「ついに私の季節の到来ね」
全開にした窓の前で腕を組んで立っている少女が一人。
吹き込む風でおでこ丸出しであるが、そんなこと気にせずうっとりと宙を見つめる。
「恵(めぐみ)、鬱陶しいから閉めてよ」
恵と呼ばれた少女は思考を中断させられたことにむっとしたが、友の言うことももっともだったのでしぶしぶ窓を閉めた。
椅子に腰掛け、弁当のふたを開ける。
あと数時間後にロングホームルームの時間が始まる。
今日は数ヶ月後に控えた文化祭の出し物を決めることになっていた。
そう、私はずっとこの日を待っていた。
このクラスになって、あの二人に出会った瞬間に私の運命は決まったのだ───。
「ふふふふふ」
突然箸を握りしめ笑い出した恵を、気味悪そうに見る友人。
恵の思考の中では確かにそこは不敵に笑う場所だったのだが、彼女の心の中が見えない友人にとっては何の脈絡もなく笑い出したようにしか見えない。
「早く食べなよ。昼休み終わるよ」
忠告する友人も無視し、ひたすら妄想に沈んで行く恵だった。


「文化祭ねぇ〜めんどくさいな」
いかにもかったるそうに自分の黒髪を弄んでいるのは六宮沙霧(ろくみやさぎり)。
高城遠子(たかしろとおこ)のクラスメイトで同居人だ。
「何するのかしら。出店とかかなぁ」
遠子は幾分興奮気味に言った。何しろ中学時代はまともに学校に行っていないので、文化祭も初めての体験らしい。
「何でもいいよ。準備が簡単なのがいいな。バイトもあるし」
沙霧は実にやる気がない。
「何でそんなに適当なの?」
「だってあたしは体育会系なんですもん」
「……」
遠子が言葉を失くしていると、クラス委員長と副委員長が前に出てきた。
「はい、皆さん席についてください。今から文化祭の出し物を決めまーす」
ざわざわとざわめきながらも皆席につく。
副委員長が黒板に「文化祭の出し物について」と書いた。
「えー、では。出し物について提案のある人は手をあげてください」
委員長が言ったが早いか、
「はい!」
と良く通る大きな声が教室中に響いた。
遠子は驚いてその人物の方を振り向く。
手を上げているのは桐山恵(きりやまめぐみ)、確か演劇部に在籍しているとかでなるほど見た目はあまり良いとは言えないが、よく通る澄んだ声はいかにも演劇部でございという感じだ。
「桐山さん、どうぞ」
委員長に言われ、恵はすっと立ちあがった。姿勢が良い。日頃の訓練の賜物だろうか。
「演劇で、いばら姫をやるのはどうでしょうか」
きっぱり言い切る。
ざわっ。
にわかに教室がざわめいた。それはそうだ。遠子だって耳を疑った。
いばら姫って…眠りの森の美女とかスリーピングビューティーとかっていう…あれ?
小学生の学芸会じゃあるまいし、いくらなんだってそりゃベタじゃないだろうか。
思って恵を見たのだが、彼女は不敵に笑っている。
この提案が必ず採用されることを確信している表情だ。
一体どんな策が彼女の自信を裏打ちしているというのか。
「聞いて下さい。この劇をやるにあたって、一つ考えがあるのです」
恵はそこで一旦言葉を切り、クラス中を見渡した。さすが演劇部。場慣れしている。
にやり、と笑い。
「主役の姫と王子の役に、高城さんと六宮さんを推薦します」


何だって?今なんて?
遠子はすんでの所で椅子からひっくりこけそうになった。
必死に机にしがみついて息を整える。
「面白そうー」
「やっぱり路線は宝塚?」
「このカップリングは最強だよな」
「文化祭のメインイベントになるかもね〜」
みな無責任に言いたい放題である。
遠子は呆然と周りを見回した。
何みんな勝手なこと言ってるの?
だっていばら姫だよ?そんなんでいいの?
「えー、他に意見はありませんか?」と委員長。
しーん。
「じゃあクラスの出し物はいばら姫に決定しました。続いて配役を決めます…」
ひ───!
遠子は頭を抱えた。何でこんなことになってるの!?
今「反対です!」って言えばまだ間に合うかも。
でも、でも…。
これだけ盛り上がっている所に水を差すような真似、小心者の遠子には出来そうにない。
恐る恐る斜め後ろの沙霧の席に目を向ける。
満面の笑顔でVサインされてしまった。
…沙霧、やる気だ。


翌日、遠子と沙霧が廊下で談笑していると、恵が手を振りながら近づいてきた。
心なしか目が赤い。
「おはよう。高城さん、六宮さん」
「おはよう…どうしたの桐山さん、目が赤いけど」
「ええ…ちょっと昨夜は夜更かしをしてしまって。二時間しか寝てないわ」
「大丈夫…?」
「ええ。私、今燃えてるの!睡眠時間なんてどうだっていいわ」
拳を振り上げる恵を怪訝そうに見つめる二人。
「で、何か用かしら」
沙霧が訊ねる。恵はぽん、と手をたたき、
「あっ、そうそう。台本が出来たのよ。早速二人には渡しておこうと思って」
ごそごそと鞄の中に手を入れる。やがて取り出されたのは二冊の台本。
「もしかしてこれ書いてて睡眠不足なの?」
「ちょっと自信作なのよ!読んでみてよ」
無理矢理押し付けられ、二人はパラパラと中身を捲った。
「……」
「……」
「どう?」
痺れを切らして恵が訊ねる。
「…あたしの出番少ないなぁ」
「しょうがないわよ、王子なんだから」
「…あ、あ、あの。桐山さん?」
遠子は恵の前に台本を差し出した。
「何?何か変な箇所でもあるかしら」
「こ、ここ…『王子、姫にくちづける』ってあるんだけど。まさか本当にする訳じゃないわよね?ふりよね?」
震える指で遠子はその一文を指差した。
「え、何言ってるの?するに決まってるじゃない。じゃなきゃ観客が納得しないわ」
さらりと言ってのける恵。
「え───っっ!?か、観客がって…そんな人前で…そんなことって…」
茫然自失の遠子の肩に手を回し、沙霧は笑った。
「最高だわ桐山さん!この台本、あたしは気に入った!」
「そう。喜んでもらえて光栄だわ。あなたたちには期待してるの。いい舞台を作りましょう。明日の放課後から早速練習よ」
がんばろうねー監督、などと上機嫌に声をかけている沙霧を恨めしげに眺めながら、遠子は生真面目なパネル展示とかの方がよっぽどマシだったと思っていた。


