遊戯  草薙あきら

 これは本当に「遊び」なんだろうか。

「いや…行きたくない」
 数人の少女たちに腕を引っ張られながら、内海頼子は言った。
「何よ。私たちも行ったのよ。あんただけ行かないなんて、そんなこと許さないからね」
 少女たちの中でもリーダー格らしい、背の高い少女が言った。
「お願い、他のことなら何でもするから」
 すがるような目で見る頼子を長身の少女は無言で睨みつける。
「いや、行きたくないよおっ!」
 悲鳴に近い声を上げる頼子を少女たちは半ば引きずるようにして、校舎の方へと連れて行った。校舎の時計は十時を指している。夜の帳が下りた空は星一つない闇夜だ。校舎の窓はどれも真っ暗で中に誰かがいる気配はない。
 長身の少女は満足そうに頷いた。
 やがてある教室の窓の下まで来ると、窓に手をかける。耳障りな音を立てながら、それはゆっくりと開いた。
「さあ」
 長身の少女は窓の中を指さした。完全な闇が口を開けている。
 頼子は絶望的な瞳でもう一度長身の少女を見上げた。…無駄だということはすぐにわかった。それからまわりの少女たちを見回した。俯いている者、無表情な者…態度は様々だったが、誰も頼子を助けてくれる様子はなかった。
「言っとくけど電気なんかつけたら駄目だからね。もし守らなかったら…わかってるよね」
 頼子は目を見開いた。何かを言おうとした。しかし、長身の少女の厳しい瞳に出会い、口を噤んだ。…行くしかなかった。
「そう緊張しないで。ゲームか何かと思えばいいんだよ」
 ショートカットの、いかにも運動神経がよさそうな少女が言った。頼子は頬を激しく引きつらせながら、それでも笑って見せた。
「そうそう。お遊びなんだから」
 長い髪を赤いリボンでまとめた、お嬢様風の少女が相槌を打つ。頼子は唇をきゅっと引き締めると、窓に手をかけ上り始めた。
「御武運を祈ってるわ」
 長身の少女が冷ややかな声で言う。頼子はもう後戻りは出来ないことを知った。


 闇。
 教室の中は暗闇で満たされていた。
 昼間の、賑やかな喧噪に包まれている空間とはまるで異なっている空間がそこにはあった。
 頼子は恐る恐る教室の中を横切った。廊下に出てあたりを見回す。目指すは三階の理科室。
 理科室に行って、少女たちが昼間の内に隠しておいた封筒を取ってくるのが彼女の使命だった。
「あ…ああ…」
 頼子は絶叫しそうになる喉を、口を、押さえながら廊下を歩いた。もともと、彼女は極端な暗所恐怖症だったので立っているのがやっとなくらいだった。その上学校に向かう道すがら彼女はずっとこの学校の七不思議を聞かされていた。頼子は自分は気が狂ってしまうのではないかと本気で思った。
 ――でも行かなくちゃ。
 もし、途中で放棄したら…考えただけで背筋が冷たくなった。それは絶対あってはならないことだった。
 火災報知器のランプが、赤い、無気味な光を放っている。靴音が異様に高く、廊下中に響き渡る。そして、闇。
 怖い。
 頼子の頭の中にはそれしかなかった。一刻も早くこのゲームを終わらせるのだ。
 ――そう言えば、と彼女は思い出さなくてもいいことを思い出してしまった。
『この学校って、夜になると廊下の隅とかにある闇の中から何かが出て来るんだってよ』
『何かって何よ』
『それはわかんないけどさあ』
 少女たちの話す他愛もない七不思議の一説。
 でもそれは当たっているだろうと頼子は思った。闇の中には、何かがいる。そいつが私たちを何らかの力でもって威圧しているのだ。だから私たちはこんなに闇を恐れる。特に学校なんかは墓地の上などに立ってることが多いからそういう訳わかんない物がたくさん住み着いてるのかも知れない。
 突然言いようのない恐怖に襲われて、頼子は走り出した。逃げたい。でも逃げられない。早く終わらせなければ。早く…!
 階段を駆け上がる。闇がついて来ているような気がして、頼子は何度も振り返った。勿論、ついて来ている筈がなかった。
 半分泣きながら、彼女は理科室に飛び込んだ。
 何でこんな場所を選ぶのか。頼子は呪いの言葉を吐きながら、封筒を探し始めた。人体模型をはじめとして、理科室には気味の悪い物ばかりある。ホルマリン漬けの何だかよくわからない物体(でも気持ち悪いということだけはわかる)を脇にどかしたりしなければならなくなった自分の運命を頼子は心底呪った。
「ないよお」
 恐怖が極限に達しようとしていた。しかし封筒はどこにも見当たらない。もしかして本当は何も隠していないのでは…そう思い始めた時だった。
「あった」
 薬品類がしまってある棚の一番下の引き戸の中に、白い封筒はあった。
『内海頼子さんへ。見つけたらその場で読むように』
 封筒の表にはそう書いてあった。頼子は慌ただしく中身を取り出した。レポート用紙のような紙が一枚、折り畳まれて入っている。開いた頼子は一瞬紙面に目を走らせたかと思うと、それを取り落とした。
 がたがたと震え始める。不自然に輝く瞳は、理科室をゆっくりと見渡し…ある一点で止まった。
「やみが」
 涙が幾筋も頬を流れる。理科室の隅にうずくまった闇がゆらりと動いたように…頼子には見えた。
「あ…あああ…いやああああああっっ!!」
 彼女は頭を抱えてその場にしゃがみこんだ。立っていることが出来なくなったからだ。恐怖で動くこともままならなかった。
 闇が迫ってくる。
 いっぺんで声帯が擦り切れてしまいそうな声を上げ続けても、誰も来てくれなかった。
 頼子が落とした紙――それには、ワープロの文字でこう書かれていた。
『内海頼子は理科室で闇に飲まれて死ぬ』


