図書館ロビーの壁時計は5時を指している。
いつものように読書を終え、閲覧室を出た葵は目に入った人物を認識するなり立ちすくんだ。
青い光を背にしてそこに佇んでいたのは藤咲佐保子だった。
考えてみればあれだけいつも美春のそばにいる佐保子なのに、図書館で一緒にいる所を見たことがない。葵は奇妙な感覚を覚えた。彼女の方がどちらかと言えば図書館に似つかわしいのに。
「公藤さんよね。少し話があるんだけれど。時間、いいかしら」
佐保子は葵の前に悠然と立ちふさがるとそう訊ねた。否、訊ねているのではない。その言葉には強制的なニュアンスが含まれていた。
「…はぁ」
答えを待たずに佐保子は踵を返していた。仕方なく後に従う葵。
図書館前の階段まで歩いて行くと、佐保子はおもむろに口を開いた。
「あなたにお願いがあるの」
腕を組んで葵に目を向ける。その姿は冷たくて傲慢で威圧的で…そして悔しいくらい綺麗だった。
葵は黙ったまま佐保子の言葉を待った。何を言われるのか、わかりすぎるほどわかっていた。
「もう、美春とは会わないで欲しいの」
ほら、やっぱり。
こうなると思っていた。
予想通りの展開に葵は笑いたくなった。実際、笑っていたようだ。佐保子のこめかみがぴくりとひきつった。
「何がおかしいの」
「すみません」
すぐに笑顔を引っ込め、葵は素直に謝った。…つもりだった。しかし相手にはぶっきらぼうの口調にしか聞こえなかったらしい。
「私もこんなこそこそした真似、したくないの。でもあの人、最近塾もさぼりがちなのよ。言っている意味、わかるわよね?あなたに会ってるからなのよ」
「…」
「最近じゃ清女の大学部受けるなんて言いだしてるの。美春ならもっと上を狙えるのに…。このままあなたに会っていたら美春の人生は狂ってしまうわ」
狂ってしまう、だなんて。
大袈裟過ぎやしないだろうか。
葵の頭の中を思いがぐるぐる回り続ける。
あなたは彼女をとられたくないだけなんでしょう?
あなたの勝手な独占欲を満たすためなんでしょう?
それを彼女の人生を盾にするのは卑怯なんじゃないの?
「決めるのは…美春さん自身だと思いますけど」
葵は考えながらゆっくり言った。佐保子の顔が朱に染まる。
「…美春さん、ですって?」
「清和の大学部受けるのがどうしてそんなにいけないことなのか、私にはわかりません」
「だって、美春は…美春は私と同じ大学受けるんだから」
葵は目を細めた。
ほら、本音が出た。
佐保子の怒りの表情が次第に屈辱の表情へと変化して行く。
葵の表情からその思いを読み取ったのか、佐保子は唇を噛みしめ、言った。
「そうよ。私が彼女を手放したくないのよ。いけない?だって物心ついた時からずっと一緒だったのよ。今更離れるなんて考えられない。あなたにはわからないでしょうけど」
今度は葵が唇をかみしめる番だった。
確かにそうだ。私がこの二人の絆に勝てる筈が無い。
私と彼女が過ごした時間なんて、二人が積み上げてきた歴史に比べれば一瞬みたいなものだろう。
時間なんて関係無いと言うけれど、それは嘘だ。
少なくとも私は、今それによってひどい無力感に襲われているのだから。
「私には美春が必要なの」
眼鏡の奥の瞳が葵に訴える。
「お願い、私から美春をとらないで」

