首輪  草薙あきら

その日の彼女はいつもと違っていた。
彼女はタートルネックかスカーフで常に首を隠していたが、その日はそうでなかったのだ。
水色のノースリーブという比較的露出度の高い服を着て、僕の前に座っている。
彼女の首を見るのは知り合って四ヶ月近く経つけれど、多分その日が初めてだった。
僕は会うなりその白く細い首に釘付けになった。魅力的だったからという理由だけではない。
彼女の首は普通の人と少し違っていたからだ。
「気になる?」
彼女は耳触りの良い澄んだ声で僕にそう訊ねる。
「いや、気にならないと言えば嘘になるけれど・・・どうしたの、それ」
僕の指差す先に彼女の首がある。
その首には一瞬切り傷かと思わせるような線が真横に走っていた。
白い首を一周している、さながら首輪のような赤い痣・・・。
彼女は髪を軽く後ろに払って、その痣が僕によく見えるようにすると「これは首輪なの。ペットとかにしてるアレと同じものよ」アーモンド形の瞳を細めて笑った。
「首輪だって?」僕も笑う。「面白い喩えだね。でもそうすると、君は誰に飼われてる訳?」
彼女の冗談に付き合ってあげることにした。
彼女は時々不思議なジョークを口にするけれど、基本的に頭が良いから話していて飽きがこない。
「知りたい?」
彼女は中指でいとおしそうにその「首輪」をなぞると話を始めた。

何処までも緑が続く、なだらかな山道を私は歩いていた。
私立翠靄(すいあい)女学院高校。そこが私が目指して歩いている場所。
その筋の人間には一応名門と言われているらしい。が、「森に閉ざされた」と形容したくなるような立地条件のためあまり知名度は高くないのだった。
まだ春先なのに汗ばんだ額を拭って、私は腕時計を見た。
バスから降りてもう15分ほどになる。そのバスにも一時間半ほど揺られていたのだ。ここから街に出るだけでもかなりの気力がいるなと私は早くもうんざりしていた。
全寮制のその学院には今年の春まで姉が在籍していた。
明るくてしっかりしていて美しくて。何事にも積極的な、自慢の姉。
あれは一昨年の夏だっただろうか。
夏休みに学院から帰省していた姉の首には不思議な痣ができていた。
まるで首輪のようにその痣は姉の首を一周していた。
「お姉ちゃん、その首、どうしたの?」
私は姉にそう訊ねた。両親も不思議そうにしていた。
けれど。姉は見たこともないような妖艶な笑みを浮かべて「秘密よ」そう言っただけだった。それから私だけにはこう告げた。耳元で囁く様に。「雪もあそこに入ればわかるわよ」
姉は卒業と同時に家を出て行ってしまった。その時にはもうあの痣は見当たらなかった。
姉の謎めいた科白を解明するために、私はここの入学を決めた訳じゃない。
でも姉の秘密がわかる場所に来たんだ、という実感は胸を騒がせる。
木々を透かして目指す場所が姿を現す。
姉の妖艶な微笑が再び脳裏をよぎる。

寮の玄関で部屋割り表と鍵を寮長と思しき生徒から受け取ると、私は自分の部屋のある場所へと向かった。
新入生だけでなく、新入生の品定めをしに来ている生徒も多々いるのだろう、人通りの多い廊下を苦労しながら歩いていく。
一年生の部屋は三つ並ぶ建物の一番奥、つまり玄関から一番遠い所に配置されているらしく、結構な距離がありそうだった。
一年生と二年生は同級生と二人部屋で、三年生になると一人部屋になると聞いている。
歩きながら私はもう一度部屋割り表に目を落とした。
C−105、そこが私がこれから生活する部屋。
「湖東亜紗子(ことうあさこ)」と「冬摩雪(とうまゆき)」という名前が並んでいる。
同室の子はどんな子だろう、仲良くなれればいいな・・・。
期待と不安を抱く内に部屋の前まで辿り着いた。もしかしたらまだ来ていないかも知れないが、一応ノックする。
「はい、どうぞ」
中からかわいらしい声が聞こえた。恐る恐るノブを回して中を覗く。
部屋自体は想像していたよりも綺麗だった。が、今は新入生の引越しの荷物で足の踏み場もないような状態だ。
その真ん中に声の主がいた。
「・・・冬摩、雪、さん?」
相手は自信がなさそうに私の顔を見つめた。声のイメージと違わない、同級生と比べると少し幼く見える顔立ちをした少女。長い髪を背中でまとめて紺のリボンで括っている。
私は再び部屋割り表を確認した。
「うん。・・・えっと、湖東亜紗子さん、よね。初めまして。よろしくね」
「こちらこそよろしく。よかった、やさしそうな人で。実はすごく不安だったの」
私に応えて相手もにっこり笑った。屈託のない笑顔。第一印象を見る限り、彼女とはうまくやっていけそうだ、と私はひとまず安堵した。これからのことはわからないが、とりあえずとっつきにくい人間でないことは確かだ。
「さあ、早く片付けなきゃ。後から顔合わせみたいなのがあるんだって」
「え、そうなの・・・?」
それからしばらくの間、私たちは荷物の整理に没頭した。

消灯後。
布団が変わると眠れない私は居心地の悪さを持て余していた。
とはいえ、新入生は皆そうだろう。慣れない環境でうまく寝付けないのは仕方ない話だが、いつになったら慣れるのかなどと考え始めるとさらに暗澹として眠気が遠ざかる。
湖東亜紗子も同じようで、先刻からしきりに寝返りを打つ音が聞こえていた。
「冬摩さん、もう寝ちゃった?」
ややあって躊躇いがちな声が耳に入った。反対側の壁―――亜紗子のベッドのある方向に顔を向ける。暗闇の中、同じように彼女もこちらを向いていることがわかった。
「うん、起きてる・・・。どうかしたの?」
私が起きていることを知ると亜紗子は安堵したようだった。か細い声をさらにひそめて、「私、ここに来る途中のバス停で、気になる話を聞いたんだけど・・・聞いてくれる?」
「勿論」私は頷いた。「どんな話なの?」
「この辺り・・・っていうかこの学校って時々妙な病気が流行るんですって。風土病っていうのかな、ある場所でしか見られない病気っていうか・・・時々死ぬ人も出るみたいだから気をつけなさいって言われたわ。どんな症状なのかとか詳しいことは聞けなかったんだけど・・・何だか怖くない?」
「うん・・・」その時、瞬間的に脳裏に浮かんだのは姉の首の痣だった。
あれはもしかするとその病気の症状だったのでは?
「でも気をつけようがないよね、どんな病気かもわからないのに・・・」考えに沈む私に気づく筈もなく、亜紗子は話を続けている。「みんなこのこと知ってるのかしら。あ、冬摩さんもしかして知ってる?お姉さんここの卒業生なんでしょう?」
「ごめん、私何も聞いてないの」
それは本当だった。無駄に怖がらせるのも申し訳ないので、とりあえず姉の首の痣のことは伏せておくことにする。今の所本当に因果関係があるのかも定かではなかったし。
「そうなの・・・。ごめんね、こんな時間に変な話ししちゃって」
「ううん、全然。湖東さん、あんまり気にしない方がいいよ」
「うん、ありがとう・・・もう寝た方がいいね、おやすみ」
「おやすみ」
言って、私は再び布団に潜った。相手も同じようにしている気配が伝わってきた。微かな衣擦れの音。
姉のあの意味深な笑みはなんだったのだろう。
結局明け方近くまで睡魔は訪れてくれなかった。

