【弥上の章 その一】

 司堂真理が死んでから三カ月が経とうとしていた。
 僕はまだショックから完全に立ち直ることが出来ずにいた。
 彼女とよく一緒にいた楠瀬由貴子は目に見えてやつれてしまった。そんな彼女の姿を見る度に悲しみは深まるばかりだった。
 司堂真理が死んだと聞いてからの一週間はショックで学校に行くことも出来なかった。
 心中、だったという。彼女達の遺体は炭になっていたという事実も僕を悲しみの底に沈めるには十分だった。
 僕は彼女のことを高校に入るずっと以前から知っていた。多分、楠瀬由貴子が彼女を知るよりも以前から。
 僕は彼女のことを忘れることが出来なかった。だから、高校の入学式の新入生代表で彼女の名が呼ばれた時、そして彼女の姿を見た時はドキドキした。また再会できるなんて思っても見なかった。
 彼女は僕の想像通りに成長していた。
 儚げで、抱きしめたら消えてしまいそうな可憐な容姿。あの頃の印象そのままだった。
 僕は彼女に声をかけようと思った。でもなかなか出来なかった。
 僕は彼女に対して取り返しのつかないことをした――そのことが僕を卑屈にさせていた。
 でも、彼女に近づきたい気持ちは止まらなかった。彼女はきっと僕を見たって誰なのかわからないだろう。それはそれで構わない。
 ただ、純粋に彼女と話がしたかった。
 あの頃の僕とは違うんだということを知って欲しかった。
 僕は図書館に通った。彼女がカウンター当番の日を狙って。
 クラスが違う僕が彼女と親しくなる機会はこれくらいしかないと思った。図書館なら人もあんまりいないから、人目を気にする必要もなかった。
 楠瀬由貴子の存在は予想外だった。彼女はいつも挑むような視線を送ってきて、僕をいたたまれなくさせた。彼女は司堂真理のそばにいつもいたから、彼女に近づく者は許せなかったのだろう。
 司堂真理はやはり僕を覚えていなかった。それとも知らないふりをしていただけだったんだろうか?
 いずれにしても僕は何となくほっとした。もし彼女が僕を思い出したら…どんな顔をするだろう。そして僕はどんな顔をすればいいんだろう。
 僕はなかなか彼女とこれといった会話が出来なかった。そうしている内に、終わりの日は来てしまった。
 その日僕は、図書館で本の予約をした。
「本の予約をしたいんだけど」
 楠瀬由貴子の視線を気にしながら、僕は言った。
「あ、はい。何ていう本?」
 司堂真理は言った。僕は書名と、それに続いてクラスと番号、名前を告げた。
「やがみ…まこと?」
 彼女が顔を上げて僕を見る。「まことって、どういう字?」
 僕はぎくりとした。馬鹿なことをしたと思った。でも、親しくなれば、いつかは告げなくてはならないことだ。躊躇った後、僕は答えた。
「司堂さんと同じだよ」
「え?」
 鉛筆を持って走り書きする。『真理』
 彼女の表情が凍りついた。

********

 一番ゆるせなかったのは、私と同じなまえだったということです。
 お母さんがつけてくれたこの「真理」というなまえが私はだいすきでした。それなのにこのだいきらいなまりちゃんと同じなまえだなんて。
 まりちゃんといっしょだなんていやです。おしゅうとめさんは「おなじまりでもおまえはなんていやな子なんだろう」といってたたきます。すきで同じなまえになってるわけじゃないのに。私はまりというなまえがきらいになりました。
 まりちゃんが私と同じなまえじゃなかったら、こんなにきらいにはなっていなかったかもしれません。
 家の中ですきだったのはお母さんだけ。お母さんさえいればなんにもいらない。なのにお母さんはなんてかわいそうなんだろう。お母さん、私はお母さんがよなかにないてたこと、しってたんだよ。
 お母さんは私がまもってあげる。
 そのためにはまりちゃんをころさなくちゃいけないと思いました。だから、ころしました。


【弥上の章 その二】

 彼女の表情が凍りついた。でもそれは一瞬のことだった。
 すぐに笑顔に戻ると僕を見上げる。「それじゃ、返ってきたら図書委員を通じてお知らせするわね」
 彼女の持つ鉛筆が「真理」と書くのを僕は黙って見ていた。
 そして、次の日彼女は学校に来なかった。
 担任が必要以上に悲痛な面持ちで「悲しいお知らせ」を告げた。
 どうして…?
 僕はしばらく放心状態に陥った。僕が自分の名前を、自分の正体を告げたことがすべての引き金になっているような気がした。尤も彼女が本当に僕のことを思い出したのかは、わからないけれど。
 僕は激しく後悔していた。あの時、名前を告げた時点で全てを打ち明けていればよかった。
 そして謝っていれば―――もう何もかもが遅すぎる。
 背中の傷が、きりりと痛んだ。もう完治しているはずなのに。…この傷でさえ僕は愛しく思っていた。彼女と同じ傷。どんなに彼女の記憶が薄らいでも、この傷がある限りきっと忘れなかったろう。


