この物語は、完売した「HACTION!3」掲載の「迷宮の幻影」の続編です。 「迷宮の幻影」を御存じでなくても問題なく読めますが、もしお手元に「HACTION!3」をお持ちの方は、そちらを先にお読み頂けると嬉しいです。(と、さりげに宣伝してみる・笑) |
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1 「早く! 早く逃げるんだ!」 遠くで誰かが叫んでいる。 その叫びは誰のものだっただろう……と、頭の何処かで冷静に考えている自分がいた。 しかし、爆音と悲鳴が響き渡る今の状況では、そのようなことに構っている余裕などない。 その人の言葉通り、逃げなくては。 逃げて、逃げて……総ては、それからだ。悲嘆に暮れるにしろ、詛いの言葉を吐くにしろ。 それは分かっている。 しかし、少女は燃え上がる炎の中の一点を凝視したまま、動くことが出来なかった。 少女の視線の先には、鼻孔をつく、肉の燃える嫌な匂いを放っている物体がある。 少女を生まれた時から守ってくれた、愛おしんでくれた、逞しい父の腕が……。 ドォ……ン! 真っ赤に燃え盛る柱が崩れ落ちてくる。しかし少女の足は、ぴくりとも動かない。 「マナ!」 声が聞こえた。すぐ近くから。そして少女が腕を掴まれ、強く引き寄せられる。 「マナ! おい、しっかりしろ!」 何度か頬を軽く叩かれ、少女――マナの瞳に僅かに光が射した。 「ラウル――」 正気に戻った途端、マナの目からぽろぽろと涙が溢れ出して止まらなくなる。 しかしその涙ですら、この熱気から彼女を癒してくれそうにはない。 「姉さまが連れて……いかれて……っ! 父さまが……父さまが目の前で――あの人たち、何で……何で……っ!!」 首から下げたロケットを強く握り締めた少女――マナが叫び、炎の中を振り返る。 要領を得ないマナの言葉にもラウルと呼ばれた青年は顔を顰めて頷き、彼女を抱き寄せた。 「さっき、兵たちが言ってた。ジルベックさまは王都に仇成す者だ、って――」 「!」 そんな馬鹿な。 そう言うのは簡単だ。しかし、マナの父・ジルベックが王都に睨まれていることは確か。 最近着任した若き新王は、自らの利益のことしか考えていない。そして新王は、他界した先王の信頼も篤く人民のために尽くす領主、ジルベックが邪魔だった。故に、王都に背いている、というのが言い掛かりに過ぎないのは間違いないが――しかし、一体何故このような事態が起きたのだろう。 「兵たちはジルベックさまが、領民から徴収した金を着服してる、って言ってた」 「! そんな馬鹿な!」 今度こそ、マナはその言葉を口に出した。それは絶対に有り得ない。 「父さまは、税を吊り上げろっていう王の命令は納得出来ないっておっしゃってたのよ!? 皆をこれ以上苦しめたくないって! だから税も今まで通りにして、増えた分を代わりに自分が……着服なんてするはずないわ!」 総ては領民のため。心優しき領主は、領民たちにも好かれていた。 それなのに――。 押し寄せてきた王国近衛隊の兵の手で、ジルベックは殺された。 娘を連れて逃げ出そうとした彼は、一人の兵士に背中を袈裟掛けに斬られ、倒れたその背に兵は更に剣を突き刺した。生き返るのを恐れるかのように、何度も何度も。 マナが悲鳴を上げて立ち竦むと兵は彼女を一瞥したが、彼女の逃げる意志が喪失しているのを見ると、再びジルベックへと視線を戻した。 既に事切れている彼の髪の毛を掴み、上に持ち上げ……そして、その首に剣を押し当てる。 「! やめて――」 その言葉は、本当に彼女の口から声として発せられただろうか。 しかし、例え発せられたとしても、兵の耳には届かなかっただろう。……届いても、恐らく無駄だっただろうが。 血飛沫が飛ぶ。 高く突き上げられた父の首。あまりの恐怖にマナが目を見開いて床に座り込むと、轟音がした。ジルベックの首を掲げた兵士の上に、真っ赤に燃え盛る柱が落ちたのだ。 そしてマナの目には、見慣れた父の腕が映っていた。 しかし、そうと自覚した途端、マナの視聴覚は阿鼻叫喚の中で機能しなくなった。 使用人たちが逃げ惑っている姿や、すぐ目の前で起こっている恐ろしい物事を、事実として認識出来ない。 