「はぁ…」
今堀和志(いまほりかずし)は思いっきり憂鬱だった。
今日の料理研究会の活動の下ごしらえをテキパキとしながらも、心は上の空である。
それというのも…。
「こんにちはー、あれ?部長一人ですか?」
バッグを肩に入ってきたのは和志の後輩六宮沙霧であった。
ああ、この女さえいなければ。
「ああ、六宮さんですか」
「ああ、って。失礼だなぁ。遠子じゃなくて申し訳ありませんねェ」
調理台の上にバッグを放って、沙霧は椅子に腰掛けた。
「高城さんは?」
「演劇の衣装合わせですよ。お姫様の役なんでドレスとかいろいろ大変みたいです。
もうちょっとしたら来るんじゃないですか」
ああ、と和志は頭を抱えた。やっぱり噂は本当だったのか。
今日クラスの女子が話しているのを小耳に挟んだ。
「1年A組はあの名物コンビ主演の演劇やるらしいよ。いばら姫だって。面白そうじゃない?」
名物コンビとは言わずと知れた遠子と沙霧のことだ。
「いばら姫ェ?またベタな演目選んだわね。わかりやすくていいけど」
「けどあの二人が出るだけで絵になるじゃない。何でもキスシーンもあるらしいわよ」
「マジで!?サボろうかと思ってたけど、ちょっと見てみたい気がするわね」
その話を耳にした瞬間から何度反芻したかわからない、女子たちの会話。
再びその声を苦く思い出しながら、和志は苦悩の表情を浮かべる。
「どうしたんですか?さっきから。トイレなら早く言った方がいいですよ」
「トイレじゃないよっ!」
思わず包丁を振り上げた和志だったが、あっけにとられる沙霧の顔で、ようやく我に返った。
「そうそう、六宮さんたちのクラスはいばら姫やるんだって?学校中の話題ですね」
つとめて冷静に訊ねる。
「あ、そうなんですか。ま、とにかく面白いですから部長も期待してて下さいね」
「高城さんが姫で、六宮さんが王子なんだって?」
「はい。キスシーンもありますから要チェックですよ〜」
ざくり。
「うが───っっ!!」
突然奇声を発して和志は指を押さえた。どうやら包丁で指を切ってしまったらしい。
「ちょっ…、部長大丈夫ですか」
駆け寄る沙霧の手を払いのけ、目に涙を浮かべる和志。
「大丈夫ですっ!あなたの手だけは借りませんっ!」
とは言っても押さえた指の間からどくどくと血が溢れ出ている。
「つくづく失礼ですね。あたしだって一応女ですから絆創膏くらい持ってますよ。ほら、こっち来てください」
沙霧は暴れる和志に構わず、腕を引っ張って水道水で血を流した。
「大丈夫なんですってば」
確かにその傷は血液の量の割りには大したことなかった。
沙霧は少しの間その傷を凝視したあと、
「…ほんとに大したことないですね」
呆れた様に言って、和志の指に絆創膏を貼ってやる。
「ありがとう。六宮さんもいいとこあるんですね」
照れ臭そうに和志は言った。
「…だって部長」
沙霧は悲しげに目を伏せる。息を飲むほど艶かしいその表情。
「いつも部長は遠子のことばっかり。あたしはいつだってこのくらいのこと、してあげたかったのに」
言って上目使いで和志を見つめた。少し潤んでいる瞳が、和志に眩暈を起こさせる。
「ろ、六宮さ…」
掠れた声で、沙霧の名を呼ぼうとした瞬間。
「なあんてねっ。部長、ドキドキしましたか?うっふっふ、あたしの演技力もなかなかだなぁ」
「ろ、六宮さん?」
すでに声が裏返っている。
「男のくせに指の一本や二本切って泣いてる様じゃあ、遠子は渡せません。じゃ、あたし帰りますから」
「な、な、な」
何じゃあそら───!!
沙霧が出て行った後の調理室で、頭をかきむしる和志だった。


廊下を歩きながら、沙霧は先刻の調理室での出来事を思い返す。
何だか、すごく嫌な気分だった。


1年A組の「いばら姫」の練習はおおむね順調に進んでいた。
ただ、恵が誤算だったのは沙霧の物覚えの悪さだった。
遠子は初めこそ嫌がったものの、科白を覚える段になるとその優等生ぶりを発揮した。一晩で科白を完璧に頭に入れてきた時には、さすがの恵も感心せずにはいられなかった。
そう、問題は沙霧である。
「『私が姫を助けてみせようではないか。』…えーと、何だっけ」
剣を手にしたまま口篭もる沙霧。
「ちょっとちょっと六宮さん。あたしもあまり文句は言いたくないけど、もうちょっと科白覚えてくれない?ただでさえ出番少ないんだからさ。さすがにこれ以上科白削れないのよね」
恵は丸めた台本で肩を叩きながら言った。これだけ手をかけさせられると肩も凝る。
「はぁ〜こういう暗記ものってどうもね」
「暗記ものってね…高城さん」
突然名前を呼ばれて、くつろいでいた遠子は飛びあがった。
「えっ、何?」
「六宮さんに科白叩きこんでおいて頂戴。こんな調子じゃ最後の最後で舞台が台無しだわ」
ふう、と肩をすくめる。
「言ってくれるわね…」
指をならす沙霧を遠子は慌てて止めた。
「わかったわかった。じゃあ、今日はここまでってことで」
「そうね、また明日やりましょう。みんなお疲れ様」
恵が手を叩くと皆ぞろぞろと帰り支度を始める。すでに監督そのものだ。
遠子は沙霧の傍に立つと言った。
「沙霧、舞台で恥かきたくないでしょう?あたしが完璧に頭に叩き込んであげる。今夜は寝かさないわよ」
「遠子ちゃん大胆」
ごすっ、と沙霧の頭をぐーで殴って、遠子はすたすた歩き出す。
「待ってよ」
沙霧は頭を押さえながら慌てて後を追った。


