「弥生さん!」
 玄関の扉を開けた葉月の目に飛び込んできたのは、正宏が言っていたように蜘蛛の巣だった。
「こんな、こんなことって…」
 昨日は確かにこんな物はなかったのだ。否、葉月はこの家のこんな様子は、今まで一回も見たことはなかった。
 葉月は階段を、駆け上がった。その階段にも埃が積もりここ最近人が行き来した跡は見られなかった。
「弥生さん!」
 葉月はいつものようにドアを開けた。
 だがそこに広がっていた景色は、いつも葉月が見ていた景色とは全く異なった物だった。
 部屋の中には弥生がいて、グランドピアノが置かれていた。しかし、部屋の中は蜘蛛の巣と埃だらけで、そのグランドピアノさえも埃で真っ白になっていた。
 弥生は初めて会った時と同じ、黒いワンピースを着ていた。
「タイムリミットが近付いているのよ、葉月くん」
 弥生の顔にはいつもの笑顔は見られなかった。
「これは一体…どうなっているんですか。弥生さん!」
 葉月には訳が分からなかった。
「ごめんね、葉月くん。私はあなたに嘘をついていたの」
「嘘…?」
「…あなたが今いる世界は、本当のあなたの世界じゃないの…」
「え?」
 何を言っているのだろう、彼女は…。
 葉月には弥生の言っていることが理解できなかった。
「弥生さん?」
 これらのことは全部、弥生の仕組んだ冗談なのだろう。そう思って葉月は笑った。
「本当のあなたは、一週間前に車にはねられて、ずっと病院で眠ったままなのよ」
「弥生さ…」
「午後四時二十分」
 弥生の声が部屋に響いた。
「午後四時二十分…?」
「この時間に、覚えがあるでしょう…?」
 それはいつも時計が止まる時刻だ。でも、何故彼女がそのことを知っているのだろう?
「あなたが事故に遭った時間よ。だから、あなたの時計はそれ以上進むことができないの」
 いつも四時二十分に止まってしまう時計…。弥生の言っていることが本当だとしたら、全てつじつまがあう。
「私は人の時間を管理している人間なの」
「人の時間を管理している…?」
 葉月の言葉に弥生は無言で頷いた。
「あなたは奇跡的に助かったのに、どういうわけか自分の時間を止めてしまった…。その時間を再び動かすためには、あなたが自分で事故のことを思い出さなければ…」
「だけど、俺は事故のことなんて知らない。否、思い出せない…」
 事故…?
 一週間前といえば…時計が止まったあの日…。
 あの日、俺は一体何をしていたんだ…?
 ああ、頭がっ、頭が痛い…。
 葉月は頭に割れそうな程の痛みを感じてうずくまった。
「葉月くん…」
 弥生は、うずくまる葉月をそっと抱き締めた。
「葉月くん…あなたが昨日開けようとした部屋を覚えている…?」
 葉月は静かに頷いた。
「あの部屋にはあなたの時計もあるわ。あなたが自分で時計の針を動かせば、あの日のことを思い出せるはず…」
 弥生はゆっくりと葉月を起こし、葉月の時計があるという部屋の前へと誘った。
「さあ、葉月くん…」
 弥生は葉月に部屋の扉を開けるように促した。
 葉月は弥生に言われるままに、その部屋の扉を開けようとしたが、ノブに手を掛けた状態で動きを止めた。
「弥生さん。もしも、俺が思い出すことができなかったら…その時はどうなるの?」
「本当のあなたの身体は動きを止め、この世界にいるあなたはもう二度と向こう側へ帰ることができなくなるわ」
「でも、思い出してしまったら、もう二度と弥生さんには会えなくなるんでしょう…?」
 葉月のその言葉に、弥生の瞳から涙があふれてきた。
「葉月くん、知って…?」
 葉月はうっすらと微笑んだ。
 昨日の沈黙の理由がやっと分かった。
「――!葉月くん!」
 葉月は強く、弥生を抱き締めた。
「思い出さなくてもいい!帰れなくてもいい!俺はっ、俺は君の側にいたい!」
「葉月くん…」
 葉月も弥生も、お互いの身体を抱き締め合ったまま、泣いていた。
「俺は君が、君のことが好きなんだ!」
 その思いごと封じ込めるかのように、葉月は弥生を抱き締める腕に力を込めた。
「葉月…」
 弥生も葉月を強く抱き締めた。が、
「…さようなら」
 そう呟くと、葉月を部屋の中に押し込み、全身で扉を塞いだ。
「弥生っ!弥生――っ!」
 扉を力一杯叩いても、その扉は開こうとはしなかった。
「弥生!ここを開けてくれっ!」
 葉月は尚も、扉を叩き続けた。
「…できない」
 弥生の声は涙で震えていた。
「俺は君の側にいたいんだ!」
 葉月のその言葉に弥生は、聞こえないような声で
「私もよ…」
 と呟いた。
「…だけど私は、私はあなたに生きていて欲しいの!」
「弥生…」
 葉月は、扉の向こうの弥生の気持ちが手に取るように分かり、扉を叩くのをやめた。
 そして、扉に背を向けた。
 部屋の中には、無数の時計が置かれていた。部屋中の時計は、どれも等しく時を刻んでいた。しかし、部屋の中央にひっそりと置かれた時計だけは、四時二十分を指した状態のまま、止まっていた。
「これが、俺の時計…」
 葉月はその時計にゆっくりと触れた。
「葉月っ、もう時間がないわ」
 扉の向こうで、弥生の声が聞こえた。
 葉月は扉を見つめた。
「弥生!俺は…絶対に忘れない」
 思いを込めてそう言った後、葉月は震える手で時計の針を動かした。
 その刹那、葉月は白い光に包まれた。
 自転車に乗っている自分が見えた。
 ああ、そうだ。
 俺はあの時信号を渡っていたんだ。そして、信号を無視した車に…。
 ―――思い出した。
 葉月は意識が遠退く瞬間、ピアノの音が聴こえた気がした…。



