第3章

 ――それで、アルテス先生は何て?
 それがさぁ、『遊んでばかりいないで、協会に入って魔術の勉強をしたらどうだ?』だって。
 ――あはは、先生らしいや。でも、才能ないのに魔術の勉強したって仕方ないのにね。
 あー、ひどいなぁ、もぉ。
 ――だけど、魔術まで身につけたらフレイはもう怖い者なしだね。最凶だよ。
 ちょっとレオン、それってどういう意味よ!? 最強、でしょー!
 ――ごめんごめん。でも、僕なんかヴァレス先生に「素質はある」って言われてるのに上達しなくてさ。
 もうすぐ試験なのにねぇ。じゃあ今回もまた落第かな?
 ――うー。人が考えたくないことをあっさり言わないでよ。……今日は、お使い?
 そう。父さんが忘れ物したから届けに来たの。父さんは塔の方?
 ――うん、最上階にいるよ。……ところでさ。明日、暇?
 明日? うん、明日は特に何も予定入れてないけど。
 ――じゃあさ、この前出来たケーキのお店に行ってみない?
 ケーキぃ? うわぁ、甘そぉー。
 ――大丈夫、大丈夫。甘さ控えめなのも結構あるから。
 うーん。……おごり、だよね? だったら行くけど。
 ――ちゃっかりしてるなぁ。いいよ、おごるよ。
 ほんと!? わーいレオンありがとー!


 ……全てが、遠い昔の出来事のよう。
 彼とそんな他愛ない会話をしたのは、つい先日のことだったのに。
 それなのに、その日――あの悪夢の日から、全てが崩れ去った。
 何の変化もない、しかし楽しい生活も。幸せな毎日も。そして……淡い想いも。
 何もかも。


「シャディールくんが?」
 耳馴染みになった声が聞こえて来て、フレイ――フレイア=サティスロードは意識を取り戻した。
 どれだけ眠っていたのだろう。瞼を開くと、視界に入って来たのは夕焼けに染まった木々や人家、そして土埃の舞う路だった。
「!?」
 一瞬ぎょっとしたがすぐ現状を把握し、軽く息を吐いて自分の持ち物を確認するフレイ。剣は鞘に収まって、腰に佩いたまま。荷物を入れていた麻袋は――持っていない。
 顔を上げると、前方を少年とカラスが飛んでいた。その蒼いローブを身に纏った少年・リュース=ヴォルロイドの背中に自分の麻袋を確認して、再度息をつく。眠っているフレイに持たせたままだと途中で落としてしまうからという配慮なのだろう。
 ――ほんと、人が良いなぁリュースって。
 心の中で呟き、小さく苦笑する。
 魔術師大量虐殺の罪で指名手配されているフレイを、いくら協会のマイスターの依頼といえども、自分の管理している博物館へ捕縛もせず案内しているのだから。
 あの後向かった役所に行ったときに突き出されるかと思ったのだが、彼はそうしなかった。そしてその代わり、彼は捕らえた黒狼一団を役人に引き渡し、細かい手続きを全て自分だけで行ってくれたのだ。
 その間、役所の中に入りたくなかったフレイは外の木陰で待っていたのだが、いつの間にやら眠ってしまったらしい。そのままリュースの飛翔呪文で運ばれている、という状況なのだろう。
(みんな何で起こしてくれないかなぁ、もぉ)
 心の中でぼやきつつも、そんな自分が信じられなくて何度目かの自嘲を浮かべる。

