「あ……明日香?」
俺は夫人の言葉に思わず耳を疑っていた。
「な……に言ってんだ。俺の名前は――」
言いかけた俺を遮るように、夫人が両方の口の端をにっと上げて笑う。
「あなたの前の名前なんてどうでもいいの。あなたは今から大野明日香なんだから」
微笑んだまま、俺の髪をそっと撫でた。
明日香だって? 大野明日香……あれ? その名前、確か以前どこかで――。
俺は思い出そうとして頭を押さえた。混乱している思考を一点に集中させる。
確かあれは――そう、5年前だ。
「確か明日香ってあんたの娘だったよな!? 5年前に火事で――」
5年前の夏、大野博士の別荘が原因不明の火事に遭った。その時、15歳だった一人娘・明日香が死んだ。
大野博士が留守にしていた間の出来事だった。別荘は全焼、娘は焼死、夫人も重体で入院したと聞く。
俺は生前の明日香に何度か会ったことがある。明るくてかわいい子だったっけ。
長い艶やかな黒髪に、整った目鼻立ちで――。
そこまで考えた時、背筋をぞくっとする感覚が走り抜けた。慌てて姿見に視線を向ける。
長い艶やかな黒髪に、整った目鼻立ち。見覚えのある面影を宿したこの姿は――大野明日香じゃないか!
「会いたかったわ、明日香」
夫人が俺を抱き寄せる。でも、あまりのことに俺の思考回路はまた混乱していた。
死んだ我が子を蘇らせる。話の中ではよくある奴だ。だが、何でそこで俺が関わらなきゃいけないんだ?
俺のその疑問は顔に出ていたんだろう。夫人がまた笑みを浮かべた。
「明日香の身体はもう灰になってしまったの。何もない状態から人間を蘇らせるなんて、大野にもできないわ。だから私、考えたのよ。明日香の細胞と、別の人間の身体を使えばいいんだってね」
そんな無茶な。大体、そんなことができるのか?
「今まで何人かに試したけど、みんな拒否反応を起こしてしまったの。どうしてかしらね、明日香はこんなにかわいいのに」
言いながら、夫人が俺の肌に指を滑らせる。
その時、俺の脳裏をここ最近の新聞記事が掠めた。
【20歳女子大生 奇妙な死!】【23歳男性 謎の死を遂げる】【またもや被害が!? 16歳女子高生死亡!】
拒否反応――そういうことなのか!?
「もう離さないわ、私の明日香」
微笑み、夫人がまた俺に唇を寄せた。
狂ってる。
さっきまではその指に甘美な感覚を覚えていたというのに、今の俺に感じられるのは嫌悪だけ。吐きそうになるのを堪えるのに必死だった。
夫人を突き飛ばし、脱ぎ捨てた服を慌ててかき寄せ、胸の前で抱え込む。
「そんな……まさかあんた、娘を生き返らせるためだけに今まで何件もの人殺しを!?」
「人殺し?」
言うと、夫人はにやりと笑った。
「じゃああなたは、私のこの手が血で汚れてるとでも言いたいのかしら?」
「……」
その問いに対する答えは、『No』だ。
だって、彼女は直接彼らを殺したわけじゃないんだから。あの箱が――。
――そこで俺はふと気付いた。
そうだ、あの箱は一体何なんだ!? 何かが入っていたわけでもないのに、どうして俺が明日香になる?
混乱したまま、部屋の隅に転がっている箱に俺が目をやっていると。
ピンポーン
突然、玄関のチャイムが鳴った。そして、扉越しに俺の名を呼ぶ声。
友達が来たんだ。
でも、この状況であいつと会うわけにはいかない。まだ、俺が独り遊びに興じていた時の方が良かった。
「あら……お友達?」
夫人が玄関の方に目をやり――そして、青ざめている俺の方に視線を向ける。
「あなたのお友達なら、歓迎しなくちゃいけないわね」
その瞳に浮かぶ物騒な光を見た俺は、凍り付いたように動けなくなった。
こいつ……一体何をする気なんだ?
危険信号が頭の中で激しく点灯する。
やめろ、あいつに手を出すな――そう言おうとしているのに、俺の口はぱくぱくと動くだけで声を紡ぐことができない。
そして夫人は床に落としていた疑似皮膚を拾い上げると、またあの笑みを浮かべて言った。
「ちょうど良かったわ。……ね、明日香?」
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