冬2 六宮沙霧は駆けていた。 もう、かなりの距離を駆けてきたはずだ。心臓が壊れたように高い音を立てている。 だが足を止めるつもりはなかった。倒れるまで走るつもりだ。 一刻も早く、あそこから遠ざからなければならない。 自宅だった、あの場所から。 悲しいことに午前2時なんて時間に電車は動いていない。 ならば電車を待つまでもなく、自分の足で移動する。 始発が動く時間になれば最寄の駅から乗れば良い。そして、どこまでも遠くへ行くのだ。そう思っていた。 足がもつれた。さすがに限界が来たらしい。沙霧はアスファルトに倒れこんだ。 そのまま息を調える。白い息が現れては風に流れて行く。 先刻の出来事が不意に蘇ってきて、沙霧は顔を手で覆った。震えている。それは寒さの所為だけではなかった。 ポケットに箱が入っていることに気付いた。沙霧の顔は苦痛に歪んだ。 幸福な記憶。 それは何て人を弱くするものだろう。 あたしは弱くなった。遠子と出会ってから。 ほんの半日前のことなのに、沙霧にはひどく遠いことのように思えた。 このチョコレートがこんなに重いものになるなんて、その時の沙霧には思いもしなかった。 きっとこれを食べることはないだろう。でも、捨てることも出来ない。 「…っ」 沙霧は唇をかんだ。胸の底から湧き上がってくる感情を必死で押し留めながら、立ちあがる。 行かなくては。 彼女を目にすることがない場所へ。 「何処に行くつもり?」 視界の先に突然、人影が現れた。 その人物を認識するなり、沙霧は素早く体を翻した。けれど、鋭い衝撃を背中に受け、倒れる。 黒い服を着たその人物はうめく沙霧の肩を掴んで、引き起こした。 「そんなにあの子が大事なのか?」 耳元で囁かれ、沙霧は総毛立つのを感じた。 「それであの子から遠ざかろうと?単純だね。でもいいね、そういうの。友情だね。いや愛情かな」 街灯の僅かな灯りが相手の顔を照らしだす。 不遜な笑みを湛えた唇。その瞳の奥にはそこはかとない冷たさが宿っている。 今堀和志は腕を組んで沙霧を見下ろした。 「でも無理だね、それは。だって僕と君は会ってしまったんだから。そして、ほら、今もこうして君は僕に見つけられてしまった」 沙霧は俯いたままだ。 「すべて決まってたんだ。こうなることは仕組まれてたのさ。ねぇ沙霧。運命だよ。僕たちは逃れられないんだ」 「運命!?」 伏せられていた沙霧の瞳が見開かれた。立ちあがりざまに和志の襟を掴み上げる。 「お母さんがあんな死に方したのも運命だって言うの!?」 「そうだよ。だから今僕はここにいる」 「…人殺し…!!」 沙霧は泣いていた。「人殺し!!」 和志は力なく笑った。つと腕を上げてその涙を拭ってやる。 「一緒に行こう、沙霧。もう僕たちしかいないんだから。教えてあげるよ、僕たちのことやあいつらのことを」 「嫌…離して…離せ!!」 和志の頬に入る寸前、沙霧の拳は動きを止めた。悔しそうな沙霧の顔を眺める和志の表情は凶暴なものへと擦り変わっていた。頭を掴んで、自分の目を凝視させる。 「無駄だって言ってるのに…わからない子だな。ま、いいさ。今からわかるようになるから。大丈夫、今度はもう正気に戻らないようにしてあげる」 「嫌、嫌、嫌!!」 目を見開いたまま沙霧は絶叫した。 和志の瞳が青色を帯びる。それは紛れもなくメデューサの証。 力を失っていく沙霧に和志は優しい声で告げた。 「高城の一族を殺すんだ」 「つまりはこういうことだな」 高城要は眼鏡の弦を人差し指で押し上げて言った。 「あの料理研究会の部長が母親を殺して逃げている、そして六宮さんもそれに関わっているようだ、と」 沙霧が出て行ってから、遠子は一睡も出来なかった。 そうして混乱している内に父から電話がかかってきたのだ。 「今堀和志の母親が殺された」と。 