もう忘れたよという方のために主要登場人物紹介

冬1


それはバレンタインデーを数日後に控えたある日の放課後。
例によって例の如く、料理研究会のメンバーは揃って調理室で活動していた。
その日のレシピは「チョコレートブラウニー」。
勿論、バレンタインデーにちなんでだ。そして、その裏にあるもくろみが隠されていたりしたのだが、それに気付いていないのは約一名しかいなかった。
「僕、こう見えても甘党なんですよ」
料理研究会部長、今堀和志は嬉々としてそう言った。教室中に聞こえる声量だったが、視線は一点だけを見据えて。
視線の先の少女はそれに気付く様子も無く、熱心にチョコレートのテンパリングにいそしんでいた。
「特にチョコレートは最高ですよねぇ!」
それにもめげず、和志は言った。同学年の部員三人はそのあからさまなセリフに笑いを隠せないでいる。
「じゃあ、あたしがあげますよ、バレンタインチョコ」
和志の視線を遮るように間に立つ少女が一人。不敵な笑みを浮かべたその少女の名は六宮沙霧。
テンパリングの少女とはクラスメイトでルームメイトである。
「六宮さんの作ったチョコレートはへなちょこに決まってます!!」
びしぃっ、と沙霧に向かって和志は指を突き付けた。何とも言えない冷たい空気が部屋を満たす。ややあって気を取り直した様に沙霧は言った。
「あたしからチョコレートもらえるなんて、半殺しの目にあいますよ。部長さん」
「いりません」即座に和志は答えた。「あなたからは絶対にいりません。まだ死にたくないので」
「何ですかー。毒なんていれませんよ?ちょっとばかしトイレが近くなるかも知れませんけどね?うふっ」
虫を見るような目つきで和志は沙霧を見た。沙霧は楽しそうに笑って、今度はクラスメイトでルームメイトの高城遠子の所へと歩いて行く。
馴れ馴れしく肩に手を回して沙霧は遠子に訊ねた。
「ねぇねぇ、とおこぉ。遠子はあたしにチョコレートくれるでしょ?」
当然だと言わんばかりの口調だ。
遠子は鬱陶しそうにその腕をはずしてから、不思議そうに沙霧を見つめた。
「チョコレートを?何であたしが沙霧に?」
ざまあみろと言わんばかりに笑みを浮かべる和志の姿が沙霧の視界の隅に映る。
「何でって…バレンタインデーって女の子が好きな人にチョコレートをあげるってゆーイベントでしょうが」
「だからって何であたしが沙霧にって話になるのよ」
小林、湊、紺野の三人、待ってましたとばかりに料理の手を止め展開を見守る。
「ちょっと待って?あたしたちってもう全校生徒が認める仲の筈よ?キスだってした訳だし…」
「あ〜〜〜あ〜あ〜〜!!!」
遠子は耳を塞いで大声をあげた。顔が真っ赤になっている。多分に恥ずかしさの所為だけではない。
「そうだったわねー」「しかも高城さんの方からだったもんね」「今思いだしてもドキドキするわ」
三人は言いたいことを言っている。それが終わった頃に、遠子はようやく耳から手を離した。
「あれは演技でしょう!?何言ってるの!?」
「遠子あたしのこと好きじゃないの?」
「何言ってるの?そういう問題じゃないでしょう?」
「じゃあチョコレート〜!!」
既に沙霧、幼児と化している。
「何言ってるの!?あたしはそういうことはしない主義なの!お父様や兄様たちにだってあげたことないんだから。バレンタインなんてチョコレート会社の陰謀よ!っていうか、沙霧にだけは何があったってあげないわ、絶対!!」
遠子のそのセリフは、沙霧だけでなく和志をも落胆させた。
『そういうことはしない主義なの』
遠子からチョコレートをもらう作戦はこの時点で露と消えた。
呆然と言葉を失くす二人。
「どうしたんですか部長さん?早くやんないとチョコレート固まっちゃいますよ」
遠子の声にようやく和志はのろのろと作業を再開した。

