何度も見る夢がある。
少女が出てくる。年齢は…七、八歳くらいだろうか。
色が白い。瞳は大きめの二重瞼で、いわゆる鳶色をしている。髪の色は赤茶色だ。肩の辺りで切り揃えている。
何故だか私は、彼女が色素欠乏だからそんな容貌をしているのだということを知っている。
整った容姿をしている。名前は…ミサキということを知っている。
ミサキがスカートを翻して笑う。
私は食い入るようにそれを見ている。
目が覚めると、大抵私はその夢を鮮明に覚えている。
他の夢は目が覚めると全然覚えていなかったり、虚ろにしか覚えていなかったりするのだが、その夢だけは違っていた。
夢の中には「ミサキ」と認識している少女しか出て来ない。
その「ミサキ」を眺めている私は、どうやら彼女に恋をしているようだった。
私は夢の中で、いつもドキドキしていた。目が覚めてもその余韻が残っていることがあって、あまりの切なさに涙が出たこともある。
…この夢は何なのだろう。何か意味があるのだろうか。
私は幼い頃、事故にあって記憶喪失になっている。事故にあう以前の記憶が全くないのだ。もしかすると、その、失くした記憶の一部かも知れない。しかし、だとすると、私の気持ちが変なのだ。私は女の子に恋をしていたということになってしまう。私はノーマルのつもりだし…以前は違っていたと言われればそれまでなのだが。
母さんは前世の記憶なのではないかと言う。前世の記憶。その言葉は私にはとても甘やかなものに聞こえた。前世ではきっと私は男だったのだ。そして「ミサキ」という少女に恋をしていた…。きっとそうなのだ。
『ウイルス-A235…感染後、一週間程度の潜伏期間を経、発病する。発病すると一日〜三日の内に完全に記憶が失われ、その後ウイルスは死亡する。記憶喪失とは異なり、失われた記憶は二度と戻らない。』
この町に戻って来たのは、母さんの話によれば十年ぶりだという。
私が記憶を失くすまで、私たちはこの町に住んでいたらしい。…しかし私は新しく住むことになったマンションの三階から町を見渡しても何も思い出すことが出来なかった。
お父さんが病死してから一年経つ。母さんがこの町に引っ越す気になったのは、きっとお父さんがいなくなって寂しくなったからだろう。だからお父さんとの思い出が多くあるこの町に戻りたくなったのだ。
その日私は転校第一日目を迎えていた。…私は半端じゃなく緊張していた。
高校生ともなると、みんな仲良しグループを作ってしまっていて、私なんか仲間に入れないんじゃないだろうか…不安な考えが次から次へと頭をよぎる。
職員室で椅子に座って、担任と顔合わせをしながら、私は既に精神的に疲れ果てていた。肝心なのはこれからだというのに。
と、一人の生徒が職員室に入って来た。
女の子だ。
一瞬にして私の視線はその生徒に釘付けになった。
白い肌、赤茶色の髪、大きな瞳。
あれは…あれは…あれは…。
ミサキではないか。
全く同じという訳ではない。夢で見ているミサキを十年分くらい成長させて、ショートカットにした、そんな感じだ。しかし、あれはミサキに違いない。私はそう確信していた。
その生徒は私の前にいた担任の所にやって来た。
近くで見ると、瞳の色も夢と一緒だ。
彼女はちらりと私の方を見、再び担任に視線を戻すと二言三言喋って職員室を出て行った。
「ミサキ…」
気がつけば私は口走っていた。…はっとして担任の顔を見上げる。
「水宮さん、知ってるの?」
担任が不思議そうに私を見た。動悸が激しくなる。
「今のは神代実咲っていう子でね、あなたの級友よ」
ミサキが目の前に現れた。
やはりあの夢は前世の記憶ではなく、私が失くした記憶なのだろうか。私は幼い頃ミサキに会っていた、ということになるんだろうか…。
でもあの恋愛感情はどう説明したらいいんだろう。私は…ミサキのことが本当に好きだったのだろうか?
