メデューサの瞳  草薙あきら

プロローグ


「もう嫌なの。一人になりたい」
そう口にした高城遠子(たかしろとおこ)だったが、はっきり言って本気ではなかった。
そんなこと、絶対受け入れてもらえない…とりわけシスコン気味の兄たちには。
そう思ったので。
しかし父はあっさりそれを認めてくれた。
「そうだね、遠子も疲れているだろうしね」
そう穏やかに微笑む父。しかしその後に続く科白に、遠子は多少不満を抱かなくてはならなかった。
「でも本当に一人じゃ父さんたちも不安だよ。だから今から会いに行く子を護衛につける。それが条件だよ。それを飲んでくれるなら、遠子が何処で何をしようが父さん文句言わない」
護衛?それでは今までと変わりはしない。
「護衛と言うのは表面的なものだよ。何にしろ一人っきりというのは心細いだろう?友達と思ってくれればいい。彼女も少し休ませる必要がある人間なんだ。父さんや兄さんたちの気持ちもわかって欲しい」
遠子は渋々頷いた。とにかく、今置かれている立場、次から次に入ってくる仕事、それらのことから逃れられるなら多少の我慢はする。
「じゃあ、その友達に会いに行ってみようか」
父は電話の受話器をとり、車を回してくれと言った。

二人が向かった先は病院だった。
「ここにその人がいるの?…入院してるの?」
訊ねる遠子に父は頷いてみせる。
「彼女にはよく護衛の仕事をしてもらってたんだ。遠子と同い年だけど彼女の強さは半端じゃないよ。でも先日テロに会ってね、爆発に巻きこまれてしまった…幸い依頼主は無事だったけどね」
そんな話を聞かされる度にあんまりじゃないかと遠子は思う。
どうしてそんな少女を護衛なんかに派遣するのだろうか。
普段は娘に甘いが、仕事のことになると父は残酷だ。
目的の部屋の前に来ると、父は軽くノックしてドアを開けた。
「六宮沙霧(ろくみやさぎり)」とネームプレートに書いてある。
遠子は中を覗きこみ…息を飲んだ。
全身を包帯で巻かれている人間が力なくベッドに横たわっていたからだ。
父に何も聞いていなかったら、男女の性別すらわからなかったかも知れない。
こんな状態じゃ護衛どころかいつ退院できるのかも怪しい。
遠子は音を立てないようにベッドに近づき、少女の顔を覗き込んだ。
かろうじて右目と口元だけが開いているだけであとは包帯に覆われている。何だか痛々しくてずっとは見ていられない。
無言で父の袖を引っ張り、遠子は廊下に出た。
そこに主治医がやって来る。「高城さん来てたんですね」
「ああ、今さっき」と父。「具合はどうだ?」
「…再生能力がかなり…。やはり脳のダメージが…」
「何とか…手術は…?」
少し離れて見ている遠子に声はほとんど届かない。
困ったことになった、遠子はぼんやり考えていた。
あの子と一緒に行動するというのが父の条件だった。しかしとてもじゃないが彼女は自分と行動できるような状態ではない。
一体父は何を考えているのか。
まだここにいろということなのだろうか。
仕事のことを考えると涙が出そうになる。神経が擦り減ってちょっとしたことにも感情が爆発しそうだ。
「お父様、どういうことなの?あの人当分回復しそうにないんだけど。あたしは一刻も早く家を出たいの…」
感情を押し殺しながら、遠子は父に呼びかけた。
「大丈夫、毎日お見舞いに来てあげるといいよ。すぐに彼女は元気になると思うよ。その間に引越しの準備とか、いろいろやることがあるだろう」
時間稼ぎをしていると思わずにはいられなかった。何都合のいいことを言っているのだろう。あの状態じゃあと何ヶ月かかるのかわかったもんじゃない。しかし勝手に家を飛び出せるほど遠子に強い勇気は無い。
「…解ったわ。あたしもう少しあの人の所にいるわ。お父様は?」
「私は先に帰るよ。仲良くできるといいな」
仲良く?大体意識は戻っているのだろうか。意識不明だったら話すことすらできない。
父を見送って、遠子は再び病室に入った。
少女───六宮沙霧の枕元に立ってみる。酸素マスクはないから、ただ眠っているだけのようだ。少しほっとして沙霧を眺めてみる。
一体どんな重傷を負ったのだろう。爆発と言っていたから火傷とかだろうか。
顔にも包帯が分厚く巻かれている。同じ女として、遠子はひどく悲しい気分になった。
年頃の女の子が自分の顔のほぼ全面にひどい傷を負ったら…ショックだろうな、譬えようもなく。
本当はどんな顔をしてるんだろう。
遠子は想像してみる。上手く行かない。
結局その日沙霧が目を開けることはなかった。