「ああ…眠い…」
沙霧は人目もはばからずあくびをする。
そんな沙霧を「しょうがないなあ」と言いたげに見ながら、遠子も口を押さえてあくびをかみ殺した。二人して寝不足だ。
科白を覚えさせるために夜遅くまで起きていた遠子だったが、そうこうしている内に沙霧の科白も全部覚えてしまった。
でもその甲斐あって、今日の練習は実にスムーズだった。
恵も終始ご機嫌で「あたし舞台監督目指そうかしら」などと言い出す始末である。
「お疲れ様。頑張ったね」
遠子は眠そうな沙霧の背中をぽん、とたたいた。
「ああ…でも眠ったら科白飛んでいきそう」
「ちょっと、毎日徹夜は嫌よ…あれ?」
突然遠子が足を止めたので、沙霧は遠子の視線を追った。
遠子の兄、要(かなめ)が手を振りながらこちらに走ってくる。
「遠子〜久し振りぃ〜会いたかったよ〜」
涙でも流しそうな勢いだ。遠子はと言えば、げんなりとした表情で踵を返しかけている。
「久し振りって…先週会ったじゃない」
「そうだったっけ?二人とも今帰り?」
「うん」
「じゃあ、家まで送ってあげるよ。向こうに車止めてるんだ。おいで」
「本当ですか?ラッキー」
現金に喜ぶ沙霧を、溜息混じりに遠子は見やった。
「ええっと、ちょっと待ってくれる。友達がもうすぐ出て来る筈なんだけど」
要は書店の前で立ち止まった。
「連れ?」
「うん。一緒に本見て回ってた」
「あたしたち歩いて帰るからいいよ。その人に悪いし」
「いいんだって。ちょうど今から帰るつもりだったんだから。それに諒(りょう)だから気にすることないよ」
要が笑ってその名前を口にした瞬間、遠子の表情が凍りついた。
「りょう?今、諒って言ったの?」
その表情に不穏なものを感じた沙霧、思わず声をかける。
「どうかしたの、遠子」
けれど、遠子は答えず。
「帰る」
身を翻してその場から立ち去ろうとする。要は慌ててその手を掴み、
「おい、遠子!ちょっと待ってよ。何だよ、一体」
困惑した顔を遠子に向けた。
「嫌なのよっ!何考えてるの兄様!離してよ!」
遠子のこの取り乱し様は何なのだろう。沙霧は争う二人を前に呆然と佇むばかりだ。
「あ、来た来た。おーい」
要の視線の先───書店の入口近くに男の姿が現れた。
あれが「諒」なのであろう、「お待たせ」とばかりに本の包みを振って笑いかけて来る。
要と同い年くらいの、ハンサムとは言えないが人好きのするさわやかな好青年、といった感じだ。
彼の姿を認識した途端、諦めがついたのか遠子は抵抗をやめた。
けれど俯いた彼女の唇は小さく震えていて。
沙霧は何も言えず、ただ見て見ぬふりをするしかなかった。


車に乗りこんだ後も、遠子はずっと無言のままだった。
諒が話しかけても「はぁ」とか「ええ」とか、かろうじて最小限の返事を返すだけ。
目さえ合わせようとしない。
二人の間に挟まれて座っている沙霧は非常に気まずい思いをしなくてはならなかった。
「はは、何だか嫌われちゃってるねぇ」
頭を掻きながら諒は困った様に笑った。
「ところで、君は六宮沙霧さんだよね」
「そうです。よくご存知ですね」
「それはもう。君って結構有名人だよ。美人だしね。遠子ちゃんとはうまくやれてる?」
この男はかなり自分たちのことを把握しているようだ。
しかも「遠子ちゃん」だと?
沙霧は少し警戒心を持つ。
「おかげさまで。ラブラブです」
「ははっ、それはうらやましい」
「今度文化祭あるんだってね」
要が話に入ってきた。遠子が貝の様に口を閉ざしているから気を使っているのかも知れない。
「はい。演劇やるんですよ。いばら姫。遠子がお姫様役であたしが王子です」
「いばら姫!?いいねー!ぜひ見に行きたいな。なぁ要」
「遠子がお姫様!?ビ、ビデオ持って行かなきゃ」
多分「やめて───来ないで───!!」って心の中で叫んでる筈だ。
そう思って遠子の表情をうかがうと、思った通り顔を真っ赤にして俯いている。
かわいいかも。
いやいや、今はそんなこと考えてる場合じゃない。
この男、一体何者なんだろう…。
などと考えている内に要の運転する車は左にウインカーを上げて止まった。
どうやら諒はここで降りるらしい。
「今日はどうもありがとう、要」
「いや」
「また会おうね、遠子ちゃん。それから六宮さんも」
「はい」
もちろん返事をしたのは沙霧。遠子は向こうを向いたままだ。
「じゃあ」
要は手を上げると、再び車を発進させた。


やがて車は二人のマンションの前に着いた。
それまでも遠子は全く口をきかず、着いたや否や、さっさと降りて振り返りもせず中に入って行く。
「…ああ、甘かったなぁ、考えが。全然直ってないよ、遠子」
要が嘆く様に呟くのを、沙霧は聞いていた。
「…沙霧ちゃん、申し訳ないけど遠子のフォロー、よろしく頼むよ。悪いね、あんな状態にしちゃって」
そう言って、沙霧に頭を下げる。
「いいんですって。まかせて下さいよ。それよりさっきの人、一体何者なんですか」
沙霧は訊ねた。
要は少し考えこむ。
そして。
「あいつは道成諒(みちなりりょう)って言ってね、俺の親友で、テレパスの能力を持つスネーク。それで…」
そこで小さく溜息。
「遠子の想い人」


遠子のフォローをよろしく頼むよ、と要は言った。
そう、何だかいつにも増して取り乱し方の激しい彼女を、あたしが励ましてあげなくては。
けれど。
自分の方がどんどん落ち込んで行っているのが沙霧にはわかった。
そりゃあ、遠子だってもうお年頃なんだし?好きな人の一人や二人いたってちっともおかしくない。
でも何でだか自分は、遠子は男嫌いで好きな人なんていないもんだと思いこんでいた。
彼女は自分ではあまり気付いていないのかも知れないがかなりもてる。
しかし、それはあくまでも相手からの一方通行の想いを寄せられてるだけで。
遠子の気持ちが動かない相手、たとえば部長とか───に対してはそこまで心配になることもなかったのだけれど。
でも今度の相手は違う。
遠子自身が想いを寄せている人間。
そんな存在がいたなんて。
駄目だ、落ちついて、沙霧。
「遠子の想い人…だった」と要は言っていたではないか。
だった。あくまで過去形。
えーい、ぐだぐだ考えても仕方ない!
「遠子〜練習しよう!」
玄関のドアを開けるなり、沙霧は叫んだ。
「わっ、な、何いきなり」
先に帰っていた遠子の表情は少し強張っていたものの、沙霧の予想通りのリアクションをする。
「だ・か・ら、いばら姫の練習。またあたし科白忘れそうだからさ」
「やる気満々だね、沙霧は」
「もちろん。えーと、じゃあ」
慣れた手つきで沙霧は遠子を押し倒した。
「な、何なのよ!?」
「え?練習だけど」
「これの何処が練習なのよー!」
体の下でもがく遠子の顔に、自分の顔を近づける。
「だからキスシーンの練習でしょう?一番の見せ場なんだからさ、練習に練習を重ねないと」
「何考えてんのよっ!」
顔にクッションを押しつけられ、沙霧は笑いながら「冗談なのに」と体を起こす。
今、この瞬間はあたしのものだよね、遠子。
そんな風に考えている自分が、沙霧は無性に悲しかった。


