タラタッタラタッ…
遠くでブラスの演奏が聞こえる…。
朦朧としてきた意識を慌てて引き戻し、流れてきた汗を拭う。
ヒュッと軽く息をつき、俺はニヤリ…と笑った。
「ふっふっふっ…。打てるもんなら…」
俺は不敵な笑みを浮かべながら、振りかぶった。
「打ってみやがれっっ」
カキーンッッ
「だあっっ」
俺は驚愕の顔で跳ね起きた。しっとりと寝汗をかいている。
「ゆ…夢か」
ぜえぜえと荒い息の中でつぶやいた。
否、夢ではなかった。
九回の裏、ツーアウト、ランナ−一塁。誰もが勝ったと思ったその瞬間、俺の放ったストレートは金属音と共にフェンスを越えた。
2−1。
逆転さよならツーランホームランだった。
そして、俺達の夏は終わった。
くっそおお。あそこでストレートなんか投げんじゃなかったーっっ。
俺は思いきり壁に枕を投げ付けた。
時は秋。俺は沈痛な面持ちで学校へと向かっている。嗚呼、太陽がまぶしいぜ。ふっ(←テノール)。
「おはよっ」
「よ」
「なんだよ、お前。元気ないなあ」
キャッチャーの、為撞和尚が肩を叩く。こいつと俺、安藤近衛がバッテリーを組んでもう六年になる。余談ではあるが、こいつはその名の通り(?)寺の息子で、あだ名は勿論“おしょう”である(笑)。
「…そりゃあ元気もなくなるわ」
最近の俺はとてもブルーなのだ。
「…腹でもこわしてんのか?」
「だああああああっっっ、何っっっでそうなるんだよってめぇにゃあ、デリカシーって言葉はないのかっ」
絶叫。かたや和尚は、そんな俺を面白そうにながめている。
「何だよ、もしかしてお前まだあの時のこと気にしているのか?」
「悪いかよ」
俺のブルーな原因をわかっていてとぼけていたのか、この男はっ。
俺は和尚を睨んでみせた。
「…んな怖い顔すんなって。せっかくの美人が台無しだぜ」
そおかそおか。あくまでもすっとぼけるつもりなんだな、この男はっ。
「お前は悔しくないのかよ」
「べつに」
…おいっ。おいおいおいおい。
全国高校野球選手権大会予選の決勝、しかも九分九厘勝っていたのをたった一球、しかも俺のあのストレートのせいで負けたというのに悔しくないと言うのだなっこ、の、男、はっっ。
俺は腹を立てるという行為がこれ程虚しいものだということを、この時はじめて知った。
嗚呼、諸行無常っ(←間違い)。
「あのな、近衛。過ぎてしまったことをいつまでもぐちぐちと言っていてはいけないよ。後悔というのは非生産的な行為であって、無駄にエネルギーを消費するだけさ。それよりも、その有り余った怒りのエネルギーをだね、世の為人の為それから忘れてはいけない自分の為に役立ててみちゃあどうかね。勿体無いじゃないか」
「――――――――――――――――――――和尚」
俺は脱力してしまった。
「体育会系のくせしてよく喋る男だよな。長々と人を説得してんじゃねえよ。変な気持ちになってくるじゃねえかっ」
俺がストップをかけなかったら、一体いつまで喋り続けたのだろうか。
「あのな、和尚。俺はボランティアには興味ないし、もう練習する必要もないだろう。俺達の夏は終わったんだから…」
夏は終わった。その言葉を口にする度、自分自身が傷ついていくのを感じる。和尚は…こんな気持ちになることはないのだろうか。
和尚はふっと息をつき、微かに微笑んだ。
「あのな、近衛。そのことなんだけれど…」
え?
「あーんーどー」
その時、俺達の背後から声が聞こえた。
こ、この声はっっ。
「悪い、和尚。その話は後だっ。逃げるぞ」
俺は和尚の袖を掴み、声のする方を振り返らないようにしながら、走りだした。
「え? 何で逃げるんだよ安藤」
声の主はなおも俺を追い掛けてくる。
だ―――――――――――っっっっ。来るんじゃねぇっ。
「あれ、北涼高校の里井じゃねえ?」
和尚は立ち止まり、しげしげと相手の姿を眺めている。
立ち止まってんじゃねぇよっ、おしょ―――――――――――(絶叫)。
「何で逃げるんだよ、安藤。ちくしょ、息きれちまった」
里井ぃぃぃぃ。てめぇ、体なまってんな。
「久しぶり、里井。ええっと…予選大会以来だねぇ」
「おお、その声は為撞君」
二人は握手をはじめた。
おいおい、ちょっと待てッッ。
里井篤志。北涼高校三年、野球部の主将、脅威の四割バッター。
言いたくないが、俺達桝矢第一高校を予選で破り、甲子園に出場したにっっっくき敵。んでもって、俺のストレートを場外にたたき込んだのもこいつだっこいつだっ、も一つおまけにこーいーつーだ――――――――――っっ!
っって、おいっっ!!