どうしてこう、最近の私たちはタイミングが悪いんだろう。
葵は背後から自分を呼ぶ声を聞きながら思った。
声はどんどん近づいてきて、ついに隣まできた。
「どうしたの?葵。聞こえてるんでしょう?」
はぁはぁと息を切らせて美春は葵の顔をのぞきこんだ。
「ああ…」
何て間抜けな返事なんだろう。葵は自分を胸の中で罵倒する。
「考え事してました」
「なあに?悩み事があるならおねえさんに言ってごらん」
冗談めかして笑う美春を正視できない。
いつにもまして俯き気味の葵を、さすがに美春は不審に思ったようだった。
「何か、あった?」
「いえ、何も」
あんな顔して、あんなに必死に言われては。
佐保子の顔を思いだす。
従うしかないではないか、所詮は新参者、傷は浅いはず。
「私、もう図書館に行きません」
葵は一気にそう言った。もう、後には退けない。
「え?」
美春の顔が笑顔のまま固まる。「どうして?」
「放課後に用事が出来ちゃって、図書館に行けなくなりました」
本を朗読するように、無感情に葵は言った。
内心の動揺を悟られたくなかったから。
「…そう」
美春は冷静に肯いた。
「また面白い本、見つけたのに。残念だわ」
そう言って、少し寂しそうに笑った顔は葵の胸をぐずぐずに引っかき回した。
私だって残念です。私だってこんな嘘つきたくない。私は、あなたと一緒にいたい。
狂おしい感情に押しつぶされて、とんでもないことを口走ってしまいそうになる。
でも、出来ない。もう決めてしまったのだ。今更、翻すなんて無様な真似したくない。
美春は、うつむいて小さく震える葵のスカーフに手を伸ばした。
「ほどけかけてるわよ」
細い指が滑るように動き、ほどなくして葵の胸には完璧な結び目が出来ていた。
美春と同じ形の、完全無比なスカーフ。
「あなた、私のスカーフばかり見てたでしょう」
葵は初めて美春の顔を見つめた。
「知ってたんだから」

焦がれていたスカーフの形を葵は手に入れた。
鏡の中のそれは確かに今までの結び方より格段上だった。
真奈美やクラスメイトたちも「綺麗だね」と言ってくれる。
だけれど葵はいつしか気付いていた。
私の胸では意味がないのだと。
美春の胸で結ばれていたからあんなに綺麗に見えたのだと。
自分の胸に結ばれたそれは、美春と会わないことを決めた今、苦痛の対象にしかなりえなかった。
1週間ほど身に着けた後、葵はそれをほどいた。
それでも飽き足らず、発作的に鋏でずたずたに切り刻んだ。
「どうしたの!?やめて、ハムちゃん」
と叫ぶ真奈美の目の前で。
制服が長袖に変わる頃、葵のスカーフは安っぽいナイロンに変わっていた。

美春の様子が微妙に変わったことに、佐保子はすぐ気付いた。
それはそうだ。10年以上彼女をそばで見続けているのだ。些細な変化でさえ佐保子には手に取るようにわかる。
あれから美春は葵と会っていないようだった。あの捕らえ所の無い、無表情な後輩は佐保子の言う通りに行動してくれている。
葵の話題は一切口にしないと決めていたし、美春の方から葵の話が出ることもなかった。
後は美春が忘れてくれるのを祈るような気持ちで待つばかりだ。
けれど美春は気が付けばいつも、誰かの姿を探し求めているのだった。
あの子に決まっている。
公藤葵。
目にするだけで嫌悪感を覚えるようになったその名前。
まだ気に懸かるというのだろうか。いつになったら忘れてくれるのだ。
焦燥感と危機感で佐保子は何日も眠れない夜を過ごした。
結局私は美春を束縛してしまっている。
働きかけた相手が違うだけで、結果は同じことなのだ、きっと。
公藤葵を好きにはなれないが、信用するに値する人間であることを佐保子は認めない訳には行かなかった。
彼女はきっと私の言う通りに美春を避け続ける。
そしてそれは私たちがこの学園を去る日まで続くだろう。
美春は私の手の中に残る。そう、美春は私のそばからけして離れることはない。
けれど。
けれど、それは佐保子の敗北を意味していた。