これは夢。目覚めたら、いつものように両親と姉がマナに朝の挨拶をしてくれるだろう。 そう、いつものように――。 「マナ! マナ! 大丈夫か!?」 再びラウルに名を呼ばれ、マナは我に返った。 「お喋りは後にして逃げるぞ。知ってるだろ? 国王への反逆者ってのは、一家親族皆殺し――マナだって、見付かったら殺される」 「母さまは!?」 「タニアさまは向こうで……ユリアさまと一緒に亡くなってた。男たちに――」 言いかけ、その言葉を飲み込む。自分に縋り付くこの無垢な少女に、その事実は余りにも惨すぎる。 「……とにかく、この屋敷から逃げるんだ。俺の家にでも身を隠していれば、しばらくは見付からないだろうから」 そっと肩を抱かれ、マナはロケットを再び握ると小さく頷いた。 これは兵たちに連れていかれる直前、マナの姉・ユリアが握らせてくれたもの。このロケットが、姉の遺品になってしまった。 父も母も姉も、住む場所すら失った今、頼れるのはこの男――最愛の恋人・ラウルだけなのだと、マナはまだ定かではない意識の中で、そう思った。 マナはこの広大な農業地帯を治める領主、ジルベックの娘だった。 そして彼女の家系、アスラフィム家は古より『封印の鍵』なるものの守護を使命としていた。 しかし、口伝えでのみ継承されてきたその『封印の鍵』とやらの在処を、今では知る者が誰一人としていない。マナのみならず、アスラフィムの当主であるジルベックでさえも。 この領地の端にいつの時代からか建っている、無気味な塔の扉を開く鍵だとされてはいるが――。 そしてマナの恋人、ラウルは人物画を得意とする画家だった。 昨年、放浪の旅の末に行き倒れていた彼を介抱したのがマナだった。そしてラウルの描く美しい世界に彼女は魅せられた。 ラウルは才能は充分にあるのだが、貧乏であるためになかなか才能を世に知らしめることが出来ないでいる。 マナの頼みもあってジルベックが援助をしてはいるが、税の高騰の皺寄せを自らが引き受けている彼である。当然、充分な支援は出来ないでいた。 そんなある日、ラウルは仕事の件でジルベックの元を訪れ、遅くまで話し込んだため屋敷に泊まることになった。 そしてその夜、悪夢は起こった。頑丈に施錠されていた門が深夜の内に開けられ、雪崩れ込んできた兵士の非情な刃によって、屋敷の者たちが惨殺されたのだ――。 2 「ほら、少しでも食べなきゃ」 目の前に出された豆スープが温かい湯気を上げてマナの鼻孔をくすぐるが、一向にマナはスプーンに手を付けようとはしない。 「疲れてる時は、温かいものがいいんだよ。このままだとマナも倒れるぞ」 そう言ってから、ラウルは俯いているマナの髪を撫でると、彼女の頭にそっと頬を寄せた。 「でも、良かった。俺がお屋敷に泊まり込んでなかったら、今頃マナも……」 使用人の何人かは、ラウルの誘導のおかげで命拾いした。ラウルが休んでいた部屋が彼らの棟の近くだったからだが、もし彼の部屋がジルベックたちの部屋の近くだったら、状況は大きく変わっていただろう。 ジルベックたちが助かったかもしれない。或いは、誰一人として助からなかったかもしれない――。 「マナまでいなくなったら、俺は……俺は――」 唇を噛んでマナを抱く手に力を込めたラウルをマナが見上げ、そしてそっと彼の胸に額を押し当てる。 「ラウル……」 一つだけ……疑問に思うことがあった。 しかし大切な者たちが殺されてしまった今となっては、それはもう、どうでもいいことのように思える。 今は、ラウルが自分の傍にいてくれるのだから――。 「……どこにも行くなよ、マナ」 「うん。どこにも行かない。ラウルの傍にずっといる」 そっと口付けられ、抱き寄せられたマナが目を開くと、窓から自分の屋敷跡が遠く見えた。もうすっかり鎮火し、見るも無惨な姿を晒している。 「ラウル……私の家は……今、どうなってるの?」 悪夢の日から、半日が経っていた。村中が騒然とし、村人や兵士たちが朝から慌ただしく行き交っている。 「役人が差し押さえたみたいだ。……村の皆が泣いてたよ。