「あんなこと言っちゃって良かったの?高城さん」
遠子は声がした方に視線を移動させた。
小林副部長以下三人が心配そうな中に少しばかり好奇心をにじませた顔で立っていた。
どうやら先刻の調理室でのことを言っているようだ。
和志は帰ったし、沙霧もバイトがあると言って途中でいなくなっていた。
二人がいなくなるのを待ち構えていたかのようなタイミングだ。
「あんなことってなんですか?」
「六宮さんにだけはチョコレートあげない、って奴よ」
「ああ」
遠子は頷いたが、別段大変なことを言ってしまったという自覚はなかった。
しかし湊はわざとらしく深刻そうな表情を作る。
「放っといたら彼女、他の子に取られちゃうわよ」
「は…?」
「高城さんはいつも一緒にいるから気付かないのかも知れないけど、六宮さん結構もてるのよ。しかも男女問わずね。ほらこの前の文化祭で王子役なんてのもやったし。高城さん蹴落として恋人の座に収まろうとしてる女子はかなりいると見たわ」
「え…、女子?」
いや、問題はそこじゃない(確かにそれも問題だが)。自分を蹴落とそうとしている輩が多いという所だ。
遠子は戦慄をおぼえた。
そんな遠子に畳み掛けるように小林が言う。
「女って怖いのよ、きっと今度のバレンタインデーなんてとんでもない手使って六宮さんにアプローチしてくる子がいると思うの。ねぇ高城さん、あなた六宮さんがどこの馬の骨ともわかんない女の物になってもいいの?」
あまりにもあんまりな、その身も蓋も無い言い方に遠子は言葉につまった。
「そ、そんなこと言われても…」
「まさかあなた、『沙霧はあたし以外好きにならないわ!』なんて思ってないでしょうねぇ?」
湊が意地悪な言い方をする。
遠子の顔が一瞬にして朱に染まった。
「思ってませんよ!そんなこと!」
「まぁまぁ」おっとりと紺野が手でなだめる。「あたしたちはね、あなたと六宮さんのカップリングが好きなのよ。他のカップリングなんて考えられないの。あなたたちをずっと見守って行きたいのよ」
…そんなこと言われても。遠子は先程と同じセリフを胸の中で呟く。
「六宮さんあんなだからすーぐ他の子にかっさらわれるわよー。やらせてくれる子にさ」
「…湊。下品」
小林がぴしゃりとたしなめる。
「失礼。…わかった?とにかく六宮さんにしっかり鎖つけときなさいよ」
「じゃあね、また」
遠子が反論する間もなく、三人はさっさと帰ってしまった。言いたいことを言いっ放しで。
結局何が言いたかったの?どうしろっていうの、あたしに。
遠子は混乱する頭をおさえた。

先輩たちがあんなこというから。
遠子はぎゅっと膝の上で手を握った。
…妙に意識しちゃうじゃない。
テレビに見入っている沙霧の後ろ姿を見つめる。
彼女のことは確かに好きだ。
でもそれって友達としては好きってことに決まってる訳で、それが恋愛感情なのかなんて考えたことも無い。
そもそも恋愛感情自体どんなものかわからないし。
無神経で頭悪くて自分勝手で触り魔。
でも、でも、沙霧が他の人を抱きすくめたりしている様を想像すると、何か胸が締めつけられる様な感覚に襲われる。
あんなに自分は嫌がってる癖に、他の人にはして欲しくないと思っている自分がいる。
それは決してその人がかわいそうだからという感情からではなく。
あたしにしかして欲しくないと言う…
遠子はそこで慌てて思考を閉じた。
「どうしたの?」
「わぁっ!」
気が付けば沙霧が真横に立っていた。思わず椅子を倒してその場から離れる遠子。
「顔赤いよ?風邪?」
「う、ううん、大丈夫だか…」
言い終わらないうちに至近距離に沙霧の瞳が迫った。
こつん、と額があたる感触。
遠子は目を伏せて立ち尽くす。こんなことされたらますます体温があがってしまう。
…似たようなこといつもされてるのに。
「何かほんとに熱いみたいだけど?」
「暖房の効き過ぎじゃない…かな」
あんなこと言うから。
先輩たちの馬鹿。