 他人の前で眠ってしまうなんて、不覚だなぁ。いつもならそんなこと、絶対しないのに。

 それからフレイは前方の会話に耳を傾けた。彼らはまだフレイが目を覚ましたことに気付いていないようだ。
 カラスが――正確には、大怪我を負ったためカラスに自分の精神を移して行動している協会のマイスター、ハリス=エンディミアが言葉を続ける。
《そうだ。どれ程前になるかな、薬草を摘みに行ったときに川辺で倒れているシャディールを見付けてな。崖から落ちて、川に流されたのだろう。…………》
 と、その声が一瞬途切れる。ハリスがこちらを見たような気がして、フレイは思わず身体を強張らせた。
「? どうかしたんですか?」
《いや、何でもない。……シャディールは物心つくと同時に魔力が覚醒したらしい。両親はそんな彼が脅威に思えたのだろう。悪魔の力を持っているといって魔力を有する者を排除する村もあるからな……あくまで私の推測だが》
 会話は、そのまま続行されている。フレイの目覚めにハリスが気付いたか気付いていないかは分からないが、少なくともリュースには気付かれていないようだ。
「それは……シャディールくんが、ご両親の手で崖から――ということですか?」
《ああ、子供にとってこれ程つらいことはないだろう。お前たちは皆、肉親との縁が薄いな》
「そう、ですね……」
《お前の両親は黒狼に殺されたのだったな。先程役所で黒狼たちの話を聞いたのだろう? 彼らは何と言っていた?》
「………………………………………色々と」
《まぁ、話したくないのならば無理には聞かないが。それで先程から沈んでいるのだな?》
「……僕さえあの場にいれば、父も母も殺されなかったのではと思えて……」
《悔やんでも死んだ者は還って来ないぞ。自分の腕を磨け。お前の力が、生きている者の役に立てるように――独学で難しいようなら協会に来ると良い。私が指導してやろう》
「ありがとうございます。……ハリスさんって、本当に協会のマイスターなんですね」
《……今まで私を何だと思っていたんだ》
「すみません。人間の姿のときを拝見してないので、どうしても――」
《お喋りなカラスに見える、か? マイスター云々を除いたとしても、私は魔術師協会にその人ありと言われたハリス=エンディミアだぞ、伊達に三十年も生きておらん》
「さっき確か三十四って……」
《……。えーっと、どこまで話したかな――そうそう、呪文についてだったな》
「三十四……」
《だが、人には――聴いているのかリュース?》
「……。はい、続きをどうぞ」
《よし。……人には唱えたくとも唱えることが出来ないものがある。例えばシャディールは一通りの呪文は唱えられるが、飛翔と水系の呪文は唱えられん》
「それは……もしや、さっきのお話の後遺症で、ですか?」
《意識下で恐れているのだろうな。だから私も、心の傷が癒える頃に少しずつ覚えてくれれば良いと思っている》
「シャディールくんをとても大事に思ってるんですね。何だか、本当のお父さんみたいです」
《あんな大きな子を持つような歳ではないぞ。私はまだ二十四で――》
「……………………」
《ま、まぁ、そんな訳で、魔術はさして問題ないのだが、性格がな。よく辛辣な発言をしてしまうのだ。協会でもどれだけの者を怒らせたことか――フレイアにも、悪いことをしたな》
 最後に付け加えられたその言い聞かせるような言葉に、寝たふりをしたまま聞いていたフレイはハッとした。彼はやはり、先程からフレイが目覚めたことに気付いているのだろう。
(さすがはマイスターだな)
 フレイが小さく唸っているうちに、リュースが口を開く。 
「でも、シャディールくんは何故あれ程フレイに?」
《あいつの友が、塔の事故のときから行方不明なのだ。生きているのか死んでいるのかすら分からん。……だからあれ程苛立っていたのだろうな。気を悪くさせたのだったらすまない》
「いえ僕は……。でも、友達――ですか? それだけではないと思うんですけど」
《? シャディールはまだ十だ、婿には出さんぞ!?》
「は!? ……あ、いえ、そういう意味じゃなくて。勿論、お友達のことも心配なんでしょうけど」
 リュースはクスクスと笑ってから言葉を続けた。
「ところで、シャディールくんの話に出て来たレオンという人は、フレイの……?」
《ん? ああ、レオンか。私も詳しくは知らんがな。恐らくは――》