これは偶然のこととは思えなかった。遠子も沙霧が出て行ったことを話して、すぐに集まろうと言うことになったのだ。 和志と沙霧は行方不明のまま。兄も父も犯人は和志だと思っているらしかった。 「部長さんはそんなことする人じゃないわ」 遠子は言った。しかし要は憂い顔で答える。 「でもそうなるとやったのは六宮さんってことになるんだよ」 警視庁に時々派遣で行っている要は、内部情報に詳しいらしい。 朋が訊ねた。 「他の人間の仕業ってことは考えられないのか?」 「うん、それ、それだよ」 不意に身を乗りだして要は皆を見回した。 「実はこれはまだ一部の人間にしか知らされてないんだけど、死因がね、尋常じゃないんだ」 「というと?」 「具体的には言いにくいんだけど、人の力によらない、つまりサイコキネシスか何かだってことさ。もっとも信じる人は少ないだろうけど」 皆の視線が一斉に維純に向けられる。 「…俺じゃない。わかってるだろうが」 不機嫌そうに抗議する維純。勿論それは皆わかっている。 だとするとどういうことになる? それまで黙って聞いていた父、夕也が大きく溜息をついた。 「どうしたの?お父様」 いつも穏やかな父の、あまり見ることのない苦渋の表情だった。遠子は言い知れぬ不安を覚えた。 「やったのは十中八九、今堀和志だな…」 「どうして?」 夕也は口元を隠すように手を組むと続けた。 「あれの以前の名前は六宮和志という。ほんの1ヶ月程の間だけだったが」 まわりの兄たちが息を飲むのがわかった。 「待って、沙霧ちゃんの六宮姓と一緒…?」 「そうだ」 夕也は朋を見て頷いた。 「あの二人は兄妹だ。母親は違うがね」 「沙霧、善人ぶった高城夕也が何をしたか知ってるかい」 沙霧は和志を見上げた。その瞳に以前の光はない。闇を映して暗く沈んだままだ。 二人は街から外れた廃墟で夜を明かしていた。もう二人に帰る場所はなかったから。 「父さんを殺したんだ。知ってるだろう、事故ってことになってるけどあれはあいつらが手を下したんだ。父さんを恐れていたからだ。研究所を追いだしただけじゃ飽き足らず、殺したんだよ」 そうか、と沙霧は思った。 父に良い思い出は正直言って、無い。自分のことをまるで…いや事実、実験動物の様に扱っていた。 けれど殺されたとなれば、それは許せないことだ。 「沙霧を引き取って育ててくれたのも同情や義務感からじゃない。監視するためだ。父さんの娘である君をね」 沙霧は口元に手をかけて、思案するような顔をした。 「なるほどね。出来過ぎてると思ったわ。遠子のそばに置いたのもそう言う訳…。で、あなたは?あなたはどうしていたの?」 「母さんに連れられて僕は父さんの前から姿を消した。この目のせいだよ。この目が悪用されるのを母さんは恐れたんだ。馬鹿だよね、悪用なんてしないのにさ」 言って右目を指差す。見た目は普通と変わりない、黒い瞳だ。 「そうね」 沙霧は肯いた。「あなたはメデューサだものね」 和志は言った。僕の本当の母親は高城涼子で、彼女と六宮剛との間の子供なのだと。高城夕也は父親から無理矢理涼子を奪って今の地位にいるが、本来のメデューサのリーダーは父なのだと。あの4兄妹の姿は別の未来の僕たちの姿なのだと。 「そうだろう、沙霧。じゃなかったら君はそんな化け物じみた体じゃなく済んだに違いないんだ。能力を隠してこそこそと人に紛れて生きなくて済んだんだ」 許せない。 その思いが突然胸を突き上げてくる。 そうだ、あたしはずっとプラナリアが母親だと思っていた。 素晴らしい能力なのかも知れないけど、人には言えなかった。 知った人は、気味が悪そうにあたしを見た。 この体を消してしまいたいと何度も思った。 「最後にあなたに会えて良かったわ」 やっと見つけた母親。プラナリアではなかったことを喜ぶ暇などなかった。