彼女のいた風景   草薙あきら

 私がまりちゃんをころしました。
 だいきらいだったから。いつもしねばいいって思ってた。
 カッターナイフをせなかにつき立ててななめにひくと、血があふれました。
 ひとのからだってやわらかいね。ねんどみたい。
 まりちゃんはたおれるとうごかなくなりました。私はうれしくてうれしくて、わらってしまいました。
 私がまりちゃんの家にやってきたのは、夏もおわりかけてすずしくなりはじめたころでした。お母さんの手にひかれて私はまりちゃんちの大きな門をくぐりました。
 大きなおうち。ひろいおにわ。私が今まですんでたところとはぜんぜんちがう。どきどきしました。今日からこの家にすめるんだ。
「いい子にするのよ。お父さんたちのいうことはよくきくのよ」
 私はうん、といいました。

 その日からまりちゃんのお父さんは私のお父さんに、まりちゃんは私のおねえさんになりました。

 まりちゃんはかみがとてもながくて、色の白い、にほんにんぎょうのような女の子でした。フリルのついたおようふくがとてもにあっていました。
 私はまりちゃんとなかよくしたいと思いました。でも、まりちゃんは思ってなかったようでした。
 まりちゃんは私とお母さんになんどもいじわるをしました。じぶんのしっぱいをすぐ私たちになすりつけたし、ぼうでたたいたり、ひどいときはものおきの中にとじこめられて一日中でられなかったこともありました。
 そのたんびに私たちはおしゅうとめさんにおこられました。私は、このおしゅうとめさんもだいきらいでした。まるで私たちにどなることを生きがいにしてるような人でした。
 まりちゃんの方がどんなにわるくても、悪いのは私たちになりました。
 私はまだいい。でもお母さんはとてもかわいそうでした。もうしんだまりちゃんのお母さんといつもくらべられて。
 まりちゃんのお母さんはせいしんびょうだったってききました。あたまのおかしい人の方がいいなんてきっとあのばばあのあたまもくるってるんだ。
 お父さんはいてもいなくても同じでした。お母さんがおしゅうとめさんにおこられていてもしらんぷりでした。お父さんはおいしゃさまでとてもえらいのよってお母さんはいってたけど、そうは思えませんでした。しゃべったこともほとんどなかった。だからお父さんもきらいでした。
 私はまりちゃんがゆるせませんでした。
 わがままなせいかくも、おにんぎょうのようなかおも、なにもかも。まりちゃんは私の持っていないものをたくさんもっていたから。
 でも、一番ゆるせなかったのは…。


【由貴子の章】

 私はクラスメイトの司堂真理のことが好きだった。
 彼女とは小学校の頃からずっと一緒だった。その頃から私は真理のことが好きだった。
 頭が良くて、華奢な割にはスポーツもよく出来る彼女はいつでも人気者だった。それにくらべて私は頭も運動神経もルックスも十人並みだし、消極的で、存在感の薄い人間だ。そんな私を彼女は疎ましがらず、大切に扱ってくれる。そのことだけで、私は誇らしい気分になった。
 真理はその上、とても美しい容姿をしていた。才色兼備とはまさにこのことだろう。
 腰の辺りまである黒い艶やかな髪、きめの細かい象牙色の肌、すらりと伸びた手足、そして大きな瞳が印象的な整った顔立ち。非の打ち所がない、と言っていいだろう。私は、自分が引き立て役にしかならないことがわかっていても、彼女のそばにいた。私は、一点の曇りもないガラス細工のような彼女を崇拝していたのだ。
 でも私には不満に思うことが一つだけあった。
 初めに気付いたのは小一の水泳の時間だった。その時は別に気にも止めなかったが、年を経て真理が美しくなるにつれて、それは私にとって我慢ならないものになって行った。中学の修学旅行の時、私はつくづくそれを思い知った。
 彼女の背中には斜めに切り裂いたような傷痕があった。
 彼女の完璧なまでに美しい体に、赤い蚯蚓脹れのような切り傷があることが、私には許せなかった。
「その傷どうしたの?」
 一度訊いてみたことがある。でも真理は笑って、
「何でもないの、小さい頃、ちょっとした事故でね」
 と、曖昧に答えるだけだった。言いたくないことなら別に構わない。誰だって人に知られたくないことの一つや二つあるから。でも私が不満に思う気持ちは変わらない。一体誰がこんなことをしたのか。見つけたらただじゃおかない。殺したって足りないくらいだと思った。