翌日。
遠子は沙霧に会いに病院を訪れた。
今日は起きているだろうか、と少し期待しながら病室のドアを開けたがそこに沙霧の姿はない。
部屋を間違えただろうかと慌てて廊下に出てネームプレートを確認する。
「六宮沙霧」間違い無い。
ちょうど通りすがった看護婦に、遠子は訊ねた。
「ああ、六宮さんね。今手術中の筈よ。かなり時間がかかると思うわ。面会時間終わっちゃうと思うから、今日は帰った方がいいんじゃないかしら」
「そんなに大変な手術なんですか?あ、あのー、脳とかですか?」
昨日の父と医者の会話を思い出しながら言う。
「そうね、脳の損傷が大きいみたいなのね。大丈夫、うちの脳外科の先生は腕がいいから」
看護婦の科白、後半はもはや聞き取れていなかった。
「そうですか…」ふらふらと力なく壁にもたれかかる。
退院がいつになるかという以前に、
死ぬかも知れない。

「お父様、六宮さんは大丈夫なの?今日手術だって言ってたけど…」
御飯がうまく飲みこめない。食べ物が喉を通らないのはもう何ヶ月も前からではあったが。
「もし亡くなったらあたしの希望はどうなるの?」
沙霧のことをここから逃れるための手段としか考えていない自分に嫌気がさしたが、そんなことにいちいち頭を悩ます余裕が今の遠子にはなかった。
「いいじゃないか、休みたいならここででも。わざわざ出て行く必要無いだろう?遠子が出て行ったら兄さんさみしいよ」
次兄の要(かなめ)が身を乗り出す。横でその下の兄、朋(とも)がうんうんと頷いている。
長兄の維純(いずみ)はむっつりした表情で黙々と食事を口に運んでいる。
昔からこの兄だけは他の二人の兄と違い遠子に対して冷たい態度をとっていた。もっともそれは遠子に対してだけではなかったが。元々そういうクールな性質なのだろう、うちの中で唯一自分を特別扱いしない存在。そんな維純に悔しさと同時に好かれたいという感情を遠子はいつの頃からか持っていた。
しかし、今見る限り維純は遠子が家をでることに何の興味も無いらしい。
少しがっかりしたが、兄らしいと言えばそうなので遠子は再び父に視線を移した。
「うーん、ここを出て行くというのは考えてもらわないといけないね。遠子まだ15だろう?一人暮らしはさせられないよ」
「…じゃあ維純兄様のマンションに住まわせてもらうわ」
遠子の科白に要と朋が立ちあがる。
「ず、ず、ずるいぞ兄さん!」「僕だって遠子と一緒に住みたいのに!」
「俺は何もしてないだろうが」わずかに眉をひそめながら維純は呟いた。
「まあまあ」と父。「遠子、とにかく六宮君の回復を待って貰えないか?大丈夫。彼女は死んだりしないし、仲良くしてあげればすぐ元気になると思うよ」
相変わらず楽天的な考え方だったが、ここまで父が断言するのはそれなりに理由があるのだろう。遠子は小さく溜息をついて、頷くしかなかった。

学校が終わると遠子は友達の誘いも断り、病院に向かった。
昨日沙霧の手術は終わった筈だ。病室を開けて、看護婦が部屋の片付けをしていたらどうしよう。「残念ながら六宮さんは亡くなりました」と言ったら…。
病室のネームプレートはそのままだった。「六宮沙霧」。少し緊張がほどける。
と、昨日までなかったものが目に飛びこんできた。
「面会謝絶」
ドアに貼りついたそれが何なのか、遠子はしばらく考えてしまった。
そしてゆっくりと絶望感に似た感情が胸を満たして行くのを感じる。
死ぬかも知れない。
堰を切ったかのように涙が溢れてきた。
最近かなり精神状態が不安定ではあったが、それだけだろうか。
自分を分析できる余裕など無かった。
しゃくりあげながら廊下を歩いて行く遠子を、看護婦や患者たちが気遣わしく、そして不審気に眺めていたが、そんなこともうどうでもよかった。