「あれ、部長。まだ残ってたんですか」
調理室をのぞいた沙霧は、和志の姿を見つけて中に入った。
窓からはオレンジ色の光が床や調理台に四角く形を投げかけている。窓枠の形。
「六宮さん。よく会いますね。いや、誰か来るかなーと思って」
「すみませんね、遠子じゃなくて」
肩にかけていたバッグをどん、と調理台の上に置く。この前もこんなシーンなかったっけ?
「高城さんは?」
「衣装合わせです」
「また?」
「またです。副部長たちは?最近見ませんね」
「今の時期みんな文化祭の準備で忙しいから。ここも開店休業中みたいなもんですね」
「ここは文化祭、何もしないんですか?」
「同好会はね、参加資格がないんですよね…」
そこで二人はふぅ、と息をついた。
「何でここにいるんですか?」
再び口を開いたのは和志の方だった。
「いちゃいけませんか」
「いいですけど…」
どう考えてもあまり居心地のよくない組み合わせである。
「…聞いてくれます、部長」
沙霧は大袈裟に溜息をついて和志を見た。
「何ですか」
前回のことがあるのでそっけなく和志は答える。
「遠子の元彼が現れました」
「何ですとっ!?」
がたーん!
椅子を倒して和志は立ち上がった。ひくひくと頬が痙攣している。この男には少々刺激が強かっただろうか。
「と、いうか、遠子の片思いである可能性も高いんですけど。どっちにしろこれがですね、さわやかな好青年で、人当たりも良いし遠子にぴったりなんですわ。もう、部長とは大違い」
「六宮さん、あのねぇ…それで?」
怒りよりも好奇心の方が勝ったようである。
「歳は五歳年上なんですけど、そこがまた包容力ばっちりって感じで。『遠子ちゃん』呼ばわりですよ?遠子、取り乱しまくりでしたよ。見ててこっちが焦るくらい」
「た、高城さんにそんな人がいたなんて…」
「はーあ」
沙霧は指を組んで、その上に顎をのせた。悩める乙女の一丁上がり。
「あのー、前から思ってたんですけど、六宮さんってレズですか?」
和志は真顔で訊ねた。がくっ、となる沙霧。
「単刀直入ですねー。違いますよ。あたしが好きなのは遠子だけです」
だからそれってレズと違う?和志は思ったが、まあそんなもんだろうと深くは追求しない。
「それにしたって所詮元彼でしょう?過去の話なんだし、悩んだって、ねぇ」
「馬鹿ですね。好きな男のことそんなに簡単に忘れられるほど女は単純じゃないんですよ。ことあるごとに思い出したりするもんなんです。新しく彼氏ができても前の彼氏と比べたり。それにあの遠子の取り乱し方と言ったら。ありゃあ、まだ気持ちが残ってますね。部長ももちょっと女心勉強しないと一生そのままの冴えない君ですよ」
ふぅ、と気だるげな視線を和志に送る沙霧。
「余計なお世話ですっ。僕は高城さんが以前誰を愛そうが気にしませんよ。押しの一手です!何弱気になってんですかね。六宮さんらしくもない」
拳を振り上げる和志を見て、沙霧、くすりと笑う。
「なるほどね」
そして立ち上がりバッグを肩にかけ。
「そういう部長の考え方は…結構好きかな」
「気味悪いこと言わないで下さい」
和志は素早く防御の構えをとった。悲しいかな、条件反射である。
「じゃあ、遠子迎えに行きますんで帰ります。指は治りましたか?」
答えは聞かず沙霧は教室を出た。
残された和志はぼんやりと沙霧の座っていた椅子を眺め、
「何だあれ…調子狂うな…」
呟いた。


その日は本番同様のリハーサルということで、みな衣装をつけて舞台に上がることになっていた。
その中でも目立っていたのはやはり姫と王子役の二人。
体育館は1年A組の貸し切りで、人払いしているにも関わらず、隙間からのぞこうとする輩が後を絶たない。
「楽しみは本番にとっとけばいいのにねぇ」
沙霧は腕組みして言った。その格好はまるで宝塚の男役。ベルサイユのばらのオスカルのような、細身の衣装が恐ろしいほどよく似合っている。
「それだけ前評判は高いってことね。喜ばしいことだわ。ふふふ、燃えるわね」
年がら年中燃えている女、桐山恵である。
「ねぇ、あのさ…本当にキスするの?口に」
遠子はまだキスシーンにこだわっていた。
沙霧がオスカルならば、遠子の衣装はマリーアントワネットと言った所か。
元々ショートカットなので緩やかなウェーブのかかったロングヘアのウィッグをつけている。
手芸部のクラスメイトに作らせたというドレスは遠子の想像以上にゴージャスに出来あがっていた。
口紅をつけただけだが妙に色っぽいイメージに変わるから不思議だ。
「しつこいわね、高城さん。やると言ったらやるのよ。いい加減あきらめたらどう?
大丈夫。ファーストキスでも相手は女の子だから回数にカウントされないわ」
真顔で恵は答える。
「いやー、そういう問題じゃないんだけど」
「そうよ、あきらめなさい。往生際が悪いわよ、高城さん」
恵の口調を真似る沙霧。
「まっ、今日のところは勘弁してあげるわ。でも本番で嫌がったらどんなことになるかわかってるんでしょうね」
恵に凄まれて、遠子は泣きそうになった。「わ、わかった、わかった、やるわ」
「そう」
にっこりと満足げに微笑んで、恵は台本を振り上げた。
「じゃあリハーサル始めるわよ!」


