時計   渡田貴紀

 春。
 キーッ、キキー…
 桜の咲き乱れる中、一人の少年が自転車に乗って通り過ぎていく。
「!」
 突然の風に少年の髪が舞う。
 桜の花びらが、少年の身体に降り注いだ。
 サクラ、サクラ…。
 薄紅色のシャワー。
 少年は足を止め、眩しそうに目を細める。
 花びらのシャワーは、少年を包み込むように優しく、優しく降り注ぐ。
 ふと少年はかざした手に目を止めた。
 そして時計を覗き込む。
 四時二十分を指したその時計にも、薄紅色の花びらが降り注いだ。
 少年は瞳を閉じ、注ぎ続ける花びらに身を任せた。



 キーンコーンカーンコーン…
 終業を知らせるチャイムがゆっくりと鳴り響く。
「ふあぁぁぁぁー。よく寝た」
 終業のチャイムが鳴り終わると同時に鳴沢葉月は起き上がった。
「葉月ぃー、お前よく寝てたなー。日本史の先生、ずっとこっちを見てたぞ」
「嘘、マジ?何で起こしてくんなかったんだよ、正宏」
 葉月は隣の席の嶋田正宏を恨めしそうに睨んだ。
「ばっかやろーっ。俺が何回起こしたと思ってんだ!」
「あれ、そうだったの?」
 意外な答えに葉月はきょとんとした。
「まあ、いいさ。それより、早く行こうぜ。遅れるとうるさいんだから、うちのキャプテンは」
 葉月も正宏もバスケ部に所属していた。
「ああ、まったくだ」
 頷いて葉月も立ち上がった。そして、いつものように時計を見た。
「四時二十…分?」
「はあ?四時二十分?」
 葉月の声に正宏はすっとんきょうな声を上げた。
「嘘だろ?俺の時計はまだ四時前だぜ」
「だよな…壊れたのかなあ?」
 葉月は首をかしげた。



 葉月の家は学校から歩いて通える距離にある。ちなみに正宏はJRで通っているので駅で別れることになる。
 葉月は今まで押していた自転車に乗り、先を急ごうとして時計を見た。
「ああ…そうか」
 葉月は何もない自分の手首を見て、時計を修理に出してきたことを思い出した。
 キッ…
 葉月は手首を軽く振って、再び自転車をこぎ出した。
 キッ…キキッ…
 角を曲がる。葉月の家までもう少しだ。
「?」
 葉月は不意に自転車を止めた。何か聞こえてくる。
「ピアノ…」
 どこから聞こえてくるのかは分からないが、確かにピアノの音色だった。
 タイトルは知らなかったが、聞き覚えのあるメロディだった。
「何だか悲しい曲だな…」
 葉月は自転車をこぎながら、聞こえなくなるまでその曲を聞いていた。



 キュッ、キュキュッ
 体育館にシューズの音が鳴り響く。
「パスパースッ」
 凛とした声の少年は、パスをもらったその足でダンクをきめた。
 ギシギシと音を立ててリングが揺れる。
 ピピーッッ
 その時、試合終了のホイッスルが鳴った。
 クラブ内の練習試合は、二点差で紅組の勝利に終った。
「すげえじゃん、葉月っ」
 正宏が、ダンクをきめた葉月の背中を小突いた。
「でも負けちゃったんだぜ」
 葉月は白組、正宏は紅組だった。
「いいって、いいって、次があるじゃん」
 正宏はにこにこと葉月を見た。
「そーんなもんかぁー?」
 とは言いながら、葉月もにこにこしていた。
 二人とも、今日は調子が良かったのだ。
「へっへっへーっっ。俺、室井先輩にパスもらっちゃったもんねー」
 部室で着替えながら、正宏が自慢げに言った。
 三年の室井律は、バスケ部のエースで葉月たち二年の憧れの人であった。
「ふ…ふーんだ。俺なんて、草野キャプテンのパスでダンクきめたもんねーっだ」
 葉月も負けじと自慢してみせた。
 同じく、三年の草野保も葉月たちの憧れの人であった。
 二人はしばらくの間睨み合っていたが、その顔はすぐに笑顔に変わった。
 何といっても、今日の二人は調子が良い。その上、憧れの先輩たちからパスをもらったのだから嬉しくないはずがないのであった。
「あ、そうだ正宏、今何時?」
 自分のロッカーを閉めながら葉月は尋ねた。
「何だよ、葉月。お前時計ないの?」
 そんな正宏に、葉月は無言で手首を振ってみせた。
「ああ」
 正宏は納得といった顔で葉月を見た。
 修理に出した葉月の時計は明日出来上がるそうだ。
「でも不便でしょーがないや」
 葉月はまた手を振ってみせた。
「…しょーがないっ。俺が君の時計になってあげよう」
 正宏は、自分の左手を顔の前で構え、ポーズをとってみせた。もちろん、右手は腰に当てて…である。
「さーんきゅ、正宏。でもな、折角きめているところ悪いんだけど…お前の手、時計ついていないぞ」
 今までバスケをしていた正宏が時計をしていないのは当たり前のことなのであった。
「あ、こりゃ失礼」
 正宏は構えていた左手でぽりぽりと頭をかいてみせた。