「あの…」
友達と談笑していたミサキ――実咲の所に私は歩いて行った。小声で声をかける。一斉に視線を向けられ、私は一瞬口ごもった。
「何?」
実咲が微笑みかけてくれる。髪が短いから、活発そうな印象を受けるが、相変わらず端正な容姿だ。
「前に会ったことありませんか?」
言ってしまってはっとした。変な奴と思われるのではないだろうか。
案の定、実咲のまわりの娘たちは怪訝そうに顔を見合わせている。
鼓動が高まる。赤面しているのだろう、顔が熱い。
実咲はゆっくりと首を傾げた。
「さあ…どうだろ」
言って私を見つめ、続けた。
「何で?」
私を見つめる、鳶色の瞳。明るいけれど深い、綺麗な色の…。
「な…何でもないんです」
消え入るような声で、私はようやくそれだけを言った。素早く踵を返す。
ドキドキしていた。実咲に見つめられたからだということを信じたくなかった。
私は女の子なのに。
私は夢の影響を受けている。
今日も一日が終わった。
私はゆっくりとした足取りで校門に向かいながらため息をついた。慣れない環境というものはやはり疲れる。しかしまだ転入して三日しか経っていないのだ。
クラスの雰囲気にもなじめない。みんな優しくしてくれるのだがあまり深く立ち入ることができないものを感じてしまう。私が卑屈になっているだけなのだろうか?
校門の所に人影が見える。
長身でショートカットの一種中性的な雰囲気を漂わせている少女。
神代実咲だった。
思わず胸が高鳴って、私は一瞬立ち止まった。
ゆっくりと頭をめぐらせて、彼女は私の方を向いた。
「――やあ」
実咲は言った。
「こ、こんにちは」
咄嗟だったので、変な受け答えをしてしまった。恥ずかしい。
「か…神代…さん、誰か待ってるんですか」
優しげな微笑みをたたえている実咲に、私は訊いた。
「ああ…うん。でも、もう帰ったみたいだ。水宮さん、一人?」
「あ、はい」
「じゃあ一緒に帰ろうよ。水宮さんも電車通学だよね」
実咲の思わぬ申し出に私は心躍る思いだった。
「千都駅で降りるんですけど…」
「じゃ同じ電車だ。ちょっと待っててね、鞄取ってくるから」
実咲が昇降口の中に消えて行く。
実咲と一緒に帰れる。嘘みたいだ。嬉しくて歌い出しそうになる。
――何なのだこれは。
はた、と思考を停止させる。
これでは…まるでレズではないか。
そうは考えても、顔が笑ってしまうのを止めることはできなかった。
私は鞄を両手で抱えて、ドキドキしながら待っていた。
「どう?学校は。友達とかできた?」
私たちはホームで電車が来るのを待っていた。実咲が私に訊ねる。
「いや…なかなか。私あまり友達作ったりするの上手くないんで…」
頭に手をやりながら答える。ああ、何て間抜けなポーズだ。
「そうか…大変だよね。じゃ、今度から私たちと一緒にお弁当食べたりとかしようか」
「ええっ?」
私は目を見開いた。
「いいんですか? 私なんかと。…他のお友達とか怒りません?」
言うと実咲は笑った。
「何言ってんの。いいよいいよ。みんないい奴ばっかだからすぐ仲良くなれるよ」
夢じゃないだろうか。
「て…天使様って呼んでいいですか?」
指を組んで瞳を潤ませる私に、実咲はひらひらと手を振って見せた。
「こちらこそよろしくね。…それより敬語はやめようよ」
私ははっとして口を噤んだ。
「ごめんなさい、これ癖なんです」
「いや、別に無理に直せって言うつもりはないけどね」
電車がホームに入って来た。下校時刻なので、学生だらけでとても座れそうにない。
私たちはドアの近くに立った。
「それにしても、高校生の転校なんてあんま聞かないけど…何で転校することになったの? あ、言いたくないなら別にいいんだけど」
困惑したような表情をしている実咲を見ながら、私は首を振った。
「いえ、全然そんなことないです。私たち、ずっと以前はこの辺に住んでたんですよ。でもお父さんが一年前に亡くなったもんで、きっとお父さんとの思い出に浸りたくなったんじゃないですか。お母さんがここに戻りたいって…。私は一人で向こうに残っててもよかったんですけど、お母さんは体が弱いんでついててあげなきゃだめかなと思って一緒に来たんですよ」
実咲は神妙な顔で私の話を聞いていた。
「えらいねえ。…ふーん…この辺に住んでたのか…」
実咲の瞳が一瞬暗く陰った…ように見えたのは多分私の気のせいだろう。
「そういえば水宮さん私に聞いたよね。前に会ったことありませんか、って。ああそうか…じゃあ会ってるかも知れないな。何処に住んでた?」
「今とあんまり変わりません。千都駅の近くだったと思いますけど…」
「いつ頃までいたの?」
「ええっと…七歳くらいまでだったと…私、覚えてないんですよ」
「十年くらい前だもんね。記憶も虚ろでしょ」
実咲は微かに笑った。
「いえ、そういう訳じゃなくて」
私は小さく首を振った。
「私、ここにいる時の記憶、ないんです」
夢を見ている。
いつもの実咲の夢だ。
それが突然別の夢に変わる。
鏡…鏡?
