終章

「取り敢えず、終わったね」
 部屋の隅に転がっている蓑虫――否、縛られて転がっているディムを眺めてからフレイが振り返り、毛布を手に戻って来たリュースを見上げた。
 今は深夜のため、ディム――ハリスの攻撃で気絶した彼は青痣だらけになっている――を役人に引き渡そうにも役所がまだ開いていないので、呪文を使わないように猿轡を噛ませてから縛り上げているのである。
 そしてローラはフレイの隣で毛布にくるまり、ぐっすりと寝入っていた。
 先程までは、従兄が助け出してくれた安心感からか今までの恐怖心からかずっと泣いていたのだが、どうやら泣き疲れたらしい。まだ幼い少女なのだ、無理もない。
 今フレイたちはパンとチーズとで、かなり遅い夕食――かなり早い朝食というべきか――を摂っていた。
 シャディールも何やら思案しながらパンを食べていたが、さすがに疲れたのか、女神像の台座に凭れてこっくりこっくりと船を漕いでいる。
「そうだね。……シャディールくんが起きたら改めて、ちゃんとお礼言わなきゃな」
 目を細めてそう言ってからリュースが屈み、シャディールに静かに毛布を掛ける。
「ハリスさんも、ありがとうございました」
 シャディールの隣に蹲っているハリスにもそっと声を掛けると、彼はゆっくり首を振った。
《私は礼を言われるようなことなど何もしていないぞ。この身体では呪文を使うことが出来ないのだからな》
 その言葉でリュースとフレイはそれぞれ微苦笑を浮かべた。
 呪文を唱えられない分、今の彼には鋭いくちばしという武器があるのだから。そして、そのおかげで二度もリュースとフレイは助けられた。それに、それ以外でも彼は色々と力を貸してくれていたのだ。
「ねぇ。それはそうと、ハリスって本体の怪我が治ったら、もうカラスじゃなくなっちゃうの?」
 それって何だか勿体ないなぁ――フレイが言うと、ハリスが彼女に向き直ってバサバサと羽を広げた。
《早く回復して人間の姿に戻らねば、協会の女性たちが嘆くだろう? 今だって、彼女たちは胸が潰れそうな思いをしているに違いないのだからな》
「あんたのその自信は一体どこから来るんだか」
 フレイが、そう言いつつもどこか納得している自分に心の中で苦笑する。


 ハリス=エンディミア――魔術師協会のマイスターの一人。
 言葉を交わすことは今までなかったけれど、遠くから幾度か顔を見たことがあるし、彼に関する噂は協会に行けば大抵耳にすることが出来た。
 長い金髪に深い翠色の瞳――その派手な容姿と行動から浮き名が絶えず、ヴァレスが「協会の規律が乱れる」などと始終文句を言っていたとか。そんな彼だが、マイスターとしてはフレイの父・アルテスでさえも「怖い男だ」と評する程だったらしい。
 それがどういう意味なのか……結局、アルテスから聞けず仕舞いだ。