「あーっよく寝た――っっ!」

 二人の会話を遮るようにフレイが慌てて大きな声をあげ、力一杯伸びをする。
「あ、おはようフレイ」
 振り返ってにっこりとリュースが微笑み、ハリス――彼は自分の羽で飛んでいた――は、さり気なくフレイから視線を逸らす。
 口笛でも吹いて誤魔化そうとしているようだが、カラスのくちばしではそれも出来ないようだ。
 彼を軽く一睨みしてからフレイがリュースに向き直る。
「あー、うん。おはよ。えーっと、今どこ?」
「役所から博物館に向かってるところだよ。もうすぐ着くから。……シャディールくんは後ろにいるよ」
「後ろ?」
 振り返るとフレイのずっと後方の宙に、丁度こちらへ背を向けるようにしてシャディールが浮いていた。リュースの魔力で、そのままの格好でこちらに運ばれて来てはいるが。
「ハリスさんが『誰かにつけられてる』って言ったから、監視してくれてるんだよ」
「つけられてる? ……黒狼の奴らとか?」
 フレイの言葉にリュースは軽く首を振り、ハリスの方を見遣った。自分には分からない、と言いたいのだろう。
《そこまでは分からなかったが……探ってみようか》
 そう言うとハリスはリュースの肩に留まり、意識を集中するかのように羽をピンと伸ばした。そして数瞬後。
《……………気配が消えたな。私の気のせいだったか……?》
 小さくそう呟き、ハリスが唸ってからリュースとシャディールとにその旨を伝える。
 その途端にシャディールがフレイの前、ハリスたちのところまで戻って来る――正確には彼の意志と、リュースの魔力とで戻って来た、となるのだけれど。
《すまなかったな、シャディール》
「別に良いけど。用心しすぎるってことはないしさ」
 言ってから、シャディールは振り返ってフレイに視線を移すと肩を竦めてみせた。
「それにしても。お前、この状況でよく眠れるよな。図太い性格」
「うるさいなー。睡眠不足は乙女の美容と健康の敵なんだからね!」
「ケッ」
 シャディールは「誰が乙女だ」と毒づき、前方に視線を戻した。そんな彼を一瞥してからフレイが自分の手を見下ろす。
 身体に染みついてしまった匂いは、いくら洗っても完全に消し去ることなど出来ない。きっと鼻を近付ければ、匂って来るだろう――血の匂いが。
 しかし。
(あーもぉ。あたしってば今日はどうかしちゃってるわ。鬱になったってどうしようもないじゃないの)
 見下ろしていた手を軽く握る。
(あたしがあの人たちを殺しちゃったのは疑いようのない事実。でも――そう、ハリスが言ってたけど、真実は違う。大体あたしは、あのときのことをはっきりさせるために屋敷を飛び出したんじゃない)

 ――だから真実が分かるまでは、落ち込んでなんていられない。

「よっしゃあっ! 元気出たっっ!」
 フレイが握り拳を作って力一杯気合いを入れる。大声を出すことが、彼女の気分の入れ換え方なのだ。
 と、その声に驚いたらしい三人がほぼ同時に振り返って来る。
「どうしたのフレイ?」ときょとんとしたリュースの声。
「何喚いてんだよ」と呆れたシャディールの声。
 そしてハリスは。
《空元気もそのうち本物になる。ま、気楽に行くと良い》
「…………う、うん」
 頷いた後で「やっぱり侮れん奴」とフレイは呟き、パン、と更に気合いを入れるため頬を軽く叩いた。
「……」
 フレイのその様子を見ていたシャディールが、しばらく逡巡してからすっと後ろに下がって来る。そして、ぼそっと呟いた。
「……ごめん」
「え?」
 まじまじと顔を覗き込むと、気まずいのかシャディールはフレイから視線を逸らした。
「……あんたに謝られる理由がないわ」
 どう答えるべきか迷った末、選んだその短い言葉にシャディールは何か言いかけたがそれをやめ、ちらりと前方に目をやった。
 ハリスとリュースは何やら魔術のことで話を始めていてこちらに注意が向いていない――ハリスの場合は『敢えて向けていない』となるのだろうか。それに安心したのか、シャディールが口を開く。
「……ちょっと気が立ってたんだ。オレはあの日師匠の使いで協会を出てて、本当は何があったのか、何も知らないから」
 悔しげにそう言ってから、シャディールが拳を握る。
「あのときからオレの友達がいなくなってるんだ。あいつ一人で協会を出るなんてこと、考えられないから心配だし……それにオレ、師匠が包帯巻いて動けない姿見たら悔しくなって……お前のせいじゃないって師匠に言われたけど、どうしてもお前が許せなかったんだ。ガキだよな、オレ。ほんと――ごめん」

