夏の日差しがジリジリと俺の体を焼き付ける。
 しかし、その暑さを意識していないかのように、俺、安藤近衛は、親友、為撞和尚を見つめ続けた。
 和尚は「俺は…」と言ったきり、また黙り込んでしまった。よほど言いにくいことを言おうとしているのか?
「和尚。言いにくいことだったら、無理に言わなくていいぜ…」
「近衛」
「!」
 それまで黙っていた和尚は、突然俺の両肩を掴んだ。
「和尚?」
 和尚は、俺より少し背が高いので、俺が見上げる格好になった。見上げた俺と、俺を見る和尚の目が合った。
 違う…。いつもの和尚とは、何か雰囲気が違う。
 一体どうしたっていうんだ?
「俺は、俺だって…お前と…」
「お、俺と?」
 俺と何だ? 早く続きを言ってくれ。
「俺もお前と一緒に、神宮球場に行きたいと思っているんだ…」
 はあ〜? 神宮?
 何でまたいきなり神宮球場が話題にならなきゃならないんだ?
「悪い、和尚。俺は今、ヤクルトを応援する気分じゃないんだ」
 ――神宮球場はヤクルト・スワローズの本拠地だった。
 今の俺には、それがドームだろうとヨコスタだろうと同じなのだった。いや、それどころかもう野球すらどうでもいいような心境だった。
「…そういうふうにとったか」
 俺が答えた途端、和尚は力なく呟いた。と、いうより脱力したというような感じだった。
 え? そういう意味じゃなかったのか?
「さっき言ったこと、忘れてくれ近衛」
 そう言うと和尚は、俺の肩から手を放し、いつもの温和な瞳で微笑んだ。
「和尚?」
 和尚はさっさと屋上から消えてしまった。
 何だったんだ? 一人で納得しないでくれ!
 一人屋上にとり残された俺は、しばらくの間茫然としていた。


『俺もお前と一緒に、神宮球場に行きたいと思っているんだ…』
 うーうーうーうー…。
『さっき言ったこと、忘れてくれ近衛』
 むーむーむーむー…。
「はあ…」
 俺はごろごろとベッドの上を転がった。
「気になるじゃないかっ」
 そうなのだ。俺はあの日のことが気になって、ここ何日もまともに寝ていない。
 それなのに和尚はといえば、何事もなかったかのように俺に接する。俺が聞いても、すっとぼけてばかりで相手にならない。
 キーワードは“神宮球場”なのだ。あの時、俺はてっきりヤクルトの試合を見にいくものだとばかり思っていた。
「神宮球場…」
 俺はぶつぶつと呟いてみた。
 あれ…。今何かひっかかったぞ。神宮球場で何かあったような気がする。
 ?????
 そして、俺はこの日も睡眠不足となったのであった。


「安藤、この間の件考えてくれたか?」
「は?」
 突然の里井の出現に、間抜けな返事をしてしまった。
 ――この間の件って何だ?
 里井には悪いが、俺はすっかり忘れていた。
「ひっでぇなあ、忘れてしまったのか?」
 俺はそれどころじゃなかったんだよ。
 それにしても。何でこいつはこうも俺につきまとうのだろう。お前の通学路は正反対じゃないかっ。いくら今が放課後とはいえ、こいつがこんな時間にこんな所にいていい訳がない。
「お前、ちゃんと学校に行ってるか?」
 俺はちょっと聞いてみた。
「何だそりゃ。お前こそ人の話をちゃんと聞いているのか?」
 むっ。聞いてるさっ。ええっと…この間の件だろう?
『俺と一緒に…野球をやらないか?』
「――あ」
 突然思い出した。
 そうだ。こいつは俺に、一緒に野球をやるように言っていたんだった。
 野球か…。
 予選決勝の日以来、俺は野球部に顔すら出していなかった。行かなくなってもう一ヶ月が過ぎようとしていた。どうせ三年は引退するだけだったから、早めの引退だと思って気にも留めていなかった。
「何か…もうどうでもいいよ。お前一人でやってくれよ」
 俺は力なく里井に答えた。
 正直言って、今の俺は野球を続けていく気は薄れていた。
 あの日、俺は今まで一人で野球をやっていたことに気がついた。『お前がいなかったら、俺達はここまでこれなかった』と言って、誰も俺を責めなかったけれど…俺にはその事が余計につらかった。『お前のせいだ』って責めてくれた方がいくらかましだった。
 だって俺は、チームのことなんか今まで一度だって考えなかったんだから。
「お前はそれでいいのか」
 里井の声のトーンが変わった。
「お前がいいって言うんだったら、俺は止めない。だけどお前は野球を捨てることはできないよ」
「野球を捨てることはできない…?」
 野球をしない俺の姿なんて、想像したこともなかった。
 口では“どうでもいい”と言いながら、俺にそんなことができるはずもなかった。
 だけど…。
「だけど俺は…俺は」
「安藤」
 そう言うと里井は、俺の右手をとった。
「あの日のお前、すごかったんだぜ」
「里…井……?」
「この右手で投げていたんだよなあ」
 俺は、まめだらけの右手を見られるのが嫌で、里井から自分の手を奪い返した。
 里井はそんな俺に微笑み、今度は強く俺の手を握った。
「一緒に神宮行こうぜ、近衛」
「て、てめぇっ、馴れ馴れしいぞ。誰がお前と神宮に行くもんかっ!」
 どうして俺が、お前と一緒に神宮球場に行かなくちゃならないんだ。…え?神宮?
「さ、里井っ。今の、もう一回言ってくれっ」
 今度は俺が里井の手をとった。
「おおっ、近衛っ。遂に俺と一緒にやってくれる気になったんだなっっ」
 だ〜か〜ら〜っ馴れ馴れしいってばよおっ。
 取り敢えず俺は里井を張り倒した。
「ふふふっ照れ屋さんだなあ、安藤は」
 鼻血を垂らしながら言うなよ…変態みたいだぜ…。
「んなことはどうでもいいんだよっ。お前さっき神宮って言ったよな?」
「ああ、言ったさ。何回だって言うぞ。俺と一緒に神宮に行こう、近衛っっ」
「それってさ、ヤクルトの試合観にいこうって意味じゃあないよな…?」
 俺がそう言うと、里井はこの間の和尚のように脱力した。
「お前なぁ…、まさか知らないとは言わせないぞ」
「何だよ、何がだよ」
 何なんだよこいつも和尚も、自分達だけ分かったような顔しやがって。
 里井は俺を見つめてため息を一つついた。
「冗談だろ…おい安藤っ、お前大学野球がどこでやっているか言ってみな」
 大学野球…?
 あ、あ――っっ。
「そうか!」
 そういう意味だったのか!
 大学野球は神宮球場で行われていたんだった。
「さんきゅ、里井!」
「は? あっ、ちょっと待て安藤。まだ話は終わっていないぞ」
 俺は、学校に引き返すべく走り出した。
 今ならまだ和尚も学校にいるはずだ。