血を吐いて、沙霧に懇願していたあの姿が瞼から離れない。 「和志を、和志を、止めて」 悪夢だった。部屋中血だらけだった。そして母親、今堀夏紀は事切れた。 多分沙霧は絶叫していた。けれど錯乱していて何と言ったのかよく覚えていない。 背後に放心した和志が立っていた。血まみれだった。返り血だ。 「母さんが悪いんだ」 頭を抱えて、その場にくず折れる。 「ひどいよ、こんなことずっと黙ってるなんて」 「部長…あなたがお母さんを…?」 沙霧の声など聞こえていないようだった。ただ震えるばかりだ。 「高城さん…僕の妹だって。何で…?こんなに好きなのに…何で今頃そんなこと言うんだよぉ?」 「部長…」 怒りも悲しみも感じることを忘れ、沙霧は和志を眺めた。ただ呆然と。 「は、はは、もう、どうだっていい。もう嫌だ。もう、終わりだ…僕が…僕が母さんを…」 そして、今までの和志は消えた。 「殺すつもりはなかった。あの時は感情が高ぶってコントロール出来なかったんだ。…悪かったとは思っている」 「わかっているわ」 母親の死。それすら今の沙霧には既に遠い出来事になっていた。 「でもおかげで僕は僕に戻れた。僕の力と、使命を完全に思いだすことが出来たんだから。全て知った上で実の子でもない僕を大事に育ててくれた…最後にいろいろ教えてくれたし…彼女には感謝しなくてはいけないな」 「そうね」 抑揚のない声で沙霧は答えた。 「わかっただろう?今置かれてる状況はすべてあいつらのせいなんだ。僕らこそがあそこにいるべき人間なんだ。高城家に貢献した父さんをあいつらは仇で返した…父さんの遺志を継いで、僕らは彼らに報復する」 和志は力強く言った。沙霧も同調する。 「さて、どうしてくれようか」 嫌いなのよ、と彼女は言った。 そのことが頭を離れない。何で突然彼女がそんなことを言ったのかわからない。 自分を見た、あの憎悪の瞳の意味もわからない。 あたしが何かしたんだろうかと遠子は考えた。何も思い当たらない。あたしが鈍感で気付かないだけ? 和志と何かがあったのだろうということしか、今の所はわからない。そのことがひどくもどかしく遠子を苛立たせた。 でも嫌い、と彼女は言ったのだ。 どうして? 何度も繰り返した疑問が頭の中を回り始める。 バレンタインデーの翌日、教室の沙霧の机の上には置きっぱなしのチョコレートが山と積まれていた。 それはひどく空虚な風景だった。今日持ち主がそれを取りに来ることはないだろう。もしかしたらこの先もずっと。 和志の母親の殺人事件は既に学校中の話題になっていた。そして和志が行方不明ということも。 ここでも犯人は和志ではないかという噂で持ちきりだった。 沙霧も休みだったが有難いことにそれと事件を結びつける者は少なかった。 二人がここ数日一緒に行動していたことを知る何人かの生徒は二人で逃避行したんじゃ?などと言っているようだったが、あくまでも冗談のようだ。 …本当に嫌われてしまったのだろうか。 遠子は考え続ける。 そうだ、彼はメデューサの疑いがある、そう父が言っていたではないか。 今思えば以前、道成諒と話をした時、帰り際に彼が呼びとめてこう言ったのだ。 「今堀和志には気をつけた方がいい」 特に気に留めないようにしてきたが、あの言葉はこのことを指していたのだろう。 六宮博士は能力者に異様に執着していた、と父は話した。そしてついに秘密裏に母涼子の卵子と自分の精子を使ってメデューサを作ろうとした。しかもその受精卵は本来の妻、夏紀に着床させて産ませたという。夏紀との子ということにして。それが今堀和志。しばらくしてからそのことを知った父は六宮博士を追放した。追放されたこと自体は知っていたが、そんな事情があったなど知りもしなかった。 気味が悪い。