遠子は鏡を見る。
あたしは強い。
我慢できる。今まで我慢してきたんだから。
鏡の中の自分の眼を凝視する。
大丈夫。大丈夫…。

もうショックは受けたくないとかなり悩んだのだか、遠子は翌日も病院に向かっていた。
それでも病室まで行くのが億劫だったので、受付で「六宮沙霧さんとは面会できますか?」と訊ねることにした。
受付の女性はにこやかに笑った。「はい、できるそうですよ」
面会謝絶の状態は取りあえず脱したらしい。
遠子は足早に病室へと向かう。まだ、安心はできない。脳に障害が残って普通の生活は送れない状態かもしれない。
軽くノックして、恐る恐るドアを開ける。
先日見た沙霧とほとんど変わらない姿の彼女がそこにいた。
右目は閉じられたままだ。今日も眠っているらしい。
よく見ると睫毛がうらやましいくらい長いことに気付いた。
元が美人だったら余計に顔に傷が残るということは耐え難いことなんじゃないだろうか。
遠子はベッドの脇の椅子に腰掛け、まだ話したこともない友達を見つめる。
ゆっくりと上下している胸。あまり寝苦しさは感じられない。そのことに少し気持ちが和む。
ふと病室を見回してひどく殺風景なことに気付いた。
今度花を持ってこよう。
彼女が目を開けた時に何か綺麗なものが見えた方がいいよね。
確か下の売店に花屋もあったっけ…遠子は思いついて立ちあがった。
その時。
「誰?」
掠れた声が耳に入る。一瞬、何が起きたのかわからなかった。
視線を移動させる。さっきまで閉じられていた沙霧の目が薄く開いている。
「あ…あ、大丈夫?痛くない?」
何をどう言っていいものか、遠子は混乱した。
沙霧の目が開いている!あたしを見ている!
その事実に、遠子はぞくぞくするような感覚をおぼえた。
「誰…?あなた」
同じ質問を繰り返す沙霧。遠子は思わず身を乗り出していた。
「あたしは高城遠子。あなたの友達よ」

「六宮さんの意識が戻ったの」
嬉しそうに話す遠子を見て、要は悲しそうな顔をする。
「それはよかったなー。けどああ、そんな話した事もない子に遠子を持ってかれるなんて…ああ」
「何言ってるのよ、もっと喜んでよ。今日はあんまり話せなかったけど、明日はもっと話せるようになるわ。どんな子なんだろうな、楽しみ」
「きっと意地悪な女の子だよ。遠子苛められるぞ」
「何でそんなこと言うのっ!?要兄様の方が意地悪だわ。嫌い」
「ごめん、ごめんね。冗談なんだよー。機嫌直してくれよ遠子ぉ」
言いながら要は少し安堵している。ここ数ヶ月、こんなに嬉しそうに笑う遠子の姿を見ていなかったからだ。
妹を取られるのはひどく悲しいが、良い影響を与えてくれるのなら…それは妹思いの兄としては歓迎すべき相手なのかも知れない。

翌日、遠子は面会時間が始まると同時に病院に入っていた。
そして信じられない光景を目にすることになる。
「え?」
遠子は思わず声を出していた。
病室の窓辺に腰掛けて、風に吹かれている沙霧がそこにはいた。
左腕と右足、そして顔にはまだ包帯が巻かれていたが、立ち居振舞いは常人のそれとほとんど変わりがないように見える。昨日まで芋虫のようにベッドに横たわっていた人間とは思えない。
「あ、えーっと、たかしろとおこさん」
まだ少し記憶は混乱しているらしい。たどたどしく遠子の名を口にする。
「あ、あのー、何か…大丈夫なの?寝てなくていいの…?」
またしてもいうべき言葉が見つからない。遠子もまた混乱していた。
おかしい。この回復力は異常じゃないか?昨日なんか目を開けただけで体力消耗しきってたのに…。
「うん、今日は気分いいのー。嬉しいな。毎日お見舞い来てくれてたんだね。ありがとう。看護婦さんに聞いたの」
声ももう普段通りと言った感じだ。昨日の掠れた声とは違って透明感がある。
遠子は照れた表情を隠すため、持っていた花を花瓶に生けることにした。
「お花持ってきてくれたんだ。ありがと〜それ何て言う花?」
すたすたと包帯の足でこっちに歩いてくる。信じられないものを見ている心境で、遠子は目を擦った。震える手で指差す。
「足、足大丈夫なの?」
「え?ああ、もうほとんど大丈夫。捻挫程度のもんだからさ」
「ね、捻挫?」
今までの姿が大袈裟だったというのだろうか。いやそんな筈ない…。
「ねえねえ、遠子って呼んで良い?」
にこにこ…しているのだろう、まだ右目と口が申し訳程度に見えているに過ぎないので推測なのだが…沙霧は遠子に顔を寄せて訊ねる。
「う、うん。どうぞ」
「あたしのことも沙霧って呼んでね」
すごく人懐っこい性格みたいだ。遠子は笑って頷いた。


それから五日間、遠子は毎日お見舞いに行ったが、父の言った通り驚くべき早さで沙霧は回復して行った。
そして今日。
病院の玄関に黒いセーラー服の少女が立っている。
背中まである黒髪を風になびかせて。
遠子より頭一つ分くらい背が高い。気の強そうな瞳、少し派手めな顔立ち。
もちろんその顔に傷なんて見当たらない。
「遠子―遅いよ!」
沙霧は遠子の姿を認めると笑って手を振った。
「…綺麗な子じゃないか」
運転席で維純がぼそりと呟く。後部座席でうんうんと頷く朋。
遠子は呆れた視線を二人に向け…沙霧に手を振り返した。



 (プロローグ・了)



《コメント》

もともと漫画用に考えていた話です(というかあたしの考える話はほとんどそうですが)。
なるべく早く本編もアップしたいと思ってます。…ある意味読む人を選びそうな展開になりそうですが…。


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