「でも、シャディールくんに回復呪文を掛けてもらったときに思ったんですけど」
 と、そのときリュースがハリスに問い掛けて来た。
「協会の事故がひどいものだった、そして死傷者がたくさん出た……そういうのは知ってるんですが、でもそのとき塔にいなかった人の中に回復呪文を唱えられる魔術師がいたと思うんです。なのに、どうして――」
《それはだな》
 言い淀んだリュースの言葉を継ぐようにハリスが声をあげる。
《あの爆発の際に傷ついた者や命を落とした者全てに、呪文が効かなかったのだ。回復呪文のみならず、攻撃呪文もな》
「え? それってどういうことなの?」
 フレイが初めて聞く話に瞬きしてハリスの顔を見遣ると、彼は小さく頷いた。
《先程話したな、塔の爆発の発生源が最上階の柱ではないか、と。恐らく、あの爆発のときに呪文が……柱が創られた当時の魔法が掛けられたのだ。爆発したときに作用するようになっていたのか、柱に封じられていた者の力のせいかまでは分からないが》
 そこでハリスが少し悔しそうに低く呻く。
《今我々が使っているものと当時のものとでは、呪文の組み立て方が異なる。だから、いくら呪文を唱えても効かない訳だ。そのせいで命を落とした者も大勢いた……私の徒弟たちもな》
「呪文の組み立て方が……って、そんなに違うものなの?」
 自分に魔力がないせいでその辺のことが全く分からないフレイが口を挟むと、ハリスは小さく頷いた。
《当時の呪文には、魂を抜き取ったり、死に至らしめたりするものが多かった。その時代背景も関係するのだろうがな。しかしその分、呪文詠唱時間が長いなどの問題もあり、詠唱中に攻撃される危険もあったのだ。だから、次第に呪文も簡略化した――呪文の威力もその分、半減したがな》
「じゃあ、今はもう唱えられる人がいないってこと?」
《そう、だな。呪文を唱えられる状態の者がそのときいなかった、というのが正しいが。私が知っている中で、唱えられたのは私とアルテスと、私の友が一人くらいだ。だが、私の友は回復呪文が苦手でな。私は見ての通りだし、アルテスも、な》
 父・アルテスの死に顔を思い出しながら頷いたフレイにハリスは言葉を続けた。
《だから私をはじめ、あの事故で傷を負った者は自然治癒力で回復するしかないのだ。あの爆発の際の怪我にのみ作用する……呪いのようなものだと思っている》
「呪いって……でも、あたし――」
 自分の身体を見下ろすフレイ。
 ならば、爆発の発生源にいたのにかすり傷程度で済んだ自分は、一体何なのだろう?
 死神、悪魔、化け物――魔術師たちから吐かれた言葉を思い出して青ざめたフレイに、ハリスは静かに語り掛けた。
《先程はそれについて何も言わなかったし、協会の多くの者はお前が犯人だと思っているが、私はこう思っている――アルテスが護ってくれたのだろう、とな。アルテスが命を懸けて護ったからこそ、お前は無事だったのだ。親というのは、いつだって子供のことを一番に考えるものなのだぞ》
「父さんが……」
 思わず涙が溢れそうになり、フレイは慌てて唇を噛み締めた。
《恐らく、その腕輪のおかげだろう。その腕輪は、今では最上階の部屋に入るときの許可証として使われているが、本来は違う働きがあったのではないかと私は思っている》
「違う働きって、『柱に封じられてたもの』から身を護ってくれるってこと? じゃあ……」
 自分にこの腕輪をつけなければ、父は死ななかったのではないか――。
 無意識に掌を見下ろしたフレイの気持ちを察したのか、ハリスが優しい声音で告げる。
《自分を責めるなよ。アルテスはいつもお前を大切にして来た。お前が今生きているということが、アルテスには一番嬉しいのだからな》
「……」
 震える肩のままこくんと頷いたフレイをハリスはしばらく見つめてから、気を取り直すように明るい声をあげた。
《私もな、この姿も悪くないと思い始めているところだ。人間の姿だと困難だったことも、カラスの姿だと容易になるからな》
「それは確かにそうですね。情報収集をするときに人間の姿だと警戒されたりしますから」
 真剣に頷いたリュースに、ハリスは片羽をヒラヒラ振ってみせた――人間で例えるならばちっちっちっ、と指を振ってみせた、というところか。
《お前たちと会う前、スペロの街の広場に行ったのだがな。愛嬌があって可愛い、と街娘たちに大人気だったぞ》
『…………』
 あくまでも彼の基準は女性らしい。
(まぁ、それもどこまでが本気で言ってるのか分かんないけどね……)
 フレイは心の中でそう呟きながらハリスを眺めた。
 まじめなことを言うかと思えば、ふざけたことをさらりと言ってのける。彼の真意は一体何なのだろう?
 それに時折感じる彼の視線。それは今のようにおどけたものでなく、監視するようなそれだ。
 恐らく、問いただすと《フレイアが可愛いから目で追っているのだが?》などと言うだろうが――。