窓の外を見る。
入学式が終わると新入生歓迎会と称して、校内の各所で部活動の勧誘が行われていた。
参加は個人の自由で、特に何かに秀でている訳でも、これと言った趣味を持っている訳でもなく、その上社交的でもない私は早々に寮に戻ってきているのだった。
亜紗子はまだ戻っていない。ここに来て間もない私の唯一の友人。一緒に行動したかったけれど、入りたい部活があるということで入学式が終わった後別れたのだ。
窓の外をひっきりなしに少女たちが通り過ぎていく。ある者は駆けて。ある者は談笑しながら。少女特有の甲高い笑い声が何処か遠くから響いてくる。
視線をほんの少し移せば濃緑の木々しか目に入らないようなこんな場所に、ごく普通の学校と同じような喧騒があることが何故だか不思議に思えた。
これから三年間、私はこんな風に放課後を過ごすのだろうか。
ぼんやりとやることもなく寮の一室で時間を無駄に消費していくのだろうか。
街に出るには二時間はかかるし、そもそも土日以外は外出禁止なのだからお話にならない。
かと言って代わりに勉学に励めるほど勤勉な人間でもないし・・・部活動でもやっていないと時間の潰しようがないというのは確かかも知れない。
背後でノックする音が聞こえた。
「あ、冬摩さんやっぱり帰ってたんだ」
入ってきたのは亜紗子だった。窓のそばで所在無げに佇んでいた私は、少し気恥ずかしい思いをしながら振り向いた。
「うん・・・こういうの苦手で・・・。でも何かやらないとここの生活はちょっとつらいかも。どう?何に入るか決めた?」
「えへへ。もう入部届け出しちゃった」
「えっ、もう?何部?」
私は見かけによらない彼女の行動力に驚いていた。物静かでいつも誰かの後ろに隠れていそうなタイプなのに。
「あのね、弓道部」
「弓道?」
亜紗子の科白に私はさらに驚かなくてはならなかった。彼女の外見の印象だけで、てっきり文化部だと思っていたのだ。まさか運動部の名前が出てくるとは思わなかった。
とはいえ、その色白で線の細い日本美人的容姿は、弓道部というイメージからそれほどかけ離れてはいなかった。
「冬摩さん、嘘、って顔してる。私こう見えても体育会系なんだから。中学の時は陸上部だったし」
「そうなの?ごめん、全然見えないよ。でも弓道ってかっこいいね。私も湖東さん見習って何か入ろうかなぁ」
「うん、そうしなよ。結構面白そうな部たくさんあったよ。実はかくいう私もかっこいい上級生に惹かれて入っちゃっただけなんだけど」
「えー、何それ。どんな人なの?見てみたいな」
「あのね・・・」言いかけた瞬間、再びドアのノック音。外から呼びかける声が聞こえる。「湖東さん、用意できた?」
その声に弾かれた様に、亜紗子は慌しく机にあった袋を掴んだ。
「ごめん、冬摩さん、また後でゆっくり話すね!」
軽く手を振り、あっという間にドアの向こうに消える。
彼女は早くも新しい環境になじもうとしている。
そのことに気づいたと同時に、また一人部屋に残されてしまった私は、軽い孤独感に襲われていた。
私も少しここに慣れる努力をするべきかも知れない。そう思った私は寮を出て部活見学に行ってみることにした。
確か姉は映画研究部なるものに入っていた筈だ。その辺りから攻めてみるのも良いかも知れない。