ジルベックさまやタニアさま、ユリアさまだけでなく、マナまで死んだと思ってるから」 「……ありがとう……助けてくれて……」 その言葉にわずかに目を細めたラウルが、再び彼女を抱き寄せる。 「それで……マナ、聞きたいことがあるんだけど――」 ――ドンドン! ラウルが何かを言い出すより早く、彼の家の扉が叩かれた。 「……!」 マナがはっとして身構え、ラウルが彼女の肩に手を置いて口早に告げる。 「マナ、食器を持って奥の部屋に隠れるんだ。……大丈夫、兵士だとしても、ちゃんと追い返してみせるから。だから、何があっても絶対出て来ちゃ駄目だよ」 「ラウル――」 マナは心配げにラウルを見上げたが、彼が小さく頷いてみせたので頷き返し、スープ皿を持つと奥の部屋へと駆けていった。そしてラウルが、彼女の姿が消えるのを見届けてからゆったりとした足取りで戸口の方へ歩み寄る。 「遅いぞ! 何をしていた!」 案の定、ラウルが扉を開くとそこには重い鎧を身に纏った兵士が二人立っていた。 マナはラウルの身が心配になり、扉を薄く開けて外の様子を窺った――ラウルは欠伸などしてみせている。 「すみません、眠っていたもので」 「こんな明るい内からか? 気楽なもんだな」皮肉げに言い放ち、兵士が中の様子を窺う。 「徹夜をしたもので。御存じでしょう、私が画家をしているのは。急いで仕上げなきゃいけない仕事が入ったんですよ」 「ほぅ。売れない画家のお前にも仕事の依頼が来る事などあるのか。とんだ間抜けな依頼主もあったもんだな」 「依頼主が間抜けだろうが賢かろうが、そんなの私には関係ありませんよ。仕事さえ貰えれば食っていけるんですから」 「ふん、お前が成功しようが餓死しようが、それこそ俺には関係ない。……それで、絵は完成したのか?」 「完成しなきゃのんびり寝てなんていられませんよ。もういいでしょう、そろそろお引き取り願えませんか? 絵を持って、正午にはここを出ないといけないんですから」 「……正午か」兵士は薄く笑った。「その時には、その馬鹿な依頼主も大金をどぶに捨てるという訳だな」 「とんでもない。私は期待以上の仕事をする事で知られているんですよ。依頼主もお喜びになられるはずです」 「ふん、口の減らない野郎だ。――だが」 中の様子をそれまでずっと伺っていた兵士が、鋭い視線をラウルに向ける。 気の弱い者なら竦み上がってしまうであろうその表情を見ても、しかしラウルは臆さなかった。戸口に立ち塞がって兵士の侵入を防いだまま、視線を逸らして頭を掻いている。 「ラウル、お前、昨夜の火災に気付いていないはずはなかろう? 村中の者が知っているのだからな。領主に世話になっていた上に娘のマナと恋仲だったお前が、昨日の今日で平然と絵など描いていられるものか? 何か企んでいるのではあるまいな?」 「…――」 途端、ラウルが表情を強張らせ、頭を掻く手を止める。 「おや、図星か?」 兵士がラウルの表情を見て口の端を上げると、彼は拳を握り締めた。歯を食いしばり、兵士を睨み付ける。 「ああ、こんなときに呑気に絵なんか描いていられる訳ないだろ! 本当ならお前たちのところに殴り込みしてやりたいくらいだ! 俺の大切なマナたちを、よくも……!!」 「殴り込み? ハッ、笑わせるな! 絵を描くことしか出来ないお前に一体何が出来る? すぐに捕まって首を刎ねられるのが関の山だ」 「っ……このっ!!」 顔を真っ赤にして怒ったラウルが兵士に掴み掛かったが、体格にも腕力にも差があり過ぎる。簡単に突き飛ばされ、床に倒れ込んだ。 それを見たマナが思わず奥の部屋から飛び出そうとしたが、必死に顔を上げたラウルの視線に制止され、踏み止まる。 ここで自分が姿を見せれば、彼女を匿ったとしてラウルまで殺されかねない。マナは震える身体を抱き締め、その場に蹲った。 (ラウル……ラウル……!!) 彼がもし殺されたら、自分はもう生きてはいけない――死の恐怖に対面してそれを痛感したマナは思わず指を組み、神に祈っていた。 (神様、ラウルを助けて……!!) 必死に祈っているマナの前では、ラウルが兵士に再度掴み掛かり、呆気なく突き飛ばされていた。 「くそ……っ!」 唇を噛んで起き上がったラウルが切れた口の血を袖で拭うと、それを見た兵士が鼻で笑う。 