「寒い?」

 考え込んでいたフレイの頭上からリュースの声がしたので我に返ると、彼が毛布を差し出していた。
「ううん、大丈夫。ありがと」
 言いつつ毛布を受け取ったフレイがローラの方に視線を転じる。
「でもローラちゃん、無事でほんとに良かったね」
 フレイのその言葉に頷いてから、リュースは眠っているローラの横――彼女を挟んでフレイの反対側――に腰を下ろすと従妹の髪をそっと撫でた。
「うん。でも、今は何も分からなくてもそのうち今回のことが分かって来ると思う。そのとき……どう思うかな、父親のこと」
「リュース、叔父さんのこと――」
 フレイが声の調子を落とすと、リュースはしばらく沈黙し、それからゆっくり首を振った。
「大丈夫。叔父さんに頼まれて僕の家に盗みに入ったって黒狼に聞いたときから……こうなるかもしれないって、思ってたから」
「…――――」
 大丈夫と言いながらもやはり表情が晴れないリュースにフレイが何か言いかけようとして、結局口を閉ざす。
「もう、良いんだ。叔父さんのこと、許すことは出来ないけど……でも今回のことをすごく後悔してたってことは分かったから」
 言って、リュースは懐からロケットを取り出した。
「これ、叔父さんの形見。叔父さん、ずっとこれを握り締めてたんだ」
 そう言いながらリュースがロケットを開くと、右側にはローラを抱いたギルファの絵が、そして左側にはまだ幼い頃のリュースとその両親、ギルファが並んでいる絵が入っていた。
「それとね、叔父さんが僕に手紙を遺してたんだ。これも叔父さんの服を直してるときに見付けたんだけど――自分が犯した罪と僕に対する謝罪と……それと、ローラちゃんが捕まってる場所のことも書かれてた。だから、僕はシャディールくんに回復呪文を掛けてもらってから飛翔呪文で飛んで行って、助けて来たんだよ」
 フレイがその言葉にこくんと頷くと、リュースがロケットをしまい、再びローラに目をやる。
「手紙、僕に書くのを叔父さんは随分躊躇ってたみたいだ。何度も丸めたみたいで皺になってたし……叔父さんの字、震えてた。滲んでた。『娘を助けて欲しい』って……まともに文字が書ける状態じゃなかったのに、必死に書いてたんだ。この子のために」
 優しい人だったから……小さく呟き、リュースはディムに視線を転じた。
「病気の奥さんと子供がいるんだってね、あの人も」
「……そうみたいだね」
「彼や叔父さんのやり方は間違ってたと思う。どんなに家族のことが大切でも、してはいけないことだったんだから。でも――」
 再度ローラの頭を撫で、言葉を続ける。
「でも、分かる気がする。そんなにまでして大切な人を護りたかったっていう、気持ちは」
「リュース……」
(どうして理解しようって出来るんだろう。あたしには出来ない。だからこうやって旅に出てるんだから……)
 敵を討つために。どうしても、赦せなかったから。
「まだ今は、ちゃんと気持ちの整理が出来てないけど。でも……」
 そこで言葉を切ってから、リュースがゆっくりと瞼を閉じる。
 フレイが何も言葉を掛けず見守っていると、しばらくしてから彼は深く息をついて瞼を開けた。
