「じゃあ、何かあったらすぐ連絡するんだぞ。いつでもすぐに駆けつけるからな。たまには帰ってこいよ。暇な時はメールしてくれよ。夜中でもちっとも気にするなよ。ええとそれから…」
いつまでも続く兄、要(かなめ)のお願い事に遠子は少しうんざりする。
「わかったから。大体隣町なんだからすぐに会えるでしょ?一人じゃないから大丈夫だよ」
「そうだよな…六宮さん、遠子をよろしく頼むよ」
二人の様子をおかしそうに眺めていた六宮沙霧(ろくみやさぎり)は、「まかせてください」と遠子の肩に手を回す。
うらやましそうにそれを見てから、要は名残惜しそうに何度も振り返りながら去って行った。
下から何度目かのクラクションが鳴る。「いい加減にしろよ」と言わんばかりの長兄維純(いずみ)の意志表示だ。ややあって車の音が遠ざかっていく。
「本当に遠子の事がめちゃめちゃ好きなんだねぇ、要お兄様は」
面白いものを見たという顔で笑う沙霧。遠子は肩を落とした。
遠子が家での諸々の事情が嫌になって、家を出たいと言ったのは1ヶ月ほど前だ。
反対されると思ったのだが父は意外にあっさりと承諾してくれた。沙霧と一緒に生活することを条件にして。
そして今日がその引越しの日である。家を出るといっても隣町なのではっきりいって生活範囲はそう変わらない。新しい高校だって実家よりは少し近くなった程度だ。
けれど今まで家でしてきた「仕事」と切り離されて普通の女子高生として生活できるのは何物にも代え難い魅力があった。あのまま「仕事」を続けていたら間違いなく精神が破綻していたように思う。
「遠子、今日の夜御飯どうする?」
能天気な問いかけに、遠子は暗くなりかけた気持ちを振り払った。
「どうするって?ええっと…あたし料理はできないよ」
口ごもりながら遠子は答えた。
「やっぱりねぇ〜お嬢様だもんね、遠子は。けど困ったな、あたしもあんまり料理は得意分野じゃないのよね」
初日から暗雲がたちこめ始めている。
改めて遠子は共同生活について考えを巡らせた。
家を出ることに夢中でまともに考えもしなかったけど、他人と一緒に生活するってそういうことなのだ。
沙霧はともかくお嬢様生活の長い遠子は家事全般をやったことが皆無と言ってよかった。
あまりに無謀だっただろうかと遠子は今更ながら思う。
父はこのことを見抜いて沙霧との共同生活を条件にしたのだろうか。
しかし何にしろ食欲という人間の三大欲求の一つが既に危うい状況だ。
「…今日はコンビニで何か買ってくるということで。明日からちょっと考えないとなー」
沙霧は呟いた。

目の前で沙霧は三つ目のお弁当を平らげようとしている。
遠子はと言えばようやく卵サンドの二個目を手に取った所だ。
スレンダーな体の何処にそんな大量の弁当が収まっているのか、遠子は信じられない思いで見ていた。
大体沙霧には謎が多すぎる。出会った時もそうだったし、今もそうだし、沙霧のことを遠子はほとんど知らない。
護衛の仕事をよくしてもらってるって言ってたっけ。
そしてすごく強いんだと。
父の組織の人間だと言うことは程度や種類の違いはあれ、彼女もあたしと同類だってこと?
気付かない内に凝視していたらしい。
「何?遠子。じっと見つめちゃって。さてはあたしに惚れた?」
「な、何言ってんの?」
「かわいいなぁ〜遠子は」
こちらににじりよってくる沙霧から、遠子は思わず身を遠ざけていた。
異様な雰囲気が漂っている。…沙霧酔ってる?
テーブルの上に目を移すといつの間にか酎ハイの缶が3本転がっている。ジュースだと思いこんでいた。
「さぎ…きゃあっ」
がばと抱きすくめられて遠子は言葉を失くした。そのまま床に押し倒される。熱い吐息が耳元にかかり、遠子はパニック状態に陥った。
「や、やめてよっ、何してるのよっ」
「今日から二人っきりだよね〜襲っちゃうかも知れな〜い」
「もう襲ってるよっ!ちょっと、く、苦し…」
必死でもがいたが、沙霧はがっちりと遠子の体を掴んだまま。さすが父の言っていた通り腕力は人並みでないようだ。
何?何なのこの展開は?何が起こってるの?
料理よりももっと重大な問題が待ち構えていたことに、遠子は愕然としていた。

