが血だらけの私を抱き締めて何か囁いている。
 「大丈夫だよ。俺がお前を守るから。だからお前は安心してお眠り。これは悪い夢なんだ」
 じゃあ、目が覚めたらきっと元通りになるのね。私の問い掛けに、諭さん…否、諭お兄ちゃんは私の大好きな笑顔で微笑んだ。

 「小百合、どうしたんだ?」
 「諭…お兄ちゃん?」
 「小百合、お前記憶が…」
 その言葉を聞いて私はゆっくりと意識を失っていった。
 すぐ横で私を呼ぶ声が聞こえる。でも私はもうしばらく眠っていたいと思う。大丈夫。もう頭は痛くないから…。
 キッチン。窓には花柄のカーテン。写真立てには二人の写真。その裏に書かれていたのは…。
 『大好きな諭お兄ちゃんと』という文字と三年前の日付。
 泣かないで、諭お兄ちゃん。もう少ししたら目を覚ますから。だけどここは…。
 ここは知らない食卓。


 
・終わり・



《コメント》

 
この作品は、冒頭部分だけを書いてほったらかしにしていたものです。ラストは当初考えていた物と全く変わっています。そりゃそうだ、覚えてないものね。恐ろしいことに、九年は経っているのですもの! きゃーっっ。突っ込み所満載小説ですみません。辻褄が合わなすぎる。本当は鬼畜な切ない系の近親相姦物にするつもりでした。兄が妹を好き過ぎて…とかいう風に…。すみません、地味で。

 私事ではあるのですが、最近人間関係で辛い事がありまして(またか、というHACメンバーの突っ込みが聞こえてきそうー)、忘れてしまえたら!と思うことも多々あります。あー、刺し殺してやりたい。という私の思いからあのラストは生まれました。大ダメージ。可愛さ余って憎さ百倍。仏の顔も三度まで。落ち込んでいます。でもその方が創作意欲が湧くのですよ、私の場合。そういう意味ではその人に感謝かなぁと…(笑)。


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