「じゃーな、葉月」
「おー、明日なー」
 帰り道。いつものように、二人は駅で別れた。
 キキッキキキッ
 葉月はゆっくりと自転車をこぎだした。
 時計がないことで、今日一日は思った以上に手間取ってしまった。
「正宏には悪いことしたよなあ…」
 葉月は、“時計になってあげよう宣言”の前から正宏に時計になってもらっていたのであった。
「メロンパン一個で騙されてくれるかな…」
 時計が直った暁には、正宏に何かおごらなければ…と葉月は考えていた。実は、正宏が菓子パンに目が無いことを葉月は知っている。
 キッ、キキキッ…
 曲がり角へと差し掛かろうとした瞬間、葉月の耳にピアノの音が飛び込んできた。
「…え?ピアノの音…さっきからしていたっけ?」
 突然ピアノが鳴りだしたように思ったのは、考え事をしていたせいで今まで音に気付かなかったからだろう…と葉月は思った。
「それにしてもこのピアノ…どこから聞こえてくるんだろう…」
 葉月はふとこの音がどこから聞こえてくるのかを確かめたくなった。
 そして、自転車をピアノの音の方にこぎだした。



「…ここか?」
 葉月は白い洋館の前に立っていた。
 二階の一番端の部屋に明かりが灯っている。
 どうやら、ピアノの音はそこから聞こえてくるらしかった。
 しかし、この洋館はもう何年も無人になっていたはずである。新たに人が越してきたという噂も聞かない。
「まさか幽霊じゃないだろうな」
 そうつぶやいてからぞっとした。
 しかし、こんなに美しい音色を奏でる幽霊なんているだろうか…。それとも、幽霊だから美しい音色を奏でることができるのか。
 葉月はそんなことを考えながら、しばらく洋館の前に佇んでいた。
 ピアノの音色が葉月を優しく包み込む。
「何だろうこの感じ…」
 何故か葉月は、懐かしさを感じた。