その日は県立桜花高等学校の入学式だった。
今はそれも終わり、生徒たちはそれぞれのクラスに戻り、担任によるオリエンテーションを受けている。
「はあぁぁ」
大きく溜息をつくのは遠子。昨夜ほとんど眠ることができなかったのか、少しやつれて見える。
それというのも…恨めし気な視線を向けた先にいるのは沙霧。遠子の同居人で、クラスメイト。
あれから何とか彼女の腕から這い出たのもつかの間、無理矢理ベッドに連れこまれ、明け方まで抱きしめられたまま身動きも出来なかった。
そして当の本人と言えば、「ごめーん、あたし酔うと誰彼構わず襲っちゃうのよね」とまるで反省の色がない。
酔うと…ってあれが高校生の科白なの?…まぁいいけど。変な真似はされてないし…酔ったはずみだって言うんなら。
普段からあんなんだったらとても一緒に暮らせない───遠子は微かに痛むこめかみを押さえつつ、今日何度目かの溜息をついた。

「遠子」
「ぅうわぁっ、何!?」
過剰に反応する遠子を、悲しそうに沙霧は見つめる。
「そんな反応しなくても。へこむな…」
「ご、ごめん…」
「じゃっ、一緒に帰りましょ」
あっさりと機嫌を直してすたすたと歩き出す。慌てて後を追う遠子。
実をいうとこのツーショットは入学初日の今日から既に話題になっていたりした。
長身でスタイルが良く、派手めなルックスの沙霧と、何処となく陰のある薄幸の少女といったイメージの遠子。タイプは正反対だが二人ともちょっと目をひく美少女だと言えた。
けれどそんなこと当の本人たちは知る由もなく。
教室を出ると部活動の勧誘であろう、立て看板やらビラやらを持って馴れ馴れしく話しかけて来る生徒たちが何処からともなく湧いて出てくる。
「そういえば、遠子は何か部活するの?」
あくまでもにこやかに、そしてきっぱりと勧誘をかわしながら沙霧は訊ねた。
「部活かぁ…やってみたいな」
中学生の時はとてもそんなことしている暇はなかった。学校にさえまともに行っていない。出席日数だってぎりぎりだった。
「沙霧はどうなの?」
「あたし?あたしはパス。バイトがあるから」
「バイト?」
遠子は怪訝そうな表情をする。「何で?そんなのする必要ないじゃない」
実にお嬢様らしい考えだと沙霧は苦笑する。
「そうかもしれないんだけどね。で、何入んの遠子?やっぱ文化系ってイメージだよね」
さらりと話題をすりかえて、沙霧は遠子の肩に手を回した。
瞬間、遠子はびくりと体を強張らせる。
「あのねー、そんなに怖がらないでよ。ね、取って食う訳じゃないんだから。昨日みたいなことはもうしない。絶対しないって」
「う、うん…」
伏目がちに答える遠子を見ながら、つい沙霧は思ってしまう。
かわいいなぁ。
ちっとも懲りていない沙霧だった。