「そう言えば覚えてる?」
 葉月由利子は隣を歩く結城志保に訊ねた。
「うん…覚えてる」
 何を? と訊き返すまでもなかった。志保はゆっくりと頷いた。
 二人は今、学校の中にいる。外はすっかり闇に包まれて、はるか向こうに繁華街のイルミネーションを見ることが出来た。
 夜の学校。それが二人の心に暗い影を投げかけていた。
「思えばかわいそうなことしたよね」
「そうだね、ちょっと酷かったよね」
 二人はそれきり黙り込んで、帰り支度をした。
「電気消すよ」
 志保が言いながらスイッチをオフにした。突然真っ暗になる。それでも外から微かに光が入ってくるので、歩く分には支障はない。二人は講議室を出た。
「怖かっただろうね。こんな暗闇の中を真夜中にしかも一人で歩いたんだから」
 志保が言うと由利子は意地悪そうな笑みを浮かべた。
「誰かさんはずーっと七不思議の話をしてあげてたしね」
「…! だって、佳織の命令だったんだもん、しょうがないじゃないよ」
「怒んないでよ」
 九年前。小学五年生だった彼女たちのクラスに、一人の転入生がやって来た。
 名前は内海頼子という。背が低くて、おどおどしている、どこか卑屈な感が否めない少女だった。
 担任は由利子たちのグループのリーダー格の本城佳織に頼子のことを頼んだ。佳織がクラス委員をしていたからだろう。そういう意味では、佳織はグループの中だけでなくクラスの中でもリーダーシップを取っていた人間であると言えた。
 佳織はそこで残酷なゲームを思いついたのだった。要するに、頼子に、自分たちの仲間になるための使命を課したのである。一種の儀式と言えよう。その内容は夜、一人で校舎の中の理科室に行き、隠しておいた封筒を取ってくるといったものだった。
 頼子が暗所恐怖症だということはみんな知っていた。
 しかし、誰もかわいそうだからやめよう、とは言わなかった。佳織に逆らうのは怖かったし、平穏な毎日が彼女たちの精神を麻痺させ、いささか嗜虐的にさせていたのは否めないかも知れない。結構軽い気持ちで彼女たちは頼子を夜の学校へと連れ出した。
 ――あの時までは。
 頼子の声とは思えないような絶叫が、校舎中に響いた。佳織たちは真っ青になって立ちすくみ、どうすればいいのかわからなくなった。耳をつんざくような、甲高い悲鳴は何度も断続的に響いてくる。泣き出す者まで出て来た。結局、佳織たちは、逃げた。校舎の中に頼子一人残して――。
 翌日から頼子は学校に来なくなった。そして、いつの間にか再び転校してしまっていた。
 佳織たちはその後しばらく罪悪感に苛まれることになる。


 由利子と別れた志保は、その後電車に十分ほど揺られ帰途についた。
 彼女の自宅は官舎である。いつも通り彼女は階段を上がる前に郵便ボックスを覗いた。淡いブルーの封筒が入っている。出してみると、ワープロの文字は彼女宛になっていた。
「誰だろう」
 裏を見る。思わず彼女は声を上げていた。
『内海頼子』
「そんな…」
 信じられない思いで封を切り、中身を取り出す。
『ゲームはまだ終わっていない。私は必ず戻ってくる』
 無機質なワープロの文字が中央に並んでいた。
「何これ…」
 志保は呟いた自分の声が震えていることに気付いた。


 その夜、志保の家に電話がかかってきた。由利子からだった。彼女はかわいそうなほど取り乱していた。
「どうしたのよ」
 理由はわかっていた。でも志保は訊ねていた。
「頼子から…内海頼子から手紙が…」
 由利子が泣きそうな声で言う。志保は目の前が真っ暗になったような気がした。
「私の所にも来たわ。もしかしたらみんなの所にも来てるかも知れない」
「どうしよう。復讐する気なんだわ、きっと。でも何で今頃になって…」
「復讐なんてそんな訳ないじゃない。しっかりしてよ」
 言いながらも志保の胸には不安が広がっていた。


