ウブリエットの罪人  草薙あきら

 中世ヨーロッパ。
 最も憎むべき囚人は秘密の地下牢に閉じ込められた。
「忘れる」というフランス語が語源のそれは、
 ウブリエット
 と呼ばれ、そこに閉じ込められた囚人は、そのまま忘れられてしまったという。


 第一話 少女期の終わり

 目を開ける。
 暗闇の中にまばらにちらばる星と、淡い光に照らされた木々。
 身体中が苦痛に悲鳴を上げていた。
 ゆっくりと起き上がって、服についた枯草をはたき落とす。
 …制服は無残なことになっていた。
 白いセーラー服の汚れは、転んだとも言い逃れが出来るが、血まみれのスカートは…
 しかも少し裂けている。
 下腹部に鈍い痛みが走る。
 狂ったようにスカートと、太腿にこびりついた血を拭いながら、一方では無駄なことだと諦めの気分になっていた。
 ゆらりと立ちあがり、よろめきながら歩いて行く。
 街明かりに向かって。

 人影が見えるとすばやく身を隠しながら、ようやく家の近くまでたどりついた。
 頭の中は空っぽのようでいて、ひどくせわしく回転を続けている。
 空回り。
 吐き気でぶつぶつと思考が途切れる。
 何が起きたの、ううんわかってる、わかりたくない、どうすべきなの…。
 視界の端に見慣れた自宅が映る。早く決断しなければ!
 突然クリアな現実感が脳裏を満たす。
 冗談じゃない、こんなこと、人に言えない、知られたくない、特に身内には。
 家に灯りはない───まだ両親は帰っていないようだった。
 恐る恐る門に近づき、開ける。ドアのノブを注意深く、回す。
 がちっ。
 施錠されている…あわただしく鍵をとりだし、中に入る。
 しんとした玄関先。
 吐き気が我慢できなかった。
 洗面所にかけこみ吐いた後、目の前の鏡を見る。
 泥だらけの顔───こんなのあたしじゃない!
 狂った様に衣服をむしり取ると、そのまま浴室にかけこんだ。
 シャワーを浴びつつ、何度も何度も、身体を洗い続ける。
 ボディソープの容器が空になるまで。
 涙が溢れてくる。
「嘘よ嘘よ嘘よ嘘よ」

 誰にも言えない。
 それがこんなにも人の精神をすり減らすものだとは思っていなかった。
 別に…よくある話ではあるじゃない。小説やドラマの中では日常茶飯事。
 でも、他人事と自分事は違う。
 あの日から決定的に自分の中の何かが変わってしまった。
 自分は汚れてしまった。
 誰とも知れない何者かに、無茶苦茶に身体も心も汚されてしまった。
 …大袈裟な。とっくの昔に処女じゃない子たちなんて同級生にはたくさんいる筈。
 あたしは相手が誰だかわからないだけ。
 顔が見えなかっただけ。
 でも───思考は堂々巡り。それってひどく不幸なことじゃない?

「どうしたんだよ、ユズハ。最近…暗いよ?」
 目をあげると、正面にユクトが立っていた。心配そうな表情で。
「そう? …大丈夫」
 虚ろに答える。
 ユクトは幼なじみだった。幼稚園から高校に入るまで、ずっと一緒だ。
 ユクトはいつも気にかけてくれている。
 多分にあたしに好意を持っていることも、知ってる。
 でも、彼さえもひどく遠い。
 以前のように一緒に笑える日は来るのだろうか…?
 そんなこともあったねと、平穏な気持ちで振り返ることはできるようになるだろうか。
 今はそんなこと想像できない…。

 恐れていたことが起きてしまった。
 お父さん、お母さんごめんなさい。
 あたしは妊娠してしまいました。

「いやあああぁぁ…」
 絶叫していた。
 嘘だ、これは、夢だ。そうに違いない、そうでなければいけない。
 比類ない恐怖が、身体を覆い尽くしていた。
 どうしてこんな事実で喜ぶことができるのか?
 何がおめでたいのか?
 理解できない。気が狂いそうだ。知らない人との間の子供だから?
 お腹の中に別の人間がいるなんて!!
「…親御さんとよく相談して…」
 相談!? 嫌よ! 何て言えっていうの。
「子供ができたの。父親は誰だかわからないんだけど」って?
 しかも合意の上じゃなくて強姦されたって?
「とにかく、堕ろすのは無理です、もう3ヶ月になるんだから」
 役立たず!