バイトなんてする必要ないじゃない、と遠子は言った。
確かに遠子が父親からもらっている生活費は二人が暮らすには充分過ぎる額だ。
けれど、沙霧はあくまでも彼らとは他人。それどころか遠子の父には両親が亡くなってからずっと世話になってきた。その恩に報いるために言われるままに仕事だってこなした。今回は名目上はお嬢様の護衛ということになっているが、実質的にはお友達として仲良く共同生活を送る、それだけだ。それに便乗して遠子と生活費を食いつぶすという気にはさすがになれない。そうしたって文句を言われないことはわかっている。こんなアルバイトじゃ大した金額にもならないこともわかっている。でも、これはけじめだ。
「いらっしゃいませ〜」
という訳で沙霧は某ファーストフード店で働いていた。
際立った容姿の所為で客の受けもよく、沙霧目当ての常連も彼女が入った日から格段に増えている。
「ねぇ、終わったら遊ばない?」
「何時頃終わるの?」
「5、5万でどう?」
絶えないお誘いをにっこりと、そしてたまには裏拳をくらわせつつ断る沙霧の決まり文句はこれだった。
「ごめんなさい、待ってる人がいるの」
何だよ男いんのかよ、と大抵の男たちは去って行く。
もちろん沙霧に彼氏と呼べる存在などなかったが、「待ってる人がいる」というのは嘘ではない。
「モテモテだねぇ、六宮さんは」
ふいに後ろから声をかけられて沙霧は振り向き、少し息を飲む。
そこには遠子の兄たち…高城(たかしろ)三兄弟が揃って立っていたからだ。
「あ、いらっしゃいませ。びっくりしたー、こんな所にも来るんですね」
お坊ちゃんたちはもっと高級な店にしか行かないかと思ってました…とまではさすがの沙霧も言えなかった。
「沙霧ちゃんの姿が見えたからさ、入ってみようって事になってさ」
既に沙霧ちゃん呼ばわりしているのは三人の中では一番下の朋(とも)だ。
それにしたって、と沙霧は改めて三人を眺める。
ここの兄妹たちは美形揃いだ。三人も並べば何とも言えない威圧感めいたものさえ感じる。
それぞれタイプは違うけど、多分全員もてる筈。
ただ、遠子以外は皆、眼鏡をかけているのが少し残念と言えば残念だった。
眼鏡外したらきっともっとすごい絵になるのに。
「バイトなんてしなくてもいいのにさ」
朋が遠子と同じことを口にする。
「趣味なんです。ええっと、何か食べますか?」
「いや、時間がないし、まわりの人間の視線が痛いから」
維純は時計を見ながら言った。言われてみれば常連客の何人かが三人に鋭い視線を投げかけている。それとは対照的に女性客はうっとりした表情で三人を見ているのだった。どちらにしろひどく目立っている。
「六宮さん、くれぐれも遠子の事よろしく頼むよ。悪い虫がつかないようにちゃんと見張っててくれよ」
要は沙霧に手を合わせた。もう外に出ている二人は少し呆れたようにその様子を見ている。
この兄が一番心配性のようだ。
「わかりました、わかりましたから。ね、仏様じゃないんだからそんなに拝まなくていいんですって」
「頼んだよ〜」
維純に引きずられながら尚も叫ぶ要。
手を振りながら心の中で不敵に笑う。
───ごめんなさい。もう手遅れです。

家に帰っておいしい煮物が食べたい。
ふと気がつくとそんな事を考えている自分がいて遠子は愕然とする。
家を出てからの遠子の食生活はかなり貧相なものになっていた。
朝は目玉焼き、もしくは卵焼きとごはん、昼は売店のパン、夜はコンビニの弁当、もしくは沙霧がバイト先から持って帰ってくるハンバーガー。
もっと高級な食事をするお金はある。けれど既に外食自体に拒否反応を起こしていた。
一緒に暮らす沙霧はどうということもないようだ。
けれどこの歳までお嬢さん育ちで、家には栄養士の資格を持ったお抱えシェフがいた遠子にとってこの生活はさすがにつらかった。
だけどそんな理由で家に戻るのはプライドが許さない。
こうなればもう自分の料理の腕を磨くしかないだろう。
そんな訳で遠子は今調理室にいる。
「ようこそ高城遠子さん!我が料理研究会はあなたの入部を歓迎します!」
ドアを開けた途端、恐ろしく芝居がかった科白で歓迎され、遠子は逃げたくなるのを必死で押さえた。
調理室の中には女子生徒が三人と男子生徒が一人いた。今の科白は男子生徒が言ったものらしい。
「僕、部長の今堀和志(いまほりかずし)です。うちって見ての通り廃部寸前なんですよ。嬉しいなぁ入ってくれて。さぁどうぞ、まぁ座ってください。さっきクッキー作ったんですよ」
部長の和志に促されるまま、遠子は椅子に座った。
何だか外見の雰囲気が長兄の維純に似てるとぼんやり思った。口を開いたら全く違うが。
女子生徒たちがクッキーとお茶を持ってくる。
「あ、僕たちみんな2年です。この人は副部長の小林さん。彼女のうちはケーキ屋さんなんですよ。そしてこっちが湊(みなと)さん。こっちは紺野(こんの)さん。みんないい人だし、料理も上手だから何でも訊いて下さい。それで、高城さんはなんでこの部に?」
横の三人に口を挟む隙を与えず、和志はべらべらと喋る。
「あ、あの…料理ができないので、できるようになりたいなと」
「ブリリアント!」
「はっ…!?」
「自分のできないことに挑戦するその姿勢は大変素晴らしいです。僕は感激しました。共に料理の腕を磨きあおうじゃありませんか!ねっ、皆さんも!」
ばっ、と三人に振り向く和志。「…う…う…うん…」と消極的な答えが返ってくる。
あたし選択間違えた…?
ここが廃部寸前な理由が何となく遠子にはわかったような気がした。