その日の帰り、遠子は珍しく一人だった。
勿論一人で帰る日は少なくないのだが、バイトの無い日はまず間違い無く隣に沙霧がいた。
今日はその日なのにも係らず、沙霧の姿が無い。だから「珍しく」なのだった。
「ちょっと今日は用事があるから」
詳しくは語らず、沙霧は遠子に先に帰る様促した。
沙霧に、遠子と帰ることよりも優先させる事項があるということが実に珍しい。
遠子は特に気にも留めない風を装いながらも、心の中で密かに訝しんでいた。
一体何の用があるんだろう?大概の事は無理矢理にでもキャンセルしてあたしと一緒に帰ろうとするのに。
…って何だかあたしさみしがってるみたいじゃない。
そこで遠子は思考を反転させる。
別にいいんだけど。静かだし。
黙々と歩を進めていると背後から聞き覚えのある声が微かに響いてきた。
少し嫌な予感を感じながら遠子が振り向くと、はたして兄たちが嬉しそうに車から体を乗り出して名前を呼んでいるのだった。
「遠子、乗っていきなよ。うちまで送るからさ」
車が止まるなり助手席から要が言う。運転席の維純は不機嫌に押し黙ったままだ。大方無理に止めさせたのだろう。もっとも維純が不機嫌そうなのはいつものことではあるが。
「沙霧ちゃんは?今日はバイト?」
朋の問いに遠子は首を横に振った。
「そうなんだ。つまんないな〜。まっ、遠子がいれば充分だけどさ」
「せっかくだから何か食べて帰ろうか?」
「あ、それいいね。遠子少し痩せたんじゃないか?ちゃんと食べてる?」
「最近インフルエンザ流行ってるらしいぞ?あー、兄さんは心配だよ」
後部座席に乗りこんだ途端、早速要と朋のシスコンぶりが暴走しだした。
遠子はうんざりとしながらも適度に相手をしてやる。以前はこれが日常茶飯事だったなんてちょっと信じられない。
車は繁華街を通り抜けて行く。
通りのディスプレイはやはりバレンタインデー関係のものが多い様だ。
朋も同じことを感じたのか、
「バレンタインデーだねぇ」呟いた。
それを受けて要が訊ねる。少しばかり聞きにくそうに。
「…遠子は誰かにチョコレートとかあげないの?」
「あげないわよ。今までだって誰にもあげたことないし。どうして?」
「いやっ、ほら遠子ももう高校生だし、そういう人ももしかしているかなーと。
ほらあの部活の先輩?部長さんとか言ってる…あの子とかさ」
要の科白にに、朋が声を荒げた。
「冗談じゃないよ!あんな馬鹿に何で遠子がチョコレートやるんだよ」
そう言えば夏の合宿では二人は仲悪かったっけ、と遠子はぼんやり記憶を反芻した。
「だから、誰にもあげないんだってば」
「そうだよな。僕たちがもらえないんだから当然だよな」
「そうだよ。維純兄さんだってもらえないんだぜ」
「遠子、おまえの考えは正しいぞ。チョコレートなんかで愛情の度合いを計るなんてこの日本は間違っている」
「でも遠子の手作りチョコレートってゆーのはちょっと食べてみたいぞ。せっかく料理研究会なんかに入った訳だし…」
「何を言ってるんだ、遠子は何があろうと誰にもチョコレートなんてあげないんだよ」
…もしかして思いっ切りチョコレートを催促されているのだろうか。
要と朋の要点の掴めないやりとりを横で聞きながら、遠子はそう思った。
「六宮さん」
不意に維純の声が割りこんできたので、三人は一瞬固まった。
普段声を発することが極端に少ないので、維純の声を聞くと何事かと思ってしまうのだ。
ちなみに声を発するときは大抵怒っている。そのため余計身構えてしまうという条件反射だ。
「六宮さんがなんだって?」
いち早く状況を把握した要が維純に聞き返す。
「…と、誰だ?あの男は?」
呟くように続けた維純の視線の先を三人は辿った。
沙霧が通りを歩いている。
その隣を歩くのは和志。
遠子は思わず目を疑った。
「不思議な組み合わせだね」
要が一人ごちた。確かにそうだと遠子も思う。この二人が互いに好んで相手のそばに行くとはちょっと考えにくい。
でも今その二人が一緒にいる。何故?何をしてるの?沙霧の用事ってこれのこと?あたしに隠して、あたしを後回しにして。
『まさかあなた、「沙霧はあたし以外好きにならないわ!」なんて思ってないでしょうねぇ?』
湊の意地悪なセリフが浮かんで消えた。

「たっだいま〜!」
遠子よりもかなり遅く帰宅した沙霧は上機嫌だった。
ここ数日そんな日が続いている。
遠子はその理由を何故か追及できないでいた。
ことあるごとに遠子の周りをくるくるしていた和志も最近姿を見ないし。
沙霧が和志と二人で会って何かをしていることは明らかだった。
今日も噂好きなクラスメイトたちが話しているのを遠子は耳にしていた。
「昨日の帰り六宮さん見たんだけど、あの人…ほら、2年の料理研究会の人。何て言ったっけ」
「あー、あのちょっと変わってる。部長でしょ」
「そう、その人。その人と一緒に買い物とかしてんの。びっくりしたー」
「あたしもこの前そのツーショット見たよ。仲良いの?あの二人」
「釣り合わないよねぇ。高城さんから乗り換えたって訳でもないんでしょ」
「しっ、聞こえるわよ」
だいぶ前から聞こえてます。心の中でつっこみを入れながらも、遠子は無関心を装った。
初めに一度だけ沙霧に「何の用事だったの?」と訊ねてみたことがある。
けれど意味深な笑いと「それは秘密」という科白にあっさりかわされてしまった。
秘密にしておきたいのならあえて聞くまいと遠子も思ったのだが、隠し事するならするでもう少し慎重にやって欲しい。とりあえず本人の目や耳に入らない程度には。
今までの沙霧と和志の関係から見れば、さすがにクラスメイトの邪推は当たっていないと思う。
沙霧も普段と変わらず遠子にベタベタだし。
でも。遠子は釈然としない。
あたしに秘密にすることがあるなんて、何だかちょっと嫌だ。
すごく嬉しそうに帰ってくるし。
何だかよくわからないけど、すごく気になってる自分がいる。
このままじゃあのクラスメイトと同じ、妙な勘繰りをしてしまいそうで。
「何であたしがそんなこと…」
無意識に口に出した遠子を沙霧が不思議そうに見やる。
「何か言った?」
「何も」
「何か変なこと考えてたでしょ」
遠子を覗きこむ沙霧の瞳がいたずらっぽく光った。思わず遠子、動揺する。
「かっ、考えてないわよ」
「視線が彼岸に行ってた。考え事してる時の遠子ってすぐわかるんだもの。ずっ
と見てたの気付かなかったでしょう」
「…な…っ」
遠子は声をつまらせた。その頭をくしゃくしゃにかきまぜながら沙霧は笑う。
「冗談よ。遠子って単純」
「さ、沙霧に言われたくないわ」
図星を指されたと本気で焦ったのに。遠子は自分の真面目さ(決して単純さではない)を呪った。
「ひどいなー。でも遠子のそんなとこが好き」
沙霧と言えば平気でそんな言葉を口にする。
手で乱れた髪を整えながら、遠子は沙霧から顔をそむけた。
どんな顔をしていいのか、突然わからなくなったので。