昼下がりの学内は未だ生徒たちで賑わっていた。今日はそれぞれの教室に部が割り振られており、派手派手しい飾り付けが新入生たちを迎えている。
少し覗き込んだだけで「何!?入部希望!?」と上級生がすっとんでくる所が多く、私は早くも辟易し始めていた。
人数が多そうな部は無意識に避けていた。教室に入った途端、好奇な視線を一斉に浴びるからだ。だからと言って部員数名の陰気な雰囲気にも抵抗を感じる。
姉ならば、と私は思った。
何事にも進んで取り組む彼女なら、こんな時も物怖じせずズカズカ入っていくのだろう。場合によっては掛け持ちくらいはするかも知れない。姉と正反対のこの消極的な性格が恨めしい。
視聴覚教室が目指す映画研究部、略して映研の勧誘場所だった。多分普段の活動場所もここだろう。
廊下にはでかでかと「映画研究部 入るなら断然ココ!退屈な放課後なんてありえない!」という横断幕が貼られている。
私はその横断幕を前にしばし逡巡した。さて、ここまで来たもののどうしようか?教室のドアは閉まっていて、中の様子が全くわからない。ドアを開けるという行為はかなり勇気がいりそうだ。
と、その考えが通じたかの様に不意にドアが開いた。
思わず立ち竦んだ私の目の前に、上級生が姿を現す。
冷徹そうな少女だった。銀縁の眼鏡がその印象を強くしているのかも知れない。
だが紛れもない美人だった。涼しげな瞳が私を見つめる。
「・・・あれ、もしかして・・・」
彼女の口から出たのは意外な言葉だった。
「冬摩、さん?」
知らない相手が何故私の名前を知っているのか?
「そうですけど・・・」かろうじてそれだけ答えた後私は絶句してしまった。相手もそのことにすぐに気がついたらしく、表情を緩めて見せる。冷徹な印象が一瞬で消散した。
「あ、ごめんね。びっくりさせて。去年までお姉さんがここにいたでしょう。妹が来年ここに入るって聞いてたから。そりゃびっくりするよね、知らない人が名前知ってたら。ごめんごめん、せっかくだから、入って?」
導かれるままに私は教室に足を踏み入れた。意外なことに中はがらんとしていて誰もいなかった。
「みんな買い出しに行ってるのよ。みんなで行かなくてもねぇ」
相手は言いながら椅子を勧める。机の上にはお菓子が置いてあった。「オレンジジュースでいい?」答える前にもう紙コップに注いでいる。結構強引な性格かも知れない。
「名前、まだ言ってなかったわよね。私、遠野小夜子(とおのさよこ)。あなたは冬摩・・・」
「雪です」
「そうそう、そうだった。姉は華で妹は雪か。綺麗な名前でいいわね」
小夜子は私の隣に腰を下ろした。
「雪さんは映画好きなの?」
「好きってほどじゃないんですけど、どんな所かなって思って」
「なかなかいい選択かもよ。ここって全寮制で外出も制限されてるし、何より街が遠いじゃない?まわりにあるものって言ったら森くらいだし。暇を持て余すのよね、正直言って。ここはそんな暇な時間を映画鑑賞で有意義に使いましょうっていう部なの。実にこの学校を象徴する機能的な部だと思うわ」
「はぁ・・・」
「月1くらいでビデオ調達の名目で街にも出れるし。勿論交通費その他は部費で負担よ。どう?なかなかおいしい部だと思うけど」
「はぁ」
私は馬鹿みたいに間抜けた返事しか出来なかった。そんな私を見てくすりと小夜子は笑う。
「別に無理に入れとは言わないから。興味があったらいつでも来て。放課後は大抵ここで活動してるから」
頷きながら、笑うとほんとにこの人は綺麗だな、などと全く関係ないことを私は考えていた。
教室の外に人の気配がした。それも大勢の。
程なくして開いたドアから次々と袋を提げた少女たちがなだれ込んでくる。買出しに行っていた部員たちらしい。想像していたよりも数が多くあっという間に教室は騒がしくなった。
「あー、もう駄目ね、駄目。購買部は。もうちょっとうら若き乙女のニーズっつーものを把握してくれんかしら。今度の生徒総会の議題は決まりね」
少女たちの中でもひときわ目立つ容貌。ばさばさと不揃いの黒髪を揺らしながらその少女はこちらにやってきた。
「小夜子留守番ごくろう。おお、ちゃんと新入生勧誘してるじゃん。よしよし」
派手な顔立ち、不敵な微笑。何よりその艶やかな黒髪。不思議な存在感が彼女にはあった。
他の生徒たちもその声につられて興味深そうにこちらを見ている。恥ずかしさでいたたまれない。
「冬摩さん、この軽そうな人がここの部長、惟石静流(これいししずる)さん」
黒髪の少女を妙に丁寧な口調で小夜子が紹介する。
「軽そうなって・・・あんたね。え、でも冬摩さんって、もしかして部長の妹?」
「前部長の」
「何なのあんた・・・。あーでもそうなんだ。そういえば似てるよね。いいねぇ美人姉妹」
「冬摩さん、この人ちょっと、いや、かなりあやしいから気をつけて」
「やけにさっきから突っかかるわね、小夜子。生理中?」
漫才みたいな二人のやりとりを目の前に、私は退出のタイミングを逃してオロオロしていた。
静流に敬語を使っているということは小夜子は二年なのだろう。
先輩に向かってかなり強気な態度だ。もっとも静流の方は大して気にも留めてないようだったが。
「来て、来て、舞。冬摩先輩の妹だってよ」
静流が呼びかけた方向に目を向けて、私は息を飲んだ。
静流の声に振り向いてこちらに歩いてくる少女は、目を疑うような美しさだったから。
フランス人形のような、とでも形容するべきなのか?象牙色の肌にぱっちりとした鳶色の瞳、茶色の髪は耳の上でおだんごにして両肩に流れている。
制服も独特だった。ここの制服はブレザ−にプリーツスカート、校名に因るのか濃緑のリボンにハイソックスといった実にオーソドックスなものだったが、彼女は違っていた。
まずブラウスの襟にたっぷりフリルがあしらわれている。ブレザーの袖からも同じようにフリルが覗いていた。目のやり場に困るほど短いスカートから伸びる足には、膝上まであるレース付きハイソックス。止めは身長が10cmは高くなるだろう編み上げブーツだ。
あきらかに校則違反だし、普通の人間がしていたら目を覆いたくなるようなファッションだったが、彼女にはそれが恐ろしい程よく似合っており、そしてそれ故、許せるような気になるのだった。
でも。
私が息を飲んだ理由はそれだけではなかった。
舞、と呼ばれた少女の首。フリルに埋もれて、ともすれば全く気づかないかも知れないその場所に。
痣があった。赤い首輪のような痣が。
「あまり似てないわね」
舞は私を見てそう言った。その口調と視線に少女特有の傲慢さを私は敏感に感じ取った。
「そう?似てると思うけどな。小夜子はどう?」
「私もあまり似てないと思いますけど。雪さんの方がかわいくて人がよさそう」
思ってもみない小夜子の科白に私は言葉を失った。お世辞に決まってるけれど嬉しくて、どう言葉を返していいのかわからなかったのだ。
姉と比較されて自分が褒められることなんてまずなかったから。
「おやおやー?小夜子ってば大胆。今日はどうしちゃったのよ一体?彼女がかわいいのは認めるけどさ」
「私もう行きますよ」静流の言葉を無視するように立ち上がる小夜子。「まだ用事が残ってるんで」
「もう行くの?せっかくあんたの分も買ってきたのに」
舞がジュースを振って見せる。
「雪さんにあげて。じゃ、また」
小夜子は皆に軽く手を振ると教室を出て行った。出て行く間際に振り向き、私に涼しげな微笑を残して。
「じゃ、私もそろそろ」
便乗して私も出ようとしたが、静流ががっちり腕を掴んで離してくれない。
「ま、いいじゃない。せっかくだからもう少しお話しましょ?」
「はぁ・・」
私はこの手の押しに弱い。浮かせかけた腰を再び下ろす。
「忙しそうな方ですね」
「あ、小夜子のこと?そうね。あの子ああ見えて運動神経良いから部活いくつか掛け持ちしてるみたい。逆にいえば何処にも正式に所属してないのよね。実をいうと映研にも何の関係もないんだけど時々こうやってお手伝いしてもらってるの」
「え、そうなんですか?」
てっきりここの部員だとばかり思っていた。
ここに入部してみようかと思っていた私は、その意欲を削がれた気がした。
「で、どお?ここに入部してみる気ある?楽しいよ」
「あ、あの、もう少し考えた・・・」
「入ろうよ。ね?他に面白そうな部なんてなかったでしょう?部活に入んないここの生活は地獄だよ?」
さっき小夜子には無理に入らなくてもいいと聞いたばかりなのに。静流という少女もかなり強引な性格らしかった。その上肩に手を回して馴れ馴れしいことこの上ない。
「お姉様、やめなさいよ。嫌がってるじゃないの」
どうしようどうしよう、と冷や汗をかいていると舞が助け舟を出してくれた。
けれどどう見ても私に対する視線が鋭い。別に私を助けるつもりではなかったのかも知れない。
それにしても「お姉様」?
この二人も姉妹なのだろうか?まったく似ていないし、そんな雰囲気ではないが。
そうでなければこの二人って。
「よしよし、そんなにあからさまに嫉妬しないの。雪ちゃんびっくりしてるじゃない」
「嫉妬なんてしてないでしょ。お姉様があんまり馴れ馴れしい態度とるから」
ぴったり寄り添った舞の髪をいとおしそうに撫でる静流。
この光景を前に、私に一体何ができるだろう。こめかみにつっ、と冷や汗が流れた。
この人たち、やっぱりそういう関係なんだろうか。
漫画や小説の中でしか見たことなかったけれど・・・女子高って割とこういうことが普通だったりするんだろうか。
とはいえ、目の前の二人は美少女コンビという風情でお似合いだった。公認の仲なのか、周りの生徒たちも特に驚く素振りは見せていない。
本格的に居たたまれなくなった私は素早く立ち上がると大きく一礼して、視聴覚教室を飛び出した。
背後から何か聞こえた気がしたが、立ち止まらなかった。
舞の首の痣のこと、何も聞けなかったと気づいたのは寮の自室に戻ってからだった。





その気になって噂話に耳を傾けてみると、あの二人、惟石静流と倉澤舞(くらさわまい)は校内ではかなり有名な存在だということがわかった。
二人でいることが多く、私が思った通り公認の仲のようだ。確かに二人の特徴的な容姿は遠くからでもよく目立っていた。とはいえ特異ながらも両方とも美形であることには変わりないので、多くの生徒たちの羨望の眼差しを集めているようだった。
私が見ている限りでは静流は所構わず新入生に声をかけていた。よく言えば人懐っこく、悪く言えば馴れ馴れしい(若しくは女好き)。それを横で舞がやきもきしながら見ている。そんな光景が至る所で見られた。
あんな水際立った美少女をやきもきさせるとは惟石静流という少女はただ者ではない、と私は呆れるのを通り越して感心した。
「この人かなりあやしいから気をつけて」という小夜子の科白は実に正しいようだった。
その二人に関する噂の中に、首輪の痣の話題を私は期待したのだが、なかなかそれらしい話は聞けなかった。
「痣?そんなのあるっけ?」
亜紗子に訊ねてみてもこんな調子である。舞の場合は普段フリルで首が隠れているから、気づいていない人間の方が多いかも知れない。
手っ取り早く本人に訊ねればいいのだろうが、視聴覚教室で感じたあの雰囲気にはかなり近寄り難いものがある。もしかすると他にも同じような痣のある生徒がいるのかも知れないが、今の所それらしい人間は見当たらなかった。