「遠子〜一緒に帰ろうよ」
妙な疲れを覚えながら遠子は廊下を歩いていた。振り返ると沙霧がたかたかと走ってくる。
「あれ、沙霧まだいたの?今日バイトは?」
「今日はお休み。遠子待ってたんだよ」
「そうなの…?ごめんね、もっと早く出てくればよかった」
「ううん。ねぇ、部活入ったんでしょ。どんな感じ?」
「いや…何て言ったらいいのか…」
まだ額に汗が浮いている。
「部長さんがちょっと変わっててね…ぱっと見はいいんだけど。男の人なの。ああいう部って女の人ばっかりかと思っ…」
「男!?男いるの!?」
沙霧の強い口調に遠子は思わず口篭もった。
「う…うん…部長さんがね…あとはみんな女の子だよ…」
たじろぎながらもかろうじて話す。
「あ〜女ばっかりだと思ったからあたしも賛成したのに甘かったか〜」
「な、何の話なのよ」
「あたしも入るわ、料理研究会」
「何!?突然…バイトは!?」
「料理研究会は週一でしょ?何とかなるわ」
あたしの目の届かない所で何かあっちゃたまらない。
心の中で沙霧がそう呟いたことなど遠子は知る由もない。

そんな経緯で沙霧と遠子が料理研究会に入部したことは、何故だかあっという間に広まっていた。
そして二人が入部して最初の調理実習の日、はたして調理室の窓の外には男子生徒達がびっしりたかっていたのだった。
部にも昇格していない同好会の活動にこんなにも人が集まるのは信じられない事だ。
「いやぁ、今日は何だかにぎやかですね。これも二人のおかげかなぁ。いい宣伝になると良いんだけどね。はははは」
満足げに笑う和志。周りの部員はいささかげんなりしている。ギャラリーはあくまでも遠子と沙霧が目当てなだけで、入部しそうな生徒がいないことは一目瞭然だった。
「じゃあ今日はプリンを作ります。黒板に作り方は書いてるけど、わからないことがあったら何でも訊いて下さい。じゃあ始め」
部員たちはわらわらと持ち場に移動する。
「ちょっと、沙霧何してるの?」
椅子に座って優雅にくつろいでいる沙霧を見て、遠子は言った。
「あたしできないから見てる。今日の所は味見役っちゅーことで」
「何ふざけたこと言ってんのっ!ほら卵割ってよ!卵割るくらいしかできないんだから」
「遠子ちゃんひどい…」
しぶしぶと沙霧はボールに卵を割り入れ始めた。それを見届けて、遠子は鍋でカラメルソースを作り始める…が。
「沙霧!割り過ぎだよっ、四個って書いてあるでしょう?」
「だってたくさんあるんだもん」
「それは予備と言ってね…ちゃんと黒板見てよ!やる気あるの!?」
まあまあ、と副部長の小林がなだめる。
「高城さん、焦げてる…」
「え、ああっ!」
遠子は愕然として黒焦げのカラメルソースを見つめた。
「あっはははは、やっちゃったねぇ遠子〜」
「す、すみませんすみませ…沙霧ぃ、ちょっと笑い過ぎなんじゃないの?」
そんなこんなで数時間経過。プリンは何とか出来あがったのだが、沙霧が卵を多く割り過ぎたにもかかわらず、何故か一人分足りないのだった。
和志は顎に手をあて、考えながら言う。
「おかしいな〜こんなはずじゃなかったんですけどね。まぁいいです。しかしどうしましょうか。誰か一人食べるのを我慢するか…そうだっ、高城さん、僕と半分こしましょう。それで丸くおさまりますよね」
何処が丸くなのか?と心の中で突っ込む部員たち。窓の外では男子生徒たちの激しいブーイングが聞こえてくる。
しかし心の中だけで済まさない部員が一人いた。
「駄目です。遠子と半分こするのはあたしです」
沙霧はおもむろにスプーンでプリンを掬うと、隣にいた遠子を抱き寄せ口元に近づける。
「はい、あーん」
「さ…沙霧、あのねぇ」
妙な汗をかきながら周りの反応をうかがう。
半ばひいた、そして半ば興味津々といった表情で二人の次の行動を待つ部員とギャラリーたち。
次のリアクションを考える冷静さも消え失せ、震える唇で遠子はプリンを飲みこんだ。