 ――この子はわがままだが聡い子だ。少し頭を冷やせば、自分が何をすべきかをちゃんと理解出来る。

 ふと、ハリスの言葉がフレイの脳裏に蘇る。
(ハリスの言う通りだな……この子はあたしよりずっと大人だ)
 時々、年相応の態度をとるけれど。 
(もしかしたらハリスが監視させてたのも、本当はこの子に考える時間を持たせるためだったのかな?)
 フレイがそうやって考えている間にシャディールは再び前方へ視線を向けた。
「師匠はああやって今はカラスの格好で呑気にしてるけど、でも本当はすごく危ないところだったんだ。下手したら……師匠、死んでたかも……しれない。そしたら、オレ――」
 フレイは、ぎゅっと唇を引き結んだシャディールに思わず微笑んでいた。
「何だかんだ言ってもハリスのこと、すごく心配してるんだね」
 それを聞いたシャディールが、むすっとした表情を作って慌てて顔を逸らす。そんな彼を見ながらフレイが再度微笑んでいると、前方からリュースの声が飛んで来た。
「着いたよ、二人とも」
 その言葉で視線を下に向けると、そこには広大な遺跡があった。闇色の柱の立ち並ぶ荘厳な建築物があり、その周りを土色の建物が取り巻いている。
「! これが……」
「そう、ヴァルランの博物館だよ」
 この博物館の敷地全体が、ひとつの文化遺産だ……と、かつて父に聞いたことを思い出してフレイが小さく感嘆の溜息をつく。
『博物館』という言葉の響きから彼女が想像していたものとはまるで違っているのだ。
(リュースが博物館の『館長』じゃなくて『護り人』って呼ばれてるのも、これなら納得出来るなぁ)
 広い敷地内には建物が点在している。そのほとんどは風雨に浸食されて随分と崩れてしまっていたが、中央に見える黒い建物だけは違っていた。
 イヴァンレイオス王が建てた建築物。今では存在していない石材で作られたそれは、周りの建物のように歴史と共に風化するでもなく、しっかりと地に根を下ろしている。永久にこの場所に自分は存在する、と明言しているかのように。
「あたし、ここがこれだけ大きなものだなんて思ってなかった」
 フレイが賞賛の声をあげると、リュースは小さく頷いた。
「元々は、あの中央の黒い建物――本館だけをイヴァンレイオス王は造ったらしいんだ。で、それから亡くなるまでの間に周りの建物を造ったんだって。……王にとっては、本館が特に重要なものだったんだね。本館だけが、ほとんど損傷なく今まで残っているんだから」
「本館には何が置いてあるの?」
 フレイが尋ねると、リュースは指で本館を示した。
「あそこには、王と一緒に戦った英雄を讃えるものなんかが置かれてた。で、周りの建物には――」
 と、指を他の建物に向けて言葉を続ける。
「――王や王妃の宝や当時の美術工芸品が納められてたんだよ」
「ふぅん」
 黒狼に盗まれてしまったため『置かれてた』『納められてた』と過去形で話さなければならない――無論、黒狼を捕らえたのである程度は戻って来るだろうが――リュースのその言葉に頷きながら、フレイは彼の横顔を盗み見た。
(英雄を讃えるもの『なんか』が、ってのが気になるんだよなぁ)
『公開不可能な部屋』とやらに、それらが納められているのだろうか。
(王が自分のものよりも大切にした、ってことだよね。一体何なんだろう)
 フレイの視線とその意味に気付いたのか、リュースは彼女を一瞥したがすぐ視線を逸らし、「じゃ、降りるよ」と短く言うと口の中で呪文を唱え始めた。
 それで一行の身体がゆっくりと降下を始め、やがて何の衝撃もなく地に降り立つ。と同時にハリスがシャディールの肩に留まった。カラスに精神を移して以来、ここが彼の定位置なのだろう。
「上から見てもそうだったけど、地上から見たらほんとにおっきいね、この博物館。迷っちゃいそう」
 フレイが広大な敷地内を見回しながら言った――そのとき。

《…………》

 突然彼女は、どこからか聞こえる声を感じた。自分を呼ぶような声が。そして、それと同時に
 どくん。
 不意に胸が高鳴る――自分の意志とは無関係に。
「……え?」
 フレイは周りを見回した。しかし、誰かがいる気配は感じられない。いるのは自分たちだけだ。

《………》

(誰?)
 どくん。どくん。
 胸の鼓動は抑えたくとも抑えられない。フレイは胸に拳を押し当てて耳を澄ました。
(誰なの?)