 ―――この傷をつけられたのは、まだ小学校に上がる前だった。
 母が死に、父は再婚することになった。その再婚相手だったのが司堂真理の母親だった。確か医者である父の患者だったと聞いている。彼女は真理を連れて、この家にやって来たのだった。彼女もまた再婚だった訳だ。
 僕はその頃激しく屈折した少年だった。…いや、少女と言った方がいいかも知れない。母は精神病患者だった。母は僕を女の子として育てていた。僕もその頃は自分を男だとは思ってなかった。
「まり」と呼ばれ、本当の名は「まこと」だなんて思いもしなかった。母の死後もそれは続けられた。母の遺言だったのかも知れない。考えてみればあまりにも異常な家庭だった。
 僕は真理の…彼女の二ヵ月年上の姉になった。
 僕は本当はとても嬉しかったのだ。正常な母と、美しい妹を持って。
 でも僕は天邪鬼だった。僕は彼女らにひどい嫌がらせをした。僕を見て欲しい。僕に構って欲しい。ただそれだけのことで。祖母がその嫌がらせに拍車をかけていた。
 祖母は息子の嫁に、何の富も名誉もないことが気に食わなかったらしい。
 ある時、僕は彼女の美しい白い肌に触れてみたくてしょうがなかったことがあった。彼女の肌は自分の病的な青白い肌とはまるで違っていた。
 でも僕は、何てことをしてしまったんだろう。父の書斎から持ち出したペーパーナイフで、彼女の背中を斜めに切り裂いてしまったのだった。
「痛い? 痛いよね」
 そう言って僕は彼女の背中に触れた。鮮血に染まる白い肌に。そういうやり方しか、僕は出来なかった。
 ペーパーナイフは本来、刃物ではない。その上彼女は医者に…それどころか親にもその傷を見せることなく過ごしたらしい。
 彼女の背中は醜く変色して、傷痕はくっきり残ってしまった。
 こんなことをしてしまった自分が嫌になる。消えてなくなってしまいたい。それなのに僕は彼女をいじめ続けた。頭のどこかで制止の声が聞こえていたはずなのに、僕は立ち止まる術を知らなかった。
 その日、彼女は自室で本を読んでいた。彼女はいつでも僕に従順だった。それが、母親の立場を考えてのことだということを僕は知っていた。
「まりちゃん、何読んでるの?」
 僕が訊ねると彼女はおどおどした視線を向けた。僕は笑って言った。
「まりちゃんはえらいね。でも知ってる? おうちのなかにまりって子は一人でいいのよ。だからでてって」
 彼女が顔を伏せる。僕は調子に乗っていた。
「お母さんもあんたはいらないんだってさ。でていくよね? そうしなきゃまたお母さんおばあちゃんにおこられちゃうよ」
 僕は笑った。
「はやくでてって! おかあさんはこれから私だけのものよ。私だけの…」
 はっとして僕は口を噤んだ。言い過ぎたと思った。でももう遅かった。彼女の大きな瞳から大粒の涙がこぼれ落ちる。その瞳は殺意に満ちていた。
 気がつけば、背中をカッターナイフで切り裂かれていた。痛みで声が出ない。床に倒れた僕を、彼女は笑って見下ろしていた。初めて聞く笑い声だった。
 そして言ったのだ。
「お揃いだね」と―――。


 目を開けると、病院のベッドの上だった。
 驚くほど近くに祖母の顔があった。僕の顔を見ると、わっ、とベッドに泣き伏した。「よかった」を繰り返している。
「…まりちゃんは…?」
 僕は呟くように訊ねた。途端に祖母はきっ、と恐ろしい顔をして宙を睨んだ。
「追い出したに決まってるだろう! 親も親なら子も子だよ。恐ろしい娘だ。鬼だよ、鬼!」
 早口で祖母はまくしたてている。でも僕の耳には届かなかった。
 追い出した…?
 もういなくなってしまったの?優しい母親も、自慢の妹も。
 学校に行ったら自慢するつもりだった。私の妹はこんなにかわいいんだよって。
 いない…家に帰っても…もう、どこにも。
 涙があふれた。
「ああかわいそうに…痛いのかい?今先生呼んでくるからね」
 立ち上がる祖母の肩越しに窓外の景色が見えた。
 暗闇の中、雪が舞っている。音もなく。
 こんな寒い夜に彼女達は行くあてもなく街をさまよっているのだろうか。
 いつまでも、いつまでも―――。


【終章】

 司堂真理がいなくなってから二年と半年。
 楠瀬由貴子も弥上真理も卒業を間近に控える時期になった。
 彼女は時が経つ毎に忘れられて行く。
 でも彼らはきっと忘れないだろう。
 彼女を好きだったこと。
 その思いを、彼女のいた風景に閉じ込めて。


 END



《コメント》

ミステリーを読むのが好きなので、自分で書いてみた叙述ミステリーです。
と言うのも、トリックとか考えるのが苦手なので。
読み返してみるとあっさり先が読めてがっかりしました。


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