その日は日曜で、私は珍しく街に出ていた。片道二時間。バスが5時間に一本しかないので一日がかりである。
街に行くと言ったらここぞとばかりに買い物を頼まれた。誰もついて来ないという所が傑作だ。皆部活やら何やらで忙しいから仕方ないのだが。そんな訳で私は一旦口に出した以上嫌でも街に出なくてはならない羽目になった。
とはいえ久し振りに歩く街はひどく新鮮で、私は夢中になっていろんな店を見て歩いた。
入学してそんなに時間は経ってない筈なのに世間は意外と変わっていた。浦島太郎になった気分だ。テレビも新聞も一応あるから全く情報に付いていけない訳ではなかったが、こうして自由に情報を摂取出来る環境との差を改めて実感する。
檻、という言葉が何故だか浮かんだ。
まるであの学院は、外界とは全く別の世界にあるかのようだ。
目に見えない檻に隔てられて、中には得体の知れない何者かが蠢いている。
そんな気がした。

帰りのバスは15時発だった。
いくら久し振りの街とはいえ10時から5時間も、しかも一人で大荷物を持って、歩き回るのは体力的にも精神的にもきつかった。しかしこの時間でないと帰れないのだから仕方ない。今からまた二時間、山道をバスで揺られるのかと思うと、気が遠くなりそうになる。
車酔いの体質だったら学校から出ることができなかったに違いない。
乗車駅が始発だったので私は早々にバスの最後列に陣取っていた。
途中で買ってきたファーストフードのハンバーガーを頬張って発車を待つ。
本当は買い食い禁止なのだが、寮を8時前に出てこの時間まで何も食べられないというのははっきり言って拷問だった。学校はこの、外出時に生じる理不尽な時間配分を知っているのだろうか?
時間帯が中途半端なせいもあるが、何より行く先が人里離れた山奥ということもあって、乗客は片手で足りる程度のものだった。
発車時間間際に同じ翠靄の生徒らしき二人が乗り込んできた。
とっさに身をかがめて食べ物を隠す。
隠すまでもなく二人は入り口に近い最前列にすぐ座った。安堵して、その後姿を見ながら残ったバーガーを口に入れる。
よく見ると片方は遠野小夜子だということに気づいた。もう一人は誰だろう。時々見える整った横顔は何処かで見覚えがある。
そうだ、生徒会長の小早川鞠乃(こばやかわまりの)。穏やかで人の良さそうなその顔は、入学式の時見た覚えがあった。
この二人も街に遊びに来ていたのだろうか。途中で出会っていたら話をする機会もあったかも知れないのに、と私は少々がっかりした。
バスが山道を進むうち乗客は一人減り二人減りして、あっという間に私たち三人だけになっていた。
私は密かに二人を観察していたが、やがて異変に気づいた。
小夜子がずるずると力なく鞠乃の肩にもたれ出したのだ。後ろからでは表情は見えないがかなり苦しそうだ。もしかしてバスに酔ったのだろうか?だとしても酔い止めを持っている訳でもない私はただ心配することしかできなかった。
鞠乃の指が、労わるように小夜子の頭を撫でる。
その内小夜子は眠ってしまったようだった。
翠靄前のバス停に着いても、結局私は二人に声をかけることができなかった。

友達の頼まれ物を配り終えてから私は自室に戻った。
時刻は午後6時近くになっていたが、ルームメイトは不在だった。こんな時間までまだ練習しているのだろうか。休日だというのにハードな部だ。
亜紗子に頼まれていた雑誌を彼女の机に置いていると、背後でドアが開く音がした。
「あ・・・雪ちゃん、もう帰ってたの・・・?」
私たちはこの頃には下の名前で呼び合うようになっていた。
「うん、亜紗子こそこんな時間まで練習・・・」
ドアの方向に振り向いた私は、途中で言葉を失った。
ジャージにタオルという亜紗子の姿は一見何もおかしい所はないように思える。
だが。
深緑のジャージの胸の辺りに、ぽつんと黒い染み。
ともすれば見過ごしてしまいそうなほんの小さなものだったけれど。
それは紛れもなく血だった。
私は彼女の顔を見た。不自然に青ざめていることにその時ようやく気がついた。
「亜紗子・・・?怪我したの、血が・・・」
言い終わらない内に彼女は弾かれたように右手を首に回した。
タオルが床に落ちる。
私は見た。
彼女の首にうっすらと赤い痣が浮かんでいるのを。
「どう・・・したの、それ・・・」
こうして見ている間にも痣はその範囲をどんどん広げているように見えた。
亜紗子の青ざめた顔が、見る見る内に紅潮していく。
「あ・・・何でもないの、何でも・・・」
そこまで激しい動揺を見せ付けられた私に、それ以上何か言える筈がなく。
「なら・・・いいんだけど・・・」
かろうじてそう答えるしかなかった。

翌日になると亜紗子の痣は昨夜と比べようがないほどはっきりしていた。
昨日の今日なので、それを目の当たりにしながらも、そして相手もそれを知っていながらも、私たちは全くその話題に触れなかった。
昨日何があったのか、知りたくない訳じゃない。私が朝、寮を出るまでは亜紗子は普段通りで、首に痣なんて少しも見当たらなかった。私が街に出ている間に何かがあったのだ、何かが・・・。
でもとりあえずは彼女が落ち着くのを待とうと思った。彼女はいつか話してくれる筈だと信じて。
だが、意外にも亜紗子の首輪の話題は、級友の噂となって私の耳に入ってきた。
「いいなぁ、湖東さん。選ばれたってことよね、あの痣」
「弓道部の諏訪先輩でしょ?私も入れば良かったかなぁ」
「何でそんなこと知ってる訳?あんた」
「だってさ、弓道部の子が二人が部室に入っていくの見たって」
予習をする振りをしながら、私は真剣にクラスメイトの話に聞き入っていた。
選ばれた?
諏訪先輩?
二人が部室に入っていくのを見た?
諏訪先輩、という人物のことは知っている。
諏訪悠奈(すわゆうな)。亜紗子が憧れて入ったという弓道部の二年生。亜紗子に連れられて見に行ったことがあるけれど、凛々しく整った顔立ちが印象的な、少年のように見える生徒だった。
その人が亜紗子の首の痣に関係あるって?
「でも所詮、病気でしょ」
「そうそう、私たちは遠くから見てるくらいでちょうど良いって」
病気・・・?
私は少女たちの方を見た。興味の対象が変わったのか、教室の外に出て行く後姿が見えた。
病気・・・風土病・・・。
何で私はこんなに無知なんだろう。