そしてその日はやってきた。
バレンタインデー。
何だか嫌な予感はした。
でもそんなものは学校に着いた途端考えられなくなった。

「うわっ」
昇降口で沙霧は声をあげた。
遠子が沙霧の方を向くと、そこには漫画やテレビでしか見たことのない場面が展
開していた。
沙霧の上履きがチョコレートであろうカラフルな箱たちに埋まっていた。
「何これ」
「チョコレートじゃないの?バレンタインデーだし」
遠子に親切に教えてもらっても、沙霧は途方にくれるしかなかった。
この量の箱を一体どうすればいいというのだ。
「あたし袋か何かもらって来ようか?」
遠子は冷静に申し出た。
「い、いいよ、このままで」
「それじゃあんまりじゃない?」
心なしか沙霧が焦っているように遠子には見えた。
とにかく職員室にでも行ってみようと踵を返しかけた時。
「六宮さん」
沙霧の前に数人の女子生徒が立ちはだかった。
皆の目に強い決意のような光が見て取れる。
よもや果たし合いの申し込みか───そんなことがある訳がなく。
立ちすくむ沙霧の手に小さな包みが乗せられた。
「あ、あの。よかったら食べて?」
言った少女は小走りで立ち去って行く。それに勇気づけられたかのように残りの
少女たちも次々に箱やら包みやらを取りだした。
「手紙入れてるから読んでね」
「クラスマッチの時からファンです!」
「年上のおねえさまは嫌い?」
たちまち沙霧の手の中はチョコレートで一杯になった。震える瞳で遠子に助けを求める。
しかしそれ以上に強い視線で牽制してきたのはまわりの少女たちだった。
「六宮さんは渡さないわよ」
という無言の圧力が遠子に強くのしかかる。
急に苛立ちをおぼえて、遠子はその場を立ち去ることにした。
「あ、待ってよ遠子」
「モテモテね、王子様」
皮肉な捨てセリフと共に。

言ってしまった直後からひどい罪悪感が襲ってきた。
あんなこと言うつもりなかったのに。沙霧には何にも非は無いのに。
でも今更戻るのも癪だった。
こういう展開はある程度予測していたけれど、目の当たりにすると結構腹が立つ。
これが噂で聞く独占欲っていうものなんだろうか。
遠子は強く頭を振った。そんな訳無い。
そうよ、あの人たち、他にあげるような男の子はいないのかしら。
というか、何であたしが睨まれなきゃいけないんだろう。
大体沙霧も呆然としてないでもっと毅然とした態度をとるべきなのよ。
鬱々とした気持ちを持て余しながら、遠子は廊下をを歩いていく。
と、こちらをじっと見つめている少女が立っていることに気がついた。
視線が合うと同時に相手はこちらに向かって歩き出していた。遠子の前までやっ
てくるとおずおずと口を開く。
「あ、あの…高城さん、ちょっとお願いがあるんだけれどいいかしら」
見たことの無い少女だった。でもリボンの色から同じ1年だと判る。違うクラスの子なのだろう。どことなく卑屈な雰囲気が漂っている。
「お願い?何?」
「今、先生に頼まれて。一人じゃ出来そうにないから…」
ちょうどそこに自分が通りかかったということか。遠子は頷いた。
「うん、あたしでよければ」
「ありがとう。こっちよ」
少女は心底ほっとしたように笑って、先に立って歩き始めた。

