正確に言えば、鏡に映った少年を十年分程成長させた姿、の少年である。青年と言った方がいいのかも知れない。
 ぱっと見はいわゆる好青年だが、目つきの鋭さが、彼を油断ならぬ者に見せかけていた。
「お前に話を聞いて、もしかしたらと思ったんだがな」
 実咲は青ざめて、私の前に立った。…私を庇っている…?
「その女だろう、クオンツカサは。また戻ってくるとはね」
「違う。彼女は水宮司よ。別人だわ」
 実咲はきっ、と男を睨みつけた…一体何がどうなっているのだ。この男は一体…?
「どいてくれないか、実咲。俺は彼女に用がある」
 男は一歩、歩を進めた。
「別人だって言ってるでしょう!」
「聞いてたんだよ、全部。彼女は久遠司だ。しかも俺の記憶を持っているようじゃないか」
 言われて実咲は沈黙した。
 何が何だか、わからない。でも、非常にまずい事態になっているらしいことはわかった。
「久しぶりだな、司」
 知らない…こんな奴!
「そんな顔しないでくれよ。すぐ終わる。怖い目にはあわさないから」
 何を言っているの?
「俺の記憶を返してくれないか?」


 男は響克巳と名乗った。…私の記憶にはなかった。単に思い出せないだけなのかも知れないが。
 克巳の車に私は半ば強制的に乗せられた。実咲も帰れと言う克巳を無理矢理承諾させて、私の隣に座った。
 実咲はじっと窓の外を見ていた。何も、喋ってくれなかった。私はとてもまずいことをしてしまったのではないか――言いようもない悲しみに襲われ、私は俯いた。
「お前、記憶喪失なんだって?」
 克巳が聞き、私は頷く。…実咲が話したのだろう。
「じゃあ今から目的地にたどり着くまで、お前の昔を話してやるよ」
 克巳が言った途端、実咲は弾かれたように顔を上げ、何かを言おうとした。…しかしそれは声にならなかった。
「A235は知ってるな? 記憶が失くなるウイルスだ。このウイルスを研究している所があった。今から向かう所だ。…A235は知っての通り、今の所有効な治療法がない。…そこでだ、その研究所では間接的にA235から身を守る方法を考え出した」
「間接的…ですか」
「そうだ」
 克巳は続ける。

「人の記憶を保存する方法をね」

「な…っ」
 保存? そんなことが可能なのだろうか。
「驚いてるな。まあそうだろう。これはその研究所でも秘密裡に開発された方法で、まだまだ実験中の段階だ。外部の者は誰も知らない。ともかく、人の記憶が保存できたら、譬えA235に感染し、発病しても再びそれを元に戻せばいい。そうだな、ワープロのフロッピーみたいなものだと考えてもらえばいいかも知れない。一旦全部文書を消してしまっても、フロッピーに保存しておけばまた元通りになる」
 …理論はわかる。しかし人間の記憶とワープロの文書ではあまりに違い過ぎるではないか。
「と言っても、保存するのにフロッピーを使う訳には行かないのでね。記憶が保存される場所はやはり人間の脳しかない。…そこで何人かが選ばれたんだ…人間フロッピーだね」
 ――悪寒がした。人間フロッピーという言葉にも、その言葉をおかしそうに言う克巳にも、である。
「それが久遠司と神代実咲…あと他にも何人かいたっけか。お互いに顔を合わせたことはなかったみたいだが」
 私は実咲を見た。苦しげに見えた。
「実咲は何人分の記憶が保存できるか実験的に試されたんだったよな」
 ――記憶がありすぎるの。
 そういうことか…。
 何人分の記憶が彼女の脳には保存されているのか、そんなことをしたら一体どうなるのか、私には想像もつかなかった。
「そしてお前は俺の記憶を保存する役になった訳だ」
 目眩がした。
 やはりあの夢は私の記憶ではなかった。
 通りで違和感があった訳だ。
 じゃあ…私の記憶は一体何処にあるのだ。
 永久に失われたままなのか…。
「ところがね、こういうことを非人道的だって言う奴がやっぱり出て来たんだ。…くっ、誰だと思う? お前の父親、久遠良和さ」
「お父…さん?」
「そう。お前の親父は研究に携わりながら異を唱え出したんだ。そしてついに――研究所を爆破させて、お前を連れて逃げやがった。…お前の記憶喪失になった事故というのは多分そいつだ。研究が研究だったから、警察にも詳しいことは言えず結局表向きは事故ということになったがね。…実咲、お前も確か大怪我したって言ってたよな」
 そう言って克巳はルームミラー越しに実咲を見た。
「大したことなかった」
 実咲はそれだけを言って、口を噤んだ。
 私は、
 私は怖くて実咲を見ることができなかった。
 もし横を向いて実咲の体に傷を見つけてしまったら、自分がどうなってしまうかわからなかった。
「ひどい奴だよな。自分の娘さえよけりゃいいって奴だ。まあお前も記憶喪失になってしまったが…結果的にはよかったんじゃないか?何も知らずに今まで生きてこれたんだから」
 克巳は笑って続けた。
「俺の親父はかなり金の面で支援していたんだが、息子が感染した時のことを考えて臨床実験に差し出していたんだ。その後、俺はすぐにA235に感染した。ところが研究所はないし、当の保存した記憶自体が行方不明だ。どうしようもない状態さ。お前の父親は結構有力な位置にいたらしいから研究もストップ。何もかもがふりだしだ。親父も怒って支援をやめてしまった」
 前方に白い建物が見えてきた。嫌な予感がした。
「何年も研究は凍結していたが…つい数年前から研究は再開されることになったんだ。そこにお前が戻って来るとは思わなかったな」
 車が停止する。
「さあ」
 克巳が振り向く。
「俺の記憶を返してもらおうか」
「駄目よ!」
 実咲が不意に叫んだ。車のドアを勢いよく開ける。
「逃げて。あなたはまだ大丈夫。私みたいになっちゃ駄目だ。逃げて!」
「今更何を言いやがる!」
 克巳は運転席から降りて、こちら側に回ると、実咲を引きずり降ろした。
「早く来るんだ。もう逃げられやしないぜ」
「逃げて!」
 白衣を着た男たちがこちらに駆けてくる。逃げられる筈がなかった。
「…克巳様、この女ですか」
「そうだ。連れて行け」
 何でこんなに乱暴に扱われなくてはならないのか。私はまるで犯罪者のように両手を捕まれ、引きずられるように建物の中へと連れて行かれる。
「は…離して下さ…ちゃんと歩けますから…!」
 しかし白衣の男たちは無表情に歩を進めるだけだ。
「やめて、止めてよ克巳!克巳!」
 実咲が克巳の胸を叩いている。
「落ち着けよ。記憶を返してもらうだけじゃないか」
「それだけで済ます訳ないわ! あなたたちが…」
 声が、遠ざかる。