「え?大丈夫だよ、心配しないで」
体は大丈夫かと訊ねた私に、亜紗子はそう笑って答えた。
あの日あれだけ顔色も悪く、そして血すら流していたかも知れない彼女、どうしたのかは聞かないまでも、体調の方は心配だったから。
「そう。それならいいんだけれど」
何か話してくれないかと密かに期待していた私は少しばかりがっかりする。
「じゃ、部活行ってくるね」
出て行った亜紗子を窓から見送る。隣にはいつの間にか諏訪悠奈がいた。
あれからあの二人は校内で一種特殊な存在になってしまっていた。そう、惟石静流と倉澤舞のような。
ルームメイトがひどく遠い存在になった気がした。部屋に二人でいる時も、私は孤独な気分を味わっていた。
―――あの痣は、選ばれた者の証。
―――ううん、そんな高貴なものではないわ。首輪よ。下僕という印なのよ、あれは。
時折耳にする噂。
何が本当で何が嘘なのかわからない。一年後の私は真実を知っているだろうか?
その時窓の下に、見覚えのある生徒が現れた。
遠野小夜子だった。だがその足取りがおぼつかなく見えるのは気のせいだろうか?
先日見た時も具合が悪そうだったし、体が弱いのかも知れない。
何故だか気になって私は窓から外に飛び降りた。玄関まで回っていては間に合わない。
「あの、遠野先輩?」
背後から声をかける。
振り向いた小夜子の目は妙な光を宿しているように見えた。何処か痛い所でもあるのか、苦痛そうに顔を歪める。
「・・・何」
以前と違う、そっけない態度に気持ちが挫けそうになったが、放っておけない雰囲気だった。
「何処か痛いんじゃないですか?あ、小早川先輩呼んでき・・・」
言い終える前に小夜子は苦しげに壁にもたれかかった。そのまま壁に背中を滑らせて座り込んでしまう。
「いい。放っておいて」
「そんな、放っておけないですよ!大丈夫ですか?」
抱き起こそうとした私の手を、小夜子は強く払いのけた。
そんなことされるとは思っても見なかった私は、呆然と彼女を見つめた。
どうして?どうしてそんなに嫌がるの?
「平気だから早く行って。・・・本当に私のことを思ってくれるというのなら、今すぐここから立ち去って」
喉を押さえながら、彼女はそう言った。
打たれ弱い私は泣いていたかも知れない。
「ご、ごめんなさい・・・」
馬鹿みたいに鈍い動きで数歩後退って、私は後ろも見ずに駆け出していた。

「この前寮の裏で座ってたでしょ。冬摩先輩の妹を追い返したんだってね。あんな人目のある所で一体どういうつもりなの?」
寮の一室。
小夜子はシャープペンシルを走らせていた手を止め、ルームメイトの方に振り向いた。
諏訪悠奈は咎める様な視線で小夜子を見つめている。
自分のことを心配して言ってくれているのだろうが、そのことに触れられると痛かった。
いくら普通の状態ではなかったとは言え、冬摩雪をひどく傷つけてしまった。謝らなくてはいけないと思いつつも、あの状態に陥ったのはある意味雪が現れたせいだとわかっていたので、再び会うのが怖い気もしていた。
相手の方向に振り向いたものの、沈黙したままの小夜子に悠奈が諭すように話しかける。
「もう覚悟決めたら?冬摩先輩にもぜひ妹をって言われてたんでしょう?健康状態にも問題はないみたいだし、いいじゃない。いい加減小早川先輩を心配させるのよしなさいよ」
「・・・嫌なのよ。あんな相手に依存するような生活」
「相変わらず潔癖ね。でも下手したら命に関わることでしょう?意地張らないで早く決めちゃってよ。私、あなたに・・・死んで欲しくないもの」
そう言われては小夜子も黙り込むしかなかった。
死・・・そう、このまま皆が放っておいてくれれば私は死ぬだろう。
けれど、きっとそうはならない。現に小早川鞠乃が危険を冒してまでも私を生かそうとしてくれている。
(放っておいてくれていいのに)
小夜子は口には出さないまでもそう思っていた。
「病気だもの、これは。そうでしょう?仕方ないことなのよ。どうして割り切れないかな・・・。相手に依存って言っても、こっちだってそれなりの報いは与えてる筈よ。厳密に言えば困る人なんて誰もいないでしょ」
悠奈の科白はまったく正しかった。でも小夜子には簡単に受け入れることが出来ない。
「・・・冬摩先輩のこと、もしかして恨んでるの」
そう言って見つめる悠奈から、顔を背ける小夜子。
「そんなこと、ないわ」
不意にひどい喉の渇きをおぼえた。

6月に入ると待っていたかのように雨の日が続いた。
運動部も練習が中止になる、もしくは早めに切り上げる所が多くなり、その日も亜紗子は部屋に早く戻ってきていた。
「ねぇ、雪ちゃん。遠野先輩のことどう思う?」
不意にそんなことを訊ねられたので、私は彼女の真意を訝しんだ。
机に向かう私の隣・・・叩きつける雨で滝のような状態になっている窓の前に立って、亜紗子は私を見下ろしている。
「どうって・・・?何で?」
どう思うも何も、そもそも大して親しくないのだからわからないというのが正直な所だ。
この前のことはもやもやと胸の中に燻っていたが、別にそれによって嫌いになったという訳でもない。
「特に何も・・・。よく知らないし」
私は思った通りのことを口にした。
「あのね」と亜紗子は少し言いにくそうな素振りで口を開いた。「遠野先輩と仲良くなって欲しいの」
「は?」
ますます亜紗子の考えていることがわからなくなった。
「どうして?」
私が知っている限りでは亜紗子と小夜子の接点はない。強いて言えば彼女と親しい諏訪悠奈が小夜子と同室(親友?)であるといったことくらいか。
そんな彼女が私と小夜子の仲を取り持とうとする理由がわからない。
「私、悠奈先輩と仲良くなったじゃない?それと同じように雪ちゃんも遠野先輩と仲良くなって欲しいの。遠野先輩には雪ちゃんが必要なの」
「必要って何よ。その首の痣と関係があるの?」
私はつい口に出して言ってしまった。亜紗子の白い顔が朱に染まる。
「・・・そう・・・そうよ」
ややあって、彼女は観念したように頷いた。
「遠野先輩は病気なの。悠奈先輩も、惟石先輩もそう。これはそれを癒すための、痣なの」
私は呆然と彼女の話を聞いていた。そして気づいた。彼女の瞳に陶酔の光が宿っていることに。
細い指が痣をなぞる・・・ゆっくりと。
「この首輪はその人の所有物だという、証なの」
暗い室内で、暴風雨を背に佇む亜紗子。
それはもう今までの彼女ではなかった。
「悠奈先輩に頼まれてるの。・・・お願い、考えておいてね」
私はと言えば二の句を継げることもできず、ただ、ただ亜紗子の首輪を見つめるばかりだった。