聞いた時遠子は背筋に悪寒が走った。そこまでして能力者の子が欲しかったのだろうか? しかしそれよりも驚いたのはそうなると和志と自分たちは兄妹になるということだ。 和志を見て維純に似ていると思ったのもそう考えれば納得が行く。 知らなかった事実を次々と知らされて、遠子の脳は飽和状態寸前だった。 そう、沙霧のことだ。 それが本当で、もし自分と同じ能力を持っていたとすれば…和志が沙霧を洗脳することはたやすい。 でも何のために?あたしを嫌わせる必要がある?そもそもそんなことをするような人ではない。 家に帰っても沙霧が帰ってきた様子はなかった。 もしかしたらと微かに期待していたのだが、やはり裏切られた。 本当に一人になってしまった。 一人で住むにはあまりにこの部屋は広すぎる。そして思い出がありすぎる。 呆然として遠子は床に座り込んだ。 まだ昨日の今日じゃないか、そう告げるもう一人の自分がいる。きっと戻ってくるよと。 でもそんな訳がない、あの言葉とあの瞳がそれを物語っていたじゃないか、という思いが全てを打ち消す。 ノブが回る金属音。 沙霧が帰ってきたのかと遠子は目をあげたが、入ってきたのは維純だった。 「…どうした」 維純はぶっきらぼうに訊ねた。勝手に入ってきてどうしたもないだろう。 「兄様こそ何の用?」 「六宮さんが帰るまで家に戻れ。迎えに来た」 そう言って維純は遠子の横に座った。 「…大丈夫だ。きっと帰ってくる」 向こうを向いたままの兄を遠子は見た。緊張の糸がぷつりと切れた。 涙が堰を切ったかのように溢れてくる。 「あたし、嫌われ、たの、沙霧に。もう、戻って、こないかも、知れない」 喉がうまく声を出してくれない。しゃくりあげる遠子を維純は黙って見つめた。 沙霧のいない生活。 そんなこと考えられなかった。 いつもあったもの。あると信じて疑わなかったもの。 それはいとも簡単に消えてしまうものなのだということを遠子は知った。 もう抱きしめてくれる腕も、やさしく見つめる瞳も、遠子と囁く声もないのだ。 「嘘つき…沙霧の嘘つき!守るって言ったくせに。もう信じない。誰も信じないわ」 涙をこぼす遠子の瞳が淡く青に染まった。 遠子と沙霧の再会は意外に早く訪れた。 登校途中の遠子の前に、突然沙霧は現れた。 「意外に元気そうね、遠子」 何事もなかったように声をかける沙霧を、遠子は信じられない思いで見つめていた。 何か言おうとして口を開きかける。 しかし言いたいことが山ほどあるのだろう、どう言葉にしていいのかもどかしそうに顔を紅潮させた。 沙霧はそんな遠子を見て微笑した。彼女らしいと思ったのだ。 「何してたのよ…心配したのよ」 遠子はようやくそれだけ言った。沙霧の目が細められる。 「ごめんね、遠子」 沙霧の腕に抱きしめられた遠子は言葉を失った。失ったとばかり思っていたものが今戻ってきた。 その喜びに打ち震えているのが沙霧にはわかる。 「遠子」 そのまま唇を重ねようとする。 遠子は反射的に相手の体を突き飛ばしていた。体のバランスを崩して、沙霧は背後の壁に手をついた。紅潮した遠子の顔を見つめる。瞳が困惑の色に揺れていた。 「…そう」 沙霧は表情を消して言った。 「あなたはあたしを受け入れてくれないのね」 今までの沙霧ではない、そう遠子は感じたらしかった。 「何を言ってるの…?」 「あなたのことはあたしも和志も好きだったし。あなたさえよければあたしたちと一緒に来て貰おうと思ったんだけれど。無理よね、やっぱり」 「和志?部長と一緒にいるの?」 遠子を見る沙霧の目は何処までも冷たかった。遠子は凍りつくような感覚をおぼえた。 どうして?どうしてそんな目で見るの? 「またお邪魔するわ。その時はあなたたち高城家が終わる時よ」 踵を返す沙霧の腕を遠子は掴んだ。言葉の意味なんて、はっきり言ってどうでもよかった。