「クリスマス礼拝?」
面倒臭そうに葵は頬杖をついた。「…何それ」
「クリスマス礼拝はクリスマス礼拝だよぉ」
困ったように真奈美は答えた。
「クリスマスに生徒全員で礼拝堂に集まって、劇見たりハレルヤコーラス歌ったりするの」
「ふーん」
適当な返事。あんなことがあってから葵のドライな性格にはますます拍車がかかっていた。
無関心な表情を隠そうともせず、真奈美のお喋りにもまともに相槌を打たない。
何もかもどうでもいい、という空気が常に葵の周囲を包んでいた。
「行かなきゃいけないの、それ」
訊ねられ、真奈美は呆れた顔をした。
「当たり前だよぉ、学校行事だもん」
「面倒だわ…」
左頬から右頬に手を置き換え、葵は溜息をつく。
真奈美は考える風に口に手をあて、少しためらってから、言った。
「速瀬先輩も見れるかもよ」
葵の表情が強張った。罵倒されるかと真奈美は身構えた。それを覚悟で言ったのだが。
美春との交流がなくなってからというもの、葵は変わってしまった。
何でそんなことになってしまったのか、真奈美は聞いていない。聞けなかった。
もっとも聞くまでもなかったのだが。
顔色をなくして神経質に美春を避ける葵は痛々しくてとても見ていられなかった。
無愛想な態度も傷ついた自分を守るための手段だとわかっていたから、真奈美は葵のそばにい続けた。
初めて見た時から、ずっとそばにいてやるって、そう決めていたから。
予想に反して、葵は何も言わなかった。
「…別に見たくないわ」
ややあって呟くように言う。
それきり押し黙ってしまった。多分様々な思いが胸の中を渦巻いているのだろうが、真奈美にそれを知る術はない。
「ま、いいじゃない。真奈美は好きなんだよ、クリスマス礼拝。雰囲気がね、いいの」
代わりに真奈美は喋り続けた。葵が聞いていないことはわかっていたけれど、喋り続けた。

礼拝堂は厳粛な雰囲気に包まれていた。
これが真奈美の好きだと言っていた雰囲気か、と葵は改めて周りを見渡した。
夜ということもあるだろうが、抑え目の照明は礼拝堂を昼とはまったく違う表情に変えてしまっていた。
パイプオルガンがアヴェ・マリアを奏でている。
校舎内でこそ騒がしい少女たちだが、この場では波のようなさざめきが響くのみだ。それすら耳に心地よい。
確かに悪くない、と葵は思った。
カトリック系の学校に編入した割には無神論者な葵、ここでようやくキリストを見直す気になっている。
やがて教師も兼任している牧師が壇上に立ち、話を始めた。
何か有難い話をしているのだろうが、葵の心には届かない。
気が付くと葵の目は生徒たちの頭上をさまよっていた。
栗色で、少し癖のある髪質の持ち主を。
往生際が悪すぎる。葵は自身に警告した。馬鹿な真似はよしなさい、と。
見つけることが出来る筈ないではないか。こんな大勢の中から。くだらないにもほどがある。
不意に照明が落とされた。
代わりに数人のマントを羽織った生徒たちが蝋燭を持って現れる。
彼女たちは一人一人にペンライトを配り始めた。どうやら彼女たち以外はペンライトを蝋燭の代用とするようだ。
オレンジ色の僅かな灯火を手に、一人の生徒が近づいてくる。
葵の隣の子にペンライトを手渡した、マントの隙間から見えるそのスカーフには見覚えがあった。
…はめられた!
思った時には時既に遅し。
目の前に立ってペンライトを差し出しているのは紛れもなく美春だった。
葵は生徒たちをかきわけて逃げ出したい衝動に駆られた。
何のために今まであんなに懸命になって避けていたと思っているのか。
体が震えるのを止めることが出来ない。それが怒りのためなのか悲しみのためなのか、それとも喜びのためなのか…それすら判断がつかなかった。
躊躇いがちに手を伸ばし、ペンライトを受け取る。
瞬間触れた指は氷のように冷たくて。
自分の中の理性が音を立てて壊れた気がした。