そんなこと言われても、おいそれと小夜子に近づくことは気が引ける。
綺麗だし、やさしそうだし、仲良くできるならこれほど嬉しいことはない。
この前のことだって、病気が原因であんな風な物言いになってしまったのなら仕方のないことだし、その病気を癒してあげることが出来るというなら進んで立候補してもいい。
けれど、それはあくまでも周りが勝手に私を薦めているだけであって、当の小夜子本人がどう思っているかは疑わしかった。
そもそも何故私なのだろう?私でなければいけない理由があるのだろうか?
それにあの痣って一体・・・。
考えれば考えるほど全てにおいて二の足を踏んでしまう。
寮に戻って忘れ物をしたことに気づいた私は、放課後の校舎を歩いていた。
時刻は午後7時を過ぎている。さすがに校内に残っている生徒はいないだろうと私は思っていた。とりわけ、忘れ物をしてきた化学室には。
今日も雨が降り続いていた。空調の止まった校内は真夏を思わせる湿度の高さ。
その不快さから早く逃れようと私は歩く速度を速めた。
廊下の先に化学室の札が見えたが、意外なことに電灯の光が漏れていた。まだ誰か中にいるらしい。ここを使っている部などあっただろうか・・・?
ドアの前に辿り着いた私は、引き戸に手をかける前に耳をすましてみた。
「・・・」「・・・」
複数の少女の声が聞こえる。
だがここからではくぐもっていて、何を言っているのかは聞き取ることが出来ない。
入っていいものだろうか?私は躊躇した。
何か、入ってはいけないような、面妖な雰囲気を感じ取ってしまったから。
細心の注意を払って、引き戸を申し訳程度動かす。
その隙間から見えたのは、惟石静流と倉澤舞だった。
またあの二人か。一体こんな所で何をしているのだろう?
覗き見るような真似をしている自分に微かな嫌悪を感じながらも、私はその場から動けなかった。
机の上に座った舞の前に、静流が立っている。勿論二人ともこちらには気づいていない。
舞は蟲惑的な動きで緑色のリボンを取り去ると、ブラウスのボタンを一つずつはずし始めた。まるでじらすかのように。
静流の瞳が満足そうに輝く。私はその表情に恐怖をおぼえた。彼女は微笑んでいたが、普段の好色そうな人懐っこい笑みとはまた少し違っていた。狂気を滲ませたその色・・・。
寛げた襟元から、首輪のついた白い首が露わになる。
「どうぞ」
舞が言い終わらない内に、静流はその体に覆いかぶさった。
私は目を凝らした。一体何が起きているのかわからなかった。テレビや漫画でしか見たことのないような、男女間の秘め事めいたことが行われるとばかり私は思っていたのだ。
けれどそうでないことはすぐにわかった。
声にならない声をあげてのけぞる舞。
その首に。
静流は牙を突き立てていた。

これは一体、何なの?
私には静流が舞の首を噛み切ろうとしているようにしか見えなかった。
誰か呼びに行かなくては、早く、早く。
舞が死んでしまう。
しかし体が全く言うことを聞いてくれない。
私の視線の先には変わらず二人が映っていた。逸らしたくても逸らせなかった。
先刻までじっとりと汗ばんでいた体が今では恐怖に震えている。
舞が息絶える気配はなかった。それどころか静流の背中に手を回して、もっと噛みつけと言わんばかりに力をこめているように見える。
ひとしきり舞の首筋に顔を埋めていた静流は、ゆっくり顔をあげた。
唇に血液をべったりとつけて。
出来の悪いホラー映画のようだ。私は恐怖のあまり笑いたくなってきた。夢でも見ているんだろうか?私は・・・。
そんな静流をいとおしそうに撫でると、舞はその唇に自分の唇をあて、味わうように血を舐めとっているのだった。
この人たち、この人たちって・・・。
「何してるの」
心臓が跳ね上がるとはこのことだ。
背後から声をかけられるなど予想だにしていなかった私は、大きく体を震わせ声の主を見た。
小夜子だった。何故こんな所にいるのかわからないが、私は恐怖と羞恥心で居たたまれなくなって、彼女の前から逃げ出そうとした。
「ちょっと待って」
素早く私の腕を掴んだ小夜子はドアの隙間から中の様子を軽く伺い、ため息をついた。
中の二人は気づいていないのだろうか?
「行きましょう」
小夜子に手をひかれて、私は化学室から遠ざかった。
手をひかれている間も、震えが止まらなかった。ふらふらしてうまく歩くことができない。
それなのに顔は上気したように熱く、何を考えても夢の中のことのようで考えがちっともまとまらないのだった。
「大丈夫?」
問われても頷くのが精一杯だった。見るに耐えない歩き方だったのだろうか、気がつけば小夜子に抱きかかえられる様にして歩いていた。
あんな光景を見た後だからなのか、その密着した状態がかなり刺激的に感じられて、私は一人赤面していた。
「どうしてあんな所にいたの?」
「忘れ物を・・・取りに」
遠野先輩こそどうしてあそこに?言いかけてやめる。
「あ・・・忘れ物取ってこれないまんま」
「いいわ。私が後で取ってきて部屋に持っていってあげる。何を忘れたの?」
小夜子はやさしかった。寮の前まで送ってくれると身を離し、「じゃ、あとでね」と再び校舎の方へと戻り始める。
小夜子の体が離れた名残惜しさと、先刻の光景について何も触れなかったことに違和感をおぼえながらも、私は礼を言った。
「・・・それとさっき見たことなんだけど」
数歩歩き始めてから小夜子が振り返る。
「忘れなさい。ただの悪夢よ」
それは先程までの穏やかさを打ち消すような、有無を言わせぬ強い口調だった。

「いい加減にして下さい。何を考えてるんですか、あなた方は」
おもむろに勢いよく机に手をついて、小夜子は静流を睨み付けた。その隣には頬杖をついた舞がいる。
「惟石先輩は一人部屋でしょう?そこで存分にやりたいようにして下さいよ。あんな人目につくような所でしなくてもいいでしょうが」
生徒会室はぴりぴりしたムードに包まれていた。三人を少し離れた所で小早川鞠乃が眺めている。
「そっかー、雪ちゃんが見ちゃったんだ。悪いことしちゃったかな、健全なお嬢さんに」
険しい顔の小夜子とは対照的に、静流の方は実にあっけらかんとしていた。
「でも私もあんな時間に人が来るとは思わなかったんだもん。ね、」
「・・・お姉様せっかちなんだもの。喉が渇いた、喉が渇いたって。あたしは嫌だって言ったのに」
「惟石先輩。大体あなたは普段から少し無防備過ぎるんですよ。一応ここの副会長なんですから、少しは深く考えて行動して下さい」
三人のやりとりを聞いていた鞠乃、額に手をあて、大きく溜息をつく。
「静流。小夜子のいう通りよ。いくらあなた方が公認の仲で、病気のことも暗黙の了解になっているとは言え、すすんで人目に晒すような真似はやめてもらいたいわ。忌まわしい者として認識してる人たちも多いんだから」
「はぁーい。気をつけまーす」
まったく反省の色が見えない静流の返事に、小夜子のこめかみが引きつる。
「でもね、そんなことよりもっと深刻な問題があると思うのよね、私は。ね、小夜子」
意味深な笑みを浮かべて肩に手を置いた静流を見て、小夜子は不安げな表情になった。
「な、何ですか」
「雪ちゃんのこと。いつになったらものにするの?」
「・・・惟石先輩!」
身も蓋もない言い方に声を荒げる小夜子。
「だってそうでしょう?私はてっきりすぐ決めるもんだと思ってたのにさ。いつまで経ってももたもたしてるんだもの。何が不満なのよ?かわいいじゃん」
「そういう問題じゃありません」
「じゃあ何なのよ」
「別にいいでしょう、一人くらい誰も選ばない人間がいたって。私のことはいいんです」
「よくないわよ。みんな心配してんのよ。何潔癖ぶってんだか。理解できないわ、こんなに楽しいのにね、舞」
静流に答えて舞は遠慮がちに頷いた。
「・・・小夜子。私からもお願いするわ。早く冬摩さんに決めてちょうだい。別に今の状態が煩わしいからじゃないのよ。冬摩先輩も妹をって言ってたし・・・」
鞠乃の科白が小夜子には一番こたえる。
一番迷惑をかけているのは紛れもなく鞠乃にだったから。
小夜子は少しの間黙り込んだ。そして。
「・・・考えさせてください」
言い置いて部屋を出て行った。