「ね、今から一緒にごはん食べに行かない?」
というバイト仲間(♂)の誘いを沙霧はあっさり断った。
「ごめんね。用事があるから」
「六宮さんって付き合い悪いよね」
不満げに口を尖らせるバイト仲間。
しかし沙霧に言わせれば、何であんたなんかのために時間を浪費しなきゃいけないのよ、という感じだ。しかし口には出さない。
「もしかして彼氏いる?」
「いないよ。何度も言ったような気がするけど」
「じゃあさ、一日くらいいいでしょ」
今日はしつこい。
「だから用事があるんだってば」
「嘘ばっかり。この前も用事があるって言ってたけどまっすぐ家に帰ってただろ」
「何、つけてたの」
沙霧はげんなりする。
「別につけてた訳じゃないけどさ、たまたま見たんだよ。あ、もしかして同棲してるっていう子が本当は男とか…?」
「同棲ってねぇ…」
額に手をやって表情を曇らせる。と、
「六宮さん、今帰り?」
背後から声をかけられた。振り向くと要が立っている。
丁度良かった!
「要さん!待ってたんですよ」
ひしっと沙霧は要の腕に抱きついた。驚いた表情をした要だったが、沙霧とバイト仲間の少年を交互に見比べて、ようやく事の次第を察したようだ。
「そういう訳だから。行こうか」
あっけにとられる少年を残して、二人は歩き出す。
曲がり角を曲がって、ようやく沙霧が口を開いた。
「ごめんなさい、変なことして。でも助かりました」
要はまんざらでもなさそうだ。
「いや、六宮さんの彼氏役にしてもらえて光栄です。ところで今から時間空いてる?」
「空いてると言えば空いてますけど?」
さっさと遠子の待つマンションに帰りたかったが、遠子の兄を無下には出来ない。
「じゃあ、一緒に夕飯でもどう?」
さっきのバイト仲間と同じことを言う。沙霧は苦笑した。
「いいですけど、口説こうと思っても無駄ですよ」
「ははっ、六宮さんは遠子一筋だもんなー。何が食べたい?」
沙霧はハンバーガー以外、と答えた。


沙霧が連れてこられたのは小洒落たイタリア料理の店だった。
彼女をここに連れて来たりするのだろうか、と沙霧は想像してみる。
いつも「遠子〜さみしいよ〜」とか言っている要だが、考えて見ればハンサムなお坊ちゃま、彼女の一人や二人いてもおかしくない。…いや、いないかもな。どう考えても彼女より妹を優先しそうだもの。
「ちょっとね、遠子のことで話しておきたいことがあってね」
やっぱり妹の話だ。
「はい、何でしょう」
「うん…諒とのことなんだけど」
途端に沙霧の心臓は早鐘の様に高鳴り出した。
あえて話題にはしなかったのに。
一体何を話すつもりなのか。聞きたいような聞きたくないような複雑な心境にかられる。
「遠子が家を出たいって言い出した原因はあいつなんだ」
「え…?」
ぎゅっ、と膝の上で沙霧はスカートを掴んだ。
「ええっと、遠子の能力は知ってるよね?」
「まぁ、何となく。人に暗示をかけたりとか…ですよね」
「そう、マインドコントロール。うちの兄妹の中では一番危険な能力だって言われてる。その名の通り、やろうと思えば遠子は人を石にだって変えられる」
「……」
「その能力が父さんに認識されてからは、遠子は人を洗脳することを仕事としてやらされてきた」
───遠子のこと、出会うまで全く知らなかった訳じゃない。
沙霧だってスネークの一員、幹部のメデューサと呼ばれる四兄妹の能力くらいは知っていたし、時々姿を見かけてもいた。
けれど彼らが日々どんな思いで、どんな仕事をしていたかなんてことまで知っている訳もなく。
ただ遠子につきまとう陰はその辺から来ているのだろうことはわかった。
「小さい頃はまだ良かったんだ。遊びのような感覚で、子供の無邪気さをもって、遠子はいろんな人間を洗脳できた。善とか悪とか関係なくね。でも、あいつは…ああいう性格だから次第に自分の能力に疑問を持ち出したんだ」
「そりゃそうでしょうね」
「人を操るということにほとほと嫌気がさしていたみたいでね。好きな相手には無意識の内に自分を好きになれという暗示をかけているんじゃないか、本当は自分のこと好きでもなんでもないんじゃないかって、人間不審に陥ってそれからずっとコンタクトになった。友達もあんまり作らなくなった。できなくなったっていうのが正しいのかも知れないけど。中学校に入る頃にはびっくりする程暗くなっちゃったからね。
あ、食べていいよ」
運ばれてきたパスタを指して要は言ったが、あまり食欲の出る話題ではない。
「それでも父親に言われる通り、遠子は仕事をこなしてた。精神的にぼろぼろになっていく遠子を見てるのはつらかったな…。ああ見えて父さんは仕事のことになると冷酷だからね。それで、やっとここで諒が出てくるんだけど」
沙霧は頷いて先を促す。
「諒は俺の幼なじみで親友って話はこの前もしたけど…、遠子はかなり前から奴のことが好きだったみたいなんだよね。遠子の片思いなんだけどさ。諒も遠子のことは好きだったみたいだけどあくまで妹みたいな感覚だったと思う」
「はぁ」
何処か安堵している自分がいることを沙霧は自覚した。
「お兄さん、よく平気でしたね」
「平気じゃないよー、すっごいショックだったよ。遠子に好きな男だと!?ってかなり朋と一緒になって騒いだっけ。ま、恋愛対象として見られてないからいいかなって無理矢理納得させてさ」
やっぱり。沙霧は苦笑する。
「その彼がね、組織を辞めたいって言い出したことがあって」
そこで要の瞳が暗い色を帯びた。
「諒は父さんのお気に入りでね。まぁ、能力的な理由でだけど…。父さんは絶対許さなかった。だから遠子に諒を洗脳させようとしたんだ」
「ひえぇぇぇ」
素っ頓狂な声を出してしまったものの、あまりにもひどい話だと沙霧は思わずにはいられなかった。
好きな人の心を勝手に操るなんて、そんなこと自分だったらごめんだ。
「もちろん遠子は嫌がったよ。泣いて抵抗していたのを目の前で見たことだってある。…でも父さんは何て言いくるめたのかは知らないけど、無理矢理洗脳させることに成功したんだ」
「じゃあ、諒さんは組織に残った訳ですね」
「そう…でも諒が何事もなかったように組織で仕事をこなすのを見るにつけ、遠子は自分を責めずにはいられなかったんだよ。この人にはもっと他の人生があったのかも知れないって。自分が能力者だからね、能力者の気持ちはよくわかるんだ。いっそ片思いのままどこかに消えてしまってくれた方が良い思い出として終わった筈なんだ。
でも、そうはならなかった。彼はずっと遠子の目の届く所に居続ける…」
要は少し笑って溜息をついた。
「それが遠子の最後の仕事。その後の遠子はかなり参ってた。さすがに父もやりすぎたと思ったんだろうね、君と家を出ることを了承した訳だ」
「なる程。そんなことがあったんですか。ハードですね」
沙霧もつられて溜息をつく。
「まあ、これくらいは君の耳に入れとかないと申し訳ないかと思ってね」
「お勉強になりました」
「ははは…実は俺、結構嬉しいんだ。遠子変わったよ。六宮さんと暮らし始めて」
「そうですか?」
「うん。すごく良い顔してる。明るくなったよ。兄としてはちょっとさみしいけど…
君と一緒にいるのがいいんだろうねぇ。だからお礼も兼ねてね。お食事に誘った訳です」
沙霧は頬を掻いた。あやしげなことしかしてないんだけどなぁ。
「これからも遠子のこと、よろしく頼むよ」
「もちろんです!」
言って二人は冷めかけたパスタにようやく手をつけ始めた。