もう、自分が何をしているのかわからなかった。
多分何もしていなかったのだろう。気が付けばクリスマス礼拝は終わっていて、葵は逃げるように礼拝堂を後にしていた。
どうして私はこんなに動揺しているんだろう?
マンションの自分の部屋に飛び込んで、ようやく葵は息をついた。
忘れるって決めたのに何て様なんだ、あの程度のことでこんなに取り乱すなんて。
靴を脱ぐことも忘れ、玄関先で座り込んだ葵の耳に、ドアの開く音が聞こえた。
弾かれたように振り向き、凍りつく。
「どうして…」
息を切らせて立っているのは美春だった。
「どうして私を避けるのよ」
そう言った美春の顔はひどく悲しげで、葵は胸を突かれる思いだった。いつも笑ってる顔しか見たことなかったから。
美春が後ろ手に鍵をかけたのが見えた。
「これでもう逃げられないわよ」
葵は蒼醒めてうつむいた。言うべき言葉が見つからなかった。ただ、彼女に悲しい思いをさせている自分に激しい嫌悪を感じていた。
「佐保子に何か言われたの」
そうです。あなたにもう会わないでと。あなたをとらないでと。そう言われました。
…言える訳ない。言ってしまえれば楽なのかも知れないけれど、私には言えない。
目の前で菫色が揺れている。にじんで形がよくわからない。
「あなたのこと、好きよ」
唐突に美春はそう言うと、葵を強引に抱き寄せた。
頭の中が真っ白になる。もう、何もかもどうなったっていい。ずっとこうしていたい、葵はそう思った。
「いけない?」
「私も、好きです、あなたのことが」
そうだったのだ。言ってしまってようやく葵は気がついた。
私は彼女のことが好きだったのだ。ずっと感じていた狂おしくも甘いこの感情はそのせいだったのだ。
「じゃあもう私を避けないで」
望んでいた展開の筈だ。
美春の胸の中で、葵は閉じていた目を開けた。
「嫌…」
腕を掴んで押し返す。
絶望したような表情で美春は葵を見た。でも、きっと自分も同じような顔をしている、そう葵は思った。
「あなたには藤咲先輩がいるもの」
…私は馬鹿だ。

美春は身を離して葵を見つめた。穏やかな瞳だった。
「…それだけ?」
「え?」
「あなたを縛っているのはそれだけなの?」
予想外の反応に、葵は絶句した。
「じゃあ、佐保子がいなくなったら、私を受け入れてくれる?」
美春の考えていることがわからない。葵はその真摯な瞳の奥を探ろうとした。
でもあまりに静かで感情のないその色は葵に何も告げてはくれない。
「…嘘よ」
そう言うと、不意に美春は顔を背けて立ちあがった。
「ごめん、こんなことするつもりじゃなかったの。…でも礼拝堂であなたを目の前にして、耐えられなくなった」
それは葵とて同じことだった。葵は逃げ出したが、美春は追った。その違いだけで。
美春はゆるゆるとした動作でドアを開けると外に出て行った。
一瞬見えた横顔はひどく傷ついた表情で。
葵は顔を手で覆って、そのまま上がり口に仰向けに倒れた。
もう嫌だ。もう嫌だ。
何も考えたくない。
終わった。
ただそれだけがはっきりしていることだった。