「いい加減、自分の無力さが分かったか? お前たち平民はおとなしく国王に従っていればいいんだよ。刃向かおうとするなんて馬鹿な真似、しない方が身のためだ」 「……っ!」 ラウルが睨み付けたが、兵士には痛くも痒くもないらしい。小馬鹿にした表情で彼を見下ろしている。 「我らに刃向かう元気があるようなら、いつでも相手になってやるぞ。命が惜しくないならな」 最後に高笑いをしてから、兵士は扉を閉めると立ち去っていった。 「ラウルっ!」 扉が閉まると同時に、マナが奥から飛び出し、ラウルに駆け寄る。 「ラウル! ラウル、大丈夫!? ごめんね、ごめんね……!!」 「大丈夫だ」 擦りむいた頬をさすってからラウルは小さく笑ってみせ、軽くマナの額に口付けた。 「ほら、もう泣くな。俺はこうやってちゃんと生きてるんだから。……な?」 「……うん」 「ほんと、マナは泣き虫だよなぁ」 茶化すようにそう言ってからラウルが軽くマナの額をつつくと、涙を拭った彼女がぷぅっと頬を膨らませる。 「ラウルのせいなんだよ!!」 彼と出会ってから今まで、マナは幾度も涙を流した。彼を愛しているからこそ。 「ごめんごめん。……ほら、これを見て機嫌直してくれよ」 そう言うと、ラウルは部屋の端に立て掛けていたキャンバスを振り返った。立ち上がって歩み寄り、キャンバスに掛けていた布を剥ぎ取る。 「こないだ依頼されたんだ。なかなかの出来だろ?」 白い画布の中には、鬱蒼と茂った森の中、一人の少女が犬と戯れている絵が鮮やかに描かれてあった。 輝くような躍動感。 弾んだ笑い声が聞こえてきそうなその表情は生き生きとしていて、絵を驚きの目で眺めている彼女とは、全くの別人だった。 「これ……私……なの?」 マナの問いに、ラウルはああ、と小さく頷いた。 「こないだジルベックさまに依頼されたんだ。マナに秘密で絵を描いてほしい、って。期限は、今日の昼。だって今日は、マナの誕生日だろ?」 「……あ」 恐ろしいことばかりが続いていたので、すっかり忘れてしまっていた。 しかし、思い出すと同時に、優しかった父の笑顔が脳裏に蘇り、涙が溢れる。 「父さま……」 マナが涙を拭うと、ラウルは彼女の肩を軽く叩いてから、気を取り直すように明るい声を上げ、絵のある一点を指差した。 「マナ、これ知ってるか?」 彼が指差した箇所には、森の木立の合間からわずかに覗いている古めかしい塔があった。 「私の家が守護してるっていう塔? ……でも私、何も知らないわ。行ったこともないし…遠くから見たことがあるだけなの」 彼女の言葉にラウルは苦笑した。 「おいおい、守護者の一族がそんな事でどうするんだよ。――前にユリアさまから聞いたんだけど、この塔には何でも望みが叶う宝が眠ってるらしいよ」 「何でも望みが叶う宝?」 きょとんとしてマナが小首を傾げると、ラウルは小さく頷いた。 「ああ。何でもユリアさま、子供の頃におばあさまに連れられて塔の前まで行って、そこで話を聞いたらしいんだ。そのとき、おばあさまに何を望むかって聞かれて『お菓子のお城!』って答えたんだって」 「お菓子の……お城? 姉さまが?」 「ああ。あんなに聡明な人でも、やっぱり子供の頃は皆と変わらなかったんだなぁって、ちょっと嬉しかったな。ユリアさまもその話を、苦笑しながら聞かせてくれたっけ」 「へぇ……――」 頷いてから、ふとマナはとりとめもないことを思いついて口を噤んだ。その表情を見てラウルが苦笑する。 「何、ヤキモチ?」 「ちっ……違うもん!」 慌てて否定したが、次第に赤くなる頬はラウルの言葉が正しいことを証明している。 マナは照れ隠しに頬を膨らませてみせたが、そのときあることを思いついて「あ」と声をあげた。 塔の宝が何でも望みを叶えてくれるのならば、自分の家族を生き返らせてはくれないだろうか、と。 (でも、もしそうだったら父さまたちが……) 家族が生き返るかもしれないのならば、塔に行ってみたい。また家族の笑顔を見たい。 「今マナが考えてる事、当ててやろうか?」小さく笑い、ラウルがマナの額をつつく。 「塔に行けば、ジルベックさまたちを生き返らせてもらえるんじゃないか……だろ?」 そしてラウルはマナがコクリと頷くのを認めると小さく笑ってみせた。 