サティのジムノぺディが硬質な電子音で流れてくる。
この楽曲は大好きなのだが、ここまで毎日のように聞かされるといささかうんざりしてくる。
遠子は気だるげにテーブルの上の携帯電話を見やった。
赤く発光しながら「高城要」という文字を浮かび上がらせているそれを見るとどっと疲れが出てくる。しかし出ない訳には行くまい。
「はい…」
「遠子?ずっと出ないから心配してたんだよー」
「ずっとって…授業中は無理でしょ。無茶言わないでよ」
「そうかも知れないけど…メールくらいくれたってさ」
「してるじゃない。朝と夜に。これ以上何を望むのよ、あたし要兄様の恋人じゃないんだけど」
遠子の科白に要、しばし絶句する。と。
「遠子!?帰ってこないの?たまには帰っておいでよーさみしいよー」
電話の相手が代わった。朋である。相変わらず舌足らずな喋り方をする兄だと思いながら、
「たまにはって、出て一ヶ月も経たないんだけど…。朋兄様こそ女の子に手を出すのはほどほどにしとけと忠告しておくわ」
と冷たく言い放つ遠子。
「だからさ、僕は手なんて出してないんだよ。向こうが出してくるの。心配しなくても遠子が一番好きだよ」
…頭痛いわ。
遠子は無意識の内に目頭を押さえていた。
どうしてこんな奴ばっかりなの?あたしの周りは。
「貸せっ!遠子?ストーカーには注意しろよ?おまえはかわいいんだから何処で誰に目をつけられるか…」
再び要に戻ったらしい。
「はいはい」
「真面目に聞けよ、最近その辺変質者とか多いんだからな、マジで気ぃつけろよ。おい、聞いてんのかー」
「わかりました。お父様によろしく」
素早く遠子は電話を切った。…疲れた。
ガチャンとドアが開く音がした。振り向くまでもない。同居人の沙霧だ。
「お待たせしました。お風呂どぉぞ〜」
バスタオルで頭を拭き拭き、キッチンに向かう。
ここにも頭痛の種が。思ったけれど口には出さない。
「どしたの?そんな顔して」
ミネラルウォーターのペットボトルにそのまま口をつけて飲んだ後、沙霧は訊ねた。
そんな下品な飲み方はやめてと遠子は常々言っているのに、一向に直る気配がない。
遠子の手に握られた携帯に視線を止める。「またお兄様?」
「うん」
「愛されてるねェ」
「そうなのかな」
「でもあんなかっこいいお兄様方にだったらあたしも溺愛されたいね」
「代わってあげるけど」
そっけなく言う遠子に沙霧は抱きついた。
「わあっ!」
「拗ねないでよ〜あたしが好きなのは遠子だけだから」
さっきも似たような科白聞いたような気が…。頭を抱えたくなる。
「拗ねてないでしょうが!」
「そういえば遠子は眼鏡じゃないんだね。お兄様達はみんな眼鏡なのに」
沙霧の腕の中でもがいていた遠子だったが、ぱたりと動きをとめる。
「ああ…あたしはコンタクトだから」
「え、それって不便じゃない?まぁコンタクトの方がかわいくていいけど」
「不便?何で。だって普段使う必要ないでしょ。こんな…」
少しの間遠子は言葉を失くした。この話題になるとひどくナーバスになって行く自分を感じる。