 翌日。由利子と志保は同じ短大に通う榛名理絵と会った。由利子たちは国文科なのだが、理絵は英文科なのでめったに会うことはない。そこで昼休みに講議室で待ち合わせたのだった。 彼女も小学生の時、由利子たちのグループに入っていた一人だった。
 講議室に入って来た理絵の顔は青ざめていた。二人はすぐに状況を察知した。
「理絵の所にも来たのね」
 由利子が言うと理絵は驚いたように目を見開いた。
「どういうこと?もしかしてあなたたちの所にも来たの?」
 二人は頷いた。
 手紙の文面は三人とも同じだった。三人はしばらく無言でそれらを眺めていた。
「…佳織の所にも来てるかな、やっぱり」
 理絵が呟く。
「多分」と消え入るような声で答えたのは由利子だった。
 佳織は三人とは違う四年制の大学に通っている。
「私…内海頼子って死んだような気がしてた」
 志保が言うと理絵が頷いた。
「だってあの時以来全然、姿見なかったんだもん。そのまま転校しちゃうしさ」
「でも、佳織はあの子の家にお見舞いに行ったんでしょう?」
「そうなんだけど、その後自殺したとかさ」
「あのくらいじゃ自殺しないでしょ、いくらなんでも」
「でもあの声聞いたでしょう? すごかったよ。暗所恐怖症だったんだし」
 三人は意味もなく喋り続けた。
「ねえ、これって誰かのいたずらじゃない? 頼子が出したとは限らないと思うな」
 志保が言った。
「…そうよね。そうよ。今頃復讐するってのも時期的に不自然だし。誰かがふざけて…」
「誰かって誰よ」
 安堵の笑みを浮かべる由利子の表情が強ばった。理絵は無表情のまま繰り返す。
「誰かって誰なのよ。あのゲームのこと知ってるの私たちだけだわ。私と由利子と志保と佳織と…内海頼子と。そうでしょう?」
「じゃあ…誰なのよ。頼子じゃないとすれば残るは佳織だけだわ」
 由利子が訊ねた。
「佳織がこんなことして何になるって言うのよ。…やっぱり頼子だわ。頼子が復讐しようとしてるのよ」
 理絵が顔を両手で覆い隠す。
「確かに私たちがやったことは少し度が過ぎてたかも知れない。でも友達になろうとしてやったことだわ。復讐される覚えはないわよ」
 志保は自分に言い聞かせるように言った。
「そうだよね、遊びだったんだよね」
「佳織が悪いのよ、あんなこと思いつくから」
 いつの間にか佳織が悪者になっている。志保は怒気混じりの口調で言った。
「いい加減にしなさいよ。いたずらかもしれないでしょう? それにこの文面から即復讐だと考えるのも間違ってると思うよ。ただ単に頼子が私たちに会いに来るだけかも知れないし。…取り敢えず佳織にも聞いてみようよ」
「そうね…佳織だったらなんとかしてくれるかも」
 また佳織に頼る羽目になるなんて…三人は苦い思いをかみしめていた。


「うん、私の所にも来たわよ」
 佳織はそう言うと、青い封筒を取り出して見せた。三人の物と同じである。
 由利子は今、佳織の家にいる。由利子が電話をかけると、二人の家は近いので、佳織の家で話をしようということになったのである。
「…ねえ、どういうことなのかな。やっぱり頼子が復讐しようとしてるのかな」
 由利子が心細そうに呟いた。佳織は腕を組んで思案している。
「…よっぽど酷い思いしたんだね。まあ確かに私たちも悪かったけど」
 ふてくされたような口調で言う。
「でもさ変だよね。あの子、理科室で気を失ってるのを探しに来た親たちに見つけられたらしいんだけどさ、一応怖がりながらもあそこまで行ったんじゃない? それなのに何でいきなりあんなに怖がりだしたんだろ」
「そりゃ理科室って気味悪いものばっかだからね」
 由利子が答える。佳織はそんな由利子の顔をじっと見つめていたが、
「理由、それだけだと思う? あの声すごかったよ。普通じゃなかった。きっと理科室で何かそれなりのことがあったんだとかって思わない?」
 と神妙な顔をして言った。
「…頼子は何て言ってたの」
 由利子は訊ねた。あの後頼子に会ったのは佳織だけだった。
「それがね――記憶喪失に…なったらしくて」
 佳織は無表情で言った。
「え…そうだったの?」
 初耳だった。頼子のことを訊ねても佳織は曖昧に「大丈夫みたい」としか答えてくれなかったから。佳織たちのグループが何も疑われなかった訳がこれでわかった。
「でも…じゃあ…もしかして…」
 由利子はそこまで言って息を飲んだ。
「記憶が…戻った…とか?」
「ありえるよね」
きっぱりと佳織は言い放った。



 END



《コメント》

この作品はですね、密かに叙述ミステリーの師匠と崇めている折原一氏の「沈黙の教室」に影響されて、書いたものです。
学園ミステリーが書きたかったんですね。ちなみに氏の「異人たちの館」は傑作です。


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