「ユズハ…!? ど、どういうこと?」
 産婦人科を出ると、信じられないことにユクトがいた。
 何故こんな所に? 思う間もなくたたみかけられる。
「どっか悪いのか? ま、まさか、なあ」
 あたしよりも彼の顔は青ざめていたかも知れない。
「生理不順よ。それだけよ」
 きっぱりと言いのけてやる。───けれど。
「おい、嘘つくなよ、ずっとおかしいと思ってたんだ。まさか妊娠…」
 今日のユクトはしつこかった。
「産婦人科から出てきたらみんな妊娠してるっていうの! テレビの見過ぎなのよ!」
 疲れてるの。何も考えたくないの。どうしたらいいの。
「…悪かったよ。けど、ユズハが心配なんだよ。俺、何でもするから嘘つかないでくれよ」
 その科白は懇願に近かった。不覚にも涙がこぼれそうになる。
 誰か、助けて…。
 ずっとあたしはこのままなの?
 ユクトの瞳があたしを捕らえる。
 あたしは、
「あたしは…」

「大丈夫…」
 ユクトの声は少し震えていた。
「もう何も心配することない。俺に打ち明けてくれてありがとう」
「でも、でも…だめよ、やっぱりこんなこと」
「でもこれが一番いい方法だ。ユズハがいいっていうなら俺もいい」
 どうしようもなく間違っていることはわかっていた。二人とも。
「…ありがと」
 間違ってるの。
「ごめんね」






 中世ヨーロッパ。
 最も憎むべき囚人は秘密の地下牢に閉じ込められた。
「忘れる」というフランス語が語源のそれは、
 ウブリエット
 と呼ばれ、そこに閉じ込められた囚人は、そのまま忘れられてしまったという。

 第二話 殺人志願者

 彼はJRの改札口で待っていた。
「ごめんねー、遅れてー」
 笑いかけたが、無表情のままだ。怒ってる?
 …基本的に笑わない人ではあるが。
「で…? どうすんだ」
 煙草をくわえたまま、あたしを見下ろす。
 それが久し振りに恋人に会った時に、云う科白か?
「あーもー、煙草嫌いだって云ってるのに。せめて二十歳になってからにしてよ」
「…るせーな…。保護者みてーなこと、云うなよ」
 露骨に顔をしかめる。
 何だろう。今日は一段とご機嫌斜めだ。折角久し振りに会ったって云うのに。
「何だよ。ほら、行くんじゃねーのか」
 呆れてるあたしを置いて、彼はどんどん先を歩いて行く。

 そう、入学したばっかりで門の桜が綺麗だった。
 彼が視界に飛び込んできたあの日は。
 びりりと嫌な音を立てて彼は封筒と思しき物を引き裂いていた。
 何の躊躇もなく。
 放課後の人気の無い昇降口で。
 あたしはそれを見て声をあげてしまったらしい。
 彼は無表情に振り返り、あたしを見た。───無関心な瞳。
 ───それ、ラブレターじゃないの?
 あたしは彼の手の中で二つに引き裂かれたものを指して云った。
 ───そうだよ。
 事も無げに答える彼。
 ───捨てちゃうの?
 彼の気だるげな顔を見ていると、自分がひどく愚かな事を訊いているような気がして来た。
 ───興味ないから。
 表情そのまんまの科白を口にすると、ごみ箱にそれを放りこむ。
 そして意地の悪い微笑を浮かべるとあたしの前を通り過ぎながら云った。
 ───見たいならご自由に。
 とんでもない奴だと思った。

「椎木君てもてるんだ」
 椎木───それが彼の名前だ。
 今もどこぞの女子に呼び出され教室を出て行ったところだ。
 その方向を見やりながら、あたしは云った。
「ま、あのルックスならそーでしょう。性格は気に食わないけどね」
 久美が答える。
「何、気になるんだ。やめたほうがいいよー、敵が多すぎ」
「はっ」
 あたしは笑った。女の子ってどうしてすぐそっちの方向に話を持って行こうとするのか。
 それにしたって久美の云うことは正しかった。
 彼の周りには女が絶えなかったが、特有の身勝手さで誰とも長続きしない様だった。
 それでも女たちは彼の研ぎ澄まされた容姿とクールさと、見え隠れする陰にひかれて
「自分こそが最後の女」と群がって行くのだった。

 あの日は雨だった。
 彼は街のすみっこで泣いていた。
 いや、泣いてるように見えたのはあたしの気の所為だったかも知れない。
 彼が泣くとは思えない。感情なんて何処かに置き忘れてきたような人間だから。
 両親と喧嘩して家を飛び出してきたあたしに、彼は初めて感情が滲んだ瞳を見せた。
 ───おまえも親と仲悪いのか?
 おまえも?
 ───みんな嫌いだ、母さん…父さんも。
 彼の顔には痣があったような気がする。
 ───どうしたの、ねえ、泣かないで。
 ───泣いてなんかないだろ。
 彼の肩は傘から少しはみ出ていた。雨粒がぼたぼたと彼の肩を容赦なく濡らしていく。
 ───俺はどうしたらいいんだろうな。
 何のことなのかその時のあたしはよくわからなかった。