《……》

 声が次第に小さくなって、そのうち何も聞こえなくなる。
「フレイ? どうかした?」
 きょろきょろしているフレイの様子を訝しんだのか、リュースが不思議そうに尋ねて来る。
「今、声が……」
「声?」
 更に不思議そうな顔つきになってリュースは周りを見回し、そして首を振った。
「僕には何も聞こえなかったけど……ハリスさん、何か聞こえましたか?」
《さてな。フレイアが幻聴を聞いたということもあるまいが》
 言いながらも、彼はフレイから目を離さない。何を思案しているのか、その声も僅かに鋭い。
「ハリスさん?」
 リュースが再度声を掛けると、ハリスはその鋭い視線をゆっくり和らげた。
《思い悩む美少女というのは絵になるな。可愛い寝顔も良かったがな。これで露出度が高ければ、もう何も言うことないのだが》
 途端、フレイも我に返ってハリスを勢い良く振り返る。
「! ななな何見てんのよ変態カラスっっ!」
 フレイが声を荒げ拳を振り上げると、けらけら笑ってハリスは逃げるように飛び立ち、リュースの肩に留まった。
 それを見ていたシャディールが、空いた自分の肩を一瞥してまたもムッとする。そして彼はふいっと師匠たちから顔を背けると、突然本館へと続く道を駆け出した。
「早くしろよな師匠! さっさと片をつけて、さっさと協会に帰るぞ!」
「! ち……ちょっと待ちなさいよ!」
 慌ててフレイもシャディールの後を追おうとすると、後方から「やれやれ」というようなハリスの溜息が聞こえて来た。まるっきり父親だ。
 フレイは苦笑しつつ、前方を走る小さな背中を追った。
(この子のこと、ちょっと分かって来た気がする)
 素直になりたくて、でも意地っ張りだからそれが出来なくて。
(あたしと、ちょっと似てるかな)
 そう言ったら、きっとシャディールから激しく拒否されそうだけれど。
 ――やがて本館の重厚な黒い扉が二人の前に立ち塞がった。
 その威圧感のある扉の中央には何やら文字が刻まれ、それを紋様が取り巻いている。今では使われていない、フレイには解読不可能な文字の羅列。
(これ、何て書いてるんだろう?)
 瞬きしてフレイが扉をまじまじと覗き込み……ふと気付いて、自分の腕輪に目をやった。
 闇色の腕輪。扉に刻まれているのと同じような文字が並んでいる――。
(やっぱり呪術文字、なのかな)
 以前父の書斎で見掛けた古い文献に記載されていたように思う。王都ティーヴェを追われてからは、呪術文字を調べようにもその場所がなかった。協会や王立図書館などだと文献も豊富にあったのだが、今更王都に戻る訳にはいかない。
「呪術文字だな、これ」
 シャディールが精一杯伸び上がり、扉に刻まれた文字を眺めて呟く。
「あんたこれ読めるの?」
「読めないけど。でも、師匠に聞いたことがある。昔は建物や札にまじないの言葉を刻むことが多かったって。悪霊退散とか商売繁盛とか、そんな類だな。これもそうじゃないか?」
 それから半眼になる。
「あのにーちゃんなら読めるだろ? ここの護り人なんだから」
 やはり拗ねている。
 思わずフレイが苦笑すると、彼は口を尖らせた。
「何だよ」
「別に」
 澄ましてフレイは言い、もう一度腕輪を見下ろした。
(やっぱり、リュースならこの文字が解読出来るのかもね)
 覗き込んで来た彼の視線から、腕輪を咄嗟に隠してしまったけれど。
「どうしたんだ?」
 フレイの様子を訝しく思ったらしいシャディールが、首を傾げて声を掛けて来る。
「……ううん、何も」
 慌てて首を振って誤魔化すと、シャディールはあからさまに不機嫌な顔になったが、やがて肩を竦めた。
「それにしてもここ、『博物館』っぽくないよな。黒い博物館なんて、オレ初めて見た」
「そういえば、そうだよね。あたしも初めてだわ」
 でもこれ何の石材なんだろうね、とフレイが壁を見回すとシャディールは小さく唸った。
「前に師匠が調べてたんだけど、何だったか忘れたんだよな。確か、協会にもこれと同じようなのがあったと思うんだけど――そうそう、塔の最上階の黒い柱だ」
「最上階……ああ、あれね」
 フレイが同意を示すために口許だけ笑みの形を作り、小さく頷く。
 王都にいたときのことは、まだ今は思い出すのがつらくて極力忘れようとしていたのだが――特に、協会に関してのことは。
 しかし、そんなことを言っていては、いつまで経ってもハリスに「空元気」と言われるだけだ。
「あたしの父さんが護ってた柱でしょう?」
 フレイの言葉に、シャディールはこくんと頷いた。