「おしょおおおおっ、てめーにゃあプライドもねえのかあっっ」
自分を負かしたチームの奴と仲良くするあほうがどこにいるっっ。
「何言ってるんだ近衛。あれはあれ、それはそれじゃないか。里井のバッティングはそれはもう素晴らしかった」
和尚はうっとりと里井を眺めている。
「甲子園の時の活躍も、俺はテレビでばっちり見ていたぞ。チームは惜しくもベスト8であったが、里井はあの甲子園でホームランを五本も打っているのだぞ。五本もっ」
うっ…。
そりゃあ、確かに里井の甲子園での噂は聞いていたけれどもなあっ、俺はあの時のショックからまだ立ち直ってねぇんだよおっ。
それでも俺のダチなのかっ。
ダチの悩みの種、いわば諸悪の根源である奴と和やかに会話するあほうがどこにいるっ。
「何を言う、為撞。安藤のあの百四十キロのストレート。あれ程素晴らしいものは二つとないぞ。俺はあのストレートに惚れているのだ」
今度は里井がうっとりと俺を眺めた。
そうなのだ。あの予選大会以来、何を血迷ったのかこの男、『俺はあんなに速い球ははじめて見た。お前のあの球に惚れた』と言って、俺の後を追い回しているのである。
どこの世の中にこんな馬鹿な話があるっっ。
「…俺のそのストレートを打ち返したのは一体どこのどいつだよ」
もしかしなくても、馬鹿にされてんのか、俺は?
「俺だ」
里井はさらりと言ってのけた。うん、やっぱり馬鹿にされているぞっ俺はっっ。
「…てめえ。打てなかったらまだしも、場外ホームランを打ってのけた張本人が何言ってやがる!」
俺の黄金の右手は怒りの為に震えていた。
「安藤。そんなことは今はどうでもいいんだ」
そ・ん・な・こ・とだあ〜?
てめえにとっちゃあそんなことだろうがなあ、俺はそのせいで飯も喉を通らない程ブルーな気分にっ…って里井、なぜそこで俺の手を取るぅっっ?
里井はいきなり真面目な顔をして、俺の手を掴むという行動に出たのであった。
いっ、いきなり何するだっこの男はっっ。
「俺と一緒に…野球をやらないか?」
「あ?」
―――――――――――ナンダッテ?
俺はポカンッと口を開けて、里井の顔を見返した。
「だーかーらー、俺と一緒に野球をやらないか?」
『オレトイッショニヤキュウヲヤラナイカ?』
…え?
ちょっと待て…ヤルって何を…え? 野球っ?
え? え? えええええええええええっ?
―――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――放心状態。
あの後、俺は里井をほったらかしにしたまま、ふらふらと学校に向かっていた。
そして、ここは放課後の屋上。俺の放心状態はなおも続いている。
えっと…。朝のアレは何だったんだ…?
俺の頭に里井の姿が浮かぶ。その里井は、まるでトーキーの映画のようにパクパクと口を動かすだけで、声は聞こえてこない。
やべ…まだ放心しているみたい、俺…。
…何? 何て言ってたっけ…あいつ?
『俺と…』
オレト…?
『俺と一緒に…野球をやらないか?』
突然、里井の台詞が、あいつの真剣な眼差しと共によみがえった。
「何考えてるんだよお…」
放心の次は錯乱である。
里井曰く…
『俺には大学やプロからスカウトが来ている。俺自身としては…大学に行きたいと考えている。だから、俺と一緒に大学で野球をやらないか?』
何で、俺なんだ?甲子園には俺よりも速い球を投げる奴がたくさんいただろうに…。
俺のこの質問にもあいつは
『確かに。お前よりも速い奴は何人もいた。だけど、お前のような闘志は誰からも感じられなかった。あの時みたいな興奮は味わえなかったんだ。自分の力にもっと自信を持てよ』
そう言っていた。
誰がその自信を崩したと思っているんだ、誰がっ。
自慢じゃないが、俺は自分の腕に絶大なる自信を持っているんだっ。幼い頃から少年野球でぶいぶい言わせてきた俺だ。将来はプロ野球のマウンドに、エースナンバーをつけて立っている予定だったのだ。
だから、そのためにも甲子園に行くのは俺でなくてはならなかった。甲子園に行くのは俺だったんだ。
悔しくて涙がにじんできた。
何だって俺をこんな気持ちにさせるんだ、あの馬鹿は…。
キーッ
「近衛?」
扉を開ける音と共に、和尚が屋上に出てきた。
「……っ」
俺は慌てて涙をぬぐった。
「何?」
振り返った俺は和尚の真剣な眼差しとぶつかった。
「行くのか里井と」
え?
「な、何言って…」
「行くのか」
和尚のあまりの剣幕に俺はびっくりしてしまった。
和尚は、俺が里井と一緒に野球をやると思っているのだろうか。だとしたらそれは勘違いもいいところだ。
「行かねーよ」
「そうか」
俺がそう言うと、和尚はほっとしたように息を一つついた。
「?」
そういえば…どうして和尚がほっとしなきゃなんねーんだ?
「和尚? どうしてお前がほっとするんだ?」
俺は、和尚が一瞬びくっとしたのを見逃さなかった。
「和尚?」
和尚はしばらく黙っていたが、観念したように喋り出した。
「俺は…」
「俺は?」
和尚は一体、俺に何を告げようとしているのだろう…。
続
《コメント》
皆さんは何かに夢中になったことがありますか。誰にも、何か一つはこれがなくては駄目なんだという物があると思います。それが私にとっての創作活動であり、近衛にとっての野球である訳です。
この作品は「夏が終わった後の少年達」という、少し違った視点で描いています。
私自身、気に入っている作品の一つではありますが、あまりにもギャグに走ってしまったようです。
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