中世ヨーロッパ。
最も憎むべき囚人は秘密の地下牢に閉じ込められた。
「忘れる」というフランス語が語源のそれは、
ウブリエット
と呼ばれ、そこに閉じ込められた囚人は、そのまま忘れられてしまったという。
第三話 冷視線
夏休みに入る少し前に母さんが死んだ。
交通事故だった。
でも俺は疑問を捨てることができない。
あれは、自殺だ。そうに違いない。
父はあれからますます老け込んだ。
前から本当の年よりずっと上に見えた人ではあったけれど。
母さんが死んだからといって何かが変わった訳じゃない。
むしろ…俺は喜んでいた。
もう俺は自分を抑えなくていいのだ、それを思うと心が楽になった。
もう父を軽蔑することもないのだ、笑いが出るほどだった。
けれど、本当に、これでいいのか?
この状況に喜びを見出している自分に、一方では吐き気を感じてもいた。
なんてひどい子供なんだ、俺は…。
ケリをつけなければいけない。
俺は夏休みを待って、母の実家を訪れることにした。
母の実家は、結構裕福らしく、家も大きい。
祖母たちとの会話もそこそこに、俺は離れの母の部屋に向かった。
どうせイヤミしか云われないのだ。
母と父はいわゆる出来ちゃった結婚だったと聞いている。
裕福な母方はその結婚に最後まで反対していたらしい。
そりゃそうだよな、あんなうだつの上がらないサラリーマンになる男に、誰が娘をやりたいと思うんだよ。
母は事実綺麗だったし…金持ちの娘となれば引く手あまただったろうにね。
ほんと、やったもん勝ちだよな。
母の部屋はきれいに片付いていたが、ほこりっぽかった。
十何年もそのままだったんだから、まあ当然だろう。
入口近くには少し新しく見えるダンボールが置いてある。
うちにあった母の荷物だ。自分の所に、という父から強引に奪ってきた母の形見…。
俺はとりあえず机の横の本棚から日記らしきものを手にとってみた。
「1993.9.15〜1994.4.30」とある。
めくった途端、目に飛び込んできたのはページいっぱいに書かれた
「死にたい」
という文字だった。
…!?
なんだこれは…?
この頃母に何かあったのか…?
とりあえずページをめくる。
9.20
死にたい。
何もする気が起きない。
9.25
行人がいつも心配そうだ。
悪いとは思うけど何も話したくない。
そんな目で私を見ないで。
あたしは汚い女なの。
10.2
何度もあの時のことを夢で見る。
もう忘れたいのに。
嘘みたいに鮮明に。
あいつの、ぽっかりと穴があいたお面と、狂いそうな香水の匂い。
そんなものまで現実感をともなって。
私に死ねと云っているの?
俺は絶句していた。
何があったとは書かれていないが…何となくわかるような気がする。
多分、母はレイプされたのだ。
お面をして、むせるような香水をつけた男に。
気がついてこの日記の前の分を読んでみたが、「1993.9.3」で終わっている。友達と一緒に映画を見に行ったという内容で終わっているから、多分この日から9月15日の間に、その出来事は起こったのだろう。
背筋がピリピリするような感覚をおぼえて、俺はさらにページを繰っていった。
そして、おぞましい文字を見つけた。
12.17
妊娠していた。
堕ろすのも無理だと云われた。
死ぬしかないと思った。
妊娠だって…?
混乱する頭を無理やり回転させる。
ということは、レイプ犯の子ということなのか…?
それに堕ろすのも無理って…。
自分の体をゆっくりと見下ろす。気がつかないうちに汗が頬を伝っていた。
目を日記に戻す。その日にはまだ続きがあった。
でも行人が、結婚しようと云ってくれた。
自分たちの子供として、お腹の子供を育てようと云ってくれた。
自分が頭を下げるからって、全部自分が悪いってことにしていいって、ずっと私のことが好きだったって、私のためなら何でもできるって…云ってくれた。
お母さんたちをだますのはつらいけど、行人にも悪いって思うけど、これでいいのかも知れない。
俺は大急ぎでページをめくっていく。
4.25
明日は結婚式だ。
本当にこれでいいのだろうか。
ううん、いいに決まってる。
ここで日記は終わっている。
その後の日記帳は見当たらない。
多分、結婚してうちに引っ越したからだ。
俺の誕生日は7月8日。両親の結婚記念日は4月26日。
父親の名前は行人。
俺はレイプ犯の子供か?
だから、だから…。
母さんはあんなに俺を嫌ってたのか?
「うるさいわねぇ!!」
鋭い平手打ちで一瞬視界がブラックアウトする。
「あ…」
俺は声をあげることもできず…すがるような目で父を見上げた。
「おい、あんまりじゃないか…」
頼りない父の声…。
「何がよ、何があんまりなのよ! あんまりなのはあなたでしょうが! だから…だからあたしはやめようって…間違ってるって…!」
背中を蹴り倒され、俺はうめいた。
「よさないか」
「うるさいっ!」
再び激痛が走る。
ふくしゅうしてやる。
体を丸くして俺は思う。
しばらく放心状態だったらしく気がつけば部屋は暗くなっていた。
俺は入口のダンボールに目をやった。
母さんは、このレイプ事件が元で心にひどい傷を負って…その結果自殺に至った?
それはそれで納得がいくような気はしたが、何かが足り無いような気がした。
俺はダンボールに近づき、開けた。ごたごたしたガラクタの中から俺は新たな日記を見つけた。
蝉の鳴く声が頭の中をかきむしる。
「嘘だ…」
俺は力まかせに手に持っていた日記を壁に投げつけていた。
ゆっくりと、殺意に似た感情が湧き上がってくる。
目を閉じる。
凶暴な怒りが身体を破裂させてしまいそうだ。
目を開ける…。
宙を睨む。
足元の床ががらがらと崩れ落ちて、闇に飲みこまれて行く自分を見たような気がする…。
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