「和尚!」
 俺は力任せに教室の戸を開けた。
「…な、びっくりさせんなよ、近衛」
 そこには和尚の姿はなかった。
「何? 近衛、和尚探してんのか?」
 教室には、湖等が一人で座って本を読んでいた。
 湖等も野球部員で、ポジションはショートだった。
 そういえばこいつとも、あの日以来まともに話していなかったことを思い出した。
「ああ、うん…」
 俺は何だか話しづらくて、曖昧に答えた。
「どーしたんだよ、元気ないじゃん」
 湖等は不思議そうに俺を見た。
「そんなこともないけど…」
 普段どおりの湖等の口調に、俺は少しほっとした。
「よーし、分かった。近衛君、君を元気にしてあげよう。まあまあ、もう少し近う寄り給え」
 湖等はこいこいと俺に手招きした。
「?」
 俺は湖等に言われるまま、近う寄った。
「なっ!」
 何じゃこりゃっ!
「どうだい近衛君」
「こっ湖等、お前こんなもん見てたのか」
 俺はおもいっきり脱力した。湖等が見ていたのは裸のお姉さんが載っている本であった。
「え、近衛興味ないのか? まっまさかお前、兄貴の方がいいなんて言うんじゃあ…」
 俺は後退りする湖等に、取り敢えずジャブをお見舞いした。
「馬鹿野郎。俺だって興味ぐらいあるっ! TPOを考えろって言ってんだよ」
「いてーなあ…。かわいい顔してやることきついんだからなぁ、お前」
「だーれーがーかわいい顔だって?」
 俺はちょっとすごんでみせた。
 だけど本当は、これが湖等流の優しさだっていうことはよく分かっていた。
 俺はくすぐったいような気がしてくすくすと笑い出した。湖等もそんな俺を見て笑い出した。俺達はしばらくの間笑い続けた。
「んで、これお前の本?」
「いいや、牧田の本。ここに置いてあった」
 そう言われてみれば、湖等は牧田の席に座っていた。
 牧田はラグビ−部の主将であった。
 うちは男子校なので、こういうことが堂々とできるのである。こういう所を見ると、運動部が硬派だっていうのは嘘だよなぁってつくづく思うぜ。
 まあ、俺も人のことは言えないけれども。
「しっかし、あいつも余裕だよなぁ。こんなことしていて本当に大学に受かるのかねえ」
「何? あいつ大学受けるの?」
「ラグビ−続けるんだろう。花園めざしていたくらいだしなあ」
「へえ…面白い名前の学校だな」
 ガターンッッと派手な音を立てて、湖等が椅子から転げ落ちた。
「どうしたんだよ、湖等?」
 どうでもいいけれど、こいつってばいつも派手なリアクションするよなあ…。
「なあ、お前今何て言った?」
 げっっ。俺ってばまた変なこと言ったのか?
「“どうしたんだよ、湖等?”」
「違う、その前」
「“面白い名前の学校だな”」
 それを聞くと湖等は、大げさにため息をついた。
「近衛君。僕は常日頃から君のことをボケていてかわいいと思っていたけれども…今日程君がおボケに見えたことはなかったよ」
 湖等は、失礼なんだか何なんだかよく分からない台詞をはいて、また大げさにため息をついた。
「う、うるさいなあ」
 どーせ俺はおボケだよ!
「君のために愛を込めて教えてあげよう。どうだ、嬉しくて涙が出るだろう」
 そう言って、湖等はポーズをとってみせた。
「どーでもいいから早く教えろよ」
 俺はキレる寸前だった。
「近衛君、君は甲子園球場を知っているかね?」
「馬鹿野郎っ、俺達が目指していたものは何だったか言ってみなっっ」
 俺を馬鹿にしているな!
 嫌なことまで思い出しちまったじゃないか!
「まあまあ、待ち給え。で、本題に戻るわけだが花園というのは球場の名称なわけなのだよ。つまり、高校野球にとっての甲子園みたいなもので、高校ラグビ−といえば花園というのは、もはやお約束みたいなものなんだよ」
「へえ…」
 俺は湖等の言葉に暫し耳を傾けた。
「どぅーゆーあんだーすたーん?」
 俺は湖等のうんちくに丸め込まれたのか、奴のへたくそな日本語英語に、思わず素直に頷いてしまった。
「よしよし」
 湖等はぽんぽんと俺の頭を叩いた。
「だあああっっ。なめてんじゃねぇぞー!」
「まあまあ、冗談だってばそんなに怒るなよ」
 湖等はにひやっと笑った。こいつはにくめない顔で笑うものだから、俺はいつもうまい具合に騙されてきた。
「念のために聞いておくが…大学野球がどこで行われているか、まさか知らないなんて言わないよなぁ」
 湖等は笑顔のまま俺に尋ねた。
 ぎくっ。
「なめんなよっ。俺を誰だと思ってる!」
 とは言ってみたものの、口の端が引きつってしまふ…。
「湖等は進学するの?」
 俺は慌てて話題をすり替えた。
「あー、うん…どうかな」
 湖等は、奴らしくない歯切れの悪い返事をした。
「ほら、俺ん家って店やってるだろ?だから、多分継ぐことになるだろうな」
「あ…そっか。お前長男だったよな」
「お前は? 野球続けるんだろ?」
「…わかんない」
 瞬間、和尚と里井の顔が浮かんだ。
「俺もさ、もう少しお前と野球がしたかったよ」
 湖等はそう言って俺を見た。
「湖等、俺は…」
 ――迷っているんだよ。
 そう言いそうになって、俺は慌てて目をそらした。
「さてと、じゃあ俺は帰ろうかな」
 わざとらしく明るく言って、湖等は俺に手をふってみせた。
「ああ」
 俺も湖等に手をふった。
 湖等は鞄を抱えて、教室を出ていこうとしたがおもむろに振り返った。
「近衛、野球続けろよ」
 俺は心を見透かされたようでドキッとした。
「お前のピッチング、俺好きなんだよ」
 湖等はそう言ってにやりと笑った。
 俺は何だか照れ臭かった。