少女は無言で先を歩いて行く。
遠子にしてもよく知らない相手だし、喋ることはあまり得意ではないので黙ってそれに従った。
というより、少女の背中が全ての問いかけを拒んでいるように見えたのだ。
やがて二人は体育館に着き、ようやく少女は口を開いた。
「あそこ」
体育倉庫を指差す。そして再びそこに向かって歩き出した。
「飛び箱を校庭に出して欲しいって」
「そうなの?それは一人じゃ出来ないわね」
重い鉄製の扉を押しやって、二人は体育倉庫の中に入った。
かび臭い匂いが鼻をつく。飛び箱は運が悪いことに一番奥に陣取っていた。
「こんなこと男子に頼めばいいのにね…」
そう言って飛び箱に手をかけた遠子だったが、ふと嫌な気配を感じて入り口を振
り返った。
少女は倉庫の外にいた。信じられないほど機敏な動作で扉が閉める。
遠子は慌てて扉に飛びついたが遅かった。扉はもうびくともしない。
「ごめんなさい、ごめんなさい!」
扉の向こうから声が聞こえる。謝るなら開けてくれと言いたかったがあまりの出来事に声も出なかった。
「今日だけなの。あなたを六宮さんに近づけるなって言われてるの…ごめんね、こんなこと本当はしたくないの」
その声は本当に自分のしたことに罪悪感を感じている声だった。遠子は力が抜けていくのを感じた。
「またお昼に来るわ。それまで悪いんだけどここで我慢して欲しいの。これ…よかったら」
床に近い柵つきの窓から何かが差し込まれた。文庫本だ。遠子は顔をひきつらせて笑うしかなかった。
「本当にごめんなさい、私を助けると思って…ごめんなさい」
声が遠ざかっていく。本当に一人取り残されてしまった。
『高城さん蹴落として恋人の座に収まろうとしてる女子はかなりいると見たわ』
これのことですか、先輩。
とりあえず言われるままここにいる必要はないだろう、と遠子は脱出方法を探した。
当然ドアは外から施錠されていて開かないし、窓にはどれも柵が付いている。
誰かくれば開けてもらえるだろうが、体育の授業でもない限り人は来そうにない。
大声を出しても遠く離れた校舎には届かないだろう。
そうだ、と遠子は鞄の中から携帯電話を取りだしたが、すぐに落胆した。
液晶画面にははっきり圏外、と表示されていたからだ。地方都市のこんな密室じゃ当然である。
アンテナが一本でも立たないかとうろうろ移動してみたのだが、無駄な努力だった。
「はぁ…」
後は体育の授業があることを祈るしかない。遠子は埃っぽいマットの上に座り込んで溜息をついた。
腕時計を見る。ホームルームが始まった頃だ。これからお昼までここで過ごさなければならないかと思うと気が滅入ってきた。何でこんな目にあわなければいけないのだ。あの少女は誰かに命令されたようだった。黒幕が誰かは知らないが自分の手を汚さないなんて卑怯極まりない。沸々と怒りがこみあげる。
気を紛らわすため、遠子は文庫本を手に取った。
表紙には「破戒・島崎藤村」と書かれている。
「はぁ…」
二度目の溜息を遠子はもらした。分厚いそれはいかにもな文学小説で、読み手を威圧していた。
もう少し面白そうな本にしてくれればいいのに。
言っても仕方がない。遠子は我慢して本を開いた。
しばらくは懸命に字面を追っていたのだが、やがて集中力が途切れてきた。
───寒い。
それはそうだ。二月の寒空の下、暖房も何もないこんな冷たいコンクリートの空間にいるのだから。
がちがちと歯を鳴らしながら遠子は自分の体を抱きしめた。
この薄汚れたマットにでもくるまりたい気分だ。が、さすがにそれは躊躇われた。
登校時のマフラーとコートがあるだけまだましなのかも知れない。
マフラーで顔を半分覆うようにして、遠子は目を閉じた。


ドンドン、という鈍い音で遠子は目が覚めた。
少しのつもりが意外に深く眠ってしまっていたらしい。
「高城さん、高城さん」
あの少女の声だ。腕時計を見ると既に12時を回っていた。
どうやら体育の授業はなかったようだ。体が冷えきっていて上手く動けない。
「も、もういいでしょ?早くあけてもらえない?」
遠子はドア越しに言った。けれどドアの向こうから返って来たのは無情な科白。
「それは…無理だわ」
「何で!?」
遠子は耳を疑った。まだここに居なければいけないのか?
「1日って言われてるのよ」
「冗談でしょう?いい加減にしてよ。ひどすぎるわよ。ここすごく寒いんだから」
「ごめんなさい、ごめんなさい」
少女は再び謝罪の言葉を連呼した。謝ればいいと思っているのだろうか。埒があかない。
「そう思ったからこれ、持ってきたわ」例の窓からカイロとコートが入ってきた。コートは多分彼女自身のものだ。
こんなものでこの寒さがやわらぐとは思えなかったが、少女がここから出してくれない以上、頂戴するしかなかった。
「あと、お昼ご飯」
お次はサンドイッチとジュースだ。
「…有難いけど、ねぇここから出してくれない?沙霧の近くにいなければいいんでしょう?」
「六宮さんがあなたの近くに行くわ」
よくわかってるじゃないか。
「じゃあ家に帰るわ、それでいいでしょう」
こんな所にもういたくなかった。けれど。
「…信じられないもの」
少女はにべもなく言った。程なくしてぱたぱたと遠ざかっていく音。
「嘘でしょ」遠子は愕然とした。