鏡が遠くにあるのがわかる。
私はゆっくり近付いて行く。
鏡がゆっくり近付いて来る。
そこで目が覚めた。
「記憶喪失? もしかしてA235に感染したの?」
和泉紀子…実咲たちのグループの一人だ…はそう言って私を見た。ここは二年三組の教室。
「いえ、そういう訳では、ないです」
口ごもりながら私は答える。
「A235」とは二十年程前に突如現れたウイルスの名前だ。これに感染し、発病すると記憶が全て失われてしまう。記憶喪失と痴呆症を一緒にしたようなものだが、記憶喪失と違う所は決して記憶が戻ることはない所で、痴呆症と違う所は一旦全ての記憶が失われると、再び脳は正常に機能するようになる所だ。今の所このウイルスに有効な治療法は見つかっておらず、人々の恐怖は増徴する一方だった。
「昔、事故にあって、それで記憶が失くなったらしいんです。親から聞いた話なんですけど」
「小説か何かみたいだねー、実咲」
笑いながら実咲に話しかけるのは遠野真希。
「笑い事じゃないよ真希。あんたもいつそうなるかわかんないよ」
実咲が真希をたしなめる。
担任が入って来た。
私たちはそれぞれの席に戻らなくてはならなかった。
私は実咲と並んで駅に続く道を歩いていた。
実咲はとっても気さくな人で、引っ込み思案な私でも彼女たちのグループにすんなり打ち解けることができた。最近じゃ学校の環境にも慣れて、毎日が楽しい。
「水宮さん、私に前に会ったことないかって訊いたよね」
不意に実咲が言った。
「…あ、はい」
頷く。
「何で?」
言って実咲は私を見た。
私は一瞬戸惑った。夢のことを言うべきなのだろうか…?
実咲を見る。柔らかな笑顔で私の答えを待っている。
大丈夫、この人は真面目に聞いてくれる。
私は口を開いた。
「…夢を、見るんです」
「うん」
実咲が頷いて先を促す。
「昔から同じ夢を何度も…。その夢に神代さんが出てくるんです。七歳かそこらの幼い神代さんが。私はじっと神代さんを見てる、そんな夢」
そこで言葉を切って続ける。
「これはもしかしたら私の幼い頃の記憶なんじゃないかと…以前に神代さんに会ったことがあるかも知れないと思って」
恋愛感情の部分は伏せておくことにした。
実咲はじっと私を見つめていた。くすぐったいような変な気分になる。
「…ごめん、思い出せないな。会っているのかも知れないけど…十年も前のことは、ちょっとね…」
「いいんです。今更思い出さなくても。今のままで満足してますから」
私は笑った。そうだ。記憶なんて失くても生きていける。自分の過去に固執する必要など何もない…。
「水宮さん、私はね…」
実咲が遠い目をして言った。
「記憶がありすぎるの」
「えっ?」
私は訊き返した。一体どういう意味なのだ?