あれから、化学室での光景が何度も何度も頭の中によみがえってくる。
あれは結局何だったのだろうか?冷静に考えてみるとどうみてもただの逢引だとは思えなかった。
血を、啜っていた?
静流が舞の首に牙を立てて。
そうだとしか思えない。でも舞のあの嫌がる所か煽るような行動、いとおしそうに静流を見る目・・・何度か繰り返された行為なのだろうか?
あれが病気?そして舞がそれを癒すためああして体を差し出していた?
そう仮定すると、悠奈と亜紗子の二人もあのような行為をしているのだろうか。
そうだ、あの日、亜紗子に首輪ができた日、彼女のジャージには血がついていたではないか。首をおさえた右手は血を吸われた傷を覆っていたに違いなかった。
親友のああいう場面を想像するのはあまりにも生々しくてすぐやめた。
小夜子と私を近づけようと悠奈たちは考えているらしいが、そうなると私もあんな真似をすることになるのか?
相手は小夜子で。
顔が火照っていくのがわかった。
一体何を考えているのだろう、私は・・・。
自分自身に恥ずかしさをおぼえながら廊下を歩いていると、向こうから小早川鞠乃が歩いてくるのが見えた。
軽く会釈して通り過ぎようとしたが、意外にも相手は私を呼び止めた。
「今、時間あるかしら?」
「は、はい。大丈夫ですけど・・・」
「私の部屋に来ない?お話したいことがあるんだけど」
そう言って鞠乃はにっこり笑った。

鞠乃の部屋は私たちの部屋より少し小さめだったが、きっちり整頓されていて主の几帳面さが手に取るようだった。
こんな人が私に一体何の用事なのか。部屋に入ったものの所在無げに立ちつくす私に、鞠乃椅子をすすめてくれた。自分はベッドに腰掛ける。
「あの、私に話ってなんでしょうか」
おずおずと私は訊ねた。相手は面識がない上、美人で優秀な生徒会長だ。否が応でも緊張してしまう。
「そんなに緊張しなくていいのよ。別にお説教するために呼んだ訳じゃないんだから。あ、私は小早川鞠乃・・・って今更か」
「冬摩雪です」
私も慌てて頭を下げる。
「うん、知ってる。お姉さんとは仲良くさせていただいてたもの。前生徒会長でみんなの憧れの的だったわ。素敵なお姉さんがいていいわね」
「はい・・・」
それは確かにそうだった。でもそういう風に姉を褒められる度、微かな嫉妬をおぼえる自分もいる訳で。私はそんな暗い感情をすぐさま打ち消した。
「それで・・・お姉さんから何も聞いてない?ここのこと」
鞠乃が言っているのは、多分首輪や病気といったことを含めた一連の事象のことなのだろう。
私は黙って首を横に振った。
「そう・・・何も知らないの。じゃあ、この前化学室で見た光景はさぞかしびっくりしたでしょうね」
その整った顔をわずかに曇らせる。小夜子から聞いたのだろうか。二人は親しそうだったし。
「はい・・・」
「この学校には時々ああいう病気が流行るのよ。私たちは吸血の病って呼んでるわ。まぁ吸血鬼みたいなものと思ってもらってさしつかえないかしら。呪われてるとか忌まわしいとかいう生徒たちもたくさんいるけど、私はそんな風には思えない。だってそうでしょう、病気なんだから」
やはり思ったとおりだった。とはいえ実際にそれを肯定されてみると結構ショックかも知れない。あまりにも現実味のない想像だったので。
「じゃあ、お姉ちゃんの首の痣は・・・?」
「・・・そうよ。あの人も病に冒された」
鞠乃は頷いて続ける。
「吸血の病に冒された者はね、血を吸わなければ生きていけないの。特効薬やワクチンなんてもの、この病には存在しない。彼女たちが病に冒されて一番初めに血を吸った相手・・・その人間にはああいうね、首輪のような痣がつく訳。それはその病人専用の糧であるという印。他の病人が吸血することはできない。たとえば静流が湖東さんの血を吸おうと思ってもそれは静流にとっては毒に等しいものなの。痣のない他の人間の血も平気なんだけれど、往々にして病人は自分が選んだ唯一の人間だけから吸血するわ・・・静流は例外だけど」
「糧・・・」
「そう、首輪の人間たちはね、病人からみれば糧という存在でしかない。血を与えるという存在価値しかないの、誤解を恐れずに言うとね。だから陰では下僕だとか奴隷だとかひどい呼び名がついていたりするわ。首輪の痣はまさに飼いならされてる象徴と言えるかも知れない。吸血鬼とその下僕。―――どう、あなたその下僕になるつもりはない?」
私は絶句した。同じような意味合いのことを亜紗子にもすすめられたが、その時と今とでは状況が違いすぎる。
「首輪つきとして選ばれた人間は血を吸われる訳だから体力の消耗が激しいけど、見た所あなたは健康体みたいだし、それに、メリットなさそうだけど結構気持ちいいらしいのよね、吸血される時って」
「私・・・じゃなくてもいいのでは・・・」
「小夜子はね、あなたのお姉さんに一番初めに吸血されたの」
「え?」
「吸血の病と首輪って連動してるらしくてね。病の多くはここを卒業したら治ってしまうんだけれど・・・、そうしたら首輪も消えるってしくみ。でもね・・・首輪が消えた後は吸血の病が発病する。首輪の人間っていうのはいわば病の予備軍みたいなものなの。それで・・・そう、小夜子ね、彼女は冬摩先輩に吸血されて首輪つきになった。その時にね、発病したら妹を選んで欲しいって言われたらしいの。来年ここに来るからって」
・・・あの時から。
夏休みに帰省していた、首輪がついていたあの時から。
「雪もあそこに入ればわかるわよ」
姉はこうなることを予想していたというのだろうか。
姉には勝てない。私は姉に操られてここまで来てしまった。滑稽だ。
「小夜子はいつからかな、3月くらいからこっち、発病したまま誰の血も吸おうとしないの。幸いなことに私の家は病院だから時々街に行って血液を調達してくるけど、いつもって訳には行かないし、あのままじゃ危ないの、あの子。真面目で潔癖だからああいうのが駄目っていうのもわかるけど・・・。血を吸わないっていうのはこの病の人間にとっては死を選ぶことと同じことなのよ、冬摩さん、お願い。考えてもらえないかしら」
「私で、よければ・・・それは・・・構わないです」
私は言葉につまりながら言った。「でも、遠野先輩本人が嫌って言うなら・・・どうしようもないのでは・・・」
「・・・恨んでるのかも知れないわ、彼女は。私と冬摩先輩を」
ぽつりと鞠乃は呟くように言った。
「え?」
「冬摩先輩は私を選んでくれるつもりだったけど、私は体が弱くて吸血に耐えられなかったから、代わりに小夜子を選んだの。私、泣いたわ。小夜子に激しく嫉妬して、憎んで憎んで夜も眠れなかった。だからという訳でもないだろうけど、冬摩先輩は前よりも私をかわいがってくれるようになった。吸血鬼と下僕の関係ってね、往々にしてかなり親密になるものなんだけど、気がつけば小夜子は、本当にただ先輩の渇きを癒すためだけの存在になってたわ。そして私はそれを喜んだの」
「そんな・・・」
「望みもしないのにあんな体にされた、あれはあの子の精一杯の抵抗なのかもね。だから私も後ろめたさを拭えずに血を調達したりして。今だってそれから逃れたいがためにあなたにこうしてお願いしてる。心配してるふりをしてね。偽善者なの、私って」
鞠乃の顔が泣きそうに歪む。
「でもね、今でも小夜子が羨ましいの。一度でいいから、私も冬摩先輩に血を吸われてみたかった・・・」
私は・・・私に一体何が言えるだろう?
悲しみとおぞましさが同居した感情を胸に抱いて、私は静かに廊下に出た。