 高校に入って真理は図書委員になった。
 読書が好きだった私はカウンタ−当番の彼女に付き合って、よく放課後図書館に行った。放課後は来る人もほとんど無く他愛もないお喋りに興じているうちに時間が来ることもしばしばだった。
 ある男子生徒の姿が放課後の図書館に現れるようになったのは五月の半ば辺りからだったろうか。しかも彼は真理がカウンター当番の日に限ってやって来る。真理目当てで来ていることは誰の目にも明らかだった。真理は綺麗だから気持ちは分からないでもないけど、何となく面白くない。
 毎回本を借りていき、その際二言三言喋る程度なのだが、私は彼を真理に近付けたくなかった。嫉妬、かも知れなかった。
 認めたくないことだが、その男子生徒は真理の相手として見合う容姿をしていた。これが不格好な男だったら私だって気にも留めなかったはずだ。
 私は真理と釣り合うような人間ではない。
 そんな思いも嫉妬の要因かも知れなかった。
「あの人よく来るね」
 ある時、私は例の男子生徒が立ち去った後、真理に訊ねた。
「そうね」
 と、彼女はあっけない。彼のことなど気にも留めていないのだろうか。少しほっとしながら続ける。
「誰なの? 同じ学年?」
「そうみたいね。隣の一組みたい。図書カードには学年、クラス、番号しか書いてないから名前はわかんないけど…どうかしたの」
「…別に。でもきっとあの人真理のこと好きだと思うな」
 私が言うと、彼女は笑った。
「どうかな…でもそうかもね」
 見え透いた否定をしない所も、私は好きだ。そういう物言いが彼女には許されると私は思っている。
 それからちょっとして、例の男子生徒は弥上という名だということを知った。でもそんなことどうでもいいことだ。私の邪魔さえしなければ。
 私は真理のそばにいられればいい。この先もずっと、ずっと一緒にいられれば――。


【真理の章】

 最近、いつも頭がぼんやりしている。椅子に座ると目を開けていられない。
 体はいつも軽い倦怠感に包まれている。軽い、というのがなまじ良くなかった。今も頭の斜め後ろ辺りを睡魔が漂っている。眠い。このまま机に突っ伏してしまおうか。
 別に夜更かしをしてる訳でもない。運動部に所属してる訳でも。
 一体何なんだろうなと思う。
 きっと入学した当時の緊張が薄らいできているのだろう。もう三カ月近く経つし。もうすぐ夏休みだ。
 漸く授業が終わった。授業が終わると途端に眠気が覚めるのは何故だろう。
「真理、一緒に帰ろう」
 クラスメイトの楠瀬由貴子が私の席に来て言った。
「いいよ。でも今日カウンター当番があるの。どうする?」
「もちろん待ってる」
 由貴子は嬉しそうに答える。私は頷いた。
「わかった。一緒に行こう」
 私達は並んで図書館に向かった。
 由貴子とは小学校の頃からの付き合いだ。彼女は何をするのも私と一緒じゃなきゃ嫌だという子だった。
「司堂さん、いつも楠瀬さんにまとわりつかれてるけど、鬱陶しくない?」
 と訊かれたことがある。でも鬱陶しいと思ったことなど一度もなかった。まして、まとわりつかれている、という認識も。自分を必要としてくれている人間がいるということを嬉しく感じたことはあったけれど。
 図書館は相変わらずがらんとしていた。私はいつものようにカウンターに座り、由貴子は椅子を持って来てカウンターの外側に座る。
「今日来るかな」
 由貴子が言った。
「何が?」
「ほら、弥上って言う奴」
「さあね…」
 また眠くなってきた。こういうのって春先だけかと思ってたのに。
「真理、来たよ!」
 由貴子の声で我に返った。
 見れば弥上が借りていた本を持ってこちらにやってくる所だった。
 弥上は、よく放課後図書館に現れる少年だった。背が高くて結構な美少年だ。髪を短く刈っていなければ、女の子のように見えるかも知れない。男子校でもてそうなタイプだ…と、これらは全て由貴子の見識だ。私はカウンターに来る人間の顔なんてろくに見ない。
 ただ、彼はいつも何か言いたげだった。結局いつも何も言わず去って行くのだが。
「何か?」と訊く気にもならなかった。大体私は弥上、という名前自体に我慢ならないものを感じていた。
 今日も彼は「ここ冷房入らないの?」などという質問をしただけで帰って行った。よくわからない。