どうしようもないので遠子は借りたコートを羽織り、カイロを握りしめ時間が過ぎるのを待った。
お腹なんてまったく空いていなかったが、差し入れのサンドイッチを一口食べては床に置き、ということを繰り返して平らげた。少しでもカロリーを摂らなければ凍死するような気がしたからだ。
───あんなこと言ってしまったから、バチがあたってしまったのだろうか。
遠子は朝の出来事を思い返した。
きっと沙霧のファンの子たちは、沙霧と少し話が交わせるだけで嬉しいに違いない。それなのにあんな嫌味な態度とる自分って、きっとその子たちから見れば傲慢に映ることだろう。
少し反省しよう。遠子は思った。
でもこの状況はいくらなんだってひどすぎないだろうか。監禁である。犯罪といっても過言ではない。
ここから出たらどうしてくれようか。
遠子は腕を組んで思案した。
とりあえずあの子に誰に命令されたか聞きだしてやろう。腕力に自信はないが、文句の一つでも言ってやらなければ気が済まない。
…沙霧はどうしてるだろう。
突然あたしがいなくなったことを不審に思っていないだろうか。
意外と女の子に囲まれてデレデレしてるかも知れない。
あたしがこんな目にあってるのにそんな調子だったら許せないわ、と遠子の怒りは再燃した。
と。ドアの外に人の気配を感じて遠子は目を上げた。
「誰かいますかー?」
その声。 
聞き慣れたその声は紛れもなく沙霧のものだった。
どうして沙霧がここに?考える間もなく遠子は叫んでいた。
「沙霧?沙霧なの!?」
「嘘。ほんとに遠子?…何これ鍵かかってる…ちょっと離れてて」
次の瞬間大きな音を立てて鉄の扉がひしゃげた。その次の一撃ではもう原型をとどめていなかった。
これやばいんじゃ…?こんな時にさえ扉の心配をする真面目な遠子である。
「遠子っ!!大丈夫!?何も変なことされてない?」
沙霧は遠子を外に連れだすなり訊ねた。その怒りの形相に遠子は自分の怒りが吹き飛ぶのを感じた。
「だ、大丈夫」
「どういうこと?誰よ、こんな真似した奴は。許さないわよ、あたし」
ガアン、と沙霧は握り拳でドアを殴りつけた。もうドアとしての役目は果たせそうにない。
「殺してくれるわ。汚い真似して…」
その時体育館の入り口に人影が現れた。例の少女である。遠子と沙霧の姿を認めた瞬間、少女の動きが凍りついた。
その表情を沙霧は見逃さなかった。素早く体を翻すと少女に掴みかかる。
「あんたね?あんたが遠子をあんな目にあわせたのね!?」
少女は恐怖に声も出ないようだった。胸倉を掴まれて壁に押しつけられながら震えるばかりだ。
遠子は慌てて沙霧を止めた。
「待って、その子は違うの!ひどいことしないで沙霧」
「だって、遠子」
「誰かに命令されてやっただけなのよ、きっと」
「何ぃ?誰!?誰に命令されたの!言いなさいよっ!」
「ごめんなさい…ごめんなさい…」
「いいわよ、後で絶対吐かせてやるんだから。覚悟しなさいよ?ええ?」
床にうずくまり、「ごめんなさい」を繰り返す少女を見て沙霧は少し冷静になったようだった。
「どうしてあたしがここにいるってわかったの?」
遠子は訊ねた。忌々しそうに沙霧は口を開く。
「遠子は急に具合が悪くなって帰ったって聞いたから電話したけど、家も携帯もつながらないじゃない?昇降口には靴残ってたし。おかしいなと思ってたら朝体育館に向かう遠子を見たって人が出てきたのよ…今頃言うなっていうのよ!!遅いのよ!」
再び怒りがぶり返してきたらしい。沙霧は額に青筋を立ててまくしたてた。
「どうしてくれんのよ。あたしの計画がパーよ!何なのよ一体!あたしの1日を返しなさいよっ!!」
その剣幕についに少女は逃げ出した。
「あ、こら!」
追おうとする沙霧を遠子は全力で引きとめた。
遠子はと言えば既に怒るどころではなくなっていた。一番の被害者の筈なのだが、沙霧をなだめることで頭が一杯である。
そう、もう放課後なのだ。人気のなかった体育館も部活動の生徒たちがちらほら現れ始めた。遠子は早い所沙霧をなだめてここから立ち去りたかった。少女の顔も学年もわかっている。責めるのはいつでも出来ることだ。
「あのさ、計画って?」
「・・・チョコレート作ったのよ」
「え?沙霧が?誰に」
「遠子に決まってるでしょーが!!」
遠子は絶句した。
「それもただのチョコレートじゃないのよ。ケーキよ。生チョコデコレーションケーキよ。苦労したわ。…なのに、なのに帰ったってゆーから」
沙霧、肩を震わせている。こんなに興奮している沙霧を見るのは初めてだと遠子は思った。
「食べちゃったわよ。ワンホール全部食べちゃったわよ!?何よ。文句ある?遠子がいなくなるから悪いのよ!」
突然怒りの矛先を自分に向けられて遠子は困惑した。
…あ、もしかして。
「最近部長さんと放課後何かしてたのって…」
「そうよ。習ってたのよ、作り方。家にまで押しかけて、おばさんまで巻き込んで。普段は役立たずだけど今回は役に立つ…筈だったのに!あの馬鹿」
沙霧、誰彼構わず怒りをぶつけている。お門違いも良い所だ。
不器用で料理研究会でも味見専門な沙霧が作った生チョコレートデコレーションケーキ。
それはとても食べてみたかったような気がする。
でもそれを言ったら沙霧の怒りをさらに助長させそうなのでやめておこう。
生徒たちが体育倉庫のひしゃげたドアを驚いて見ているのを気付かないふりして遠子は言った。
「家でくれれば良かったのに」
「何言ってんの。みんなの前でこう切り分けてね、食べさせてあげるのが良かったのよ!そしたらあたしたちのラブラブぶりもアピールできたし…悔しい!!悔しすぎる───!!」
叫びながら地団太を踏む沙霧を何事かと見つめる生徒たち。
「はぁ…」
これで三度目。遠子は鞄の中に手を突っ込んだ。
「要するに、みんなにアピール出来ればいいんでしょ?」
そして平べったい箱を沙霧にさしだす。
「…何?」
「チョコレートだけど?」
沙霧の顔から怒りが消えた。
「え?嘘。何で…そんなことしないって言ってたじゃ…」
「今までは、ね」
沙霧は無言で箱を胸に抱きしめた。
「昨日慌てて高城の家で作ったから味は保証しないわよ。でもちょうどよく冷えてると思うけど」
「遠子…」
抱きすくめられて遠子は赤面した。いくら人前でアピールするとは言ってもここまでは羞恥心が耐えられなかった。
「沙霧、人が、人が見てるから」
「むちゃくちゃ嬉しい〜」
「沙霧っ!離れてってば!」
「今食べていい?ねぇねぇ」
「か、勝手にしたら?あたしは帰るわよ!」
沙霧を無理矢理振りきって、遠子は体育館を後にした。
「待ってよー」と沙霧が続く。
多分あたしたちはずっとこんな調子なんだろうなと遠子は苦笑した。