「雪ちゃーん、今日新しいDVDが入ったんだけど観に来ない?」
最近、静流が雪に構っている所によく出くわす、と小夜子は不審に思っていた。
どうも小夜子が見ている時を狙ってちょっかいをかけているようだ。
「何のDVDですか?」
「来てのお楽しみ。来るでしょ、放課後」
「えっと・・・」
「そうそう、雪ちゃんは人見知りだもんね、あれだったら人払いして二人だけで見てもいいよ?お菓子も用意してあるし」
(何処の助平オヤジなのよ・・・)
つっこみたい気持ちをおさえて小夜子はその場を通り過ぎようとした。どうしてこんな時に舞がいないんだろう。彼女がいれば頭の一つや二つ引っぱたかれてるだろうに。
「いや、そこまでしなくてもいいですよ・・・。わかりました。3時半からですか?」
「うん、少しずれこむかも知れないけど。じゃ、待ってるから絶対来てよ」
そこで二人は別れて、雪は小夜子の視界から消えた。代わりに静流はどんどん小夜子に近づいてくる。やはり小夜子がそこにいたことを知っての行動だったらしい。
「かわいいねー、あの子。姉とは違った初々しい所がたまんないね」
と舌なめずりする静流に冷淡な口調で返す小夜子。
「・・・17歳の小娘の言葉とは思えませんね」
「さっさと決めないと私がもらっちゃうよ?雪ちゃん。おいしそうだなぁ」
無表情を装う小夜子のこめかみがぴくりと引きつる。
「決めるも何も。お好きなようにして下さい・・・私には関係ないですから」
「痩せ我慢しちゃって」
次の瞬間小夜子は顎をつかまれた。無理矢理に上を向かされる。意地悪そうな静流の瞳がそこにはあった。意地悪な、とは小夜子の主観だったが。
「こんなに顔色悪くして。いい加減意地張るのやめたら?眼鏡なんかしてるから余計優等生のもやしっ子に見えるわよ」
「・・・離してください」
「みんながみんなあんたみたいに不幸な首輪つきになるわけじゃないんだから。自分みたくするのが嫌ならあんたがかわいがってやりゃいいでしょうに。あの子だったら喜んであんたの前に身を投げ出すでしょうよ」
「・・・それが嫌なの」
「・・・何?」
「同情や惰性でつながる関係は嫌なの。快楽だけっていうのも嫌。あの子が私みたいな体になるのは嫌なの!」
「潔癖」
急に興味を失ったように静流は手を離した。
「私は別にあんたが死んでも構わないけど?でも構う人もいるからね。例えばあの子。もう無関係っていえないと思うよ。鞠乃もお近づきになったみたいだし」
小夜子の顔色が変わった。
「どうするの。まだ考えるつもりなの?」

化学室から忘れ物を取ってきてあげた時の、雪の笑顔が胸を痛くする。
すごく嬉しそうだった、そう思ったのは自分の思い過ごしだったのだろうか。
かわいらしい子だと思った。姉の華とは違って純粋で屈託がなくて透明な壊れ物みたいで。
大切だから手を出せない。
それは皮肉なことに華と同じ行動だった。
自分が孤独を味わうことになったあの行動と。
気が狂いそうな喉の渇きが小夜子を襲う。夕暮れの雑木林を何かから逃れるように彼女は走っていた。
学院の裏には小さな湖があった。池といった方がいいのかも知れない。水面は樹木の翠を映し、時に靄がたちこめると辺り一帯は幻想的な様相を見せる。翠靄女学院という名称はここから来ていると小夜子は聞いたことがあった。
けれど校名になっているにも関わらずここを訪れる人は少ない。それ以外にこれといって何もない場所なので、こんな夕暮れ時は普段にもまして人気がないのだった。
池のほとりまで辿り着くと、小夜子は木の幹にもたれて息を整えた。
(このまま死んでしまおうかしら)
それが一番てっとり早い気がした。この池に飛び込んでしまえば死体もあがらないと聞く。
(こんな美しい翠の中で死ねるなんてなかなかロマンチックじゃない?)
這うようにして水面を覗き込む。暗いので深さがどのくらいあるのかなんて、わかる筈なかった。
喉が焼け付くようだ。小夜子は水をすくって飲んだ。渇きは一段と激しさを増した。
(死のう。それしかない)
小夜子は右手を水に浸した。
ひんやりとした感覚が死を予感させた。
「先輩・・・?」
小夜子の背後から、声がした。

小夜子は今にも池に落ちそうだった。
「何してるんですか、先輩!」
私は走った。今までこんなに必死に走った覚えはなかった。小夜子の隣まで辿り着くと、無理矢理体を引き摺って池から遠ざけた。
「冬摩さ・・・」
信じられないものを見る様な目つきで小夜子は私を見た。
「どうして・・・?どうしているの?やめて」
言って私の体を押しのけようとする。「私に触らないで。・・・私、何をするかわからな・・・」
彼女が私を拒むのは、私を嫌っているからじゃない。それがわかっていれば十分だった。
彼女はやさしい人だ。私のことを思って、こうやって遠ざけようとしている。
それなら。
「先輩、私の血を吸ってください。苦しいんでしょう?お願いですから、私にあなたを見殺しにさせないで・・・」
「何を言ってるの・・・?」
「私、先輩のこと好きです。先輩は私のこと、好きですか?・・・ううん、これから好きになってくれればいいですから。私、好かれるように努力しますから。だから、私の血・・・」
胸元のリボンを解いて、ボタンをはずす。
小夜子は目を背けるように地面に突っ伏していたが、それを無理に引き起こした。
眼鏡をはずす。
震える瞳の中で、燃え立つような欲望と理性がないまぜになった色が揺れている。
「やめて、冬摩さん」
懇願の声を無視して、私は彼女の唇の前に自分の首を差し出した。
彼女の背中に手を回して、強く抱きすくめる。
荒い息遣いが止まった。
鋭い牙が私の首の皮膚を突き破るのを感じた。

一瞬眩暈を起こしそうな痛みをおぼえたが、続いて訪れた背筋を貫くような感覚に私は思わずのけぞった。彼女が血を吸い上げる度に震えるような快感が全身を覆い尽くす。
「・・・あ・・・っ」
耐えられず私は声をあげた。
けれど小夜子は一度堰を切った欲望を容易に止められないのか、力任せに私を地面に押し倒す。
背中に微かな痛みを感じたが、ほんの一瞬のことだった。波のように押し寄せてくる快楽が私から全ての思考を奪い去る。
目を薄く開いてみる。
翠に染まった木立の間にまだらに空への入り口が開いていた。まるで無数に点在する天窓のように。その先に微かにみえるオレンジ色。
「綺麗・・・」
私はうわ言のように呟いていた。

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