またいなくなってしまう、それが耐えられなかったから。 「何を言ってるの?沙霧、あなたまさか部長に何かされたの?」 「…離して」 「行かないで、お願いだから何処にも行かないで…!あたしにはあなたが必要なの。あたしのこと守ってくれるって言ったでしょう?好きだって言ってくれたじゃない」 沙霧の瞳が暗く光った。 「笑わせないでよ、世間知らずのお嬢様。悲劇のヒロイン面しないでちょうだい。自分がどれだけ恵まれてるか考えてみることね。欲しいものをすべて持ってるあなたをあたしがどれだけうらやんで、嫉妬してたかあなた、知らないでしょう」 遠子は顔をこわばらせた。思ってもみなかったことを、そして聞きたくなかったことを聞かされた表情だった。満足そうに沙霧は笑った。 そう、もっと絶望しなさい。その顔をあたしは見たいの。 「何を期待してたか知らないけど、あなたのことなんてこれっぽっちも好きじゃないわ。あなたはいるだけであたしに劣等感を抱かせるんだもの。どうしたの?言葉も出ないようだけど」 青ざめて遠子はうつむいた。唇が震えている。 そんな遠子を眺めて沙霧は言った。楽しげに。 「話は終わりね。来てくれなくて残念だわ。じゃあ、また」 遠子はしばらくショックで動けなかった。 沙霧があんなことを言うなんて。あんなことを考えていたなんて。 和志にマインドコントロールされているからだとしても、以前からあんな鬱屈した思いを奥底には秘めていたのかもしれない。 真実だとしても、聞きたくなかった。 あたしは甘えていたのだ。ずっと沙霧のやさしさに。 その笑顔の裏に何があるかなんて考えたことなかった。 沙霧は自身の過去を話したことはないし、それについて恨みがましいことを言ったこともない。 だから、辛い思いをしてきたのは自分だけだと思いこんでいた。彼女も能力者で、しかも複雑な環境で育ったと言うのに。 彼女のやさしさを当然だと思っていた自分を遠子は呪った。 あたしは何て鈍感なの。どうしてもっと彼女をわかってあげられなかったの。 沙霧はあたしなんかと一緒にいない方がいいのかも知れない…。 沙霧の去って行った方向に目を向ける。 違う。弱気になるな。 どんどん沈んで行く気力を無理矢理に引き上げる。 ここで泣いて落ち込むのは簡単だ。でもそれじゃあたしは弱いままだ。 手を握りしめる。 彼女が何を言おうが考えようが。 それでも、あたしに沙霧は必要なのだから。 高城家を終わらせると沙霧は言っていた。つまり、もう一度自分たちの前に現れると言うことだ。そしてその時は多分和志も一緒の筈。 いいだろう。 あたしが沙霧と部長を元に戻してあげる。 沙霧が元の沙霧に戻るなら、あたしは何だってするだろう。 使いたくなかったこの瞳の力も何度だって使ってやる。 こんな時に使わないで一体いつ使うと言うのだ。 さあ、早く。 ───殺しに来なさいよ。 「おあつらえむきだね」 和志は口笛を吹いた。 「家族揃ってお出迎えとは」 高城家の庭に降り立った和志と沙霧の視線の先に目的の五人はいた。 至る所に監視カメラと防犯システムがあるから侵入者がいればすぐわかる様になっている。 もっとも二人にそんなものは関係なかったが。 四人を守るように維純が立っていた。使えるのはどうせこいつと遠子だけだ、和志はそう思って笑みを浮かべた。 「わざわざ出てこなくても良いのに。死ぬのが早まるだけだよ」 そう言って手始めに朋に狙いを定める。 「うわ!?」 奇声をあげて朋は後ろに弾き飛ばされた。地面が芝生だったから大した怪我はないようだったが、能力を誇示するには充分だった。 「やっぱりサイコキネシス能力を持っているのか」 「それだけじゃないよ」 夕也の問いに答えて、和志は沙霧に視線を走らせた。それを受けて沙霧は跳躍した。 