高城家の四兄妹は、全員コンタクトレンズ、もしくは眼鏡をしているのだが、それは視力が悪いからではない。簡単に言ってしまえばそれぞれ種類は違うが眼力と呼ばれる能力を持っているからだ。
日常生活を営む上で無闇矢鱈に、もしくは無意識にその能力を使わないようにするための遮蔽物、それが眼鏡とコンタクトレンズだった。もちろん特別仕様なのでその辺で買える代物ではない。
兄たち三人は仕事の都合上付け外しの容易な眼鏡を使用していたが、遠子だけはコンタクトレンズを常用していた。
常人にはない能力を持った人間の、能力の開発と育成、そして人材派遣。それが彼らの父が興した組織、通称メデューサの活動内容である。(組織、とは言っても半ば以上は企業と化していたが。)四兄妹は能力にちなんで特にメデューサと呼ばれ、それ以外の能力者はスネークと呼ばれて組織を形作っていた。

「じゃあ、ずっとつけたままなの?何か目に悪そうだなぁ」
沙霧に目を覗き込まれて、遠子は一瞬ぞっとするような感覚をおぼえた。
人と目を合わせることが苦手という訳ではない。けれどコンタクトをしているとは言え、じっと見つめあうのは勇気が要る。
「別に平気だから」
「何がそんなに怖いの?」
遠子は目を瞠った。「怖い?」
「だって、裸眼でいるのが怖いんでしょう?」
さらりと言ってのける沙霧に遠子は猛烈な怒りをおぼえた。
何も知らないくせに何を言ってるんだろう。
この瞳がどんなに危険なものか、どんなに忌まわしいものか、知りもしないくせに。
あたしがどんな思いでこの瞳を使って今まで生きてきたのか、何にも知らないくせに。
あなたにあたしのことが理解る筈がない。
「レンズ一枚隔てないと遠子は世界を見られないんだね」
多分、沙霧にしてみれば悪気はなかったのだ。その科白には。
けれど遠子にその言葉は深く突き刺さった。
無言で浴室に向かい、沙霧が待ち疲れて眠るまでそこから出てくることはなかった。

「あれ?今日は六宮さんはお休みですか?」
放課後。料理研究会の活動で遠子は和志と調理室にいた。教室に他の部員の姿はない。
「知りません。バイトじゃないですか」
考えたくない、と言いたげな表情で遠子は答えた。朝は沙霧より早く家を出たし、休み時間もあからさまに避けていた。昨日の夜から全く話していない。
正直少しやりすぎかなとも思わないこともない。
「はぁ、小林さんたちも今日は委員会でねぇ、来ないんですよ。二人でやるのも何だかなぁ。今日はお休みにしましょうか。うん、それがいいですよね、じゃあ一緒に帰りませんか。家まで送りますよ。六宮さんもいないことですし…いや何でもないです」
遠子の返事は待たず、和志は一息に喋る。
「あ、あの〜」
「僕と帰るのは嫌ですか?」
「いえ、か、帰りましょう」
妙な展開になったなと思いながら遠子は和志の後を追った。

外に出ると、今にも雨が降ってきそうな曇天だった。
そのためか辺りが普段よりもかなり暗く感じられる。
隣でぺらぺらと寒いギャグを飛ばす和志の横顔を見ながら、遠子は小さく溜息をついた。
本当に、黙っていればかなり「イケてる」顔なのに。
「そういえば部長さんはなんで料理研究会に?その…あんまり男の人とかっていないですよね、こういう部には」
愛想笑いにも疲れてきたので、遠子は普通の話題を振ってみた。
「あ、よく聞かれるんですよね。やっぱりおかしいのかなー、男が料理するのって」
「いや、おかしくなんかないですよ。今時普通だと思いますよ」
自嘲気味に笑う和志に慌てて遠子は首を振った。
「僕はね、小さい頃からそのう、母親が病気がちだったからよくごはん作ってたんですよ。だから料理は結構昔から得意だったんです。料理研究会に入ったのももっとおいしいご飯とかお菓子を母さんに食べさせたかったからなんです。ははっマザコンって思われちゃったかな?いやぁ言わなきゃよかったかな〜」
和志はしきりに頭をかいている。
「いえ、そんなことないですよ。優しいんですね、部長さんって」
遠子に言われて天にも昇るような表情になる和志。
「ああでも料理研究会に入ってよかったです、僕。だって高城さんと出会えたんですから。これから毎週会えるのかと思うと僕は…あぁ」
突然の告白に遠子は脱力する思いだった。何を言い出すのこの人?
「あ、あのう?部長さん…」
「はっ!すみません、突然変なこと言ってしまって…き、気にしないで下さい!」
そこで和志は無言になった。
無言になってしまうと遠子も口にする言葉が見当たらず、二人の間を気まずい空気が流れる。
元々男子に人気のある遠子だったから、告白されるのが初めてという訳ではない。
けれど兄たちのおかげで男性と付き合う機会(友達としてでさえ)をことあるごとに断たれてきたので、はっきり言えば男性が苦手だ。
居たたまれない息苦しさに耐えられず、遠子は嘘をついた。
「あたしちょっと寄る所があるんでここで。さようなら」
一瞬呆けた顔を見せた和志だったが、力なく手を振る。
言わなければよかったとか思っているのだろうか。
ややあって、
「僕本気ですよっ!六宮さんなんかに負けないぞ〜!」
背後から和志の叫び声が聞こえてきた。
何でそこに沙霧が出てくるのかと言い返したかったが、聞こえなかったことにして遠子は家路へと急いだ。