 協会では、能力のあるマイスターが一人選ばれて塔の最上階に安置されている柱を護るという役目を担っている。
 その柱は、高さも幅もフレイ二人分ほどの円柱形。漆黒色をしており、材質が何かは分からない。そして魔力で作られた小さな結界の中に入っており、そこにはその役目を担う者しか足を踏み入れてはならないという決まりがある。
 それは協会が創設された当初から続いていることなのだそうだが、『何故そうしなければならないか』を知る者はいないのではないだろうか。なので『護る』というのも今では形だけになり、必要性を疑問視するマイスターもいた。


「そういえば、思い出した」
 シャディールが瞬きをしてからフレイの腕輪に視線を向ける。
「それ、結界に入るときにアルテス先生がつけてたものだろ? 中に入る許可証みたいなものだ、って先生言ってたけど。でも」
 と、今度はフレイを見上げる。
「師匠も協会の柱に興味あったみたいで色々文献を調べてたんだけど、それはただの『許可証』じゃないって言ってた。……何でそれをねーちゃんがつけてんだ?」
「あたしが聞きたいよ」
 この腕輪は血まみれの父につけてもらった――「すまない」という言葉と共に。
 しかし、何故謝られたのか、そして何故この腕輪をつけられたのかは分からず仕舞いなのだ。
(でも今はそんなことを考えてる場合じゃないわ)
「と、とにかく――」
 フレイは気を取り直すようにそう言って背を伸ばすと、鍵の掛かっていない博物館の扉に手を掛けた。
(そういえばリュースが言ってたっけ。この入口には封錠の呪文が掛けられてるって)
 だとしたら、いくら鍵が掛かっていなくても今は扉が開けられないはず。開かないようなら、リュースかシャディールに解除の呪文を唱えてもらわなければならないが――。
(……あれ?)
 封錠の呪文が掛けられているはずの扉が、何の抵抗もなくゆっくりと開いて行く。そしてそれと同時に漂って来たのは、かすかな異臭。
(この匂いって…――)
 鉄臭いその異臭の原因が何かすぐに分かり、フレイが表情を強張らせる。
 フレイたちの正面に、三人の人物がいた。
 一人は、こちらに背を向けている銀髪で長身の男。もう一人は白い上着を着た二十代半ばの茶髪の男。床に倒れて、頬を押さえている。
 そして最後の一人は、短い黒髪にゆったりとした紺の着衣を纏っている男。異臭はそこから漂っている。
 床に俯せに倒れてぴくりとも動かないため、彼の顔は見えない。見えるものを挙げるとするならば――夥しい血。
 彼の周りに、大量の血が飛び散っている。フレイが嗅ぎ取ったのは、その血の匂いだった。


 To be continued.



《コメント》

今回は、何だか4人がお空でお話ししているうちに終わった感が。
さて、またもや「こんなところで切るなよ!」と突っ込まれそうなところで終わりましたね(^_^;)
ファンタジーもどきから一気にミステリもどきに突入か
!?(をい)
次回を乞うご期待★


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