気が抜けたような足取りで美春が学内に戻ってきた頃には雪が降り始めていた。
感情が壊れたように何も感じることができない。
雪を見ても、行きかう人を見ても、心が動かない。
美春の視界の中で、世界は完全に色を失い、死んでいた。
礼拝堂の前に佐保子は立っていた。
美春が葵を追って走り去ってから、ずっとここで待っていたのだろうか。
美春の鞄とコートを持って、微動だにせず佇んでいる。
「こんな所で何してるの。風邪ひくわよ」
佐保子の体の弱さを知っている美春は相手の姿を認めるなり駆け寄った。
「美春」
信じられないものを見るような瞳で佐保子は美春を見上げた。
安堵のあまり、涙が頬を伝う。
「もう、戻ってこないかと思った…」
今度は美春が驚く番だった。
気丈で、プライドが高くて、人に決して弱みを見せない佐保子が。
目の前で子供のように泣きじゃくっている。
「そんなことある訳ないでしょう」
佐保子の手を暖めようと手を伸ばしかけ、引っ込めた。
自分の手も冷えきっていて、まるで氷のようだったから。
けれどそんなことにも構わず佐保子は美春の手を握った。
「ずっと一緒にいてくれるでしょう?」
「…佐保子」
「あなたが公藤葵のこと好きって、知ってるわ」
一度堰を切ってしまった涙は止まらない。佐保子のプライドは粉々になっていた。
「でも私はそれ以上に美春のことが好き。私には美春が必要なの…」
涙ながらに訴える佐保子を美春は黙って見つめた。
相手にすがるその姿は、紛れもなく今の自分自身だった。
哀れで、惨めで、痛々しくて、見ていることが出来ない。
「馬鹿ね」
ハンカチで佐保子の涙を拭って、美春は言った。
「私にだって佐保子が必要なのに」

ナイロンのスカーフを弄んでいると、真奈美が歩いてきた。
「ハムちゃん、中庭に行こうよ」
「何で?」
今日は清和女学園高等部の卒業式。
今頃は卒業生たちが中庭に集まって、教師や後輩たちとの最後の別れを惜しんでいる筈だった。
「もちろん、スカーフをもらうために決まってるじゃない!」
真奈美は自慢するかのように葵に向かってふんぞリ返って見せた。
「スカーフを?」
「そぉ。清女では在校生が憧れの卒業生のスカーフをもらうってゆー習わしがあるんだよ」
葵はくだらない、とばかりにそっぽを向いた。
「要するに、学ランの第二ボタンみたいなもんね」
「そうそう!という訳で、行くよ!ハムちゃん!」
気がつけば真奈美、葵の腕をがっちり掴んでいる。
「わ、ちょっと真奈美…」
こうして葵は無理矢理中庭へとかり出されることになった。

中庭は生徒たちでごった返していた。
葵が頭をめぐらすと、そこここでスカーフの授与式が行われている。
スカーフを持って泣きだす生徒、歓喜の叫びをあげる生徒、リアクションは様々だ。
その中にひときわ大きい人だかりを見つけた二人は、遠巻きにそれを眺めた。
人だかりの中心にいるのは、美春と佐保子だった。
学園のアイドルらしく、大勢からスカーフをねだられているようだ。
「やっぱり人気だねぇ、速瀬先輩は」
真奈美が隣で独りごちる。
途方に暮れたように美春は佇んでいた。それはそうだろう。下手な相手にスカーフを差し出したりしたら暴動が起きそうな雰囲気だ。お嬢様学校で流血沙汰なんて洒落にならない。
最初に葵に気付いたのは佐保子だった。
挑むような視線でこちらを睨みつけている…葵は目を細めてそれを受け止めた。
佐保子の視線を辿って美春がゆっくり身体を返す。
葵の姿を認めた瞬間、美春は歩き出した。まるで初めから決まっていたかのように人の波が割れる。
佐保子が美春を止めることはなかった。周囲の音が消え去り、葵はただ目を見開いて美春が歩いて来るのを見ていた。
スカーフの結び目に人差し指を入れる。あっさりとそれはほどけ、葵の目の前で菫色の三角形が広がった。
「あげる」
美春が発した言葉はそれだけだった。葵の手に収まったのを見ると再び踵を返して人だかりの中へ戻ってゆく。
それはまるでスローモーションのような動きで。
一瞬遅れて耳に音が戻ってきた。
「嘘ー!?」「ずるいよぉ〜」「何であの子なのぉ!?」
少女たちの悲鳴とも罵声ともつかない声。放心した葵は真奈美に導かれてその場を後にした。
葵の手の中でスカーフが揺れる。
欲しかったのはあの人の胸に結ばれたスカーフの形。
ほどかれてしまった今、それを見ることはこの先永遠にない。
避けるまでもなく彼女の姿を見ることがなくなる私はゆっくりと彼女を忘れて行くだろう。
菫色のイメージと共に徐々に彼女は色褪せて行くだろう。
喉の後ろが痛かった。
痛くて耐えきれず、しゃがみこむ。スカーフを握りしめたまま。
真奈美も同じように座って、葵の背に手を置いた。
「あたしはずっとそばにいるから、ハムちゃん…」
声を押し殺して、葵は泣いた。