「今日はフレイに会えて良かったよ。僕一人だけだったら、今頃どうなってたか……」
 そう言う彼の小さく震える肩に気付いたフレイが首を振る。
「でも、あたし何も――何もリュースの力になれなかったのに」
「僕だってそうだよ。君が苦しんでる間、僕は何も出来なかった――だから、お互い様だよ」
 その言葉を聞いてフレイは少しつらそうに目を細めた。
「…………ありがと」
 そして小さく微笑むと、リュースは数度瞬きしてから微苦笑を浮かべた。
「何でかな、ずっと一緒にいたのにフレイが笑ってるところって僕、今初めて見た気がする」
「え? そうかなぁ……」
 そんなことないと思うんだけど――とフレイが首を傾げると、リュースは微笑んだ。
「うん。……でも、そっちの方が良いよ。フレイは笑ってる方が似合ってる」
「リュースもね」
 笑って言うと、リュースは照れたように笑い返してから視線を転じ「あ、シャディールくん起きた?」と明るく声をあげた。
 フレイも見遣ると、シャディールがごしごしと目をこすって小さく伸びをしている。
「疲れてるんだったら、少し横になったら?」
「……別に平気だよ。ねーちゃんたちと違ってオレは若いんだから」
 ぴくっ。
 フレイのこめかみにまたも青筋が浮かぶ。
「あんたってほんっとに可愛くないわねー!」
「だから言ったろ、可愛いなんて思ってもらわなくていいって。大体、それであれこれ言うこと自体、自分たちの歳を――」
 と、わざとらしく肩を竦めて言っているシャディールに、リュースが満面の笑みを浮かべる。
「何だか僕たちが随分歳みたいな言い方だね、シャディールくん?」
 にこにこにこにこ。
「…………う」
 何か言い返そうとしたらしい。しかし、シャディールもやはり本能的に何やら不吉なものを感じ取ったようだ。
 しばらく口をパクパクさせていたが、やがて「ケッ」と言ってからそっぽを向き、ちらりと視線を自分の横に向けた。隣ではハリスが《十六で歳を気にしてどうする。私など三十二だぞ》と呟いている。
「また歳が変わってるんだけど」
 ぼそっと突っ込んでからシャディールはつと視線を逸らした。視線の先のフレイとリュースは年齢のことで何やら熱く語り合っている。……否、熱弁を振るっているのはフレイだけだが。
「……なぁ師匠」
《何だ?》
 ハリスのその素っ気ない口調にシャディールは小さく唇を噛んだ。
「オレって――」
 言いかけて口ごもり、躊躇い、そしてゆっくりと首を振る。
「……やっぱりいい。何でもない」
《? そうか?》
 軽く小首を傾げ、ハリスは博物館の中を眺め回した。
《シャディール、片が付いたら一度協会に戻るぞ。色々と報告しなくてはな》
「あ、ああ」
 こくりとシャディールが頷くと、ハリスはそんな彼をちらりと見、少し考えてから――
《心配するな。誰に何を言われようとも、お前は私の大事な息子だ。ずっと、ずっとな》
「え?」
 シャディールが慌てて顔を上げたが、そのときにはもうハリスはフレイの方へ飛んで行ってしまっていた。
「………………………………………………………何言ってんだよバカ師匠」
 小さく呟いてからゆっくりと立ち上がる。