「上出来上出来」
声のした方に視線を移動させると、先輩三人組がにやにや笑いを貼り付けて立っていた。
どうも一部始終を見ていたようだ。
「何が上出来ですかっ。どんな目にあったと思ってるんです」
思わずくってかかる遠子。しかし三人は何処吹く風という態度だ。
「だからちゃんと忠告してあげたでしょうが。女は怖いって。まぁ、結果無事だったからいいじゃない」
「結果って…」
呆れたような顔をする遠子を尻目に三人は嬉々として話している。
「何だかんだ言ってサービス精神旺盛なんだから、高城さんは」と小林が言えば、
「でもちょっと物足りなかったわ、あたし」と紺野がぽややんと呟き、
「そうよね、やっぱりキスの一つも無いとね」とは湊のセリフだ。「ああ見えて六宮さんも押しが弱いわよね」
あまりに勝手な言い分に、遠子は三人に割って入った。
「何言ってるんですか!?お、怒りますよ!?」
「はいはい、王子様が来たわよ。あ、そのコートと本あたしたちが返しといたげるわ。一緒に帰んなさいよ」
湊に半ば奪われる形で、遠子は少女から借りていたコートと文庫本を渡した。
沙霧が遠子の隣までようやくたどり着く。
「あ、先輩方。何してんですか?」
「お姫様に王子様と一緒に帰ることをおすすめしてたのよ。…ところで今堀君…見てないわよねぇ」
小林が怪訝そうに眉をひそめた。
何でも先刻遠子にチョコレートを渡す、と気合を入れて教室を出ていったという。
遠子と言えば本当にさっき体育倉庫から出てきたばかりなのだ。見ている筈がなかった。
沙霧にしても同じようだった。
「何だ」と湊はつまらなそうに言った。「上手くいけば六宮さんとの対決が見れると思ったのに」
「…先輩!」
「冗談よ」
どうも遠子は三人の(特に湊の)いいおもちゃにされているようである。
「もう帰ったんじゃないですか?遠子早退したことになってたからあきらめて」
沙霧の意見はもっともだった。
「もしかしたら家まで行ってるかもね…まぁいいわ。もう帰ったら?まだ六宮さん探してる子いるみたいだったし。捕まったら長いわよ」
小林はそう言って二人の背中を押した。「お姫様もこのままじゃ風邪ひくわよねぇ?」
「じゃっ、そうします。帰ろ、遠子。先輩、あとはよろしくお願いしますね」
「はいはーい、気をつけてね」
三人の声を背に受けながら、遠子と沙霧は歩き出した。
沙霧の手が遠子の手を握る。遠子は何か言おうとしたが、やめた。
校門を出てしばらくの間沙霧は黙ったままだった。
どうしたんだろう、と遠子は沙霧の顔を覗きこんだ。瞬間、抱きすくめられた。
「沙霧…?」
「ごめん、遠子」
苦しげな声だった。抵抗する気なんて、一瞬でかき消えた。
いつものじゃれあいの抱擁とは違っていた。遠子はただ立ちすくんで沙霧の次の行動を待っていた。
「寒かったよね。ごめん、あたしのせいで嫌な思いさせちゃって。ごめんね、遠子」
背中に回された手に力がこもる。遠子は小さく喘いだ。
「遠子のこと守るとか言っておきながら、あたし何も出来なかった」
「そんなこと、ないよ。沙霧はちゃんと助けにきてくれたじゃない」
「あんなの…!」
また怒りがこみあげてきたのだろうか、忌々しそうに沙霧は目をつぶった。そんな彼女の背中を遠子はやさしく撫ででやる。
沙霧は時々ひどく不安定になる。その姿は普段からは想像も出来ないほど脆くみえた。
「言ったでしょ?沙霧はそばに居てくれるだけでいいんだって」
「でも、そんなのあたしは我慢できないのよ」
沙霧は遠子から腕をはずすと、額に手をかけて前髪をぐしゃっと握りしめた。「我慢できない」
「…わかったから。じゃあ今度から守ってくれればいいから。ね」
まるで幼児に言い聞かせるように遠子は言った。こんな言葉で納得してくれるとは思わなかったが、意外にも沙霧は素直に肯いた。
「早く帰ろ?あたしいい加減凍えそうよ」
「そう…そうよね、うん、早く帰ろう」
それから二人は家路を急いだ。
家に和志が来た様子はなかった。
その頃には沙霧も本調子に戻っていて、「やっぱりあきらめたのかしら?ま、あたし相手じゃ話にならないものね」などと言う始末。遠子は思わず突っ込んだ。
「一応チョコレートの作り方習ったんでしょ…」
「まぁ、そうなんだけどさ。役に立たなかったしね…あーわかったわかった、お礼の一つでも言って来るわよ」
そう言って沙霧は再び出て行った。