全体重をかけて維純の上に降り立つと、首を絞めあげる。 沙霧が相手だからか維純は力を使うことを躊躇っていた。要と遠子が沙霧の体を引き離そうと掴みにかかる。 「…マインドコントロールまでも…」夕也は舌打ちした。「やはり始末しておくべきだったか」 「やっと本性を現したな、高城夕也」 嬉しそうに和志が笑う。その瞳に凶暴な光が輝く。 「すべて六宮の仕業か。この時のためにあいつが仕組んでいたというのか。その人格も、能力も、沙霧も」 「そうだよ。偉大な科学者だった父さんはあんたに殺されることも全てわかってたんだ。あんたに父さんは全て奪われた。息子の僕がそれを取り返してやろうと言うんだ。至極まっとうなことだろうが」 「何がまっとうだ!勝手に…勝手に涼子の子供など作りおって…俺は認めん…何が偉大な科学者だ。ただの狂人だろうが」 「言いたい事はそれだけか?」 和志の瞳が青く輝いた。 「維純と遠子の二人分だよ。おまえの子供より僕の方が優秀なんだ。死ねよ」 夕也は瞠目した。目を逸らせない。口から血が溢れてくる。 瞬間横からの激しい衝撃で和志は能力の使用を中断させられた。右肩から地面に倒れこむ。何が起きたのかわからない。肩に激痛が走った。 頭を動かすとそこには沙霧を振りきった維純が立っていた。青く燃える瞳が第二波が来ることを告げている。 和志は素早く起き上がって受ける体勢を取った。衝撃が目の前で弾けて消えて行く。 「邪魔するな」 「…!」 和志の瞳を見た瞬間、維純は倒れた。ぴくりとも動かない。 「に…兄さん、兄さん!?」 そばに倒れたままだった朋の顔色が恐怖に彩られた。 「殺してはいない。後で始末してやる。沙霧、何をしてる?さっさとやれ」 沙霧の方を向いて和志は言った。 その声に反応して要は遠子の前に立った。何処から取りだしたのか、ナイフらしきものを持って遠子をかばう体勢になる。 面白いものを見るように沙霧はその様を見た。嘲けるような笑みを口の端に浮かべる。 「サイコメトリーのおぼっちゃん。そんなもので遠子を守るつもりなの?」 話に聞いていたものの、その変貌ぶりに要はショックを隠せないでいた。 信じられないといいたげな表情で沙霧を見る。 遠子はそんな兄の肩に手を置いた。 「兄様、沙霧の言う通りよ。そこをどいて。あたしが相手をするわ」 その日の遠子は眼鏡をかけていた。能力をセーブするメデューサ用のものだ。 それを外して投げ捨てると一歩前に出る。 ぎくりと沙霧が動揺したのがわかった。まさか能力を使うとは思っていなかったらしい。遠子が自分の能力を忌み嫌っていることはよく知っていたから。 視線が絡み合う。もう沙霧は目を逸らせない。 「あ…」 青い瞳の中に吸い込まれるような感覚。暗い感情がまるで浄化されていくような。 「あたし…」 目が覚めたような気がした。 ずっと暗い負の感情の中を漂っていたような気がした。 記憶がなくなった訳ではない。沙霧は今まで自分がしていたことに衝撃を受けた。 どうしてこんなに彼らが憎かったんだろう。今あたしは彼らを殺すためにここに来ているのだ。 そして、たった今遠子をも殺そうとしていた。憎くて仕方なかったのだ。 「沙霧、沙霧?」遠子が顔を覗きこんでくる。「戻った?」 「遠子、あたし…」 遠子に触れようとしたその時。 「何をしているんだ、沙霧!まさか、戻ったのか」 和志が走ってくる気配がした。 沙霧は戦慄した。このままではあたしはまた彼の言いなりになってしまう。遠子が再び戻してくれる保証はない。和志はサイコキネシス能力も有しているのだ、遠子に勝ち目はない。 自分が何を言ったのかも記憶にしっかり刻み込まれている。あたしはまた遠子を傷つけ続けるのだ。身も心も、両方を。そんなことは耐えられなかった。 「沙霧に近づかないで」 遠子の声が聞こえる。