そして季節はめぐる。
望むと望まざるに関わらず時間は誰の上にも平等に過ぎてゆく。
いくら立ち止まりたくても、立ち止まっているつもりでも、間違いなく前へと、進まされている。

「公藤先輩〜!スカーフください」
「ちょっと待って、あたしにもその権利はある筈」
「決めるのは先輩よ、何言ってるの?」
目の前で繰り広げられている諍いを、葵はうんざりして眺めた。
今日は清和女学園高等部の卒業式。中庭では恒例のスカーフ争奪戦が行われていた。
もう勘弁して欲しい。まさか自分がこのイベントの中心になるなんて、葵は考えもしていなかった。
が、まわりは違ったようで2年になるとそのクールで日本人離れした容貌が良いという後輩がちらほら現れ始め、気がついたらこの有様だ。
隣の真奈美はと言えば、まるで自分のお気に入りの人形を見せているかのように自慢げ。
葵は短く溜息を吐くと、スカーフの結び目に手をかけた。
少女たちの動きが止まる。
美春の時のようにスマートにほどきたかったが、固結びしていたためうまくいかない。
ようやくほどけたスカーフを、葵は頭上に放り投げた。
日の光に透けて大きく広がる菫色。
歓声があがる。
スカーフ争奪戦の勝者を確認しないまま、葵は背を向けて歩き出した。
「ちょっと、ちょっと!」
真奈美が慌てた様に声を出す。「いいのぉ?あんな適当なことしちゃって」
「いいの」
葵は少し笑って、言った。
「どうせうまく結べないから」

スカーフはいらない
あの日のスカーフは今も私の心に結ばれている
ほどかれる日を待ちながら…


 END



《あきらのコメント》

この作品は2000年に発行された「HACTION!3」に掲載された漫画「絹のスカーフ」(原案・美猫、絵・草薙あきら)の小説版です。

…という訳なんです。
この漫画版を知ってる人が果たして何人いるのか…(苦笑)。
漫画見た方は殆どいないと思われますので説明しますが、えらい端折ってあったんですよね…16Pしかない上にコマもでかかった(笑)。
図書館での出会いのシーンの次がもう美春たちの卒業シーンという大急ぎの展開だったので。
この小説では端折った部分を書いてみました。
「メデューサの瞳」に続いてまたこーゆー話を書いてしまうあたしって一体…(汗)。
ていうか何で今頃これなのか?って感じですが。
美猫さん、設定結構変えちゃいました、ゴメンナサイ。
漫画とも微妙に科白や設定が違ってたりしてますが、大筋は同じ(筈)です。
数年ぶりに設定資料見返したらなんと一人一人にバストサイズまで設定されてるじゃありませんか。
さすが美猫さんだよ、って思ったりしました。
他にもいろいろ面白そうな裏設定考えてくれてるのでその内続編書いたりするかも知れません。
コンセプトはですね、「美しくも儚い少女たちの透明な季節」(吐血)。
シリアスに、とにかくシリアスにと思って書いたのに何故か美猫さんには「葵は心の中で手を打った。」という所で爆笑されてしまいました…何故に!?

《美猫のコメント》

少女期が終わり告げても胸の奥結ばれている絹のスカーフ

続編どうしよう(笑)


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