 ドタドタドタ…
 廊下の向こうから、慌てたような足音が聞こえてきた。
「お。和尚帰ってきたんじゃねぇの?」
 湖等がそう言い終わらないうちに、和尚の見慣れた顔が視界に飛び込んできた。
「湖等! 大変だ」
 何だ何だ? 何がどうしたっていうんだ?
「おお、近衛もいるのか。丁度良かった!」
 え? 俺にも用があるのか?
「何だようるせえなあ…。そんなに血相変えて、一体どうしたっていうんだよ?」
 湖等の言うように、和尚の顔は真っ青だった。
「どうしたもこうしたもねぇよ。大変なんだ!」
 和尚は一気にまくしたてると、今度は俺の方を向いた。
 よく見ると、目まで血走っている。
「だから何が大変なんだよ、和尚!」
 俺がそう言うと和尚は、俺と湖等の顔を見ながら
「聞いて驚け」
 と言った。
 俺達はゴクリッと喉を鳴らした。
「北涼が試合を申し込んできた」
 はあっ? 何だってー!



 続



《コメント》

今回は「‐est」の中編をお送り致しましたがいかがだったでしょうか?
夏の高校野球も始まった事ですし実にタイムリーですね。
ところで、近衛の通っている“桝谷第一高校”は男子校という設定になっています。
しかし、渡田は女子校出身…女子校の実態は知っていても男子校の内情には詳しくないです。校内の場面は私の勝手なイメージで書いているのですが、実際の男子校ってどうなっているんでしょう?…ドキドキ(笑)。
さて、次回はいよいよ最終回です。近衛は本当に野球を捨ててしまうのでしょうか?乞うご期待!!


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