翌日に文化祭を控えて、1年A組は否が応にも盛り上がっていた。
何しろ文化祭で一番注目されているクラスなのだ。最終的な打ち合わせにも余念がない。
「うん、いい感じね。後は六宮さんが科白を忘れなければバッチリよ。ふふふ、燃えるわ」
文化祭が近づくにつれ「燃える」発言が加速度的に増えている恵である。
「じゃあ今日はこれで終わり。明日に備えてみんなゆっくり休んでね」
クラス中がはーい、と声を揃えて言った後、皆帰り支度を始める。
と、遠子がスカートのポケットから携帯を取り出した。
バイブレーターに設定していたらしく、音は鳴らなかったが液晶画面が発光している。
それを見つめたまま表情を凍りつかせている遠子を見て、沙霧は嫌な予感がした。
さりげなく後ろに回って液晶画面を盗み見る。
「道成諒」の文字。
───やっぱり。
胸を鷲づかみにされたような息苦しさを感じて、沙霧は思わず胸に手を当てていた。
携帯に名前が登録されている、交友関係は狭い筈なのに。
今頃遠子に一体どんな用があるって言うの?
どうしてそんなに動揺してるの、遠子。
いろんな考えが頭の中でごちゃまぜになって、うまく整理出来ない。
「出ないの?」
沙霧に促されて、遠子は意を決したように電話に出た。
「もしもし…はい、はぁ…え?…はい…わかりました…」
遠子の話している様をなるべく見ないように、沙霧は帰ろうとしているクラスメイトに話しかけてみたりする。でも耳は勝手に遠子の声を拾ってしまう。
携帯をポケットにしまう遠子を見て、沙霧は訊ねた。
「誰?」
不躾だろうかと思いながらも訊ねずにはいられない。遠子は少し躊躇うようにその名を口にした。
「道成さんから」
沙霧は息を飲んだ。
「…で、何て?」
「今から会いたいって」
何だって?沙霧は卒倒しそうになった。
「どうしよう」
「どうしようって、会えばいいじゃないの」
つとめて平静を装って答えた沙霧だったが、心の中は早くもどしゃ降りモード、雷さえ鳴り響きそうな状態だった。
人の気も知らずそんなこと訊ねてくる遠子にも腹が立つ。
「…うん。ごめん沙霧、先に帰ってて」
「わかった。気をつけて」
遠子の姿が教室から消える。残された沙霧はしばらくそこに佇んだ後、のろのろと帰り支度を始めた。
気がつけば教室には誰もいなかった。放課後の、黄色い日差しが虚しさを誘う。
胸の底からもやもやが突き上げてくるのを、沙霧は必死に押しとどめた。
一体、どうしたというのだろう。
何でこんなに胸が苦しいんだろう。
一体あたしは何を期待しているんだろう。
ぽつん、と床に水滴が落ちた。
それが自分の涙だということに気付くのに、数十秒は要しただろうか。
沙霧はその事実に激しく動揺した。あの日にもう涙は流さないと誓ったはずなのに。
「う、嘘。何で…」
信じられなかった。
一粒涙がこぼれた後は、まるで蛇口が壊れた水道のように、涙があふれて止まらない。
こうなることはわかっていたはずだ。
所詮あたしは女だもの、友人以上の関係を望める訳なんて、ない。
ただそばに居られればいい、そうじゃなかったの?
───あ、なんかこの状態はひどくやばい気がする。
沙霧は机に手をついて、肩で呼吸した。
涙を流しながら、視線を鞄に向ける。
自分の方に引き寄せると、中からペンケースを取りだし、開けた。
また始まるのか。こんな所で。
それを沙霧は発作と呼んでいた。もう長い間それはおさまっていた筈なのに。
カッターを取り出すと、素早い手つきで自分の手の平に突き立てた。
何の躊躇いもなく。いや、躊躇わないためにわざとそうしたのかもしれない。
目の覚めるような激痛に、沙霧はくず折れた。
けれど、右手は動きを止めてくれない。何度も何度も手の平に赤い傷を刻み続ける。
「痛…っ」
沙霧はうめいた。
ようやくカッターを手放す。開かれた左手は鮮血で赤く染まっていたが、やがて血の痕だけを残して傷がゆっくりと、本当にゆっくりとだけれど、閉じていき。
再び沙霧はカッターを突き立てる。
「痛い、痛い…痛いよ…っ」
泣いているのは痛みのため。
手の平の痛みなんて大したことない。
けれど、胸の痛みはいつまでたっても治まってくれない───。


「よかった。来てくれないかと思ってた」
諒はそう言って笑った。
嘘つきだ。この人はあたしが来ることを確信してた筈。
遠子は目の前の人物を見ながら思う。
「…ねぇ、どうしてそんなに僕を避けるの?他人行儀だしさぁ、ちょっと傷ついちゃうなぁ」
冗談めかして言っているけれど、それは本音なのだろう。
遠子は黙りこんだままだった。言うべき言葉が見つからないのだ。
「そんなに僕をマインドコントロールしたことが、ショックだった?」
諒の言葉に、遠子は顔を上げた。
「遠子ちゃん、僕のこと好きでしょう?」
その科白には、さすがの遠子も口を開かずにはいられなかった。
「そうやって人の心ポンポン読むの、やめてくれない!?」
「ははっ、やっと喋ってくれた」
「……」
はめられた。二重に。これじゃ「そうですあたしはあなたが好きです」と言ったようなものだ。
顔を真っ赤にして遠子は俯いた。
「僕は今、ここにいられてよかったと思ってるよ」
諒は遠子の肩に手を置いた。実にさりげなく、自然に。
「僕はあの頃、逃げ出したかったんだ。こういう能力を持ってる人間なら一度ならずあると思うけど…遠子ちゃんだってあっただろう?」
遠子は小さく頷いた。あったどころか今だって逃げ出したい。
「自分と向き合うのが怖かったんだな…でも、遠子ちゃん、君が自分と向き合うきっかけをつくってくれたんだよ。あの時逃げ出さなくてよかった。感謝してるくらいなんだ」
それは、確かに遠子にとってはうれしい科白だった。でも遠子の中のもやもやは完全には晴れてくれない。
それはあたしが言わせている科白。
あたしがそういう考えに無理矢理捻じ曲げた結果の科白。
本当にそれはあなたの科白?
どうしても遠子は諒を信じることができない。
「遠子ちゃん、君がそんな能力を持っているのにはきっと意味があると思う。僕にしたってそうだ。人や自分を傷つける以外に何かできることがあると思うんだよ」
「何か…?」
そんな風に考えたこと、遠子にはなかった。
この能力でできること、そんなことあるだろうか。
忌まわしいものとしか思えなかったけれど。
「実は僕、今度アメリカに行くんだ」
「え?」
「はっきり言って研究用のモルモットだけどね。自分の能力をもっと、理解したくてね」
少し寂しそうな諒の顔を、遠子は見上げる。
「よく…お父様が許したわね」
「はは、もちろん、社長(リーダー)の手綱はついたまんまだよ。表向きは留学。でも僕の意思でもある。自分の意味を知りたいんだ───なんて言うと気障ったらしいねぇ」
諒は苦笑した。
「だからその前に遠子ちゃんと一度話しときたくて。あ、でも明日の文化祭には行くよ?楽しみにしてるんだ、遠子ちゃんのお姫様」
「…あまり見に来て欲しくないんだけど」
「何で?恥ずかしがりやさんだなぁ」
額を小突かれながら、ああやっぱりなと遠子は思う。
やっぱりあたしは妹のような存在なんだな、と。
そして、自分もただ憧れてるだけなのかも知れない、と。
まるでそのことを見透かしたように、いや実際見透かしたのかも知れないが、諒は言った。
「遠子ちゃん、何だか明るくなったって要が言ってたけど…誰かいい人がいるんじゃない?」
「は?いる訳ないよ、そんなの」
「大切なものを、見失っちゃだめだよ」
真顔でそんなことを言うので、遠子は何と言葉を返したらいいのかわからなかった。
「じゃっ、帰ろうか。六宮さんも心配してるかも知れないし…」
言いかけて、諒ははたと動きを止めた。
「何?」と遠子。
「…そうだ、言い忘れてたことがあった」