 ドアを軋ませながら、葉月はゆっくりとドアを開けた。
 暗い部屋に蝋燭が灯っていたが、人影はなかった。そういえば、怖くてうっかりしていたが途中でピアノの音がやんだような気がする。
 目が慣れるに従って、部屋の様子が見えてきた。
「グランドピアノだ…」
 そう呟いた時、部屋の電気が一斉に点いた。
「何だ…泥棒じゃなかったの」
 その声に振り向くと、金属バットを持った少女が葉月の背後で笑っていた。
「ご、ごめんなさい。ピアノの音がここ最近ずっと聞こえていたのに、人が越してきたって話も聞かないから…」
「泥棒と間違えられたのは私の方だったかしら」
 少女は尚も笑い続けていた。
「最近うちの両親が買い取ったのよ。まあ、もっとも…引っ越してくるのは後一週間後だけどね」
 葉月より年上だろうか、黒髪を肩まで伸ばした少女は、髪と同じ色のワンピースを着ていた。
「で、どう思った?」
「え?何が?」
 葉月は突然顔を覗き込まれてどきっとした。
「私のピアノ」
 少女は大きな瞳で葉月を見た。人懐っこそうなその瞳に葉月は好感を持った。
「うん、上手だよね。でも何だか悲しい曲だなって思った」
 思ったままの答えを少女に告げた。
「私のお気に入りのナンバーなんだ」
 そう言って少女はくるくると瞳を動かした。
「へえ…クラシック?」
「知らない。テレビで流れていたの」
「え?」
 あっけらかんとしたその答えに葉月は驚いた。
「こんな音だったかなって思いながら弾いていたんだけど、何とかなるもんだね」
 そう言って少女はまたピアノを弾き始めた。葉月はそのまま、少女がピアノを弾き終わるまで彼女の指先を見つめていた。
 ピアノが最後の旋律を奏でた後、少女は鍵盤から指を離しその大きな瞳で葉月に微笑んだ。
 それまで少女を見つめていた葉月は、慌てて彼女から目を反らした。そんな葉月を見て少女はくすくすと笑い出した。そんな少女につられて葉月も笑い出した。
「また…、また君のピアノを聴きに来てもいいかな?」
 気が付くと葉月はそんなことを言っていた。



 少女は“如月弥生”と名乗った後、「“二月三月”だなんてふざけた名前でしょう」と言って笑った。
 葉月はあれから何度か弥生を訪ねたが、彼女はいつも笑顔で葉月を迎えてくれた。葉月は弥生のピアノを聴き、弥生は葉月の冗談に笑った。会うたびに二人は笑いあい、その度に葉月は彼女に惹かれていった。



「はーづきっ」
「ああ、正宏。何?」
「何?じゃないでしょう葉月ちゃん。次移動だよ、さあ立って立って」
 ぼーっとしていた葉月は、正宏の声で我に返った。
「あ?え?今何時?」
「十一時三十五分。って、何だよ葉月。時計修理から戻ってきたんじゃなかったの?」
 人間時計を正宏が立派に努めあげ、報酬のメロンパン三個をもらったのはもう三日も前の話である。
「うん、それがさあ…、また止まっちゃったんだよ。四時二十分で…」
「はあ?何だそりゃ?おいおいお前の時計何かあるんじゃないのか?」
「まさか!怖いこと言うなよ、正宏」
 葉月は本気で背筋の寒くなる思いがした。
「あ、そうだ。そんなことより、何だよ葉月〜、水臭いよなあ」
 そう言って正宏が葉月の横腹をつついた。
「――?何のことだよ?」
「まーた、またっ。とぼけちゃって」
「だから、何?」
 葉月には何のことなのか、本当に分からなかった。
「葉月君は最近いつもぼーっとしているし、付き合いも悪くなっちゃったから、恋でもしているんじゃないかって心配しているのだよ、俺は」
「恋?」
 恋…か?
 そう言われてみればそうかもしれない…。最近弥生の大きな瞳が時折ちらつくのも、夜になっても眠れないのも、全て恋のせいなのかもしれない…。
 窓の外の桜を眺めながら、葉月は弥生のことを考えていた。