 本当はずっと不安だった。それが、ディムに言われてから更に増大した。
 それなのに、たったこれだけでそれが氷解してしまうなんて。
 たった、これだけで。


 皆の方へ歩み寄ったシャディールの顔を見たフレイが、不思議そうに小首を傾げる。
「どうしたの? 何か嬉しそうだけど」
「……うるさいな」
 言い、仏頂面を作ろうとしたが、今度は上手く行かなかった。
「オレのことはともかく! にーちゃん、これ!」
 赤くなった顔を誤魔化すように、シャディールが協会からの依頼書をリュースに突きつける。
「奥の部屋の調査、ですね?」
 リュースがハリスを見下ろすと、彼はこくりと頷いた。
《お前の気持ちを考えれば、一度出直してまたここに来るのが良いのだろうがな》
 ハリスがそう言い、フレイに視線を転じる――マイスターの目で。
 何も言わずとも感じるその威圧感にフレイは肩を竦め、床に下ろしていた麻袋を開いた。
「リュース、これでしょ? 奥の扉を開く鍵って」
 そう言ってフレイが取り出したのは、小さな翡翠の彫像。これが、フレイが女神像を見たときに気付いた『二つ目の鍵』。
「……うん。よく分かったね」
 リュースが少し目を見開いてから頷くと、フレイは頷き返してから彫像を彼に渡し、ハリスに目を向けた。
「でも、これから協会の調査が始まるんなら部外者のあたしがいると邪魔になる?」
 フレイのその言葉に、ハリスが慌てて彼女の肩に飛び乗る。
《まだフレイアには手伝ってもらってないのだがな》
「でも」
 困った顔をしてリュースを振り返ると、彼もやはり困ったような表情になっていた。
「ハリスさんがどうしてフレイを奥の部屋に連れて行きたいのか、僕には全然分からないんですけど……何かあるんですか?」
《さてな》
 ハリスは短くそう言うと、リュースの方に視線を向けた。
《やはり、部外者を連れて行くのは駄目なのか?》
 ハリスの言葉に、リュースは沈黙した。
 何かを決断するような彼からは、『護り人』の雰囲気が充分に感じられる。やがて――護り人はフレイの顔を見つめてゆっくりと口を開いた。
「あの部屋は『部外者を入れない』ではなく『信の置けない者を入れない』ようにって代々伝えられているものなんだ。だから」
 リュースはそれだけ言うと微笑み、飛翔呪文を唱えた。そしてふわりと宙に浮き、翡翠の女神像の掌に翡翠の彫像を嵌め込む。
 と同時に、今まで壁だったところに音もなく扉が浮かび上がって来た。扉はこうやって隠されていたのだ、いくら探しても分からなかったはずである。
 リュースは扉が現れたのを確認すると再び床に降り立ち、その扉の鍵穴に象牙の鍵を嵌め込んだ。

 ギギ……

 重い音を立てて扉が開いて来る。そこにあったものは――。
「! これが、前王朝の……遺産? でも、これは宝っていうより……」
 フレイは部屋の中の、溢れんばかりに陳列している硬質の物体を見て眉を顰めた。
 父の所持していた資料などで見たことはある。しかし、実際目の当りにしたことなどなかったし、これからもないと思っていたものばかりだ。これはかつての栄華を誇示する『宝』ではなく――。
「そう。これは『宝』というよりも『兵器』といった方が良いかもしれない。これは前王朝の……今みたいに魔法が活発でなかった頃のものだよ」
 言いながらリュースは部屋の中に足を踏み入れた。床には、何やら紋様が描かれている。
 そしてリュースは手近にある細い銀の筒をそっと手に取った。
「これは、殺輝光ハミサイド・レイと同じ効力を発揮したものだって。この筒の中にある弾が生物に当たると、みんな死んでしまうんだ」
「あそこにあるものも、みんな?」
 部屋に踏み込まず中を覗き込んだフレイが、眉根を寄せたまま尋ねる。リュースはその言葉に頷き、彼女の視線の先に並ぶ兵器の数々を眺めて言葉を続けた。
「イヴァンレイオス王は、前王朝が持っていた武器や金銀財宝をここに集めたんだ。二度と戦争が起きないように……そんなこと、無理なのにね。それくらいで戦争が起こらなくなるなんて、あり得ないのに」
 実際、今も王都を中心にして戦争が起きているのだから。
 悲しげに呟いてからリュースが視線を転じる。そこにいるハリスは、黙ったままフレイを見つめていた。
(何なんだろう……?)
 リュースも気付いていた。ハリスが時折フレイを見ていたことに。
 それはおどけたようなものでも恋愛感情の込められたようなものでもない。しかし、監視するような鋭いそれでもない。
 心配しているのだ。理由は分からないけれど、彼はフレイを心配している――。
(やっぱりフレイには何かあるのかな?)
 首を傾げたが、今自分が考えても答えは見付からないだろうと判断し、リュースは護り人の顔に戻った。
「でも、隠して護って行くだけじゃ、何にもならないと思う。これを見せて、過去の惨禍を忘れないように考えてもらうのもまた、ひとつの方法だって僕は思うんだ」
 その言葉に小さく頷き、フレイは部屋の中に――紋様の中に一歩足を踏み入れた。
 途端。