「別れたいんだけど」
 夕方。歩きつかれて入った喫茶店でいきなり彼は言った。
「は…?」
 頭の中が真っ白になる…あたしは絶句して彼の次の言葉を待っていた。
 彼は神経質そうに煙草に火をつけ、言葉を探しているようだった。
「飽きたんだよ、何かね」
 云う目はこちらを見ようとしない。
「な…何で?」馬鹿だと思いながらも口にするあたし。「そんな急に云われたって納得出来ない」
 わかっていたことではなかったか? いつか彼が離れて行くことなど。自分はとりたてて可愛い訳でも、性格がよい訳でもまして裕福な家庭の子という訳でもない。
 どこにでもいる、ごく普通の女子高生───でも自分こそはといつしか信じきっていた? 自分が馬鹿にしていた多くの女たちと同じように。なんて愚鈍な惨めな女…。
「だめなんだよ、俺って男は。いつもこうなるんだ。…おまえだって理解ってただろ?」
 何が…? うまく言葉にできない。思った以上にダメージを受けている…?
「俺が駄目なんだ。おまえは悪くないんだ、もう終わりにしよう。じゃあな」
 信じられないことに席を立とうとしている。
 あたしは慌てて彼の腕を掴んだ。
「どうして…? わかんない…何でそんなこと云うの…」
 彼の唇が震えている。どうして? いいかげんな奴のくせに何でそんなに苦しげなの?
「何かあったのね? 休みの間に…だっておかしいよ、透、いつもと違う…」
 瞬間、彼の表情が凍りついた。
「何があったの? 1週間くらい連絡取れなかったことあったよね。その間に何かあったんじゃない? よかったらあたしに話して…」
「うるせぇな…」
 彼はおぞましそうにあたしを見下ろしていた。
「おまえに何がわかるんだよ…」
 その時の気が触れそうなその瞳を、あたしは何度も思い出すことになる。

 夏休みが終わって学校が始まった。
 あの日からほとんど会話は交わしていないが、彼の様子は目に見えて変わってしまっていた。前から陰のある人ではあった。けれど今の状態の比ではない。
 一体何があったのかわからない、でも多分母親に関することだとは思う。
 夏休み前に彼の母親が亡くなった。
 行きたくないけど夏休みに母親の実家に行かなきゃいけないと彼が云っていたのを思い出す。
 彼は前にも増して独りでいることが多くなった。
 近寄りがたい雰囲気が彼の周りに有刺鉄線のように張り巡らされていた。
 あたしは苦しかった。
 こんなにまだ好きなのに、彼を助けてあげることはできないのか。
 彼の苦悩をやわらげてあげたい。
 あたしには無理なの?
「おまえに何がわかるんだよ…」
 あの日の彼の科白が蘇る。
 そう、確かに彼は複雑な家庭環境に育っててあたしみたいなごく普通な女にはなにも理解出来ないかもしれないけど───。
 ここまで考えていつもあたしの頭の中は怒りで燃え上がりそうになる。
 そうよ、ことあるごとに彼はそういう目であたしを見てた。
 まるで、普通の家庭に育ったことが罪悪でもあるかのように。
 おまえに俺の苦しみはわからないんだよと。
 何の苦しみも知らない甘い女だと。
 そんな馴れ合った家庭なんて反吐がでそうだと…。

 家に帰る。
「おかえり。遅かったね」
 と母。
「本屋に寄ってたから」
 あたしが答えると、
「何? なんか買ってきたの?」
 無邪気に妹が訊ねてくる。
 食卓に視線を移すと父がテレビを見ながらビールを飲んでいる。
「お、おかえり。一杯やるか?」
 何だろうこの家は。
 変だ、この家は…。
 なんでこんな家に生まれてしまったの? あたしは。
 もっと不幸な家に生まれ育っていたら…透、あなたはあたしに心を許してくれていた?
 あたしを、同類だとみなしてくれた?
 でも、この家に生まれてしまったの。
 もう、生まれは変えようがないじゃない。
「どうしたの? 何ぼうっとしてるのよ」
 母が不思議そうに見る
 そうよ、でもこれから不幸になることは、できる…。
 あたしは手に持っていた袋から出刃包丁を取り出した。
 振り上げて母の首筋に突き立てる。
 好きなのよ、こんなにも。透、あなたのことが。
 わかってくれる?
 これであたしも不幸になったわ。
 あたしを受け入れてくれる?


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