「今晩は」
「あ、葉月くん。嬉しいなあ、また来てくれたんだ」
 弥生はいつもの笑顔で、葉月を見た。
 弥生のことを意識しだした葉月は、その笑顔一つにも幸せを感じていた。
「今日は差し入れを持ってきたんだ。ほら」
 そう言って葉月は、弥生の目の前に小さな箱を差し出した。
「わぁ、見てもいいかな?」
「もちろん」
 葉月の返事に、弥生は嬉しそうに包みを開いた。
「あ、フォーションのアールグレイだ。やった。これ大好きなんだ」
「良かった。じゃあ、俺いれてあげるよ」
 弥生の言葉に気を良くした葉月は、部屋の奥にあるもう一つのドアに手を掛けた。
「だめっ!」
「え?」
 弥生は突然、葉月の前に立ちはだかり、その身体でドアを覆った。
「だめなの!このドアは開けちゃいけないの!」
 弥生の行動に驚いた葉月だったが、彼女に嫌われたくないという思いの方が強かったため、おとなしく彼女の言うことをきいた。
「ごめんね、弥生さん。びっくりさせちゃって…大丈夫、俺は絶対にそのドアを開けたりしないよ」
 そう言って葉月は弥生に微笑んだ。
 弥生も、葉月の笑顔を見て安心したのか、いつもの笑顔に戻った。
「私の方こそ、ごめんなさい。よーし、今日はお礼に、サティの『ジムノペディ』弾いてあげよう」
「へえ…でもどうして『ジムノペディ』なの?」
「馬鹿ねぇ、アールグレイと言えば『ジムノペディ』なのよ」
 そう言って弥生はピアノを弾きだした。
 何故なのか分からなかった葉月も、その旋律を聴いてやっと理解した。
 弥生の奏でるその曲は、メーカーこそ違うけれども、同じアールグレイのCMで使われていた曲だったからだ。
「なーんだ、そっかあ…」
 葉月はくすくすと笑い出した。
 弾き終わった弥生も、葉月と同じように笑い出した。
「そうだ、明日で一週間になるけれども、両親がいても時々ピアノを聴きに来てもいいんでしょう?」
 ひとしきり笑った後、葉月がそう弥生に言った。
「……」
「弥生さん?」
「明日が二人だけの最後の夜か…よーし、明日は引きまくるぞ」
 しばらく間があった後、弥生は笑顔でそう言った。



「この時計は別におかしなところはないですよ」
 時計屋の主人にそう言われて、葉月は不思議そうな顔をした。
「だけど…変ですねぇ、どんなに正常に動いていても、午後四時二十分になると必ず止まってしまうんですよ。歯車がおかしいのかな…」
 時計屋の主人も不思議そうな顔をした。
 いっそのこと買い替えたらどうだろうか、という主人の言葉に葉月も賛同し、今度の日曜日にまた来ると言って店を出た。
「四時二十分…か」
 正宏の言っていた通り、本当にこの時計には何かあるのかもしれない…そんなことを考えながら歩いていたら、後ろから正宏の呼ぶ声がした。



「うん、そうだ。その方がいいぞ。そんな奇妙な時計は買い替えるに限る」
 正宏も、時計を買い替えるという意見に賛同した。
 そっか、そうだよな…と葉月が笑っている時に正宏は突然真剣な声で言った。
「奇妙なことと言えば…知っているか葉月、この先にあるっていう白い洋館のこと…」
“白い洋館”という言葉に葉月ははっとした。正宏が言っているのは、弥生の家のことではないだろうか?
「何でもな、誰もいないのに夜中になるとピアノの音が鳴り出すんだって」
 正宏の真面目な顔に、葉月は吹き出した。
「あ、お前信じていないんだな。何人も聴いたって言っているんだぞ」
「だって、何を言い出すのかと思ったら…。あのな、あの家にはもう人が住んでいるの」
「人が住んでいる?そんな馬鹿な」
 正宏の返事に葉月は少々むっとした。
「だって、俺はその家の人と話したことがあるんだぜ」
 葉月の言葉に正宏は怪訝そうな顔をした。
「でも、一昨日あの家に入り込んだ奴の話だと、中はひどい荒れようで蜘蛛の巣だらけだったって…」
「え?」
 中はひどい荒れようで蜘蛛の巣だらけだった?俺が行った時はそんなもの全然なかった。まさか…そんな…。
 家違いをしているんだと葉月は思ったが、何だか嫌な予感がして、葉月は洋館へと走り出した。
「あれ、どうしたんだ、葉月?」
「ごめん、正宏。また明日な」
 正宏は訳が分からないといった顔でそこに立ちすくんでいた。
「やれやれ」
 遠くなっていく葉月の制服に溜息をつきながら、正宏は何気なく自分の時計を見た。
「四時十分か…」
 その時、突然桜の花びらが舞い、葉月の姿は全く見えなくなってしまった。


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