どうしてこの道を通ったのだろうと遠子は後悔し始めている。
たまに近道として通る公園だったのだが、その日は薄暗くて人気もなく何だか不穏な空気が漂っていた。
時間的にはそんなに遅くはない。けれど今にもどしゃぶりになりそうな天気のせいか、遠子の心の中にもゆっくりと暗雲がたちこめ始めていた。
こんなことなら部長さんに家まで送ってもらえばよかったかも。
というか、つけられてない?
後ろを振り向いても誰もいない。もっとも緑の多いこの公園、隠れる所なんていくらでもあるのだが。
気のせいだよね、早く通り抜けよう───そう思った矢先。
突然視界に男が割り込んできた。
くたびれたシャツとジーンズのその男、尋常な目でないことは遠子にもすぐわかった。
踵を返してその場を離れようとする…ことは叶わなかった。
乱暴に腕を掴まれ、引き寄せられる。
必死で抵抗しても、男の手がはずれることはない。
「離してぇぇぇ!!」
叫んでみたものの人が来る気配はない。それはそうだ。人気なんてなかったんだもの。遠子は自分の不運さを呪った。
「黙れ」
くぐもった声で言うと男は遠子の体を引き倒した。言葉を失う程の衝撃が体を打つ。
それだけでなく。
「あ…っ」
遠子は地面に顔を擦らせて息を飲んだ。倒れた衝撃でコンタクトが外れたのだ。
すうっと背中が冷たくなる。
男は荒い息をつきながら、遠子の体を仰向けに組み伏せる。男の体重と腕力は、遠子ほどの少女の力ではどうにもならなかった。
額に汗が浮かぶのを遠子は感じた。今から男が何をするのかということより、自分の目が片方とはいえ裸眼になっていることに恐怖を感じる。
「見ないで。あたしを見ないで…」
遠子は目を閉じた。それを観念したと男は受け取ったらしい。下卑た笑いを浮かべて遠子のブラウスに手をかける。
「あたしの遠子に触らないでくれる」
それは聞き慣れた声だった。けれど驚く程冷酷な響きに彩られている。
遠子が目を開けると同時に男の顔が視界から消えた。
ずざぁっ、と派手な音を立てて男の体が地面を滑っていく。
視線を転じると、声と同じく普段からは想像もできないような冷酷な顔をした沙霧が立っていた。
「何で先に帰っちゃうのよ。調理室にもいないし。探したのよ。意地悪なんだから」
けれどあくまで遠子に見せる表情はやさしい。跪いて汚れた遠子の顔をハンカチで拭いてやる。
「ふざけやがってぇぇ!」
起き上がり、向かってきた男に沙霧はちらりと視線を向ける。遠子は思わず声をあげた。
「…!沙霧!」
何処にそんなものを隠し持っていたのか、男は刃渡り30cm近くはあると思われるサバイバルナイフを振りかざした。沙霧は何とか避けるが、どんどん追い詰められていく。
「ちょっと、女の子に刃物は卑怯でしょう!」
嫌な衝撃を受けて沙霧は後ろを向いた。木の幹が立ち塞がっていてもう避けることができない。
すっと沙霧の顔色が白くなる。
「うらぁああぁ!!」
男は全身全霊の力をこめて、サバイバルナイフを沙霧の体もろとも木の幹に突き立てた。
噴水のように吹き出す血飛沫が男の顔を赤く染めて行く。
「───っ!!」
遠子は声にならない声で絶叫していた。
木に磔になった沙霧は体を投げ出し、頭を力なく垂れたまま動かない。
血の染みだけが生き物のように面積を広げている。
「おまえは後からヤってやる。ひひひひひ」
血に塗れて憑かれた様に笑う男。