「ありすぎるって…?」
私はおずおずと訊ねた。
「自分が時々わからなくなる。記憶がね…ありすぎるのよ。たくさんあるの。訳がわからなくなったりするの…」
「訳がわからないって…」
こっちも訳がわからない。
「ごめんね、変なこと言って。でも何か水宮さんには話したいんだ。私の頭の中にはね、他人の記憶まであるの。お笑いよね」
実咲の瞳の色は…光の具合でか青暗く見えた。
「毎日…訳わからない悪夢に悩まされるの。でもそれは私が見ている夢じゃない。他人の記憶が見てる夢よ」
「神代さん…」
他人の記憶があるなんて…そんなことありえるのだろうか――。
その夜夢を見た。
実咲がいる。
実咲はベッドに横たわっている。――眠っている。
――突然実咲が暴れ出す。
何度も寝返りを打つ。指はシーツを掻きむしり、喉は喘ぎ続ける。
私は実咲は夢を見ているのだと思っている。
いつも見ている悪夢を今日も見ているのだろうと。
――そして鏡だ。
目の前が突然鏡になる。
私は自分の顔を見る。
私は――。
何だったのだ、今朝の夢は。
私は根拠のない不安に捕らわれていた。
鏡の夢、あれは何なのだ。
鏡に映った私の顔は見たこともない少年の顔だった。
夢なのだから、何の脈絡もないことがあっても仕方がない。それはそう言ってしまえばそれまでなのだが、あの鏡の夢は、実咲の夢と一続きになっていると私は確信していた。実咲の夢が私の幼い頃の記憶ならば…その鏡の夢も私の体験したことの筈なのだ。それなのに鏡に映った顔は私ではなかった。夢なのだ、と私は自分に言い聞かせた。夢なのだから、歪曲があるのは当然なのだ。…しかし釈然としない。
私の頭にも実咲と同じように他人の記憶があるのではないか?
初めて記憶がないことをもどかしいと感じた。
夢で見ることによって、私の記憶は少しずつ戻って来ている、そう私は思っていた。
それなのにその記憶が自分のものでないらしいなんて…一体どう考えたらいいのだ。
私は実咲にこのことを話すことにした。
もしかしたら、私にも他人の記憶があるのではないかということを。
話し終わると実咲の顔は…蒼白になっていた。
何かまずかったのだろうか。
「神代さ…ん?」
のぞきこむようにして、彼女の顔を見る。
「…男の子…だったのか…そう…」
実咲は口に手を当て、しばらく俯いていた。
不安が増大していく。
実咲は知っている。私の知らない何かを。
何を考えているの?
「他には思い出せない…かな。その、男の子の名前とか」
「…わかりません」
「…もしかして水宮さん…水宮、って母方の姓じゃない?」
何故そんなことを聞くのだろう。
「え…ええ。お父さんが死んだから…それからは母さんの方の…」
「…久遠…じゃない?お父さんの姓」
ぞくりとした。
何故実咲がそんなことを知っているのだ。
いや、もしかしたら幼い頃会っているのかも知れないのだ。ならば私の以前の名前を知っていてもおかしくはない。
――でもそれは私ではないのかも知れないのだ…もう訳がわからない。
「そう…です…けど…?」
私が答えると、実咲は信じられない程鋭く、冷たい視線で私を睨んだ。
「どうして戻ってきたの?」
実咲は氷の声でそう言った。
「神代さ…」
「どうして戻ってきたの? あなたはここに戻ってきてはいけなかったのよ。…戻りなさい。前に住んでいた所に。今すぐに!」
「そ…そんな」
何故そんなことを言われなくてはいけないのだ。そんなこと、簡単にできる筈ないではないか。
私は混乱していた。
「な…何で? どういうことですか? 何か知ってるんですね、神代さん! 私の知らない過去を、知ってるんでしょう!?」
私は実咲の肩を掴んで、揺さぶった。実咲は険しい表情で、顔を背ける。
「戻りなさい。もうここに来てはだめ。わかっ…」
実咲の言葉が途切れた。私の背後を見つめた瞳は、大きく見開かれている。
ぎくりとして私はゆっくりと振り向いた。
――鏡の中の少年が立っていた。
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