「葉月…?葉月…」
 葉月が『行った』ことが分かった瞬間、弥生は扉の前に崩れ落ちた。
「私も、絶対に忘れない。例えあなたが忘れてしまっても…」
 弥生は涙を流し続けた。
「愛しているわ…」
 弥生の声は、もう葉月には聞こえなかった…。



 病院のベッドの上で、葉月はゆっくりと目を開けた。
 何だか長い夢を見ていたような気がした。
 大きな瞳の…。
「や…よい…?」
 その声に、枕元にいた正宏が気が付いた。
「葉月?葉月!」
「正宏?」
「良かった!」
 正宏は葉月の手を強く握り締めた。
「待ってな、今おじさんとおばさん呼んでくるから」
 正宏はそう言うと病室の外に出て行った。
「ああ、そうか。俺は車に…」
 葉月はぼんやりとそう呟くと、しばしの間の浅い眠りに就いた。



 もう一度目を覚ました時、葉月は「やよい」のことを何も覚えてはいなかった。



 桜の花びらが舞い散る中、葉月と正宏が歩いている。
「もうすぐ桜も終わりだな」
「ああ」
 正宏の言葉に葉月が頷いた。
「もう大丈夫なのか?」
「早く身体を動かしたいよ。もう退屈で退屈で」
「その調子なら大丈夫だな。明日から復帰できるんだろう?」
「ああ、早くバスケがやりてぇ」
 葉月は思い切り伸びをした。
「ははは。あ、ところで葉月。今何時か分かるか?」
「何だよ、正宏。お前時計ないの?」
「もー、聞いてくれよ。ポケットに入れていたら洗濯されちまってさぁ、もうボロボロ」
「馬鹿だねーっ」
 正宏の話に笑いながら、葉月はゆっくりと時計を覗き込んだ。
「四時三十五分か」
 そう言った瞬間、突然花びらが舞い上がり、葉月と正宏の身体を包んだ。
 その時、葉月は、ピアノの音が聴こえてきたような気がした。
「なあ、正宏。この曲何ていうんだ?」
「ああ、本当だピアノの音が聴こえる。ああ、この曲は確か……、…葉月?」
「え?あれ?」
 葉月は知らないうちに泣いていた。
「どうしたんだ?葉月?」
 正宏が心配そうに葉月の顔を覗き込んだ。
「何かとても懐かしいような気がして…」
 葉月は眩しそうに目を細めた。
 薄紅色のシャワーは少年達の身体を優しく包み込み、尚も花びらを注ぎ続けた。


END



《コメント》

 何回か言ったかもしれませんが、私は極度のファンタジー音痴です。
何が原因なのかと考えた結果、やはり横文字に弱いのだろうという結論に落ち着きました。
じゃあ日本人でファンタジーすればいいじゃん。と思い、出来上がったのがこの小説です。苦し紛れでもいい、作品さえ完成すれば…。
でも本当は主人公の名前は、太郎と花子になる予定でありました(苦しいにも程がありすぎ)。
 話は変わって、作中で登場する“悲しい曲”なのですが、その後タイトルが判明しました。
ジョージ・ウィンストンの「あこがれ/愛」という曲だそうです。
機会があったらぜひ聴いてみて欲しい曲です。


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