 四時半になると私達は図書館を出、帰途についた。
 家に着いたのは五時半くらいだった。ドアを開けると玄関先に見慣れない靴があった。
 男だ。
 私は後ろ手でドアを閉めて、靴を脱いだ。居間を通らず自分の部屋に向かおうとしたが母は目ざとく私を見つけていた。
「真理、ちょっと来てちょうだい」
 行きたくなかった。でも行かない訳にはいかない。
 居間には、母の横にうさん臭い男が座っていた。がっしりとした山男のような体格の男だ。眼鏡をかけてインテリに見せようとしているらしいが、まるで不似合いだった。
「この前話したでしょう、同じ職場の久保さん」
 母が嬉しそうに紹介する。私は軽く頭を下げた。
「…へえ、えらく美人な娘さんがいたもんだ。驚いたな」
 久保はそう言って私の体をなめまわすように眺めた。私はこの手の視線が嫌で嫌で仕方がなかった。今まで何人の男に似たような視線で見られたことか。
 私はくるりと踵を返すと、自分の部屋に引きこもった。
 …お母さん。
 私は母が大好きだった。母のためなら何だってした。
 なのに母は私の嫌がることばかりする。
 今までに何人、この家に男を連れて来たの?
「私は私を支えてくれる人がいないと生きて行けないの…」
 そういう母をもう哀れみの目でしか見ることが出来なくなっている自分が悲しかった。
 お母さん、私の嫌いなお母さんにならないで…。


 ぼんやりがなくなったかと思うと、ひどい頭痛に悩まされることになった。薬を飲んでもほとんど効かない。歩いていても宙を歩いているようで何か変だ。病院に行った方がいいかもしれない…そう思い始めた頃、私は倒れた。
 気がつくと保健室にいた。
「病院に行った方がいいわね。お母様に今から迎えに来てもらって…」
 保健の先生が言うのを、私は遮った。
「母は仕事でいません。私、一人で行けます」
 先生が止めるのも聞かず、私は保健室を出た。痛みは嘘のようにおさまっていたので、病院には行かず家で眠ることにした。
 …何時間くらい眠っていただろう。ふと人の気配で目が覚めた。窓の外はいつの間にか真っ暗になっている。
 母が帰って来ているらしい。私は居間に向かおうとし…動きを止めた。
 衣擦れの音がした。そして、甘やかな囁き声。
 久保が来ている。
 私は寒気立つのを感じた。耳を塞いで、布団をかぶる。
 私が頭痛で苦しんでいる間に母は快楽に耽っていた。
 私のことなんかどうでもいいんだ。私のことなんか何もわかってない…!
 何もかも、壊れてしまえばいい。


 由貴子は案の定、私を心配していた。
「大丈夫。ちょっと疲れてただけだから」
 本当は全然大丈夫じゃなかった。今も割れそうに痛い。
「そう言えば今日カウンター当番だっけ…」
 私が言うと、由貴子は不安そうに言った。
「休んだ方がいいよ。どうせ人あまり来ないし」
「ううん。行く」
 家には帰りたくなかった。
 放課後、図書館に向かう。もちろん由貴子も一緒だ。そして、いつもの場所に座る。頭痛は少しやわらいでいた。
 しばらくすると弥上が現れた。由貴子が彼に射るような視線を投げかけている。
 彼はカウンターの所までやって来ると、言った。
「本の予約をしたいんだけど」
「あ、はい。何て言う本?」
 彼は書名を言った。私は予約の紙にそれを書き込む。
「クラスと番号と名前を」
 続けて私は訊ねた。…


 家の中は真っ暗だった。今日は久保は来てないらしい。
「どうしたの。明かりもつけないで…」
 言いかけて、私は足を止めた。床に液体が…?
 母は座りこんだまま動かない。外からの淡い光が母の頬の涙の筋を照らしていた。
「…もう疲れたわ。…何もかも…どうでもいい…」
 母の口から洩れた渇いた言葉。ああ、もう終わったのかと私は思った。
「もうやめよ。終わりなのよ…ふ…ふふふ…」
 引きつったような笑い。そして私を見上げる。
「ごめんね真理。嫌な思いばかりさせちゃったね。もう終わりにするから…だから…」
 その後の台詞を、私は予想していたような気がする。
「一緒に、死んで」
 私は頷いていた。にっこり笑って。
 母の持つライターが床に触れると、瞬く間に炎が私達を包みこんだ。
「お母さん…」
 やっと、私だけの物になったんだね。やっと私が大好きなお母さんに戻ってくれたね。
 ほら、手を伸ばせば、すぐ届く距離にいる。
 炎がこんなにうるさいものだとは思わなかった。体が焼けるように熱い。いや実際焼けているのだろう。息が、苦しくなる。
 でもお母さんが一緒だから、怖くなんかない。
 炎の赤色が、目の前で弾けた。


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