《…………》

 突然フレイは、またもやどこからか聞こえる声を感じた。自分を呼ぶ声を。
 そして、それと同時にまたも胸が高鳴る。自分の意志とは無関係に。胸を押さえたまま周りを見回すけれど、やはり誰かがいる気配は感じられない。
 部屋は壁一面に浮き彫りが施されており、イヴァンレイオス王と、彼と共に戦った者たちの姿が描かれていた。浮き彫りの下には、細かく何か文字が刻まれている。フレイにその文字は読めないけれど、恐らく戦いのあらましが語られているのだろう。
 それからフレイは視線を動かし、陳列している数多くの兵器を眺めた。
 ――そのとき。

 そのとき――何故気付いたのだろう?
 それは多くの兵器の中に埋もれていたというのに。
 気付かなかったなら……否、気付けなかったなら、良かったのかも……しれないのに。

「リュース、これ……は?」
 導かれるようにゆっくり歩み寄ると、それは一振りの剣だった。
 豪奢に飾られてはおらず、実用本位の簡素な造り。ただ、填められている紅い珠がその剣を他のものとは何か違う雰囲気にさせている。
「もしかして、これって英雄が使ってたもの?」
 咄嗟に出た言葉だった。しかし、その問いにリュースが頷いたのでフレイの勘は間違っていなかったのだろう。
 触れることのないまま剣を見つめていると、また自分を呼ぶ声が聞こえて来そうだった。フレイが頭を振ってその考えを追い払い、リュースを振り返る。
「ねぇ、あたしずっと気になってたんだけど。前の王朝を倒したのって、イヴァンレイオスとリュースのご先祖さまと英雄、なんだよね?」
「うん……?」
「英雄って、何ていう名前なの?」
 フレイのその問いにリュースが小首を傾げる。
「それが、分からないんだよね。どの文献を調べても載ってなくて。ここの壁の浮き彫りにも、イヴァンレイオス王や他の人たちの名前は刻まれているのに彼は『英雄』とか『かの者』とかだから。……でも、何で?」
「ううん、別に……」
 言いながらフレイが自分の腕輪に触れていると、間近で英雄の剣に見入っていたハリスが不意に声を掛けて来た。
《フレイア、お前はこれからどうするのだ?》
「え? んーと……まずはトゥアに行こうかな、って思ってるけど」
「トゥアに?」
 訝しげにリュースが首を傾げる。
「ちょっと調べたいことがあってね」
 曖昧に笑い、フレイはそっと腕輪の表面を撫でた。
 腕輪に刻まれている文字は前王朝時代の呪術文字、そして英雄たちの頃のものでもある。だから。
(ディムがトゥアには英雄の碑があるって言ってたから、何かこの腕輪について分かるかも知れないし)
「それに、ヴァレスがトゥアに行ってから様子が変になったって、さっきハリス言ってたでしょ? ちょっと気になるしさ」
 あの夜、自分を捕らえようとやって来たヴァレスの目は、言動は……明らかに常軌を逸していた。
 彼の変貌と、自分が人外の力を手にしたこと、そして父が自分に腕輪をつけたことに何か関連性が見出せるかもしれない。
(この腕輪、一体何なのよ父さん……)
 フレイは拳を握り、唇を噛んだ。
 分からないことだらけだ。トゥアに行って謎が解けるとは限らないけれど、闇雲に動くことは得策ではない。
 何の変化もないけれど楽しい生活を送っていたはずの自分が、今では人殺しとして協会から指名手配されているなど、先日までは思いもしなかった。
 あの日から、何かが崩れ去ろうとしている――否、動き始めたというのだろうか。
(父さん……レオン……)
 目を細めて俯いたフレイの肩に、ハリスがふわりと留まる。
《何かあれば、力になるからな》
 顔を上げると、ハリスの視線とぶつかった――優しくて暖かな眼差しに。
「……うん。そのときはよろしくね」
 フレイの言葉に頷いてから、ハリスがぱさりとまた羽を広げる。
《さて。そろそろこの部屋を出ようか。どうも空気が重いのは性に合わなくてな》
「え? ちょっと待ってハリス、あたしにこの部屋で何か用があるんじゃなかったの?」
 慌ててフレイが聞くと、彼はそのままパタパタと羽を揺らした。
《もう用は済んだ。知りたかったことは分かったからな》
「?」
 訳が分からずにフレイが首を傾げる。
 彼は、ここに協会の事故と博物館の『宝』の関連性を調べるため来たと言っていた。ならば、それが分かったというのか。
《まだ推測の域を出ていないので、悪いが今は話せない。だが……そうだな、近いうち明らかに出来ると思う。そのときに、な》
「……うん」
 そう言われると、それ以上深くは尋ねられない。フレイが不承不承頷くとハリスはポン、と軽く彼女の後頭部を叩いて笑った。
《よしよし、良い子だ》
「……あたし十六なんだけど」
 子供扱いしないでよ、と口を尖らせたフレイにハリスとリュースが苦笑する。そんな仕草が子供っぽいのだし、ハリスから見ればフレイなどまだまだ子供なのだから。
《そういうところが可愛いと思っているのだがな?》
 けらけらと笑ってからハリスはシャディールの肩に飛び移った。
「師匠、そうやって人をからかうの、いい加減やめた方が良いぞ」
《何を言う。それが私の生き甲斐だというのに》
「他に生き甲斐ないのかよ。そんなことばかりやってるから、協会でもあることないこと言われてたんだぞ」
《言いたい者には言わせておけば良い。それに……そうだな、お前が立派に成長するのを見守るというのも、私の生き甲斐のひとつだな》
「…………………バカ師匠」
 言い合いながらハリスとシャディールが部屋を出て行くと、フレイとリュースは顔を見合わせて苦笑した。
「……じゃ、僕たちも戻ろうか」
「うん」
 小さく頷いてからフレイは隠し部屋を出、ふと思い出して口を開いた。
「そういえばさ、この建物の入口の扉に書かれてた文字、何て書いてるかリュース分かる?」
 シャディールですら読めなかった、紋様に取り巻かれて彫られている解読不可能な文字。
 フレイのその問いに、リュースは小さく頷いた。
「呪術文字にはまじないの意味を持つものが多いんだけど、あれは後世の僕たちに向けて刻まれた言葉なんだよ。誰が刻んだかは分かっていないんだけどね」
 そしてリュースは少し微笑んでから、扉に刻まれていた言葉を暗唱した。