その姿を見つめながら。
遠子の中に明確な殺意がゆっくりと満ちて行く。
沙霧を、よくも沙霧を、あたしの大切な友達をの沙霧を。
殺してやる、こんな奴、死んだって誰も文句いわない、殺してやる。
コンタクトの無い右目がすうっと青みを帯びる。
こちらに向かってやってくる男の目を凝視する。
「まずはおまえからだ、逃げるなよ。ああなりたくないならな」
死ね、死んでしまえ。
男の顔色が微妙に変わった。かたかたと体が痙攣を始める。
「ちょっと待ちなさいよ」
はっと遠子は我に返った。
今、あたしは何をしようとしていた?
見れば沙霧は肩に刺さったサバイバルナイフを引き抜いていた。
「沙霧!?」
引き抜いたナイフを片手に、こちらにゆっくり歩いてくる。
「ちょっと楽しかったでしょ?こんなかわいい女の子二人とヤれるなんてってドキドキしたでしょ」
男は信じられないといいたげな表情をしたが、それも束の間再び沙霧に襲いかかった。
が、今度は逆にいともあっさりと地面にねじ伏せられる。大の男が中学を出たばかりの少女に組み伏せられている様はひどく滑稽だった。
ぎりぎりと腕を後ろに締め上げながら沙霧は囁くように言った。
「楽しませてあげたんだからさぁ、はい、ありがとうは?」
「て、てめぇ殺すぞ離せっ!」
「死にたいのね」
「うがぁぁぁぁぁぁぁ!!!」
みしみしっと不吉な音がしたかと思うと男は絶叫して転げまわった。
「殺してあげるわよ?お望み通りにね」
沙霧は痛みに痙攣する男の顔にナイフを振り下ろした。
「沙霧!!」
男の動きが止まった。失神したようだ。沙霧は男の眼球まであと1mmのところで止めたナイフを背後に放って、遠子に駆け寄る。
「遠子、大丈夫?」
「沙霧こそ…こんなに血が出てる…病院…救急車呼ばなきゃ…」
「あたしは大丈夫。見た目はすごいけど大したこと無いから…ちょっと遠子何処向いてんのよ。こっち見なさいって。もー、遠子に何かあったらあたしお兄様たちに殺されるとこだったのよ?」
けれど遠子は俯いたままだ。
「どうしたの?」
「コンタクト…コンタクトがとれた」
「はぁ?そんなことどうだって良いわよ!」
「よくないわよ!あたし…さっきあの人殺そうとしたわ。沙霧が血塗れで倒れてて…許せないと思った。こんなこといけないとわかってるのに殺しそうになったわ!」
「あたしは死なないわよ」
沙霧は遠子の目をのぞきこんだ。反射的に目を瞑る遠子。
「やめて」
「遠子が以前その力で何をしたのかあたしは知らないわ。でもそんなことどうだっていい。あたしはあなたのことが好き。…これは明確なあたしの意志だわ」
「沙霧…」
泣きそうな顔で見上げる遠子を、沙霧はやさしく抱きしめる。
「あなたはあたしがずっと守ってあげる」
音もなく雨が空から落ちてくる。けれどそれは決して不快なものでなく。
二人はしばらくの間雨に濡れるまま、その場に佇んでいた。



 (春・了)



《コメント》

一応「春」なんですが、ちっとも春らしくないです。
次回は「夏」です。次回はもうちょっと季節感を…。
ジャンルでいえば百合小説(ひー)になると思うんですがどうでしょう。
えー、その辺の所ぜひご意見ご感想などをいただきたく思います。


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