 連れてこられた所は、四畳半程の個室だった。
 まだ準備が調っていないらしい。全ては明日、という訳だ。
 まるで牢獄である。何もすることがないので座ってぼんやりしていた。
 腕時計を見ると、午後7時23分だった。母さん、心配しているんじゃないだろうか。…母さん…母さんを恨むのはやめようと思う。母さんはずっと病気で入院していて、私たちの事情なんて何も知らなかったのだ。知っていたらここに戻ろうなんて言わなかった筈。
 実咲は――。
 実咲はどうしただろう。
 ドアについている小窓に人影が映った。
 克巳だった。
「寒くはないか?」
「いえ大丈夫です…あの、お母さんがし…」
「家には連絡してある。心配ない」
 私の考えを見透かしたように、克巳は言った。
「…聞きたいことがあるんですけど、いいですか」
「何だ?」
「私は記憶がないんですよ。…記憶を返すことが、本当にできるんですか?」
「ああ、それは大丈夫だ。記憶喪失っていうのは、単に思い出せなくなっているってだけで、記憶自体はちゃんと存在するんだからな」
「――神代さんのこと、好きじゃないんですか」
「ええ? 何だよ突然…」
 克巳は怪訝そうな顔をした。
「あいつはただの幼なじみってだけだ」
 ただの…幼なじみ?
「あんまりです…そんな――」
「おい、何でお前がそんな顔するんだ」
「どうして…」
 私は克巳を見つめた。
「どうしてそんなに記憶を戻したいんです。いいじゃないですか、戻さなくったって生きて行けるじゃないですか」
 克巳は目を細めた。
「お前はそうかも知れないが、俺は違うんだよ」
「…ここまでする訳を訊きたいです」
「金だ」
 私は言葉を失った。
「親父は俺が記憶を失くす前に遺産のありかを教えたらしくてな。俺が記憶を失くした途端逝っちまって。未だにわからずじまいだ。…それが記憶を戻せばわかるだろう?」
「お金…なんかより神代さんを何とかしたいとか思わないんですか?」
 克巳は不思議そうに私を見た。
「神代さんのこと、あんなに好きだったのに…! お金なんかのためにこんなことして何になるんですか? 神代さんは…今でも実験に使われてるんでしょう? かわいそうだとは思わないんですか? ――…私の方が、ずっと実咲のことを想ってる。私の方がずっとずっと実咲のことを大切にしてあげられる…!」
 克巳は無表情に私を見た。
「それは本当のお前の気持ちじゃない。俺のものだ」
 私は絶句した。
 この気持ちは私のものじゃない。そんなことわかってる。
 どうして…?
 何でこんなことになったのだ。
 苦しい。
 涙があふれて、止まらない。

 もう夢さえ見ない。

 四角い箱の中に私は入れられた。
 白衣の男たちが何やら機械を操作している。
 箱の中で、私はさらに頭に変なものをつけられた。
 外で男たちの声がしている。何やら困ったことになっているらしい。
「どうしたんだ」
 若い男の声がした。
「…です」
 何か言っている。よく聞こえない。
「何…だって?」
 若い男が訊き返す。
「この女、A235に感染して…既に発病していま…」
 A235に感染? 私が?
「完全には失われてないかも知れない、早く…――」
 そんな馬鹿な。
 そ…


 そこで目が覚めた。何故だか涙が幾筋も流れていた。
 吐き気がした。他人の記憶の夢を見た時はいつでもそうだ。
 あれから水宮司の姿を見ない。
 学校にも来ないし、研究所で見ることもない――何処かに隠されているのか。
 私の中に、水宮司の記憶が増えた、それだけだ。
 最近では自我も消えかけているような気がする。
 私は誰だっただろう。
 今日も私は監視されている。
 私は、自分が水宮司なのか、神代実咲なのか、それとも他の誰かなのか、その区別がつかなくなるだろう。近い内に。


 END



《コメント》

女の子の主人公が好きなんです。美少女好きなもので。
あと記憶に関する話が好きです。切ない話が書きたかったのかなー。
多分東野圭吾の「分身」に影響されてますね。


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