見ることが出来ない。和志と目があったら最後だ。 「どけよ」和志の声。続く衝撃音。遠子が弾き飛ばされた音だ。 沙霧は地面を蹴った。立ちすくむ要の手からナイフを奪い取る。 「あなたの言いなりには、もうならないわ」 振り上げて、右目を突いた。続けて左目。 鮮血を飛び散らせながら、沙霧は倒れた。ナイフを左目に刺したまま。おびただしい血が沙霧の顔を赤く縁取っていく。 時が凍りついていた。皆動くことを忘れたかの様だった。声さえ出なかった。 「い…」 最初にかすれた声を発したのは遠子だった。 「いやああああああああ!!!」 悲しみと絶望に彩られた絶叫。遠子は這うように沙霧の所に移動するとその体を抱き起こした。ナイフを引き抜く。新たに吹きだした血が遠子の顔を服を染めた。 「沙霧!沙霧、しっかりして…嘘だ、こんな…こんなことって…」 かなり深く刺さっていた。沙霧の治癒能力は知っていたが、この分じゃ間違いなく脳に達している。脳に損傷を受けると治癒能力が著しく落ちる、もしくはなくなることを遠子は知っていた。 体の震えが止まらない。それが怒りのせいなのか悲しみのせいなのか恐怖のせいなのか、もう遠子には判断がつかなかった。 和志は呆然としていた。予想外の行動だったらしい。 遠子は和志に掴みかかった。 「よくも…っ、よくも沙霧を…あんたのせいよ!どうしてくれるのよ、ええ!?」 「…沙霧…どうして…」 「沙霧が死んだらあんたを殺すわ。絶対殺す」 「沙霧は死なない。プラナリアの遺伝子を持ってるんだから…」 「限界ってものがあるのよ!!わかるでしょう!?」 「…僕たちが負ける筈ないんだ。…僕たちは優れているんだから…」 和志の目はもう遠子を見ていなかった。よろよろと沙霧の元に歩いていき、跪く。 血に濡れた頬に愛しそうに触れる。遠子はその様に少し冷静になった。 彼は彼なりに沙霧を愛していたのかも知れない。一概に彼を責めることは出来ないのかも知れない、そう遠子は思った。 「沙霧…どうして…僕を裏切ったの?僕たちは世界でただ二人の…」 言い終えることは出来なかった。瞬間銃声が響き、和志は沙霧に覆い被さるように倒れた。 何が起きたのかわからない。振り向くと拳銃を構えた父が視界に現れた。 「…手間取らせおって」 口元の血を拭いながら、吐き捨てるように呟く。 兄たちの唖然とした顔が見える。多分、遠子も同じような顔をしている筈だった。 「どうして…?」遠子は問うた。「どうして撃ったの?」 「どうしてだって?」逆に夕也は訊ねてきた。「決まってるじゃないか、私たちを殺そうとしたんだぞ?それに遠子、今おまえも殺すと言っていた」 父親が急に子供の様に見えた。 「それは逆上してたからで…殺す必要ないじゃない、あたしが元に戻したわ」 「こいつらは六宮の亡霊だ。生かしておけばいつまたこんなことになるかわからない。今まで仏心を出して生かしておいたのが間違いだったんだ」 そして遠子は信じられない光景を見た。 父が拳銃の銃口を沙霧に向けたのだ。 「父さん…!」要が声をあげた。 「何をしてるの!?冗談はやめてよ、お父様」 遠子は懇願した。 「そんなことしなくても死にかけてるでしょう!?お願いだから、やめて」 「…化け物だからな、油断は出来ない」 撃鉄を起こす音。血が引いて行くのがわかる。 彼は躊躇いなく引金を引くだろう。そうしたらあたしは一生父親を恨んで生きていくのだ。 二度目の銃声が庭に響き渡った。 (冬2・了) 《コメント》 これ、9バージョン目です。 ほんとに、ほんとに、ほんっっとに今回の「冬」は書けなくて困りました。 もう、どうしようもなく説明くさくなるんですよ、何度書いても。 夕也と夏紀の語りで半分は終わってしまうという状況。 ということでかなり端折りました。 |