沙霧の様子がおかしい。
昨夜遠子が家に帰った時、沙霧はすでに寝ていた。
そして朝起きた時にはもういなかった。
気合いを入れて舞台に臨むためなのかと思ったのだが、沙霧の姿を見ればそうでないことは明らかだった。
何だかひどく落ち込んでいるようで、顔色が悪いし、いつもの覇気がない。笑顔も痛々しく見える。
遠子が教室に入ると、恵が早速飛んできた。
「おはよう、桐山さん」
「おはようじゃないわよ。あなたたち喧嘩でもしたの?」
「え?」
「六宮さん、あれじゃ使い物にならないわ。あー、もう何だってこんな時に!」
眉間に指をあてて、恵は目をつぶった。そこで初めて遠子は沙霧の異変を知ることとなったのだ。
「沙霧、早いのね」
とりあえず遠子は話しかけてみた。
「ああ…ごめん、昨日は先に寝ちゃった」
のろのろと顔を上げて遠子を見る沙霧の視線は、遠子の体を突き抜けて何処か遠くを見ているようだ。
一体どうしたというのだろう。
ふと遠子の視界に白いものが映る。
包帯。
「どうしたの、沙霧。その手」
遠子は沙霧の左手を掴んだ。
「あ…ちょっと昨日火傷しちゃって…」
再生が追いつかないほど深い傷になっているとは言えない。
「大丈夫なの?」
「うん」
何かあったの、と遠子は訊こうとした。けれど。
担任が入ってきたので後ろ髪を引かれる思いで遠子は席に着かなくてはならなかった。


「六宮さん、お願いよ。科白、忘れないでね」
「はいはい」
さっきから恵はしきりに沙霧にお願いしている。
いよいよ次の舞台が1年A組の「いばら姫」だ。
すっかり準備も整い、あとは今舞台に出ている筝曲部の演奏が終わるのを待つばかり。
初めて立つ舞台で、しかも主役ということもあり、遠子の緊張は頂点に達していた。
しかし自分のことばかり考えてもいられない。沙霧の様子は舞台直前になってもおかしいままだ。
結局あれから準備やら何やらで慌しく、沙霧に何があったのか訊くことができないでいる。
演奏が終わった。わらわらと筝曲部の部員が戻ってくる。
「がんばってね」「楽しみにしてるのよ」声をかけて出て行く。
「よっしゃあ、燃えてきたわ!みんな、行くわよっ!!」
恵の声に、「おーっ」と答えるクラスメイト。
「次は、1年A組による舞台、演目は『いばら姫』です」
司会者の声が体育館に響き渡る。同時に湧きあがる歓声。いかに期待されているかがわかる。
回れ右をして逃げ帰りたい心境だ。でも恵が立ち塞がっている。
始めは誕生パーティーのシーン。王様とお妃、魔女の役がぱたぱたと舞台上に走って行く。
───幕は上がった。