微かな物音で遠子の意識は戻った。
枕元の時計を見る。午前2時前。遠子は弾かれたように体を起こした。いつの間にか寝入ってしまっていたようだ。
あれからいくら待っても沙霧は帰って来なかった。沙霧は携帯電話を持っていないから連絡の取りようが無い。和志の自宅にも連絡を入れてみたが誰もでなかった。そのことがますます遠子を不安にさせた。
念のため高城の実家にも連絡してみたが、やはり何もわからずじまいだった。
沙霧のことだから事件に巻き込まれたということは考えにくい。
和志と何かあったのだと考えるのが妥当だが、こんなに遅くまで連絡もせず帰らない理由がわからなかった。
遠子は自室のドアを開け、リビングに出た。リビングは暗闇に沈んだままだ。
手さぐりで明かりのスイッチを入れる。
はたしてそこには沙霧がいた。びくりと肩を震わせ、遠子に背を向けたままの姿勢で立ちすくんでいる。その手には大きめの鞄が握られていた。
「どうしたの沙霧・・・?こんな時間まで何してたのよ」
問いかける遠子を無視して沙霧は玄関に歩いていく。驚いて遠子は後を追った。
「何処行くの!?」
肩を掴んでこちらに体を向けさせようとし、力任せに振り払われる。予想外に反応に遠子は愕然とした。
その時、ようやく沙霧は遠子に顔を向けた。
その顔。
多分一生、遠子はその顔を忘れることが出来ないだろう。
暗い瞳。
挑む様に遠子を射抜いた瞳には紛れも無い憎しみと殺意。
今まで見たことも無いような、そしてこの先も向けられる筈無いと思っていた表情で沙霧は遠子を見ていた。
「沙霧…」遠子は喘ぐ様に言った。「どうしたの…」
再び沙霧は体を返した。そして短く言った。
「さようなら」
遠子は耳を疑った。理解できない。
「何言ってるの?何処に行くの?何があったの?ねえ、どうして?どうしたのよ!?」
混乱を紛らわすように遠子は早口でまくしたてた。
訳がわからない、けれどとてつもなく嫌なことが起こりつつある、そのことだけはわかる。
沙霧はそれでも少し言い淀んだようだった。
遠子ははっきりその言葉を聞いた。
聞いてしまった。
出て行く彼女を止められない。
「あなたが嫌いなのよ」
あなたが嫌いなのよ。
あなたがきらいなのよ。
アナタガキライナノヨ。
遠子の頭の中を、いつまでもいつまでも反響し続ける…。


 (冬1・了)



《コメント》
…もしかして前回から一年半くらい経ってます…?
長い幕間だったね…マジで…。
これだけ間があいてよく続き書く気になったよあたし…。
ていうか覚えててくれてる人いるのか…。


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