  力を手にする者よ
  己の持つ力を 己自身を信じろ
  其は破滅をもたらすものに非ず
  平安へと導くための証なり

 その言葉にフレイが頷くと、リュースは溢れんばかりの笑顔で続けた。
「そして、最後に――『汝に平安を』! そのまま、君に贈るよ」
「ありがとう、リュース」
 微笑むと、シャディールの肩に乗ったハリスが振り返って言った。
《二人とも、そろそろ陽が昇るぞ》
 ゆっくりと朝陽が昇って来て、薄暗かった館内を照らし始める。
「……今日もいい天気だな」
 シャディールが大きく伸びをし、ハリスも同じように大きく羽を広げた。そして、フレイとリュースが顔を見合わせて微笑む。
『そうだね』



 暖かく柔らかな、陽の光。間もなく春が終わろうとするその淋しさを感じさせる風、そして漂う春の残り香。
 その風に、森の木々がさわさわと葉を揺らし、起き出した小鳥たちは毛繕いを始める。
 それはそんな気持ちの良い春の日の、出来事だった。


 The End.



《コメント》

はい、第1部最終話のお届けです。
途中やたらとシリアスになったりと紆余曲折はありましたが、皆様のお陰でフレイ第1部、無事に完結しました♪
まだまだ色々と謎は残ってますが、部を重ねるうちに解き明かしていきますので最後までお付き合い下さいませ。
一応、ちゃんと最後まで話は考えているんですけどね。(*^^*)
ちなみに、第2部は今回とは打って変わってライトな感じです。
そして、今回よりずっと話は短いですね。全部で2話か3話くらいになる予定。(あくまで、予定。)
また1人旅を始めたフレイが、とある村を訪れた時に……?? という内容です。
結構「お気楽冒険記」というタイトル通りな内容になると思います。
乞うご期待☆


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