「俺もユリアさまから話を聞いて興味が湧いてね、近くまで寄ってみたことがあるんだ。だけど――」 「だけど?」 沈んだ表情を見せたラウルに怪訝そうにマナが尋ねると、彼は言い渋っていたがやがて口を開いた。 「……あそこには、絶対魔物か何かがいるよ。禍々しい気配ってのが感じられたから。とても中に入れるか試す勇気は湧かなかったんだ」 恐ろしい魔物がいるから『封印の鍵』が必要なのか――ぼんやりとそう考え、マナはロケットを握り締めた。 そのような恐ろしい塔の鍵、一体どこにあるのだろうか。 それに、もし塔の中に魔物がいて、鍵を開けることで外界にそれらが出てしまえば、大変なことになってしまう。自分のみならず、村人や、ラウルまでも――。 ラウルは俯いたマナの肩にそっと手を乗せると、顔を上げたマナに優しく微笑んだ。 「中に入るかどうかはともかく、遠くから眺めるだけなら危険もないし、見に行こうか? ……まぁ、鍵が掛かってるから入ることは出来ないだろうけど」 「……うん」 コクリとマナが頷くと、ラウルが目を細めてから言葉を続ける。 「塔に行ったら、そのまま村には戻らないから。マナもそのつもりでね」 「え? でも……」 「この村にはもういられないし、どこか他所の土地に行って、二人で暮らそう。貧乏画家だから、しばらくは苦労を掛けると思うけど――」 言ってからラウルは真顔になると、マナの手を取りその甲にそっと口付けた。 「結婚しよう、マナ」 「! ラウル――」マナの目に涙が溢れ、彼女はラウルに抱き付いた。 「ありがとう! ラウル大好き……!!」 そんなマナを優しく抱き締めていたラウルが、しばらくしてふっと表情を曇らせる。 「ただひとつ心配なのが――」 彼は窓から見える屋敷跡に視線を向けると言葉を続けた。 「マナは塔のこと、ジルベックさまから何か聞いてないか? もし塔の守護者であるアスラフィムの人間がこの土地を離れちゃいけない、とかいう呪いが掛けられてたら、マナを連れて村から出られないし」 「……」マナがゆっくりと首を振る。 「私の家系が『封印の鍵』を持って塔を守護する一族だったことは知ってるけど……でもその『鍵』が一体何なのか、どうして塔を守護しなくちゃいけないのかは知らないわ。父さまも御存じなかったようだし」 言い、ロケットを握り締めたマナ。ラウルはそこでようやくロケットの存在に気付いてそれを覗き込んだ。 「それは、ユリアさまの?」 「あ……うん。姉さまがおばあさまから貰った、大切なものなの。金具が壊れていて、蓋が開かないんだけど」 「もしかして、それが『封印の鍵』じゃないか?」 ラウルがロケットを覗き込んだままそう尋ねると、マナは少し考えてから首を振った。 「分からない。でも、ロケットが鍵だなんて……」 「そうだよな。それがもし鍵だとしたら、アスラフィムの血を継いでいないマナの母上……タニアさまはともかく、正当な当主であるジルベックさまに渡さず、ユリアさまに渡すだなんて妙だしな。だけど、もし」 ラウルはそこで言葉を切ると、不安げに瞳を揺らしているマナから視線を逸らした。 「もし、それが『封印の鍵』だとしたら、今はマナがその継承者ってことになるな」 「……何だか怖い」 おぞましい何かに襲われそうな気がして、マナが身を震わせる。 「俺が預かっていようか?」 ラウルが言って手を伸ばしたが、マナは少し考えてからぎゅっとロケットを握り締め、首を振った。 「ううん、いい。私が持ってる。これが『封印の鍵』かどうか分からないし、大好きな姉さまの形見だもの。……ごめんね、ありがとう」 マナのその言葉を聞いたラウルが目を細めてゆっくり首を振る。 「そうだよな、ユリアさまが大事にしてたものだから、マナが持ってなきゃな。――大丈夫、何かあれば俺が守ってやるから」 「ありがとう、ラウル」 ラウルはマナに微笑んでから、柱時計に視線を転じた。 「とにかく、早く支度をしてここを出よう。また兵士が来たら厄介だ」 「! あ、うん」慌てて答え、マナは踵を返すと足早に奥へと駆けていった。 「………………鍵の継承者、か」 小さく呟いたラウルの視線は、自分が描いた画布の方へと注がれていた。 |