舞台は実に順調に進んだ。
これも恵の日々の指導のおかげということになるのだろうか。
もっとも、恵の中ではこの流れは当然で、心配なのは沙霧の科白だけらしいのだが。
遠子が登場すると、ひときわ高い歓声が上がった。
恥ずかしさのあまり貧血を起こしそうになったが、持ち前の集中力で無難に演技をこなす。
要や諒も見ているのかと思うと、顔から火がでそうだ。
舞台の袖に戻ってくると、恵は「上出来上出来」と褒めてくれた。
「…さて、問題はこれからだわね」
言って恵は振り返る。そこには椅子に座って台本を読んでいる沙霧。
「六宮さん、出番よ」
「はい」
すっ、と沙霧は立ちあがった。
その姿は思わず目を瞠るほど優雅で格好良い。
すたすたと舞台の上に歩いて行く。次は王子がいばらをかきわけて城に入るシーンだ。
いよいよ物語も佳境。
「ああ、大丈夫かしら」
心配そうな恵。遠子も不安げに沙霧の姿を目で追う。
ところが二人、いやクラス中の心配をよそに、実に堂々と沙霧は王子を演じ始めた。
客席から「沙霧ちゃーん」なんて黄色い歓声(もちろん女子生徒たちの)が聞こえてくるほどだ。
いばらをなぎ払い、ドラゴンを相手に剣を振るう姿は同性でもうっとりしてしまうほど様になっている。まさに宝塚の世界だ。
「いい!!六宮さんっ見直したわ!!」
拳を握りしめて叫ぶ恵を横目に、遠子はじわじわと再び襲い来る緊張感と戦っていた。
もうすぐ例のシーンが始まる。
…逃げたい。
舞台の照明が落とされた。場面が変わって次は城内。ついに来た。
「さぁ、高城さん、出番よ。言っとくけどよけたりしたらどうなるか、わかってるわね?」
恵の瞳がきらりと光った…気がしたのは遠子だけだろうか?
「わかってます…」
遠子は深呼吸をした。ここまできたんだ、覚悟を決めよう。
ベッドの上に横たわる。リクライニングベッドのように少し頭の部分が持ちあがっているのは、観客によく見えるようにするためらしい。余計なお世話なのに。
目を閉じると、再び照明が灯った。
コツコツ、と舞台上を歩く靴音がする。沙霧の歩く音。
「そこに見えるのは、もしかして噂の姫君か?」
どんどん遠子の方に近づいてくる。当たり前なのだが。
横たわった時からまるで体全体が心臓になったかのように脈打っている。
足音は遠子の横まで来ると止まった。
「これは…何と麗しい姫なのだろう」
ついに来てしまった、このシーンが。
胸の前で組んだ指を遠子は固く握りしめた。瞼の裏が翳る。頬に柔らかいものが落ちてきたのを感じた。沙霧の髪だろう。
けれど。
それから一向にキスをしてくる気配がない。
妙な間があいて、観客もざわつきだした。
遠子は仕方なく薄目を開ける。と。
遠子に覆い被さったまま、凍りついた様に動かない沙霧がいた。
その瞳が、不安そうに揺れている。
その表情があまりにも痛々しくて、遠子は一瞬頭の中が真っ白になった。
舞台の袖で「何してんのよ!!」とばかりに手を振り上げる恵の姿が見える。でも沙霧の目には入っていない。
(どうしたの?)
観客に聞こえないくらいの小声で遠子は訊いた。
(あたしでいいの?)
沙霧は躊躇うように答える。
今更何言ってるの!?
遠子は叫びそうになったが何とか押さえた。
何でいきなりそんな弱気になってるんだろう。
こっちはめちゃめちゃ覚悟してたっていうのに。
遠子は再び目を閉じた。
このままこうしてる訳には行かない。
こうなったら───。
遠子は沙霧の頭を掴んだ。
そのまま起き上がり様に口づける。
瞬間、大きなどよめきが響き渡り。
唇を離してゆっくり目を開けると、やっぱりさっきと同じ凍りついた状態の沙霧がいた。
その顔は真っ赤で、瞳は微かに潤んでいる。
そんな顔をされたらこちらの方が赤面してしまうではないか。
遠子は羞恥心で萎えそうになる気力を無理矢理振り絞った。
「お待ち申し上げておりました、王子様。あんまり遅いから目を覚ましてしまいましたわ」
遠子は沙霧の首に手を回して抱きついた。ぎこちなく沙霧は遠子を抱きとめる。
「さぁ、ここから連れ出して下さるのでしょう?」
言って沙霧の顔をのぞき込むと。沙霧、にやりと笑って。
「もちろんだとも」
ひょいと遠子を抱き上げた。俗に言うお姫様抱っこである。
「わ、ちょっとっ」
予想外の行動に遠子は思わず声を上げた。
「さぁ、参ろうではないか」
言うが早いか沙霧は遠子を抱えたまま舞台から飛び降りた。
「な、何してんの!?」
「この方が面白いでしょ」
どよめく観客席の間をすり抜け、遠子と沙霧は体育館の外に出て行く。
「うっがー!!あの二人っ…貸して!!」
頭を抱えていた恵はそばでナレーターをしていた少女からマイクを奪い取った。
「こうして二人は末永く幸せにくらしましたとさ。今の時代、女の子が積極的にならないと欲しいものなんて手に入りません。待ってるだけじゃなくて行動を起こしましょう。乙女たちに、幸あれ!!」
もう自分でも何を言っているかわからない。
けれど体育館の中は割れんばかりの歓声で。
恵はまわりのクラスメイトと複雑な表情で顔を見合わせた。


体育館を出ると、沙霧は遠子を降ろし、手を引っ張って走り出した。
「何処行くのよ!?」
問いには答えず、沙霧は遠子を見て笑った。
それを見れば遠子も笑わない訳には行かず。
無人の校舎の中、色鮮やかなポスターや装飾物で彩られている廊下。
それは今日と明日だけに限られた極彩色の風景で。
意味もなく笑いながら王子と姫はその只中を駆け抜けていく。
互いに相手がそこにいて、笑っているという事実だけで、こんなにも自分は救われて
いるということに気付かずにはいられなかった。
やがて二人は屋上に着き。
遠子は身を乗り出すように手すりにもたれかかって、息をついた。
激しく走ったのでウイッグがずれている。直そうとしたが鬱陶しくなったのではずした。
秋の風が突然短くなった髪を揺らして通り抜けて行く。
「桐山さん怒ってるかなぁ」
遠子は振り向いて訊ねた。沙霧は肩を竦める。
「怒ってるね。間違いなく」
「…沙霧」
大切なものを、見失っちゃだめだよ。
諒の言葉を思い出す。
あたしは見失ったりしない。
あたしは大切なものが何かわかってるんだから。
「あたし、沙霧のこと、好きよ」
その科白を聞いた沙霧は再び固まってしまった。
思ってもみないことを言われたといった表情だ。
「…だからあなたでいいの」
遠子は手を伸ばして沙霧の包帯に触れる。
沙霧の顔に戸惑いの色が浮かぶ。
僅かに赤い血が滲んでいるその手を持ち上げて、遠子は口元に持って行くと、
キスをした。
体を震わせ、目を見開く沙霧。声が出ない。
「痛い?」
かろうじて沙霧は首を振った。そんな感覚、一瞬にして飛んで行ってしまっている。
遠子はそのまま沙霧の脇を通り抜けて、ドアの方へと向かった。
「帰ろう。桐山さんに謝らなくちゃ」
遠子に声をかけられても沙霧はその場から動けない。
手の平の鈍い痛みは、いつの間にか甘い痛みに変わっていた。


二人が体育館に戻ると、果たして入口に恵は立っていた。
二人の姿を見るなり、
「何やってたのよ!?はーあ、まったく…やってくれたわよねぇ、こっちはあの後フォローが大変だったのよ?六宮さんはともかく、高城さんまでもが暴走するなんて思わなかったわ」
眉間をおさえて一気にまくしたてる。
けれどその顔はまんざらでもなさそうで。
「さぁ早く着替えないと」
と、馴れ馴れしく二人の肩に手を回す。
姫と王子と女子高生の奇妙な組み合わせはいたずらっぽく視線をかわして、ドアを開けた。



 (秋・了)



《コメント》
積極的で強引で自分勝手でいつも遠子を振り回しているように見える沙霧ですが、精神的優位に立っているのは間違いなく遠子です。
今回はいつもの強気な沙霧があまり出てこなくてつまんなかったので次回は…と思ったのですがどうだろうな〜。次回はインターリュード(幕間)ということで、沙霧の過去を書く予定です。


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